• ベストアンサー

アマテラスとスサノヲの関係に

やれ公民圏だの市民だのと、なんだか対立的な権力関係を読み取っちゃったみたいな見解があるようですが、古事記をいくら読んでも、優等生アマテラスに対してはスサノヲはどこまでもやんちゃな暴れん坊。全然そういう政治的な読み方はできないと思うんですが、さてどうなんでしょうか。神話研究的にはどういう解釈なんですか。教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • neil_2112
  • ベストアンサー率73% (196/268)
回答No.8

かつてレヴィ=ストロースはスサノヲをとりあげて、「バイトゴゴ」というあだ名の青年が登場する南米の神話群と同列に扱ったことがあります。バイトゴゴというのは、一人前の男性になろうとせず、母親など女性との分離を拒む振る舞いの数々をする、という存在です。 スサノヲの行動には、確かにそういった特性が強く現れています。女性とのつながりを求めるなかで無責任かつ自己本位な振る舞いをとるのです。 まず、父イザナキが三貴子にそれぞれの土地の統治を命じた際、アマテラスとツクヨミがすぐにその任に当たったのに対して、スサノヲは「母のいる根の国に行きたい」と駄々をこね続け、そのせいで天地に大変な禍いをもたらしたとされます。ここでスサノヲは、まさに母親との分離をいやがり、男性としての成熟を拒否したのです。 呆れたイザナキから追放されると、突然今度はアマテラスに会いに行こうとし、無用の混乱を招きます。しまいには機屋での狼藉によって機織女を死に至らしめてしまいます。ちょっと資料が出てこないのですが、この点は確か大林太良氏もスサノヲとアマテラスとの近親相姦を示唆するものではないかと分析されていたと思います。その見立てに従うなら、、スサノヲは自分の職責を果たすどころか、成熟や社会性を一層拒否して、女性との合一という繭のなかに閉じこもろうとした、ということになります(レヴィ=ストロースはバイトゴゴが「閉じこもる者」という意味であることを強調しています)。 やがて追放され、オロチ退治をするというくだりは、世界各国の神話や昔話に見られるとおり、一人前の男性として社会的人格を確立するという意味でしょう。つまり、このオロチ退治はスサノヲにとって大人の男性へのイニシエーションという意味を持ちます。ここにきてスサノヲはやっとバイトゴゴ的心性を脱却したと見えるわけです。 ところがもう少し言うと、ずっと後になってからでもスサノヲは、オホクニヌシに娘のスセリビメをやるのを好ましく思わないがために数々の難題を押しつけています。やはりバイトゴゴマインドは抜けきっていない、ということでしょうか。 吉田敦彦氏は、猛烈な力を秘めながらもどこか女性性との癒合を断ち切れずにいるという、いわばスサノヲ的な性格を日本人男性の一種の典型ではないか、と評しています。この女性性との切れない関係というのは当然、河合隼雄氏がはやくから昔話の分析を通じて日本人の特質として指摘してきたことに重なるものです。 アマテラスとスサノヲが政治的な意味で何かのアナロジーになるのかどうかは、まあ読み方次第というところでしょう。読み手によってどう読んでも自由だと思いますが、ただそうすることによって現実がよりわかりやすくなったり、あるいは意味が明確になるのでなければ、本人にとっては結構な概念操作のつもりでも、周囲の人間にとっては意味がないということになりかねないのでは、と思います。 余談ですが、研究者のなかには、単にアマテラスとスサノヲだけを対立させて分析するのではなく、三貴子という存在とそのなかでの両者の意味を重視する人が多くいます。つまり、ツクヨミといういわば「何もしない神」が中空構造を支えるキーとして重要なのではないか、という視点にたったうえで二人の関係を読み解こうとするわけです。重要な視点だと思います。

sakurazz
質問者

お礼

スサノオはけっこう分析されているということですね。大人の男になりきらないというのは確かに理解しやすい説明だと思いました。アマテラスは普通に優等生すぎて分析の対象にならないんでしょうか。 どうもありがとうございました。

その他の回答 (10)

noname#144675
noname#144675
回答No.11

mythos 神話は「能力のない」特に 思考能力のない 「ぼんぼん・おじょうさま」の逃げ道です。 神話は、語学的に見ると絵文字文化の論理表現です。 つまり、絵をかけない語り手・説得力にかける話者のごまかしです。 発展と変化の違いがわからない非常識な人の「言葉」です。 ゲームという観点から分析してみます。 1かつて、テクストベースのゲームが存在しました。 「がいこつは、15ポイントのダメージをあたえた。」とかという文章が、えんえんとつづくプログラムです。 これを「面白いものだ」と信じ込んで今でもやっている人がいる。 2 1を経験した人が、テクストが「改ページ」している間に絵を表示するよう変化させた。そうして、テクストと静止画が、入れ替わり立ち代りえんえんを表示されるゲームが生まれた。 これを「面白いものだ」と信じ込んで今でもやっている人がいる。 3 2を経験していた人が、静止画の変わりに 動画を使って表現しようと思い、表示にビデオと音声を差し加えた。 これを「面白いものだ」と信じ込んで今でもやっている人がいる。 4 3を経験した人が、実写にちかい立体的動画を使ってゲーム開発し、より大規模な音楽を導入してゲームを作り出した。 これを「面白いものだ」と信じ込んで今でもやっている人がいる。 注意してみるべきことは、1-4は変化であり発展ではありません。加えて、ゲームには生産性というものがなく、それ自体「消費」であるということを忘れてはなりません。 神話に立ち戻ると神話に出てくる単語を使ってオペレーションするというのは、「レベル1」段階のテクストゲームです。 ひらがなで「がいこつ」ってイメージどうよ?と真剣に議論している状態です。 技術的に絵がかけない+音楽に詳しくないという事実から出発して、しょうがないから言葉だけで何とか面白い物をつくろうとしているおじいさんたちです。 ただの時代遅れです。 ちなみに哲学的にみて「最も抽象的なものは音楽である」とされています。 勘違いという観点から「dude phantasy」という概念を検討してみてください。ジェンダー理論から思考してゆく為の手懸りが見つかるはずです。

sakurazz
質問者

お礼

はい、まあそういう観点もあるかと思いますが。一応神話として分析を尋ねてるんで、ちゃぶ台ひっくり返されると困っちゃうんですが。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.10

幻想を抱いているのかも。 アマテラスとスサノオは、よく神話に登場するパターンで、神話の基本を抑えていると思う。 アマテラスとツキヨミとスサノオ。 3神一体ですよね。 神話のお約束のひとつがこれですから。 で、昼と夜と黄泉の国の主。 スサノオは死の神なわけですが、死神もこの世に必須ってことで、登場させたのだと思う。 だってスサノオって破壊の属性を持ってますよね。 暴れん坊どころか命を奪う属性を持っているので、生命あるものにしたら怖い神様なわけで、怖い神様に対しては日本人は、毛嫌いするどころか ヨシショして、褒め殺しにすることで、暴れないようにする。 だから、大宰府の神様は大神って名前をつけたでしょ? そうやったら やっと疫病が鎮火したってことで、ほっと胸をなでおろした。 人間の手ではどうにもならない場合は、憎むのではなく ヨイショして難を逃れるってのは、人間界でもそうですよね。 ひとっひねりにするほどの権力を持った人には、ごまごま すりすり ほめごろしぅ 袖の下~ ってやることで、災いを起こされないようにする。

sakurazz
質問者

お礼

えーと、すいません、回答のポイントがまったく理解できないんですが。スサノオは別に古事記の中では誉め殺しなんかされてないですよね。それとも古事記の作者が「登場させて活躍させた、ごますりしたぞ」って思ってるってこと???

回答No.9

 ANo.7:○○ェンヌ氏のことだろうか?かの尊敬する博学碩学に補足:  哲学って、凡そ知性と理性があれば、万人に通じるべき普遍の展開であるというのが私の固定観念であります。  無学であれ、低い境地であれ言語を介してそれなりに表現し、それなりに相手も自己の内に構成し紡ぎ出すものと存じます。  そういう次元においては、前提になっているものの表明と説明は、いえ提示は不可欠と存じます。  共通の情報知識をがない人を含む一般を対象にするなら、そういうことのためのイントロはあってほしい。  前提と対象領域範囲と、目的のゼロからの無前提からの説明は知を求め愛する者同士の思いやりだと存じます。    (どこかで超能力をひらけかす・・・・というご質問がありますが、超能力は説明の外ですが、哲学は表示や顕示なんて意味がないですよね。)  

sakurazz
質問者

お礼

最初のお答えにも書いたんですが、前提になる知識が問題というより、変な表現ですが感性が理解できないんですね。説明をくわしくされても、なんでか「、」を打たない文章がずらっとあっても読みにくいだけですし。

回答No.7

 sakurazzさん、つまり古事記の記述内容やその読解をかの○○ェヌ氏は述べているのではないのでしょう。  新しい観点や意味のご講説でもないのですね。  だから私たちはかの博学氏がもってきている河合何とか氏の本を読んでいないと読み取り難いか、まぁ読めないのです。  かの博学氏はそういう読書をしている方を相手にしているのではないですか?  そして回答1のようにご自分の思考や分析などの整理と描出のための形式と手法なんでしょう。  そうすると、博学氏が直接に内容を出してくる前に、イントロや分析のプロセス内容の説明が欲しいですね。  一生懸命あれだけを読解するのは無理だという事でしょう。  私も50年ほど勉強しているインド神話や聖典、そして最近の聖書の勉強で古事記に共通のことがあるので、質問したいと思っていますが、自分の信仰というプライベートのことに関るので、表現が難しいですね。  まぁ、知的思索の次相であれば、もう少し親切なご説明も欲しいですね。  私個人はどうもかの河合なんとかさんとはどうも波長というか、対面していることが違うようなのでそっと礼をして通り過ぎています。

sakurazz
質問者

お礼

博学で本を読んでないとダメというより、なんでそういう風に考えるの?っていう方向性が理解できないんです。考え方の基本的なフレームが違う感じです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

アマテラスとスサノヲの関係に ○ アマテラスやその弟スサノヲの時代はヤマトの国はまだまだ小国同士が争っていた時代ですね。 男性首長同士の争いを治めるには女性の巫女が最適であったということですね。それがアマテラスです。 ところがその弟スサノヲは和を持って良しとするより滅ぼして纏めようとしたのですね。 まあ、例えば、明治維新の坂本竜馬と薩長の考えの違いのようなものですね。江戸幕府を滅ぼすか懐柔してしまうかの違いですね。維新では坂本竜馬は排除され、薩長の主張がまかり通って、勝てば官軍になりましたが、アマテラスの時代はあまり図抜けた小国がなかったのでしょうね。ヤマトの国に統一国家が出来上がるのはずっと後の時代でしたからね。 つまるところ各首長はアマテラスを選び、弟のスサノヲを海の向こう、現在の韓国へ追放したのですね。 政治的といえば政治的ですね。今も昔も人の生業はたいして変わっていないということですね。

sakurazz
質問者

お礼

はあ、スサノオは韓国へ追放されたんですか。その神話はどこで読めるんでしょうかね。

  • _AXlS
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.5

訂正 ×珍獣ぶらゲロん ⇒ヘンタイぶらゲロん ×しかしオレはこいつを許すことが出来ない。 ⇒許す必要性がない。

sakurazz
質問者

お礼

一度に見ればよかった、珍獣じゃなくて変態でしたか。確かに珍獣なら保護の対象だからね。

  • _AXlS
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.4

珍獣ぶらゲロんの言うことは一側面としては正しいのです。 しかしオレはこいつを許すことが出来ない。

sakurazz
質問者

お礼

珍獣ですか、なるほど。

回答No.3

 こんにちは。     ★ 優等生アマテラス  ☆ も玉に瑕があります。   (1) 《われうたがう。ゆえにわれあり。》を信条としている。      ・じつの弟のスサノヲをもうたがう。人間としてうたがう。       人格をうたがう。うたがいつづける。ついに弟にも誰にも       みづからの心を開かなかった。      ・《われあやまつなら あり。》にもとづくスサノヲと比べる       なら かれが          《自由にもとづき あやまちうるスサノヲ人間語》       であるのに対して アマテラスは アマテラス普遍概念を用       いて探究し おのれを陶冶した結果 いちおう        《アマテラス科学語》を駆使し         《アマテラス人格語》を表現し得る。   (2) 世界一の優秀な人間であったらしく それが高じて《われ      は神のごとくいかなるものの下にも立つまい》という誓いを      立てたらしい。      ・ すでに自分の領土から追いやったスサノヲおよびその子孫      のオホクニヌシに対して おまえたちはその領土もろともこち      らに服属せよ》と言って迫った。        オホクニヌシらは 主戦論も非戦論もどちらも同じく人間      の弱さから出るもの。ならば 殺し合いを避け非戦論を採ろう。      と言って 《くにゆづり》をした。       そこから もともと平屋建てだった社会が二階建ての国家と      なり         《アマテラス公民‐スサノヲ市民》の連関制      が始まった。評価をくだせば これは頭で立って逆立ちしている。  (1)なる主題については たとえば次の質疑応答を参照してください。    【Q:アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6088388.html  (2)をめぐっては ひとつだけ挙げるなら 次を見てください。    【Q:スサノヲだけがなぜ自由か】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6044196.html    ・(1)の主題を含みます。くにゆづりについては そのNo.1補足欄&お礼欄です。  * 古事記からの引用もおこなっていますので 或る程度の《神話研究》をも含むと申し上げます。

sakurazz
質問者

お礼

なんだか思い込みが強いのではという印象をぬぐえません。 わたしはあほばか国民のひとりのせいか、おっしゃるてることのポイントがよくわかりません。「、」のない文章もあほばかのせいか読みにくくてしょうがない。 どうもありがとうございました。

noname#144675
noname#144675
回答No.2

Ojiji2011 問題は、 オレもバカだが、オレ以外もみんなバカ。といっていることでしょうね。 他人に対する評価が間違っている。 また、 「俺のばかさ加減は、のうてんきであり、若さである。」とのべるのが、間違っています。俺のばかさ加減と他人の ばかさ加減の違いは、オレと他人の違いです。 他人のバカは、ただのバカ・オレ様のばかは、生命力だというのは、いただけません。 自分はおじいさんなのに(ばかさかげんでは)まだまだ若いと思っている。 正しい意見をのべるオレは正しいが、たにんは、間違っているという傲慢さがまちがっているのではないでしょうか。 結局自分の目から見て正しい主張をする俺様は、主観的にみて正しい といっているだけで内容がない。 俺は基本的に見て正しいが、間違っていれば、それは俺が生き生きとして若いということの証拠である というのは、人騒がせで間違った見解です。 さらに、キリスト教が絶対正しいというのも間違っている。 現実世界で犯罪を犯しているくせに偉そうなクチをタタくのが間違っています。 神話的2元論にひきつけて言うとすると、「俺はお前らに社会を経営していく権利を与えた」と自分の脱税の根拠を捏造しています。お前らに任せたオレ様は偉いという錯覚です。 実際問題として、土地家屋を相続していながら、脱税目的で名義変更せず、相続税を滞納するという犯罪を犯し、関連会社には、脱税を薦め、脱税できたらそれに見合う報酬を要求しながら、さらには、哲学者を装っているという キリスト教的偽善者の姿のが大問題でしょう。 哲学のない経済犯罪者=哲学経営者は、社会の害毒です。経営哲学を持たない ということは いうまでもありません。 国の為に何もしておらず、 脱税供与で生計を立てながら、 年金をがっぽり懐に納めるのが人生の目的であるという不正の偽善者が偉そうにしているのが問題なわけです。

sakurazz
質問者

お礼

質問は古事記の話なんで、いちおうそこに絞って回答してもらえれば。 でも経済犯罪とは興味をひかれるなあ。どうやってわかるんだろ? どうもありがとうございました。

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.1

記紀の精神世界分析は 河合隼雄の空中構造分析が有名と思います。中心は空であるというすばらしい読み方です。このような分析は 分析者がテキストを借りて分析者の考えを整理解釈していくものとおもいます。あくまで分析者の考えが重要と思われます。主張は 分析者の哲学になると思います。記紀の考古学、歴史学面からの分析が主でありますが このような精神世界分析もあると思います。 お話のスサノオ/アマテラス分析は 分析者の主張(哲学)を表しており 別表現では2階建と言っています。ユニークな捉え方と思います。この哲カテのなかで デタラメな論理をハンコで押すがごとく主張するとか 気ばらし的に自慢話をするとか やたらと細部にこだわるとか いろいろな御人が登場されますが ご指摘の分析者は 哲学を主張されるすばらしい方と思います。私は 人間が関わる全てのことを スサ/アマ2分類で分析解釈して 読者に開示(主張)して欲しいと思っています。もちろん これは一つの哲学ということで 全ての分析整理解釈の最上位という意味ではありません。 他方 このような我田引水的分析は 理解し難いと拒否される方も おられると思います。が分析者は 時にはくどいほど 細部に渡り 議論をされていますので、疑問点をぶっつけて欲しいところです。要は説得力が問題と思います。

sakurazz
質問者

お礼

問題の分析はなんだか思い込みが強い感じで、神話を分析したらこういう風に読めるっていう演繹的なのとはちょっと違う印象です。まさに我田引水的分析ということです。 どうもありがとうございました。

関連するQ&A

  • アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか

    アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか  古事記などが伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので    ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそうしなかった。それは何故か。  について 見解を示してください。  スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに。    アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に坐(ま)   して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時 〔スサノヲが〕その服屋   の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕   (おと)し入るる時に 天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に   陰上(ほと)を衝きて死にき。(古事記)  とさえ記されている。  もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような事をも辞さなかった。  そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。  それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と混同して互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおうと見られるから。ちょうど    王はその宮からわたしの声を聞かれ    王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)  とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは   〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の   ように 道をかける巨人のように躍り出た。   (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)  というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。  この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。  もう一例を引こう。  スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。    アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)   その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテラス   の神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)  これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと    しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく     ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が     汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま     た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し     (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。    と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まずて    転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)  要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。     *  疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?  《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。

  • アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか

     アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めないのか  古事記などが伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので    ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそうしなかった。それは何故か。  について 見解を示してください。      *  スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに。    アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に坐(ま)   して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時 〔スサノヲが〕その服屋   の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕   (おと)し入るる時に 天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に   陰上(ほと)を衝きて死にき。(古事記)  とさえ記されている。  もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような事をも辞さなかった。  そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。  それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と交ざり合ったかのように互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。  なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおいつつむと見られるから。ちょうど    王はその宮からわたしの声を聞かれ    王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)  とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは   〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の   ように 道をかける巨人のように躍り出た。   (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)  というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。  この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。  もう一例を引こう。  スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。    アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)   その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテラス   の神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)  これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと    しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく     ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が     汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま     た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し     (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。    と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まずて    転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)  要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。     *  疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?  《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。    スサノヲの清くあきらけき心は 証明されえましょうか?  わたしは 《和を乱すな》と言われなかったなら 和を乱すことを知らなかった。と言えるか?

  • アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか

     アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めないのか。咎めず人に対するに取り合わないその人格にこそ欠陥があるのではないか?  古事記などの伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので:      ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそう     しなかった。それは何故か。  について 見解を示してください。アマテラスの批判――その人格批判――にまで到りたいとさえ考えています。          *  スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。  かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに:      アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に     坐(ま)して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時      〔スサノヲが〕その服屋の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)     を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕(おと)し入るる時に      天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に陰上(ほと)を     衝きて死にき。(古事記・神代記)  とさえ記されている。  もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような破廉恥な事をも辞さなかった。  そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。  こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。  それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と交ざり合ったかのように互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。  なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおいつつむと見られるから。ちょうど:       王はその宮からわたしの声を聞かれ     王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)  とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは:     〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の     ように 道をかける巨人のように躍り出た。     (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)  というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。  この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。  もう一例を引こう。  スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。      アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)     その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテ     ラスの神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)  これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと:     しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく      ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が      汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま      た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し      (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。     と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まず     て転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)  要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。あるいは どうも弟スサノヲに対するに まったく取り合おうとすることはなかった。           *  疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?  《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。    スサノヲの清くあきらけき心は 証明されえましょうか?  《わたしは 〈和を乱すな〉と言われなかったなら 和を乱すことを知らなかった》と言えるか?  言えるとしたら アマテラスのほうが 断然おかしい。人格が崩壊しているのではないか?  ☆ なお得られたご回答につきましては 疑問点と思うところについて納得するまで問い求めてまいりますので よろしくお願いいたします。

  • ホノ二ニギ(天孫)は アマテラスとスサノヲの子孫か

     非論理的な話です。  いわゆる伝承上の第一代天皇である神武カムヤマトイハレヒコは アマテラスにとって来孫(らいそん)または耳孫(じそん)という五代目の孫です。まご ひまご やしゃご。そしてその子の きしゃご というのだそうです。    高千穂の峰に降臨したのは二代前のホノ二ニギです。これは 孫です。アメニキシクニニキシアマツヒコホノニニギのミコト。    さて このホノ二ニギの父・すなわちアマテラスの子は マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトです。  ところがこのオシホミミは 例のアマテラスとスサノヲとの賭けのようなウケヒにおいて生まれた子です。  アマテラスの髪飾りの珠を取ってスサノヲが噛み 吹き捨てた息吹きの霧に生まれたと言います。  ならば   【Q‐1】 神武天皇とそしてそれからの歴代天皇は アマテラスの子孫であると同時に スサノヲの子孫でもある。  こう言えるか?    ところで むろんアマテラスとスサノヲは じつの姉と弟です。と考えるにつけても  【Q‐2】 この国は あまりにもアマテラス系をとうとび過ぎて来たのではあるまいか?  一般にアマテラス公民が スサノヲ市民に対して デカい顔をし過ぎて来たのではあるまいか?   【Q‐3】 スサノヲ市民たちをもとうとんだ時代は 栄えたのではないか?  いまは あまりにもその格差が――感覚的に言って―― ひどすぎるのではあるまいか?  これでは 先行き とうてい明るいとは言えまい。  【Q‐4】 このような単純な問題なのではないか? いまのわが国の状態は。  あまりにも幻想的な議論であるが――なんのことはない―― そもそも人びとが 幻想的なクウキにしたがって考えたり振る舞ったりしているのではないか?  【Q‐5】 まだなおこのクウキたる共同の観念にしたがうとすれば まづ世の中の主役であるスサノヲ市民らを大切にするしか道はないのではないか?  さもなければ これまでのクウキとして君臨してきた共同観念を打ちこわすことが もとめられなければならない。  こうではないか? いづれにしても スサノヲ市民主権の時代ではないか。それとも スサノヲ市民は 長年しもべとして仕えたかのような歴史の末に へなちょこ人間に成り下がったか。もうどうしようもないか?

  • ホノ二ニギ(天孫)は アマテラスとスサノヲの子孫か

     非論理的な話です。  いわゆる伝承上の第一代天皇である神武カムヤマトイハレヒコは アマテラスにとって来孫(らいそん)または耳孫(じそん)という五代目の孫です。まご ひまご やしゃご。そしてその子の きしゃご というのだそうです。    高千穂の峰に降臨したのは二代前のホノ二ニギです。これは 孫です。アメニキシクニニキシアマツヒコホノニニギのミコト。    さて このホノ二ニギの父・すなわちアマテラスの子は マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトです。  ところがこのオシホミミは 例のアマテラスとスサノヲとの賭けのようなウケヒにおいて生まれた子です。  アマテラスの髪飾りの珠を取ってスサノヲが噛み 吹き捨てた息吹きの霧に生まれたと言います。  ならば   【Q‐1】 神武天皇とそしてそれからの歴代天皇は アマテラスの子孫であると同時に スサノヲの子孫でもある。  こう言えるか?    ところで むろんアマテラスとスサノヲは じつの姉と弟です。と考えるにつけても  【Q‐2】 この国は あまりにもアマテラス系をとうとび過ぎて来たのではあるまいか?  一般にアマテラス公民が スサノヲ市民に対して デカい顔をし過ぎて来たのではあるまいか?   【Q‐3】 スサノヲ市民たちをもとうとんだ時代は 栄えたのではないか?  いまは あまりにもその格差が――感覚的に言って―― ひどすぎるのではあるまいか?  これでは 先行き とうてい明るいとは言えまい。  【Q‐4】 このような単純な問題なのではないか? いまのわが国の状態は。  あまりにも幻想的な議論であるが そもそも人びとが 幻想的なクウキにしたがって考えたり振る舞ったりしているのではないか?  【Q‐5】 まだなお共同の観念にしたがうとすれば まづ世の中の主役であるスサノヲ市民らを大切にするしか道はないのではないか?  さもなければ これまでのクウキとして君臨してきた共同観念を打ちこわすことが もとめられなければならない。  こうではないか?

  • アマテラス政治家の無謬性の神話がくづれたか?

     アマテラス公民ないし国家公務員については――それはいわゆる幕藩体制からのお上であって―― 無謬性というしるしが 神話としてのごとく添えられて来たのだと考えられます。《斬り捨て御免》という慣わしに代表されるごとく たとえかれらがあやまちを犯していてもスサノヲ市民らはそれは間違ってはいないと言わなければいけなかった。そういう至上命令ないし錯覚があったということでしょう。  社会保険庁のあやまちが引き金を引いたのかどうか この無謬性の神話はくづれて来ています。  ところが いまの民主党政権もしくは菅政権については どうもその性格や事情がいちじるしくそれまでのアマテラス政権とは異なって来ているのではないか?  感覚で言うのですが 鳩山前政権については まだその社会的な身分としての神話をあたかも引きずっていたからか そのままアマテラス公民の無謬性を どこかで何となく保ち得たかのように映っています。  鳩山由紀夫は出自がアマテラス圏であり 菅直人はそうではなくスサノヲ圏からであるという違いが出ているのかどうか?  そこでこの質問は このアマテラス公民の無謬性という慣わしと 《職業としての政治》にまつわる《悪魔性》とのつながりや如何? と問うものです。  まづは次のM.ヱーバーの議論を聞いてください。悪魔メフィストーフェレスに魂を売るファウストのごとく そのデモーニッシュな動物的な・別種の魂が必要なのだと言っていますか?  ▲ (ヱーバー) ~~~~~~~~~~~  およそ政治をおこなおうとする者 とくに職業としておこなおうとする者は・・・すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。  無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは ナザレの生まれ〔のキリスト・イエス〕であれ アッシジの生まれ〔の聖フランチェスコ〕 インドの王城の出〔のブッダ〕であれ 暴力という政治の手段を用いはしなかった。  彼らの王国は《この世のものにあらず》ではあったが それでいて彼らは昔も今もこの世に影響を与え続けている。  〔トルストイの描く〕プラトン・カラタエフやドストエフスキーの描く聖者の姿は 今なお この人類愛に生きた達人たちの最も見事な再現である。  自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は これを政治という方法によって求めはしない。  政治には それとまったく別の課題 つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモンは 愛の神 いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そんな内的な緊張関係の中で生きているのである。  (『職業としての政治』 1919 脇圭平訳 pp.99-100)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 政治家としてアマテラス公民たる者はすべからく悪魔に身をゆだねるデーモン(悪鬼)にならざるべからず。――こうでしょうか?  極論して言うのですが この方策を忠実に取ったアマテラス政権は 安泰であって そうでない政権――たとえば民主党政権――は もはやスサノヲ市民らの信頼も支えも失くした。――こうでしょうか?  それとも そもそもアマテラス‐スサノヲの国家という二階建ての家における逆立ちした連関制が 無理なのでしょうか?

  • アマテラス公民なるお二階さん 大政奉還しなさい

     アマテラス公民なるお二階さん 一階なる主権の存するスサノヲ市民社会に大政奉還しなさい。  こう合唱してゆくときではないか?  あのトランプも言ってたぢゃん。  世界各国についても 人類史における社会形態の〔変遷の〕歴史としてまったく同じ問題だと考えますが いかがでしょうか。

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。  いわゆる地域主権について問うものです。  ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人 この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前がある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. 大政奉還のもんだいは 《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制としてのマのあり方を問う。  6-1. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイをめぐる正し方 こういった問題である。  6-2. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  6-3. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは 《 S (大政主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-4. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろ理念に合わせたものなのではないか?  6-5. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-6. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。  6-7. つまりそれが アマテラス科学語およびアマテラス人格語であるが これは アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。つまりその神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-8. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象である。  6-9. ゆえにアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。  6-10. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとする反措定に対する反措定であるから 綜合であり人間のふつうの存在(知性)の肯定であると考えてよいのではないか?   6-11. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマチガイからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。(かな?)

  •  《自然に帰れ》!?

     《自然に帰れ》!?  とルウソは言ったとか言わなかったとか。自然に帰るあるいは人間的自然を取り戻す これは 必要で大事なことでしょうか?  《人間》の社会におけるすがたを次のように捉えて その《自然》の問題を考えます。  1. われわれ人間は 社会を成して共生するらしいが そもそもどういう存在であって どういう存在の関係をむすび かつその関係の錯綜して過程する総合としてどのようなあり方になっているのか?   2. 社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。  3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。  ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~   結局のところ   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ   ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)    とは区別された  ( S ) 人間 homme とみなされる。  なぜなら   ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  【 S‐A 連関】 《現実の人間》は  ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ   【 A‐S 連関】 《真の人間》は  ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし学術概念語)においてはじめて認められるのである。                   (城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。   《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:      あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――     あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ     に花咲かせる人間のすがた。   《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:      簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る     かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の     すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。      つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。  ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?

  • 事大主義(アマテラス予備軍症候群)とその後遺症

     1. ひとの言葉は あやまち得るスサノヲ人間語とあやまたざる〔と見なされる〕アマテラス普遍語とに分かれる。   《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる構造的な成り立ち  2. アマテラス語をよく使いこなすひとは 社会の中で一般に指導的な地位に上がることが多い。言いかえると スサノヲ市民が《あまあがり》すると アマテラス公民となる。   《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》から成る社会のかたち   3. このかたちは 二階建ての構造であるように思われる。お二階さんの中でさらにアマアガリが起きると いわゆる国家元首としてのアマテラシテが出来る。   《 S 圏 - A 圏(アマテラス公民 / アマテラシテ)》連関制    ・アマテラス公民:官僚・政治家その他もっぱらの公民と見なされる職務    ・アマテラシテ:国王・皇帝・象徴  4. ここに第三次のアマアガリがあり得る。それは特に 《皇帝なるアマテラシテ》の場合であり 《帝国》というのは なおほかの国家をも自分の支配下に置こうとする動きである。  5. 韓国は 大いなる帝国主義アマテラシテに事(つか)えるという事大主義なる行動をしばしばおこなって来た。これを アマテラス予備軍と呼び得る。そのクセを アマテラス予備軍症候群と言えるのではないか?  6. 大日本帝国に仕えた朝鮮は 日本が敗けたあと いろいろ協力を求めて来たように思われるが 敗戦国は叩けということになる。反日である。国是のごとく。  7. ジャパン・バッシングそのものは 自分の責任でそういう表現をするかぎりで 仕方ないことですが 問題は 《反日》が 自己表現の大前提になっていることにある。  8. ▼ (ヰキぺ:反日主義) ~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E6%97%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9  ▽ 鄭大均:「反日は韓国のアイデンティティと不可分な関係があり、反日と無縁な韓国人はいない」  ▽ 崔碩栄:「韓国の過激な反日感情は自然に発生した感情ではない。『反日国家』韓国では、日本は『悪い国』だという情報だけが与えられ、人々が自然に『反日型人間』になるように仕組まれた『反日システム』という社会構造が形成されている。・・・  ▽ 黒田勝弘:「韓国は世界で最も日本非難論が活発で、韓国マスコミは日本非難なら何でもありで、極端な比喩による感情的論評を書き、反日報道ではデッチ上げなど内容が誤報と分かっても訂正はほとんどない。これは『反日病』だ」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  9. もしこのようにおのれの行動方針が 真っ先に《反日・蔑日》を掲げているのならば 言葉としての《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる成り立ちよりも先に 日本叩きという頭が来ることになります。  10. すなわち 《統一方針なるアマテラス方言》が すべての言葉を凌駕してしまう。それは 子どもの頃から 頭に叩きつけられる。  11. これでは いくら思考能力を伸ばそうとしても 民族としての統一アマテラス語がつねに立ちはだかる。  12. これでは 気が狂わないほうが おかしい。のではあるまいか?  13. なお 中国の行動は アマアガリ・シンドロームに罹っていると見ます。最初のボタンをかけるときに そうなのである。