• 締切済み

継体ヲホド天皇は 雄略天皇の子ではないか

歴史の事実の比定を目指しているのではなく 歴史の真実を捉えられないかという目的のもとにあります。 いわば古事記のように そして古事記を基礎として読むと 物語としての歴史にとっては 継体ヲホド天皇に 関心の一つがあります。 河内ワケ政権にとっては その祖・応神ホムダワケからの悲願である全国制覇を実現するためには 三輪イリ政権を倒す(もしくは手なづける)必要がありました。 ホムダワケからおよそ百年 雄略オホハツセワカタケの頃にもなると 市辺のオシハを謀殺するといった攻勢に出て来ます。 けっきょく 雄略オホハツセや武烈ヲハツセらの世代のアマテラス一族には 跡を継ぐ子がないという状態になりました。(というよりも この状態も 雄略ワカタケが仕組んだのではないかと疑われますが 省略します)。 わづかに雄略ワカタケと后妃ワカクサカベノミコ(かのじょも その兄を殺されていますね)との間の――《子はなかりき》と書いてあるのですが―― 子を ひそかに 越前で育て 頃合いを見て 応神ホムダワケの五世の孫として 押し立てた。ワカタケは 押し立てるように大作戦を構想しておいた。 といったお話しです。 これについて 自由なお考えを 是非 おしえてくださいますか。 この虚構のみそは 継体ヲホド天皇(また 天皇ではなかったかも)以後は 市民社会が 二階建ての国家となると見るところにあります。天津神(アマテラス圏)と国津神(スサノヲ圏=市民社会)とです。

noname#80116
noname#80116
  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数3

みんなの回答

  • syou31
  • ベストアンサー率32% (130/395)
回答No.1

ご参考

参考URL:
http://personal.okwave.jp/qa3134362.html
noname#80116
質問者

お礼

崇神ミマキイリヒコ市政から 歴史知性の市民社会が開けたという仮想を持っています。 このイリ政権に対抗して 河内ワケ政権(ないし オキナガ政権)が 並び立った。ついに 後者は 三輪イリ政権を 自らの力のもとに置いた。その変わり目が 雄略ワカタケと継体ヲホドの時だという空想です。 そういう歴史談議は ここでは なされないのかも知れませんね。 声をかけてくださってありがとうございました。

関連するQ&A

  • 継体天皇の在位期間の真実

    Wikiによると第26代継体天皇の在位期間は、 507年3月3日 - 531年3月10日 となっています。 一方で、倭の五王の「武」が第21代雄略天皇に比定されています。 477年 武 興没し、弟の武立つ 502年 梁の武帝、武を征東大将軍に進号 中国歴史書に見える477年、502年は動かないとして、 武が雄略天皇とするとその五代後の継体天皇の在位はもっと後年に始まるはずです。 継体天皇の事績のうちで、これは確実に何年に行われたということが 判明していることがありますか? あるいは継体天皇に限らず日本書紀・古事記の記述と中国史書の記述とが一致する 最古の客観的歴史記事は何でしょうか? よろしくお願いします。

  • 継体ヲホドは雄略ワカタケルの子ではないか

     ( a ) 雄略ワカタケルがその妃ワカクサカベとの間にもうけた秘蔵っ子をひそかに越前で育て 時が来るとともにオホキミとして推し出すという作戦だったのではないか。  ( b ) そのためには ミワのイリ政権の系譜もみづからのカワチ(カフチ)の系譜も あたらしい世代の子供らをみなごろしにしてしまったのではないか。世継ぎは 継体ヲホドのみだという情況を自分たちの手で作り出したのではないか。  ( c ) この全国制覇大作戦は じつは すでに応神ホムダワケのときに練られていたのではないか。それは したがって おおよそ西暦四百年ころからの百年の計だったのではないか。  ☆ 史実を比定するための問い求めではなく 神話の物語のなかにさえ日本人と日本社会を全体として捉える契機があるのではないか こういう見積もりのもとに問います。またそれゆえ この哲学カテで問います。  この見積もりの具体的な事例として いま上に掲げたこの突飛な推測を示して そこから人間類型やら社会の成り立ちをめぐって日本人としての真実が明らかになればと思います。  いかがでしょう。いろんなご見解をお寄せ下さい。  * 歴史事実の比定を目指すのとは微妙に違って 日本古代史における人間の真実をいろんな角度から写し取ったり描き出したりあぶり出したりしてみたい。こういう魂胆のもとに船出します。

  • われわれは どこへ行くのか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。              *  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム                   世界との未分化なる一体性。   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                   時間的存在の自覚。                   《世界‐内‐存在》。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                  《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                   社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階建て構造にしてその二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生生活にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉至高主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉至高主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も あらためて言えば スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉至高主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉至高主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て ワルビレズ やってらんねえよと言った。  8. わが日本の歴史にあっては 次のように見ることを仮説としています。    ヨリなる原始心性:縄文人      イリなる歴史知性:弥生人から始まって ようやくその時代の              終わり・つまりはそして古墳時代の始まりに              あたる300年ごろからを当てる。                これは やまとの三輪市政であると見る。              崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコトに始まる。    ヨセなるスーパー歴史知性:400年ごろより。              河内の応神ホムダワケとその母・神功オキナガ              タラシヒメの登場による。              ・・・

  • 天皇男系の根拠は?

    女系とか男系とかいう話がでてますが、 男系維持は父から息子に受け継がれるY染色体を伝えるためという説を聞きました。 (1)人間は誰でも父親・母親から半分づつ遺伝子をもらっているので、 Y染色体を重要視する科学的根拠はないのでは? (2)天皇家は世界で一番長く男系で続いてきたということですが それを証明することはできますか? 系図や歴史書というのは、勝ち残ったものに都合よく書かれて いるので、証拠にはなりません。 大体、日本書紀や古事記でも食い違いはあるみたいですし・・・。 そもそもアマテラスは女性の神だった訳で、Y染色体はないですよね? 初代の天皇は、実存しないとも聞きました。 古墳の調査もできないみたいだし、DNA鑑定など 客観的な証明はできるんでしょうか?

  • われらは如何に生きて来たか。世界はどこへ行くのか。

     たたき台をしるします。添削をどうぞ。そして見解をのべてください。              *  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム                   世界との未分化にして一体性。                   寄り憑く状態が つねなるかたち。   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。《世界‐内‐存在》。                   未分化状態を時間(生死)の自覚がやぶった。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階(メタ・イリ)から                  《ヨリ》を束ね(ファッショ) 《イリ》をも                   社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階建て構造にしてその二階から共同自治する社会経営の方式です。マツリは 一階の人びとのお祭り。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共同生活にとって互いの自由をとうとぶ。《時間的なること(存在)》をいつくしみ 限りあるものゆえに互いの意志自由を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(事実認識が 基礎である。排中律や 因果関係の把握などをまもる)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの成果を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 継続性に立つ商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉至高主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉至高主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)に負けたくないから 他人の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りが現われ 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言もが 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も あらためて言えば スサノヲ市民社会( die Susanowoschaft )とアマテラス公民圏( das Amaterasutum )との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。《家》と言うからには 二階建てである。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉至高主義なるガリ勉がさらに徹底してガリ勉至高主義となって 経済合理性のみを追求するというウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は    《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》  としての単一層なる人間像に立つゆえではないか。その思想の側から 出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単一層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。   【スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)- アマテラス公民圏(《 S = A 》人)】構造  だれもが アマテラス公民を志向するのであろうか。つまりは・だから 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては その二階A圏の住人が つねにひっくり返されるウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底志向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て ワルビレズ やってらんねえよと言ったのである。  8. わが日本の歴史にあっては 次のように見ることを仮説としています。    ヨリなる原始心性:縄文人      イリなる歴史知性:弥生人から始まって ようやくその時代の             終わり・つまりはそして古墳時代の始まりに             あたる300年ごろからを当てる。             これは やまとの三輪市政であると見る。             崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコトに始まる。    ヨセなるスーパー歴史知性:400年ごろより。             河内の応神ホムダ《ワケ》とその母・神功オキナガ             《タラシ》ヒメの登場による。             ・・・  つまり 天皇氏には イリ系とワケ系(=タラシ系)とのふたつの血筋と思想としての筋があると見られます。

  • 世界はわれわれが どこへ行こうとしているのか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。              *  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:世界への寄り。                  アニミスム&シャーマニスム                  世界との未分化なる一体性。   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                  時間的存在の自覚。 《世界‐内‐存在》。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:二階から世界を寄せる。                  《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                   社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階建て構造にしてその二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが生活共同にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉至高主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉至高主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。  その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も あらためて言えば スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉至高主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉至高主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  [スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)]  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て ワルビレズ やってらんねえよと言った。  8. なおわが日本の歴史にあっては 次のように見ることを仮説としています。    ヨリなる原始心性:縄文人      イリなる歴史知性:弥生人から始まって ようやくその時代の              終わり・つまりはそして古墳時代の始まりに              あたる300年ごろからを当てる。                これは やまとの三輪市政であると見る。              崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコトに始まる。    ヨセなるスーパー歴史知性:400年ごろより。              河内の応神ホムダワケとその母・神功オキナガ              タラシヒメの登場による。              ・・・

  • ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム

     1. 世界におけるおのれの位置づけによって 仕分ける。      ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム           前(プロト)歴史知性    イリ(入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った:           歴史知性;《世界‐内‐存在》    ヨセ(寄せ):時間を超えたと《さとった》ととなえ世界の経営にあたろうとする:           ヨリ心性もイリ知性をも寄せてたばねる:           《超歴史知性》;《世界‐外‐存在》  2. ひとは みな あやまち得るスサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民である。ヨリ原始心性もイリ歴史知性もヨセ超歴史知性も 同じくである。  3. ただし このスサノヲ人間語の内に じつは人間の普遍的な特質もやどると見られている。一般に《人間としての互いのカカハリ(関係性・社会性)》である。マジハリは無くても カカハリの絶無な人はいない。  4. スサノヲ市民が暮らす世界にあって 人と社会とその他の世界について誰もが共にそうだと見とめる事柄を人びとは捉えるようになる。これは アマテラス科学語である。ゾーオン・ポリティコン。  5. アマテラス科学語で捉えた人と人との関係についての見方は 理論と成る。人は互いにひとしく自由だ。この自由は互いにまったくひとしい。うんぬん。これは むろんやはり普遍性を表わすものとして アマテラス人格語と呼ぶ。  6. アマテラス科学語およびアマテラス人格語をまとめて アマテラス普遍語と呼ぶ。  7. 一般に――相対的な意味においてだが――あやまち得ざる普遍語として捉えられるアマテラス語は むろんあやまち得るスサノヲ人間語にもとづきそれを練りに練って得たものである。  8. もしくは アマテラス普遍語は スサノヲ市民が用いる言葉である。ぎゃくではない。アマテラス人格語は スサノヲ人間語の内におさまってこそ 活きてはたらく。  9. アマテラス人格語および科学語によって ヨセなるスーパー歴史知性は スサノヲ人間語なる《ヨリ心性およびイリ知性》をおしえたい・みちびきたい・おさめたいと願った。根負けしたスサノヲ市民らは これに《くにゆづり》した。  10. よって 社会は もとは平屋建てであったが 《くにがゆづられた》あとには スサノヲ市民社会なる第一階とそしてアマテラス第二階との二階建て構造と成った。  11. 社会にも神棚をつくって そこに神聖にして侵すべからざるアマテラス公民を住まわせ ときにはこれを祀っていた。    12. 問題は ずばりひと言で言えば こうである。:ひとの用いる言葉は けっきょく誰にとっても《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる総合的にして構造的な言語だということになる。S語だけというわけではないし A語が突出してしまうものでもない。  13. いかに普遍語と言えども 《超・人間語》はない。同じように人間知性に超・歴史知性はない。ヨセなるズーパーメンシュとしてのアマアガリもしくはアマガケリは 非現実的である。社会に 神棚も雲の上もない。  14. 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる構造言語をしゃべる一人のひと――基本的に言って広義の スサノヲ市民―― この人間が 社会の経営については ムラオサ(市町村長)として当番制において当たるのがよい。学級委員のごとくすべての人が ムラオサの当番になる。  15. また お二階は要らない。それは ムラムラの連携のために事務処理をつかさどる公務員としてはたらくのみ。  16. このムラムラのつながりは 日本だけでやるのもよいが 世界にひろがるなら もっとよい。  このたたき台についてご教授ください。異論については質問者として食い下がりますが ご批判を歓迎します。

  • ホノ二ニギ(天孫)は アマテラスとスサノヲの子孫か

     非論理的な話です。  いわゆる伝承上の第一代天皇である神武カムヤマトイハレヒコは アマテラスにとって来孫(らいそん)または耳孫(じそん)という五代目の孫です。まご ひまご やしゃご。そしてその子の きしゃご というのだそうです。    高千穂の峰に降臨したのは二代前のホノ二ニギです。これは 孫です。アメニキシクニニキシアマツヒコホノニニギのミコト。    さて このホノ二ニギの父・すなわちアマテラスの子は マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトです。  ところがこのオシホミミは 例のアマテラスとスサノヲとの賭けのようなウケヒにおいて生まれた子です。  アマテラスの髪飾りの珠を取ってスサノヲが噛み 吹き捨てた息吹きの霧に生まれたと言います。  ならば   【Q‐1】 神武天皇とそしてそれからの歴代天皇は アマテラスの子孫であると同時に スサノヲの子孫でもある。  こう言えるか?    ところで むろんアマテラスとスサノヲは じつの姉と弟です。と考えるにつけても  【Q‐2】 この国は あまりにもアマテラス系をとうとび過ぎて来たのではあるまいか?  一般にアマテラス公民が スサノヲ市民に対して デカい顔をし過ぎて来たのではあるまいか?   【Q‐3】 スサノヲ市民たちをもとうとんだ時代は 栄えたのではないか?  いまは あまりにもその格差が――感覚的に言って―― ひどすぎるのではあるまいか?  これでは 先行き とうてい明るいとは言えまい。  【Q‐4】 このような単純な問題なのではないか? いまのわが国の状態は。  あまりにも幻想的な議論であるが――なんのことはない―― そもそも人びとが 幻想的なクウキにしたがって考えたり振る舞ったりしているのではないか?  【Q‐5】 まだなおこのクウキたる共同の観念にしたがうとすれば まづ世の中の主役であるスサノヲ市民らを大切にするしか道はないのではないか?  さもなければ これまでのクウキとして君臨してきた共同観念を打ちこわすことが もとめられなければならない。  こうではないか? いづれにしても スサノヲ市民主権の時代ではないか。それとも スサノヲ市民は 長年しもべとして仕えたかのような歴史の末に へなちょこ人間に成り下がったか。もうどうしようもないか?

  • われわれは どこへ行くか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                    時間的存在の自覚。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                 《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て やってらんねえよと言った。

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。  いわゆる地域主権について問うものです。  ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人 この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前がある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. 大政奉還のもんだいは 《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制としてのマのあり方を問う。  6-1. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイをめぐる正し方 こういった問題である。  6-2. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  6-3. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは 《 S (大政主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-4. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろ理念に合わせたものなのではないか?  6-5. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-6. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。  6-7. つまりそれが アマテラス科学語およびアマテラス人格語であるが これは アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。つまりその神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-8. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象である。  6-9. ゆえにアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。  6-10. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとする反措定に対する反措定であるから 綜合であり人間のふつうの存在(知性)の肯定であると考えてよいのではないか?   6-11. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマチガイからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。(かな?)