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飛脚は郵便制度が確立した後どうなったんですか?
飛脚は郵便制度が確立した後どうなったんですか? wikiによれば「郵便制度に並行する形で飛脚問屋は陸運元会社として 再組織され、小荷物・現金輸送に従事した」「郵便局員や人力車の車夫 などに身を転じていった。」とあるのですがよく分かりません。飛脚らは その現金輸送業でまた走らないのですか?それとも技術が進んで 突っ走ることはなくなったんですか?
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 回答から先に述べますと、飛脚はそのまま飛脚として走った者と、例えば、東京の府内だけに郵便物を配達する「郵便局員」になった者とに分かれました。 また、あなたのおっしゃる通り、健脚を生かして人力車の車夫に転じた者もいました。 郵便の制度や歴史については、すでにお調べのこととは思いますが、もう一度整理してみましょう。 (1)江戸時代の後半には、飛脚屋(町飛脚とも呼ばれた)または、大手の飛脚問屋などが整備されました。 (2)幕府が倒れて明治に入ると、「租税権正」であった前島密(まえじまひそか)の提案で、日本の飛脚制度を基にしてイギリスの郵便制度を取り入れて、明治4年(1871)3月1日(新暦では、明治4年4月20日)より「新郵便制度」が誕生しました。(4月20日を逓信記念日としています)。 (3)前島密は、自身もイギリスに渡り、郵便事業を学び、明治4年8月に帰国した後、「駅逓頭」という郵便事業の長官になりました。 (4)そして、東京の飛脚問屋の代表である佐々木荘助と話し合い、飛脚問屋は陸運会社として再編成され、個人経営の飛脚屋の飛脚は東京府内や大阪府内だけのその地域だけの配達を請け負う「郵便局員」となりました。また、個人の飛脚屋は制度から外されたため、飛脚が人力車夫に転身せざるを得なくなった者もいました。そして、陸運会社は、手紙だけではなく、小荷物や現金輸送なども行い、郵便制度の確立を目指しました。 つまり、陸運会社創設と同時に、中小の飛脚屋が、いわば倒産し、その飛脚屋で働いていた飛脚が「郵便局員」や「人力車夫」に転身せざるを得なくなった、と言うことです。 (5)当初は、東京の四日市(現:日本橋郵便局)と大阪の島淀屋橋角(現:日本銀行大阪支店)、京都の姉小路車屋町(現:NTT関連庁舎)の3ケ所に「郵便役所」が開かれました。 (6)では、配送方法としては・・・と言うと、依然として、各宿場に中継所があり、飛脚が走っての駅伝であったり、小荷物などは馬で駅伝をしました。また、現金などの時は、飛脚や馬も走りましたが、宰領(さいりょう)と呼ばれる頭(かしら)が馬に乗って伴走したりしました。この宰領は飛脚に危害が加えられないように刀を腰に差していました。 従って、まだまだ鉄道なども無い時代でしたので、飛脚も走りましたし、馬も駆けました。 (7)郵便事業で忘れてはならないのは、先払い方式でしたので、この先払いをしたことを証明するために、「切手」が発行されました。 (8)特に、手紙などの配達は、これまでのように飛脚問屋によってピンキリだった料金が「切手」という統一された価格であったため急速に需要が伸びました。また、小荷物や現金輸送も「公定料金」であったために、こちらも需要は飛躍的に伸びました。 (9)明治5年3月東京府内では、郵便の数も増加したことから、郵便網も拡大され、築地、神田、赤坂など18ケ所に「郵便取扱所」が開設され、1日3回の配達体制がとられました。 (10)明治5年7月1日には、ついに、北は北海道の一部から南は九州にまでの全国を網羅するネットワークが完成しました。