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神との契約

神との契約 神との契約が有効になるための条件はどのようなものがありますでしょうか? 知的障害者や精神障害者なども神との契約を結ぶことが出来ますでしょうか?

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回答No.6

 こんにちは。  そうですね。まづ 《契約》として現代でも捉えるかとなると違って来ますが そのような意味をも込めて   ★ 知的障害者や精神障害者なども神との契約を結ぶことが出来ますでしょうか?  ☆ については そういった差別や区別はないと言えると考えます。  ★ 神との契約が有効になるための条件はどのようなものがありますでしょうか?  ☆ つまりわたしが言いたいことは 《新しい契約》が出来ているということです。そしてそれは すでに《神との〔アブラハムからの旧いものとしての〕契約》は 要らなくなっているという意味です。さらに言いかえると 新しい契約は 契約じたいが 要らないと言っているものです。  新約聖書の中でヘブル書は 旧約聖書の中からエレミヤ書が《新しい契約》について述べるところを取り上げ これを解説しています。  ▲ (ヘブル 書8:7-13)~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そもそも アブラハムは――そのとき七十歳を過ぎていたそうですが―― 《行け》と言われて行ったのです。故郷を離れて どこか定まらないところへ行けと言われて それに従ったというそこから 信仰ないし契約が始まっています。  たしかに アブラハムは その《契約が有効になるための条件》としてのごとく その信じるこころが神によって試されました。想像を絶するかたちで試練を受け これに応じました。その結果 アブラムをアブラハムと改名するといったように 契約が完全に結ばれるに到ったわけです。(ただし 割礼をほどこすというのは この信仰の成立のしるしとしてですから 必要条件ではなかった)。  そのあと この契約ないし信仰の明文化といったようなことが モーセのときに起きました。ほかに神という言葉で呼ばれるものがあるが おまえたちは浮気はするなかれとか 殺すなかれなどなどです。  けれども こうであっても そもそも信仰としての契約は 《行けと言われたから行った》という実行とその生きた心にあります。モーセの契約条文は この信仰ないし人間性がその自然本性を外れるときには そのことが罪でありたぶん罰もあるであろうとおしえるものです。信仰成立のための条件ではありません。成立しているかどうかを見る目安にはなるでしょうけれど。    そうして 新しい契約に到っては モーセの戒律を破った人がいたとしても  ▲ わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  ☆ と言うのですから どうなんでしょう?  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~   彼らはそれぞれ自分の同胞に、   それぞれ自分の兄弟に、   『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。   小さな者から大きな者に至るまで   彼らはすべて、わたしを知るようになり、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ と言っています。わづかにそういう新しい契約が生まれ出たということを――そのイエス・キリストの磔の死のあと―― 《宣教という愚かな手段によって》宣伝がおこなわれましたが もう要らないと言っています。集団によって教義を保つというような宗教は要らないというものです。  何もしないでも いいわけです。

akuzaemon
質問者

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noname#131234
noname#131234
回答No.8

条件は 神の存在と契約自体の有効性です。 どちらも存在しないようです。 よって無意味。 障害のあるなしに関わらず契約の締結自体が、平等に不可能であるということ。 「神を信じる」という行為の字義的内容は、「おいらが正しい!ほかのヤツラはみんな間違っておる!わしの意見を聞いてみれ!どしどし投稿せよ!反論は無視する!」という文章です。 「神」の欄に「おいらの意見は最高」を 代入して読み替えてみるとよいでしょう。 無思考=思考停止=おいらは何もしなくてもよい という寝たきり老人のたわごとです。 契約の無意味さにきづくべきであるということです。

akuzaemon
質問者

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回答ありがとうございました。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.7

 そもそも きぐるみ着ているヒステリー作家は神と契約しません。  「契約」するにしても目に見える人間とだけ、でしょうね。  暴力に基づいたチンピラの情婦としてチンピラと契約を結びます(結ばされます)。

akuzaemon
質問者

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回答ありがとうございました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

神との契約とか言う場合、それはユダヤ教が言いませんか? ユダヤ教では神は何度か人間と契約をしたと聖書に書いてあります。 神は選んだ人間と契約したとき、必ず守るなら代償にあなたの子孫をたくさん増やすと言ってます。 神が契約時に「あなたを祝福する」と言うのですが、祝福ってどういうことかといいうと、ちゃんと書いてあり、子孫をたくさん増やすってことです。 アブラハムは高齢になって神に祝福されたので子どもを授かったとなっており、神の契約はその程度じゃなくて、ものすごい数に増えることを示しているらしく、後にアブラハムの子孫が国を作るまで増えたわけです。 ヤコブもそう。後にイスラエル民族という集団になった。 ヤコブの兄はヤコブに騙されて長子権を奪われ、祝福されなかったので、せめて出てもヘロデ大王くらい。 ヘロデ大王は、自分の血をイスラエル民族に混ぜて増やそうとしたらしいです。 もともと自分たちの枝が増えるはずだったから、神に祝福されてなくても増やそうとしたんじゃないかと。 で、古代ユダヤ教では子どもが出来ない人、病気の人、障害を持っている人は、神から呪われたからそうなったと信じられていた。 マリア誕生秘話でもそのことを前提に語られており、両親が改心したことでマリアを授かったことになっている。 ということで、ユダヤ教の聖職者に子どもがいないってことは、とんでもないことなわけです。 神から呪われているってなるので。 イエスストーリーでもイチジクが実をつけなかったためにイエスはのろいの言葉を吐いたとなっていますが、イチジクは多産のシンボルなので、セックスしたのにどの女も孕まなかったことで、イエスは激怒したわけですね。 種なし男が子どもができないことに腹をたてて嫁を毎晩折檻するって映画をみたことがありますが、男って自分の価値を子どもの数で確認する動物なんでしょうね。 他にもヨブも物語でもそう。子どもが全員死亡し、自らも病にかかったヨブに対して友人も妻もヨブは神に呪われたと解釈した。 当時そういう価値観だったから、そういう物語ができたんでしょうね。 神に祝福されていたら災いは無く子たくさんなはずだ解釈。 後にヨブは神に祝福され、子沢山になったって書いてありますしね。 で、イエス物語でも神に呪われた人たちは病気は不妊や障害者として登場し、改心したことで子どもができ、障害が治ったとなっている。 改心したが、神から祝福を受けた、すなわち子沢山になったとは書いて無いことから、選ばれて契約を交わした直系じゃあなかったってことじゃないかと。 神とアブラハムは確かに契約をしたが、アブラハムの子孫で神との交わした内容を守らなかったら、契約は履行されず、祝福 すなわち子沢山は実現されないってことじゃないかと。 レシピがあってないとケーキのスポンジが膨らまず、ケーキができないのと一緒。 まあ そんな契約は日本人には関係が無いので。 日本人はイスラエルの神が契約をした民族じゃないでしょ? 一部の人は混じっているかもしれないが、その人達は神の契約に従ってシオンに戻らされることになるわけで、今頃イスラエルに移住しているはずだし。

akuzaemon
質問者

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回答ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

知的障害者や精神障害者なども神との契約を結ぶことが出来ますでしょうか? 結論から先に言えば誰でもできますね。 ただ、神と言う漠然とした表現ではだめですね。悪魔も仙人・天狗・詐欺師・いい加減な・カッパや狐でさえも「我は神である。」といいますからね。 神に帰依するでは契約にならないのですね。 私は仏陀に帰依する、私はイエスに帰依する、私は孔子に帰依する。と言うように具体的な名前を挙げて代理人への帰依を通して目に見えぬ神と契約すれば良いのですね。つまり契約は正しい立派な代理人を通すことで誰しも間違いなく行なえるということですね。 しっかり代理人を定めることですね。それが最初にすることでしょうね。

akuzaemon
質問者

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回答ありがとうございました。

回答No.3

契約とは、その当事者双方が、自然に発生する権利義務以外の特別な権利義務を定めて約束することです。 質問者さんが神に対して、特別な権利義務を約束したとしても、神の方は質問者さんに対して特別な権利義務を約束することはありませんので、契約は成立しないでしょう。 神の名の元で人間対人間の契約を締結しようと企んでいる場合が多いと思いますので、要注意ですよ。

akuzaemon
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

noname#115788
noname#115788
回答No.2

>神との契約が有効になるための条件はどのようなものがありますでしょうか? 契約を有効にするためには、割り印を押した契約書を2枚作成して、双方が1通づつ所持する必要があります。 契約書を作成するためには住所と印鑑が必要です。したがって神と契約するためには ■ 神の住所を確認できる書類など(住民票や免許証) ■ 神の印鑑(できれば実印) が必要です。神に頼んで用意してもらいましょう。

akuzaemon
質問者

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回答ありがとうございました。

回答No.1

なかなか難しそうな質問ですな。 知的障害者に神との契約の当事者能力を付与するかどうかはその当該宗教(宗派)に依ります。

akuzaemon
質問者

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回答ありがとうございました。

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