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幕末における新撰組の意義について

幕末における新撰組の意義について 新撰組は簡単にいうとどのような経緯ででき、幕末においてどのような立ち位置でどのような効果をもたらしたのでしょうか?

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回答No.3

ざっくりですが、自分は下記のように解釈しています。 >どのような経緯ででき 幕末期には、幕府を支持する佐幕派と、幕府を倒そうとする 倒幕派がいました。倒幕派が明治維新を起こしたことによって 倒幕派=正義のように書かれている小説、ドラマが多くあります が、当時の感覚でいえば、倒幕派はテロリスト集団です。 そのテロリスト集団から幕府を守るために、清河八郎って人が 全国から浪士(ワーキングプア侍)を集めます。 ところがどっこい、この清河八郎は、集めた浪士に向かって、 「幕府を守るために集めたってのは嘘でした。倒幕しましょう」 と言います。学がない浪士たちは、メシが食えるがために集まった 輩がほとんどだったので、佐幕でも倒幕でもどっちでもいいのです。 清河の目的は、幕府が出した金で幕府をやっつける軍隊を作る ことが目的でした。 しかし、芹沢鴨を中心とした水戸天狗党と、近藤勇率いる武州多摩の 田舎侍集団、試衛館組だけは清河に踊らされることなく、そのまま 京都の守護につきます。この集まりを「壬生浪士組」といいます。 会津藩の預かりとなり、不逞浪士(倒幕のテロリスト集団)の取り締まり を強化しますが、芹沢派の乱暴なやり方に(道を譲らなかった力士を 殺傷したり、指名した芸妓の愛想が悪く、店を壊したりなど)上から お達しがきて、近藤等が芹沢一派を暗殺する。 ちなみに、芹沢派を一掃するちょっと前に、テロリスト最大支援国の 長州を京都から追い出すキャンペーン「八月十八日の政変」が起き、 その際に、「壬生浪士組」から「新選組」に名前を変更。 >どのような立ち位置 立ち位置としては、会津藩お預かりです。 会津藩は、代々徳川に忠誠を誓っている最大の佐幕派藩です。 時勢が変わり、どんどん倒幕派への鞍替えする藩が増えると、幕府の ために戦う組織がいなくなり、ついには局長の近藤と、副長の土方は 幕臣になりました。 >どのような効果をもたらしたのでしょうか? 当時の京は、倒幕派の活動家によって治安が悪かったです。 思想がなくとも、倒幕派の人間だ!といって、狼藉を働いていた輩も 多くいたので、そのとりしめ役としては、京市民のために約にたった のではないでしょうか? 後は、後世にドラマを残したことが実は一番の効果かもしれませんね。 幕末という転換期に、己の命を投げ捨てて、幕府に使えた本物の 武士がいた。ってな感じですかね。 佐幕派であっても、倒幕派であっても、己が信じるものに、命を かけて活動することには、感動を覚えます。 この当時は、彼ら一人一人の生き方がそのまま物語りになるほど 内容の濃い時代だったと思います。

その他の回答 (5)

  • torajii
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回答No.6

暴力団に治安を任せたというところです。 京都では今でも、ミブロ(壬生浪)と言って、蛇蝎のごとく忌み嫌う言葉が完全には死語になっていません。

  • aburakuni
  • ベストアンサー率30% (470/1562)
回答No.5

江戸幕府本体は元々は三河国出身の武士を主体に構成されていましたが、かっては精強だった三河武士も官僚的仕事を歴代続けたため、戦闘能力は著しく低下していました。 ただ幕府設立当時の圧倒的武力誇示と、隠密等諜報機関を使用した恐怖政治が、永らくその武力崩壊を露見させずに太平の世を続けさせました。 黒船来襲と大老の暗殺と言う事件でその虚像が薄れ出した時、侍が画策した土俵に上がった元百姓の武力集団が、意外な強さを発揮して幕府側の尖兵となって、暫くは旧秩序を支えたと言う事でしょう。 長州側が百姓出身者の多い奇兵隊の戦闘によって佐幕派を追い落とした様に、「武士の虚像を暴いた」意義があったと思います。

  • shin1417
  • ベストアンサー率27% (199/721)
回答No.4

簡単に言えば、テロ対策で集められた臨時の契約社員ならぬ「契約警察官」ってとこでしょうかね。 後に、局長の近藤勇や副長の土方歳三は正社員(旗本)に昇格しました。 討幕運動が目立ち始め、彼らがあちらこちらで事件を多発させるようになると、それまでの治安体制では対処できなくなり、幕府は各藩に治安維持を命じるようになりました。 が、何百年もの間、戦が無かった為、幕末ごろには正規の侍は、武士(戦士)としてはほとんど使い物にならなくなっていました。 将軍が薩長と戦をする為に旗本、御家人に動員をかけたら、彼らは一斉に若隠居になり幼少の子供に家督を譲った為、現在でいう小学生、幼稚園児のような子供が参集するという、ギャグみたいなことが実際に起きました。 これは他の藩も同じで、自分達に直接関係の無いことで命懸で戦うなんて真っ平御免という風潮が強かったのです。 と言っても、幕府の命に逆らう事には出来ませんので、苦肉の策で考えられたのが正規の侍の代わりになる人間達を集める事。 この集められた人間達が後の新撰組です。 元々町人であった近藤勇や土方歳三が旗本に取り立てられた位ですから、対討幕運動に対してはそれ相当の効果があったのでしょう。

回答No.2

経緯と歴史。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84 なお、上記にも「粛清で落命した者の方が多い」との記述がありますが、一説には「勤王倒幕派浪士達に闇討ちされたり返り討ちに遭ったけど、闇討ちや返り討ちに遭ったと言う訳にはいかないから、粛清した事にした」と言われています。

回答No.1

現代でいうPMC(民間軍事会社) 京都郊外の治安活動を請け負った傭兵としか言いようがありません。

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