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諸葛亮の就職活動

諸葛亮は三顧の礼によって劉備に迎えられましたが、 徐庶や司馬徽に推薦されたとはいえ、 一介の農民(?)が弱小国家とはいえ君主に迎えられるのは、 相当なことだと思います。 また劉備につかえてからも軍師として取り立てられる経緯も、 いまいち納得いきません。 今の時代で言えば、有名大学を卒業したニートを連れてきて 「今日からこの人が副社長だから」 で、誰が納得しますか?w 劉備に仕えるまでと、仕えてから軍師に任命されるまで、 本当はそれなりに彼自ら、 実力を知らしめるような活動をしていたのではないか? と想像します。 実際にはどのようなことをしていたのでしょうか? 史実でも演義でもかまいません。 彼の自己PR方法みたいのがあれば、お教えください。 また、漫画や映画などでは軍師になった直後、 いきなり実戦で彼が軍を指揮したりします。 「失敗したら死んじゃうけど、今回の戦争の指揮は新人の諸葛君に任せるよ」 こんなの、どう考えても不自然すぎますよね? 戦争に至るまでに、周りが納得するようなエピソードがあったんじゃないかと思うのですが、 もしそういった話がありましたらお教えください。

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  • at9_am
  • ベストアンサー率40% (1540/3760)
回答No.4

うーんと。大幅に夢を壊すようでナンですが。 この当時の高官は、特に政治家に関しては「門閥」と「学閥」で大体は説明がついたりします。そういうものがないのは、初期の豪傑たちくらいであり、それほど数はいません。 例えば呉は、四姓とよばれる陸・顧・張・朱が門閥で、文官の大部分はここから出ています。残りは学閥と漢の時代の文官です。 魏は、元々の漢の人脈の大部分を受け継いだだけあって門閥が非常に強いです。 劉備も、むしろ売りの~といわれることが多いですが、その師匠である盧植は漢の高官であり、その兄弟弟子には公孫讃がいます。因みにこの盧植は、当時第一級の大学者であり、行動的な性格だったので将軍として活躍していたりします。 孔明はどういう立ち位置になるかといえば、諸葛一族は元々の門閥があり、当時は既に兄諸葛謹が漢(呉)に就職していた時期です。また、孔明自身が水鏡先生の門下であり、同門の人間が大量に劉表の元で就職しています。 つまり、彼は門閥と学閥が両方ともあるという意味で、いきなり高官になる資格があったわけです。 > また、漫画や映画などでは軍師になった直後、いきなり実戦で彼が軍を指揮したりします。 また、残念ながら新野付近での火計は大幅な脚色であり、劉備が指揮した小競り合いがあったに過ぎず、その後李典らは袁尚攻撃に向かっています。 その後ほどなく劉表が死に、荊州が降伏して撤退戦をすることになりますが、この時も実際は逃げただけです。 赤壁の戦いはメインは周喩ですし戦い自体ほとんど起こっていません。 戦争の軍師としては、ホウ統や法正がそれであって(因みにこの二人も学閥+門閥)、彼らが活躍している間は孔明は戦場に出ませんでした。

pugera542
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 一番納得できる回答でした。 そうですね諸葛一族も、それなりに名声のある門閥だったのですね。 一介の農民というわけではなかったのですね。 現代でいえば、地盤看板がある政治家の東大出の息子みたいな感じですね。 そう考えれば、20そこそこの実績のない若者が 地方の議員になるのも不思議ではないですものね。 ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • eroero1919
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回答No.3

君主とはいっても、劉備は現代の企業に例えれば吹けば飛ぶような弱小の零細企業の社長のようなものでした。小国でも君主、社員数名の会社でも社長、一国一城の主ではあるわけです。 しかしその劉備社長、何度も会社を潰しています。人望があるものの、どうにもノリと体力だけでここまで来たので特に経理や戦略面がからきしダメでした。 そこで白羽の矢が立ったのが孔明先生です。他の回答者が政治家とおっしゃっていますが、それに加えて経理担当であり経営コンサルタントでもあったでしょう。作戦を立てるには、それに合わせた兵站計画が必要です。それは会社でいえば経理であり総務であるわけです。孔明先生は現代で言えば一流と呼ばれる大学を優秀な成績で卒業した会計士兼経営コンサルタントといえるでしょう。 しかし、おっしゃるように彼には実践経験というものがない。ここがネックだったわけですが、零細企業である有限会社桃園の誓いでは、あれがいいとかこれがいいとかそういう贅沢はいっていられませんでした。だからこそ劉備は「三顧の礼」を尽くしたといえます。 さて、そんな孔明先生の自己PR戦術ですが、これはなんといっても劉備をして「三顧の礼」をとらせたことでしょう。劉備が自分をスカウトしようとしている、というのは彼の人脈から知っていたと思います。もしそれにホイホイと乗ったらいかにもこっちが待っていたようで、行った先でも軽んじられてしまうリスクがあります。そこで、彼は留守にして劉備を追い返すことによって、自分に対する本気度と、それによるもったいをつけたのだと思いますよ。私は、結構居留守を使ったんじゃないかと思っています。 男性なら、デートに誘ってその日のうちにヤラせてくれた女にゃはっきりいってありがたみを感じないですよね。それよりもデートにこぎつけるまでに何度もメールや電話をした相手のほうがデートにこぎつけたときの喜びもひとしおです。なんだか、自分が誘った女がえらいいい女にも見えてきます。だいたい、タチの悪い女にひっかかっている奴に限って手も握らせてもらえなかったりします。もったいをつけられたほうが価値が高く感じてしまうのです。 孔明先生は頭がいい人ですから、「俺が断ったところで他にアテがあるわけではない」というのを見抜いていたと思います。だから交渉のテーブルを自分に有利にするために「それでも君に来て欲しい」といわせるところまで引っ張ったのだと思います。三回目で会う辺りが絶妙ですね。いくら劉備でも四回ともなると若造のクセに生意気な、となってしまいます。ま、そのへんがやっぱり交渉上手の中国人だと思いますよ。 (蛇足・ところで広大な中国大陸で、劉備は今の北京のあたりの出身、孔明先生は湖北あたりの出身です。当時は現代以上に言葉の訛りが強かったはずで、はたして二人は本当に会話できたのか多少疑問に思っています)

回答No.2

ちょっと状況が違うかもしれません。 >有名大学を卒業したニート というよりかは、各社からヘッドハンティングされている フリーのシナリオライター、って感じでしょうか。 しかし、おっしゃるように実歴はありません。 シナリオライター養成所では、優秀な成績を収めるものの 現場での経験はありません。 でも、第一線で働いている旧友(徐庶など)から、「あいつの 才能はハンパないすっよ」と進められ、大手制作会社の 「株式会社 荊州」の劉表社長からの登用も断っていた 人物となれば、それだけで過大評価になるでしょう。 ちなみに演戯では、関羽・張飛からの古株メンバーからは 懐疑的な目で見られ、作戦にも異議を唱えますが、夏侯惇の 十万の兵(十万!?これだから演戯はすごいw)を見事に 退け、信頼を勝ち取りました。 後、マジレスすると、孔明は軍師ではありませんw ごめんなさい、軍師ではあるんですが、基本職は政治家です。 国づくりのための知恵を劉備に教えこみ、自ら実践したのです。 大臣と一緒ですね。アナリストや企業の役員などが、入閣する のと一緒です。 政治家として活動してましたが、龐統、法正などの優秀な軍師 が死んでからは、他に人物がいなく、自身が軍師も担うように なりました。それで、彼の代名詞が「軍師」になってしまったの です。 正史の評価では、大政治家ではあっても、大軍はないですね。

noname#143204
noname#143204
回答No.1

あくまで想像ですが、本書いてたんじゃないですかね。

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