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宇宙と自分は存在しているのか
宇宙は真に存在しているとはいいきれません。 そうするとこれ程までに確実な自分の存在も曖昧となります。 どういう事態なのでしょうか。 宇宙が真に存在するとは、自分の存在、不存在に関わらず、宇宙が存在するということです。
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最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事に よって生じています。 自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが宇宙。 (無の無限の闇に対する自我の射影) 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完なのです。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめこむと 存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限のゼリーの中に、 仮想的な認識体の断面を切ると、その認識体にとって、相補的 不確定性を伴う存在による宇宙が見えます。 しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的に生じるもので、 根源的に絶対化しようとすると、元の無限不確定性に発散します。 実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対に よってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。 客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、 相対的に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン) の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面”の移動= 自我仮説に対する、相補的な時空仮説として生じています。 換言すれば、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の 相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という 無の射影として、存在は生じていると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。
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- sheep67
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下の人の言い換えみたいだけど、 存在とは、存在感だと思います。つまり相対的だと思います。 その存在の感覚は、当然5感で発生します。 普通に言う認知される存在とは、この存在感覚の上に、論理の皮をかぶせたもの、と見るんだけど。まあ、仏教の縁起観のような? だから、それは、独立した存在のようで、一方、対象と自分との間に初めて成り立つフィーリングだ、と思います。 人間は、この存在のフィーリングに合わせて、論理を発達させて、哲学や科学を作ってきたんじゃないかしら? その、5感が作る、人類全体の共通のフィーリングをうまく説明できる論理としてだけど。 だから物理の論理は、論理学の論理とは違うです。基礎がフィーリングだから。 フィーリングであり、自分と外部の対応が存在感覚だから、宇宙の存在を疑うと自分も疑うし。 持論をちょっと・・ 存在とは認識です。認識には把握のためのエネルギーが要ります。 そのエネルギーがどこから来てるのか?という見方をすると、 生体エネルギーは、振動する化学変化で生まれるそうです。(散逸構造と言うらしいっす) それは、外部からエネルギーやエントロピーを取り込むことで、動的変化が、恒常的に維持される、というらしいです。 つまり、フィードバックループを描く動的変化が、外部からいろいろ取り込み続けることで維持される、というのがこの理論みたいっす。 この場合、認識される動的変化の連続は、ある種の化学変化は、それ自体だけで起き続けるみたいですが、実は、外からがんがんエネルギーやエントロピーという見えないものを取り入れて初めて維持されます。 人間の認識のフィードバックも、これと似てへんでしょうか? その存在認識のエネルギーは実は外部から取り込むエネルギーや刺激によって成り立っているのだとしたら(仮定ですが) 認識する人間は、外からエネルギーを取り込まないと生きておれません。 自分がいなくても宇宙は存在する、と言う僕は宇宙によって維持能力をもらってます。 全体がそういう仕組みだし、 真に存在する、の、「真」とは、つまり、極論、理想、現実にはないが、そういう意味ではあり得る、と思います。 この質問においては、一般的な、極論や、現実にはない理想概念をどう定義するのか? 極論とは実在か? 妄想か? という議論に言換えられるかな?と思います。 数学でも、無限集合や、iなど、あると仮定したらうまく行く、すっきりする、という概念がたくさんありますが、あるかないかはっきりせーというのは結論出てません。万一あっても人間のすべての感覚の感知外です。 すっきりする、納得がいく、論理的につじつまがあることを持って、実在とできるのか否か? そんなとこかなー。 (また、科学で言う観測とは、有限のものしか扱わないので、そもそも極論は有限ではないので対象外かと・・物理でも極限概念は間接的証明であったり、原理と呼ばれたりして認知の対象外です) なんか読み返したけど答えになってないねー、残念。 でした。
お礼
御回答ありがとうございます >真に存在する、の、「真」とは、つまり、極論、理想、現実にはないが、そういう意味ではあり得る、と思います。 私の質問の主旨はまさにここにあります。 真に「そう言う意味であり得る」のかどうかですね。 理解とか体感とか実感のさらに外側を欲しているのかもしれません。しかし、それに気づいたのか知覚したのか認識したのかよくわかりませんが、そのようにして伸びを続けてきた結果が人間である気が致します。 皆様の御回答誠に感謝申し上げます。 決して荒らし行為を行ったつもりはございませんが、 どうしても御回答に対するコメントをやってしまいます。 謝罪致します。
- juyjuy
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No.3の回答者様が物理学と哲学を用いて述べられている事を仏教(御釈迦様の後継者が創った大乗仏教の場合ですが)では「色即是空・空即是色」と簡単に言っています。 もっともこれを悟るには大変な修行が要る(人と要らない人がいるようですが・・)と言われています。 私も物理学的には「理解」出来るのですが実感は出来ません。 今、窓から見える庭にアーモンドの花が見えます。 「あの花は自分のために咲いているのだ。」 「自分はあの花を見るために存在しているのだ。」 というのはいかがでしょうか?
お礼
御回答ありがとうございます。 「色即是空・空即是色」とはこのことなのでしょうか。 >私も物理学的には「理解」出来るのですが実感は出来ません。 言語表現の限界に近いですよね。 >「あの花は自分のために咲いているのだ。」 >「自分はあの花を見るために存在しているのだ。」 心優しいこの感覚、解ります。 No3の方の記載を私なりに解釈すると、 あの花は自分が作っているのだ。 自分もあの花も真に存在などしていないのだ。 というこちらは驚愕の感覚ですね。
- lu-mu-
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なぜ自分の存在が宇宙を土台にしているということが確定事項なんでしょうか それ自体が曖昧なことなんじゃないですか? 「我あり」以外に確定事項のあることなんてないと思います。
お礼
御回答ありがとうございます。 >なぜ自分の存在が宇宙を土台にしているということが確定事項なんでしょうか 仰る通り私の記載のどこかにおかしなところがあるのでしょうね。 自分の存在が曖昧か、宇宙を土台とせず自分が存在のか・・ 宇宙を土台として自分が存在する理由は、次の少なくともいずれかです。 1、自分は肉体を基盤としており、肉体は物質、即ち、宇宙を土台とししている。 2、我あり と思うためには時間の要素を必要とし、時間の要素とは、即ち、変化であり、変化はエネルギーの存在を土台としている。 3、我は、我以外の部分から浮き彫りにされる。その我以外の部分を宇宙と称している。
- asphodel-r
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>どういう事態なのでしょうか。 存在とは斯様に曖昧なものである、という事だと思います。 それ以前に「これ程までに確実」というのはどこに根拠を置いているのでしょうか。 ところで私自身の見解は、デカルトを持ち出すまでもなく 哲学するに於いてはまず自分(自我)の存在を前提とする必要有りと感じています。
お礼
御回答ありがとうございます。 >「これ程までに確実」というのはどこに根拠を置いているのでしょうか。 この質問は、 自分にとって、自分があるということほど確かなことはないはずなのに、宇宙の存在は曖昧な部分がある。 そうすると、宇宙の存在を土台としているはずの自分の存在も曖昧になるのではないか・・・という疑問なのです。 宇宙は存在しておらず、自分だけが存在しているのではないか・・ あるいは、哲学の枠を越えると自分の存在も実は曖昧であるのか・・
お礼
御回答ありがとうございます。 「自我仮説」を明確に理解できていないかもしれませんが、 結果として、いわゆる「我あり」の「我」が量子場である捉えるとすっきり理解できました。 認識体とそれを補完する他我性たる宇宙の両方が我の量子場に起因する 認識体からみた「存在」であると理解しましたがそれでいいのでしょうか。 認識体は、量子場の中にいるため、そのことに非常に気づきにくい。 一方、「自我仮説」ではなく「自我説」(自我は量子場ではない)の立場をとると、 宇宙は相補的ではなくなり時空間、物質は独立した存在となり、 宇宙は真に存在すると言い切れてしまうということですね。 この二つの説を比べると「自我仮説」が確からしいですね。