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アスペルガーとアマテラス語方言

 アスペルガーの特徴のひとつと言われることとして 《言葉を額面どおりに受け取る》を取り上げたい。 ▲ (ヰキぺ:アスペルガー症候群) ~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4  例えば教師が、アスペルガーの子供に(宿題を忘れたことを問いただす意味で)「犬があなたの宿題を食べたの?」と尋ねたら、その子はその表現が理解できなければ押し黙り、教師に自分は犬を飼っておらず、普通犬は紙を食べないことを説明する必要があるのかどうか考えようとする。  つまり教師が、表情や声のトーンから暗に意味している事を理解できない。   先生は、その子が傲慢で悪意に満ち、反抗的であると考え、フラストレーションを感じながら歩き去っていくかもしれない。その子はその場で何かがおかしいとフラストレーションを感じながら、そこへ黙って立ち尽くすことだろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こんなばかな話はない。いくらでも言葉を尽くせばよいだけではないか。  ただ これが大人どうしの交通であったなら むしろそのままの事態が繰り広げられるかも知れないと思う。  そのような意思疎通の障害やそれにともなう交通事故を無くすためには どうしたらよいか。  これを もしこの特徴に限るなら アスペルガーが症候群であるなどとは ちゃんちゃらおかしいと思うという立ち場から 考えてみたい。  なぜなら 二枚舌――社会的な知恵や方便である場合もあろうかと思うが 一般に後味がわるく 社会的に弊害があると思われるような種類の二枚舌――を使うのは あくまでもっぱらの公民であるアマテラス族であって そのアマテラス語方言においてこそ 悪質なものがはびこっている。つまり アマテラス語方言の利用者にこそ 症候群があると診(み)られなければならない。  これは まなざしをやおら上から向けて来てひとを見降ろすようにして見るアマテラスお二階さんが 虫の居所がわるいのか 怒ったり喚き散らしたりあるいはいぢの悪い要求をつきつけたりとおのれの意識の排泄をおこなって それをアース役として受けとめるものとの間に繰り広げる二枚舌合戦であって このとき弱い者の側だけが 病いに落ち入ったと診断するなどとは 《ゆるせない》。つまり――ゆえに―― 赦す・赦さないを超えて 事態の精確な把握と分析をなしておきたい。  つまり問いたいことは アスペルガー症候群という一種の疾病のレッテルを貼りつけようとするのは みづからのその症状を隠すための社会的戦術であるのではないか。  あたかも敵は本能寺というごとく二枚舌をあやつるこのアマアガリ症候群に根ざすと思われるアマテラス語方言現象 これじたいが 或る種のアスペルガー症状なのではないか?

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  • heartmind
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回答No.37

少しアスペルガーについて、いろいろ情報が錯綜していますので、私の体験からですが、特徴をあげてみます。 空気を読めない。 言葉の裏を読めない。 平等主義を理想にする。 何事も理想的な考えに偏りすぎる。 議題のきまっていない世間話が苦手。 並列的な作業が苦手。 幼児の頃の記憶が断片ではあるが、いちいち鮮明に覚えている。 幼児の頃の絵をみると、端っこに小さく書いていた。 幼児の頃、一時期おしになったことがある。 こんな様な特徴があります。医者に判定されるまでは、人間関係が苦手で本当にダメ人間だと全く自身を無くしていたのですが、そういう特徴の定義付けの言葉にあてはめられて、なんだそうかだからなのかと少し安心したような気持ちになったのも事実なのです。 それで私が現在、本当に問題だなと感じていることは、レッテルを貼ることで、よけいにそういう言葉でくくって排除に働いたり、また言い訳しているにすぎないと見たり、そういう特徴を逆側から見ての改善を強いるような動きに働きすぎて余計に追い詰めたりと本当にまだまだ、いろいろ混乱しているということです。ですからいつも感じることですが生きづらさの特徴をもった本人自身が尊厳をもって哲学的な見地において社会を考えて成長することが大切ではないかと考えているわけです。 支援団体というものがありながら、なぜか被支援者を蚊帳の外において支援者の支援にしか働いていないのかとか、なかなかまだまだこの問題は深いものがあるわけです。

bragelonne
質問者

お礼

 ふううむ。わたしは No.36の aeromakki さんに指摘されましたが 何も実地に分かっているものではありません。ましてや何も実際に言えるものでもないのです。――あっ ハートマインドさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ですが 勘でしょうか 明らかに《でっちあげ》だと確信しています。量がいわゆる質に変わるときには かなりそれとしての専門の分野という扱いにもなるのだと思います。これに抵抗や批判をするのは たしかにその専門家に自分もなったときです。  ですが わたしには 体験があるのです。明らかにたとえば生体電気信号が 外へ出てひとに向けて発信されたということがです。すでに言ってきたアース役の問題ですが これは相手に確かめていますから 自信があります。  日本人は ちょうど欧米の人たちが挨拶に握手をするのと同じように――ま この握手を同じくするかしないかとは別に―― この電磁波でのやり取りをおこなっているということです。これ自体は 推測ですが 馴染みどうしの場合や初対面の場合などなどで どうも――まなざしをそそぐ・そそがれるという表現をも使いましたが それとも別に と言いますか このまなざしに伴なうかたちでと言ったほうがよいと思いますが―― 電波のやり取りを 時にはライワ゛ルどうしなら火花を散らして たのしんでいるようなのです。  ジャブの応酬といったところでしょうか。―― 一般には 相手と自分とでは 社会的な身分はどちらが上か これを値踏みしているのだと思われます。  ★ 特徴  ☆ これらは このような電波合戦のあと――アース役が決まったあと―― 時とともに(親から子へ)つくられつつ感染もすることがある。こういう認識です。つまり でっちあげです。  《デンパによる握手行為はやめましょう》 これを標語にしたい。こう思います。  ★ ですからいつも感じることですが生きづらさの特徴をもった本人自身が尊厳をもって哲学的な見地において社会を考えて成長することが大切ではないかと考えているわけです。  ☆ これはわたしも肝に銘じます。

その他の回答 (45)

回答No.15

やはり、私の過去の過失についての《事実認識や、事情確認》がまだ済んでいないということのようですね。 前回の「ひとは やわらがしめられうるか」というbragelonneさんの質問へのプリメアペさんの回答(No:14)への「この回答への補足」の欄に 》 哲学が目指すのは――くどいように言うとすれば―― 《はらわたが煮えくりかえっている》ことなどを懐深く包みこみながら 《そのあやまちに関して しっかりと事実認識および事情分析をおこなっておく》ことだと考えます。そうして 社会一般の交通のあゆみに当事者のおのおのがふたたび戻るという事態です。《 という文を寄せられていますが、 また 似た内容の文を、ユッキンさんの回答にも このように 》 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >(犯したあやまちの内実を説明してやるということ)  只「ちゃんと事実を把握する」と言う事かしら。。。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という仕事もこなしておけるほど 大海のごとく静やかなやわらぎを感じている。感情丸出しである でもひとを裁いてはいない。《 という名文で載せられておられるわけですが、 蚊論争以前に私の過去の過失のあたりの処理をすべきであるというふうに 神とか運命にささやかれている感じがします。 その過失を犯してしまった頃、わたしは、その過失とは別にも、ある実践へと踏み切るため、そこに全力を尽くすべくすでにOKウェブをしばらく去ろうと決意をしていたのです。 がゆえの 時間の無さの中で それはうやむやなままになってしまいました。 ちょうど わたしには理解できない内容でつっこまれる形となり、 それを機に OKウェブを去ったという経過となりましたが、  その後も しばらくは、 そちらが元気であるかどうか、 そのことに悪影響を受けていないかについて気がかりとなって そちらの文は読んでいたのですが、 そのへんは安心したものの、 私が悪意を持っていなかったと言っている事に対して否定的な文を他の方(かた)に書いておられると思えた文を見て、これは弁明しておいたほうがいいのかな?と思ってもいたところ、 いよいよ、別な場にすべての神経も進んでいましたし、 元気ならまあいいか となってしまっていたのです。 しかし、今 多少時間にも気持にもユトリが生まれて ここに戻ってきたのであるからには、 そのへんの《事実》をもっとなんらかの形ではっきりさせるべき、責任を私は背負っているのでしょうか。 私自身は あくまで あの議論の全体の中で 悪の行為もそれを「見つめる目」を持ったものどうしの間では悪にはならない時があるとう模範を、読まれている方がた(かたがた)に示してみようという そちらの論理を応援する実践のつもりだったのです。 つまり 悪質な演技(二枚舌)を わたしはそこでいっさい使っていないということにもなります。 が、もし これだけで わたしのその意図(意図自体は善意)を解かっていただけなかったとすれば、 この場の今回の「回答」の範疇を越えたたいへんな紙数を必要としてしまいそうです。  その事実が問われるということになるとするとです。 ですので、一応はこのようにそのへんにも筆は伸ばしつつ (このサイト内では 時間的内容的にも考えあぐねてしまう問題でもあるので)、 まずは、 そちらの「回答への補足」に、 どうしてもぎくしゃくした交通の形になってしまうようであっても それを受けつつも 回答を続けていってみたいと思います。 私のNo11の回答へのそちらの「この回答への補足」の (1)と(2)と(4)についてだけ 今回は書いてみようと思います。 (1)の蚊論争についてですが、 蚊にさされたようなもの、と蚊が刺した事にすぎない、という両方の比喩表現の違いについて それがほんとうに大事な論争なのか? わたしには理解できなかったわけですが、  そのへんが確か法理論の話つながった時に、 私はいよいよ、まったく理解不能となってしまいました。 そのへんが無学ということなのかとも思いました。 たとえば、わたしには分数の学習の記憶がありません。 そのころ病気で生死をさまよっていたからです。   が 九九(クク)までは憶えていて そのせいで割り算の概念はわかるはずの脳構造までには脳が学習していたのでしょう、 あの分母が下の記号の意味合いは最近まで(十年ほど前まで)解からなかったところ、 確率とか割合とかパーセントとかについては、それが分数の記号によって深められる概念を使っているとも知らずに使っていました。 簡単なことについてはです。  ですが そういう私に数学の方程式の話をされても ふつうならわかりきった話でも通じないでしょう。 また、このようにも思いました。 わたしの知り合いに、まだ25歳ぐらいだと思うのですが、 天才的な人がいて、 陸上の長距離の世界で関東大会ではトップとなるほど それに打ち込んでいた青年なのですが、   学校の授業も ほとんど勉強の時間もとらないでいつもトップ(学年一番)だった人がいます。  今IBMに勤めています。 その人は、自分は教えるのが下手だと言ったのです。 どうしてかと言うと「どうして解からないかが解からないからだ」と言うのです。 でも「スノボーだけは 教えることが出きる」のだそうです。 それは自分が苦労して憶えた始めてのスポーツであり、 なかなか憶えられない人の気持が解かるからだとのこと、 BRAGELONNEさんの文が解かりにくいのは そのへんの天才性のせいなのかなとも、思ったのです。 とくに、この法理学についての話に私が全く理解できなかったあたりについてです。 で、 この蚊論争については、私自身がともあれ重要な論議と思えていないので、 それでそのへんは過去のこととしてしまっているのですが、 それではいけないのでしょうか? 2、の 》可能無限は ほんとうの――非経験としての――無限ではない。経験世界に属すものです。《 という文も 同じように“私には”ということなのでしょうが解かりにくいです。 「可能無限」という言葉自体も、 その次からの文→「ほんとうの―非経験としての―無限ではない。」とう文も 両方ともその意味合いが解からないので、 その次の文が 最初の「可能無限」と関ってくる文と成っている事はわかりますが、 けっきょく何も解かってはいないこととなってしまうわけです。 4、の文 》(1)(2)もあいまいなままであり 以前から進歩していない。《無学》は聞き飽きた。《 については 私に対する叱咤激励と受け取らせていただきます。 そしてそれはありがたいのですが、 ワーキングプア状況の現在、本も買えないですし、 年老いた親と暮らしている身では祭日は、普段の肉体労働の日よりも時間がとれなかったりしますので、図書館を利用するのもまた大変なのです。 でも 諦めているというのではけしてないですよ。 ただ まずは、社会的にこの情報化社会で自分にもできる道を歩みつつ、その中で学習も進めていこうと思っているので、この身には、すべてなかなか大変だということです。 例えば 数学は、もはや、私のその学習の道からはしょらなければならない運命にあるかと思えてしまっています。 確率の問題と神について、このまえの質問の時に語りましたが そういう理論はあるだろうけれどもそこに感性も重要な問題として問われなければ神の問題をどうして論じられるのだろうというところに 私の回答主旨があったのに、  数学で語られてきた世界について触れてしまったために 無限についての説明がレスで書かれていたのでしょう。 しかし、無限プラス1が無限、とか無限割る2も無限とかいうこと自体は解かりますが そこから先が どのようのその次も文とつながっていくのかは やはりわたしには解かりがたいところなのです。 おそらくそのへんから、可能無限とか 非経験としての無限とかの話につながるのでしょうけれど、 その間が私には抜けているのです。 せっかくの14項目ものレスを書いてくださったにもかかわらず、 それ自体が回答が大変で 迷っているうちに質問は閉じられてしまいました。 一言で言えば わたしがアスペルガーのようなもの(知能発達障害という意味合いではです)かもしれませんが、  アスペルガーをもしこのように解釈するのならば、がゆえに 必死に考えて生きてきたことには社会的価値があると自負していますので、そのへんからも アスペルガーを病気と診断することには引っかかります。 (詳しくは いっぺんには話せないですので、 どうか私にも そういったことを 話す機会をください。  わたしへの回答への突っ込みが多すぎて こちらの回答ができていません、 そこで 過去のわだかまりが まだ残っているのかなという判断も今回出てきたわけです) 私も アスペルガー症候群という言葉の 出所にも興味がありますし、疑問に思ったことは具体的にもたくさんあるのです。 でも 今の今は 補足をいただいたわけですから、 もっとゆっくりいくしかないと思っています。 で、 まわりくどい形となってしまいましたが、 まず(2)については 意義あり価値ある論議とは思えますので、 言葉自体はよくは解からないながら、 精一杯は回答をつづけてみたいと思うのです。 まるで、テストに答えを書いてるみたいですが^^、 こちらからも意義ありと思って書くことです。(書いてみること、賭けでしかないとも言えそうですが) すみません、 ここまででも長文となってしまいましたので、回答はここで区切って もう一度かくことにします。 ((すぐつぐく))

bragelonne
質問者

お礼

 困ったものです。  過去から引きずるものは つぎのふたつです。  (1) 《蚊が刺したようなもの》と言えば 何か(つまりはっきり言えば レ―プ)が歴史事実としてあって ただしそれは《蚊が刺した》ことに喩えられるといっています。《蚊が刺しただけ》と言えば そこにあった事実は 《蚊が刺した》ことのみになります。  それが 無効という行為のことです。《何もなかった》と言ってもよいし 原則は そう言うべきです。ただし何か物理的な接触などがあったということは 消せない事実でもあるので その事実に替えて《蚊が刺した》という事実を持って来ています。  つまり 主観においてはですが 《蚊が刺した》という歴史事実があったのみということを 社会的にも有効としています。  (2) ★ 《無限プラス1が無限、とか無限割る2も無限とかいうこと自体は解かりますが》――☆ ここで  ○ 《無限プラス1》 は可能無限です。もう一度 プラス1をすることが出来ます。つまり 人間の能力によって 1なら1と 表象することが出来ます。表象しうるということは それが 経験世界のものごとだという意味です。  ○ 《無限割る2も無限》 これが 経験世界を超えたところに想定する無限です。神とも無神とも言いかえることのできる絶対のことです。2は 表象しうるのですが これは仮りにそういう割り算をしてみるということですから つまりは仮りにそうしてみても やはり答えは無限となるのですから 表象し得ないということです。  その無限は あるかどうかが分からない。分かるか分からないかが分からない。よって 想定しておきます。  可能無限のほうは 想定する必要などなく 経験的に表象し得て 計算することが出来ます。  ★ 過去の過失  ☆ と書いてありますが これらのほかにわたしは知りません。

noname#135843
noname#135843
回答No.14

 お世話になっています。Hidocchiです。  インパール作戦の言葉がでました出た際に、以下のことが頭の中に浮かびました。  インパール作戦 佐藤中将について 「解任された佐藤中将は軍法会議で作戦失敗の非を訴えようとしたが、結局不起訴処分となり、「精神病(心身喪失)」扱いでジャワ島に送られた。第16軍司令部付という形での、事実上の軟禁である。これは、すでに抗命罪による死刑を決意した佐藤により、撤退理由をはじめとするインパール作戦失敗の要因が明らかにされると共に、その責任追及が第15軍、ビルマ方面軍などの上部組織や軍中枢に及ぶことを回避するためである。」  つまり、精神病というレッテルを貼り付け、病院に隔離させ、口封じをしたというものです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B9%B8%E5%BE%B3  もちろん、佐藤中将の戦時における判断力、責任者への追及等は、明らかに“まとも”だったかと思われます。  かようなレッテル化は、そのときの“お2階様”次第なのかもしれません。  以前、現状の日本における自殺者について考えたことがございます。  (http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htmの1番上のグラフをご参照くださいませ)  この表から、H10年度から急激な上昇を見せています。この約10年以上にも及ぶ自殺者数の多さは、もちろん他の先進国にも見られませんし、またかつては認められた国(例えばフィンランド)では、自殺者対策を打ち出し、減少させることに成功しています。ですが、我が国はその対策を真剣には考えていないようにも感じられるのです。 (ソース:http://www.shisokan.jp/hansei-joseigaku/finland-jisatsu/)  では、どうして考えようとしないのか? と、いろいろと考え続けたのですが、愚生の結論は以下の通りとなりました。    「“お2階様”にとって、気持ちがいいから」でございます。もし、1階の住民も何かしらの“圧力団体”を持ち、政治献金でもすれば、多少は異なるのかもしれませんが…..  ですが、これ以外には考えられないのです(もし、これ以外の理由がございましたら、ご教示いただければ幸いでございます)。そして、自殺と“うつ病”との関連性について言及する報道もございますが、実を申しますと、この“うつ病”という病も、実ははっきりしていないようなのです。例えば、“気まぐれうつ病”、“軽症うつ病”、“擬態うつ病=気分障害”等、いろんな名前が乱立(多様化)しております。まるで研究者が、その命名者として、一番の乗りになろうといわんばかりに、命名しているようにも見受けられます。  案外、呼称(病の命名)とは、単にその時代の“お2階様”のご都合次第なのかもしれません。  お役に立つところがございましたら、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 いやぁ おもしろいですね。  Hidocchi さんには 専門の研究分野があり――精確には 生物化学でしょうか きちんとおしえてくださいませ―― なおかつ哲学思想に幅広く しかもわたしが資料渉猟をおこたっているのと違って 通じておられる。そうして このような戦史および広く歴史 そして 一般に統計としての資料の分野に通じておられるようです。  ★ インパール作戦 佐藤中将について  ☆ 島流しにされたのは 明らかに《精神疾患にしておけ》主義が顔をのぞかせていますね。なるほど。  そう言えば 思い出しました。生徒会だとかであるいは担任の先生だとかに ちょっとうがった意見を出すと みなは詰まってしまってその結果わたしに 《おまえ顔色がわるいぞ。気分がわるいのとちがうか?》と真剣に 尋ねられるという出来事がありました。  ★ 自殺者  ☆ の問題もありましたね。フィンランドは 一時その率が上がって 対策を講じた結果 これで以前と同じ水準に戻すことが出来たということのようですね。  日本は  ★ では、どうして考えようとしないのか?  ★ 「“お2階様”にとって、気持ちがいいから」でございます。  ☆ お二階さんから風邪をうつされたってな具合いですね。旧型アマテラス・インフルは まだ 勢力を衰えさせてはいないのかも知れません。  この命名というものは 大きな意義と言いますか 社会的なちからを持つかも知れませんね。  ○ 《只今ミラー・ニューロン活性化中》現象  ☆ 科学的におかしなところはありませんか?  ようっしゃ。精神疾患は ぜんぶ治してみせるぞ!

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.13

面白いですね。歴史というものに懐疑的な視点をもつというところが。 私が小学校の頃に少し左に偏った思想の先生がいまして、その先生も少し似たような解釈をして教えてくれました。 しかし、歴史が人間の思考そのものだという見解も一方ではあります。 言語や論理の発達という歴史があり現在がある。 これも事実ではあります。 保守あってのリベラルというのも事実。 懐疑主義も前衛的芸術も歴史の一部ではあります。 裏があって面がある。だめでしょうかそんなんでは。

bragelonne
質問者

お礼

 だめです。そんなんでは。  直前のNo.13のやり取りを見てください。  今の保守は その存在じたいが 歴史や人間やその生活に対するアンチ・テーゼです。これに対するアンチ・テーゼは ジンテーゼなのです。決して《懐疑主義》でもなければ ただやぶにらみをしただけのものでもなく 《リベラル》などという呼称の問題は 視野が狭いと申し上げるほかありません。  《前衛》であるかも知れませんが 別にたたかいを仕掛けるものではありません。いまのアンチ・テーゼが おのれを自覚し その内部における葛藤を展開するのを ただ見守っていくのみです。  民主党も 自民党になるという見方もあるようです。  わたしたちが 歴史である。と言いたいです。  語弊のある言い方をするならば わたしたちは 右翼以上に左翼にも増して歴史であり 日本人なのです。無根拠で 無規定だからです。

bragelonne
質問者

補足

 →No.22お礼欄よりのつづきです。  〔・・・ そこを 自分たちの住み処としてしまいました〕。市民たちは 国譲りをして かれらに好きなようにさせたのでした。  §5 では 何が問題か  ですから ここから オホタタネコの父親とも言われる神(霊)なるオホモノヌシは けっきょく 第二階に住むスーパーアマテラス族のための神となったかも知れません。(あるいは 三輪山に 元のまま あがめれているとも言われます)。また もともと やはり 市民たちの宮であった伊勢神宮(その前身の外宮)も かれらのための制度となりました。(この伊勢神宮については むしろ崇神ミマキイリヒコの時代の制度発足として記事があったりしますが どうでしょう)。  このいわゆる二階建ての国家の問題は 天武オホシアマ天皇の――六七二年の乱を経ての――改革によって 一定の収拾を見ました。市民が主役であるという考えをできるだけ採り入れようとしました。(八色の姓。万葉集の過半数は 無名の作者です)。国家という二階建ての形態は その後も残ったわけです。  ちなみに すでに崇神イリヒコのときに あたかもスーパー歴史知性による《ヨセ》としての統治ではないかと思わせる記事があります。やまとから日本の四方八方の各地に《四道将軍》を派遣して 王化の徳を及ぼそうとしたと書いてあります。つまり 服属させたわけです。  やはりえこひいきして言えば これほど素晴らしい《イリなる歴史知性》を自覚した人びとが ほかの隣人に伝えてやりたいと思って やったことでしょう。それほど奇異なことではないように思います。《宣教という愚かな手段》(パウロ)のことです。  かくて 社会は 平屋建てではなくなり スサノヲ市民圏( Susanowoschaft )とそしてアマテラス公民圏( Amaterasutum )との二階建て形態が いくらかの期間――世界史においても――つづいております。  (おわり)

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.12

 補足をもらって思うんですが、どうも問いかけに問題のありそうな質問だなぁ。  というのも、 > 言いかえると 器質としての症状については ここでは扱えないという事割りになると思います。母源病ということばがありますが アマテラス公民起源病ともいうべき心理現象として 社会的なでっちあげによるのではないかという疑いについて考えて行きたいと思うのですが どうでしょう?  という事なら、「アスペルガー」はどうでも良いはずです。ところが、「器質としての症状については ここでは扱えない」という――この前提は、回答者がその前提に忠実であればあるほど、「どうして扱えないのか」という物事の倫理面を、他の読者に反語的に読まれる傾向があり、それを知っている回答 者は(但し書きを加えた後に)その器質について触れざるを得ない――質問の意図とは別に、こういう構造を持った問いかけになってますよと、まず申し上げます。  そもそも、ある身体の状態に対して何らかの症例、疾病を割り当てて呼ぶのは、そう呼ばない場合に比べて、呼んだ場合の方が「良い」と社会的に判断されているからであり、治療は常に、そう呼ばれない状態への回帰を目的に施されるものでしょう? それゆえ個々の身体の正常性とかとも無縁ですから、医療の現場で呼称される内容=症例は多分に時代的なものであり、社会的(時と場合によってはその内容が変わる)な代物だろうとは思います。  ある意味、社会からの贈り物とでも称すべき呼称(=病名)に対し、ひとつにはその症例からの回復に対して、生態としての本質性を与えたとしても、ことに贈り主が社会である場合には、その本質は実に虚ろなものでしかない。ここまで書いて、質問に戻るわけですが、 >まなざしをそそぐ側(一般にアマテラスと呼ぶ)にこそ その症状のようなことは生起している。のではないか。このような問題提起    については、もっと広く「呼称」そのものが、上からのまなざしに織り込まれている――そういうものだと思います。けれども呼称は常に、その妥当性は語られることはあっても、その必然性について(そうとしか呼べなかった時間的な辻褄合わせ)は、検討の土台には上がり難い。それゆえ時として、命名者の名前が代替的に割り当てられている事実に気付けない。  スサノオさんは、分類することは得意であっても、アマテラスさんの差し出す呼称以外の呼称を見つけることは苦手のようですね。  名付けの役目を譲った――というスサノオさんは、我が子にもう一度名前を与えたいと思うものなのでしょうか。もしも我が子の行く末を、ただ見ているだけなのだとしたら、その名前に宿った命名者のまなざしを、ただ感じている事しかできないだろうと思う。  どうやら質問の主旨は、こんな感じなのかなと思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 名づけをしておきます。  精神疾患は無いと言っても 不可解で不愉快な現象が起きることは 実際でしょうから それについて呼称があったほうがよいようです。  ○ アマテラス〔語〕感冒;アマテラス〔語〕・インフル; amaterasu flu; grippe amaterasitaire  ○ 《只今ミラー・ニューロン活性化中》現象  ○ 寅さん反応:《アマテラスさんよ それを言っちゃおしめえよ》で始まる寅さん反応;《アース役はつらいよ》現象  どしどし 命名を募ります。

bragelonne
質問者

補足

 なるほど 全体として そんな感じなのかなとわたしもたしかに思いました。  ご回答をありがとうございます。  1. そもそも社会一般的に《呼称》があるということ(その意味)  2. 《器質》の扱い方の問題  これらをめぐって考えなければならないことは 質問者は その呼称を与えた人間やその呼称を継いで研究・臨床をつづけている人間と 同等の立ち場に立たなくてはいけない。同じ種類のことばを用いて批判をのべなければならない。――こういう反省です。  まぁ このへっぴり腰で わづかな光を求めてなお手探りをしますが 個々の課題から取り上げます。  ★  スサノオさんは、分類することは得意であっても、アマテラスさんの差し出す呼称以外の呼称を見つけることは苦手のようですね。  ☆ そうなんですが 《症候群》でも何でもないと言っていますので 呼称はない のです。  ★ もっと広く「呼称」そのものが、上からのまなざしに織り込まれている――そういうものだと思います。  ☆ この場合は ですから この《上からのまなざし》に対抗するまなざしを身につけることが さしあたっての道です。でもそれは アマテラス語方言の――無謬性を前提とした――二枚舌現象の内実を知れば ただちに出来るわざです。  あとは むしろ応援の文章だと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ある意味、社会からの贈り物とでも称すべき呼称(=病名)に対し、ひとつにはその症例からの回復に対して、生態としての本質性を与えたとしても、ことに贈り主が社会である場合には、その本質は実に虚ろなものでしかない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《たとえ呼称を 社会一般性と見紛うほどまでに 与えられているとしても その実態は無きに等しい》とまで言いたい気持ちです。  仮説は 得意ですから さらにすっ飛びましょう。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ人は このまぼろしをそのままなぞとしてこころにしまっておいた。  ヨセ人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろうと踏んだ。  《まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言にも 本音と建前 あるいは 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言とその二枚舌現象なのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとは これを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことが出来なくなった。  それだけのことではないのか? 道はおのづから明らかになるであろうし 開けるのではないだろうか?  ri_rong さん どぢゃ?

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.11

おはようございます。ブロジェンヌさん昨日は大きく本題とずれてしまいました。ごめんなさい。本題に戻りたいと思います。 アスペルガーは病気ではなく特徴です。マイノリティーの特徴なのです。ただ、医療の方面ではそのレッテルを張ることをためらう向きがあることも事実です。ただの特徴に一つのレッテルをはって逆に閉鎖的に働いてしまうことを危惧するためです。医療もさまざまですからすべてを好意的にばかり受け入れても良くないかもしれませんが、生きづらさの理由づけとして、その気づきに役立つことも確かです。 ただあまりまだ理解が進んでいないため、そんな人間はただのわがまま人間じゃないかとか、ルールを守らせることで社会に加わるように訓練させればいいとかさまざまな混乱を招いているのも事実です。 アニーサリバン先生がヘレンケラーの教育で盲目的にルールを守れるようになっただけでは満足できずに、人間として思考することで本当の尊厳をとりもどせるのだというくだりがありましたね。 わたしがきぐるみさんに言いたかったことはこういうことなのです。 私の経験からの話になって申し訳ないのですが、このような人格形成は自我というものの芽生えが社会性や言語よりも早いことが原因の一つだと思います。その為、母は母、私は私という孤独感を覚えるのも早い訳です。母親は混乱するわけですし、社会性を身に着けさせようというあせりや、私は母親なのにという子供への同化がまだありますから、ここでボタンの掛け違いが起こるわけです。しかし考えてみれば社会性などというものは原始的な人間の機能ですからほっておいても身につくわけです。早かれ遅かれみんなと遊びたいなっていつかは思うわけです。また孤独感というものは自己確立と関連しますから、とうぜん誰にでもあるわけですし、子供は親の思ったように育たないのはこれまた当然な訳です。こういう風に親子の人間関係がちぐはぐになってしまい、その経験から何らかの人間形成に問題をきたしているとするなら、その部分は後天的ともいえるのかもしれません。 わたしがこういう特徴を持っている為、確かに常に社会に批判的な目を向けていたことも事実ですが、それも、もう少し社会や人間を深く理解したいという渇望からきていることも事実なのです。 懐疑は信用の裏返しですからね。 ですから、でっち上げといえばでっち上げだし、もう少しプラスにとると、とても意味のある定義だと言えると思います。

bragelonne
質問者

補足

 富士山に空高く晴れた日本晴れでしょうか? まだでしょうか?  視点を移して考えます。  アマテラスの人物像として 聖徳太子がいす。  ☆☆ (聖徳太子は ただのくそったれ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 三点あります。  (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。   ▲ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ    (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが  ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて  ☆ については 眉唾物です。お上つまり二階の論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。  ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~~~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔に     《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと雖も止まず》。    とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      《諸国の役民は 郷に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。     溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。      《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに》(万葉集三・426)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首    家にあらば妹が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。  以上の三点より 日本人の現実は こうです。  (1) 決して 議論としてのけんかをしないのではなかった。   (2) お二階さんと一階の市民たちとのあいだには みぞがあった。  (3) 《和》は 後者のスサノヲ市民のほうにこそ ゆたかに息づいていたろう。  ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  ☆ と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。まねをして和をとうとぶと言っても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  どうなんでしょう? 初めから 日本は いぢのわるい国だったのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  聖徳太子は 例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのあと《和を以ってとうとしと為せ》と言ったとしてもねぇ。  アマテラス語方言の典型的な――まったく平気の平左でのたまわりますし 一般市民もこれに何の疑いも持たなくなっています そのような――社会心理的で広範囲に及ぶ二枚舌現象です。  もう一歩《勇み足》のご決断をお待ちしたいと思いますが いかがでしょうか?

回答No.10

心理テストについてですが、 たしかに、その統計性自体は、すぐれているとしか言いようのない面を持っていたりします。 矢田部ギルバート式などは、その代表例でしょうが、 その驚くべき統計性にもかかわらず、 それがイコールその結果として導かれる答えが深い内容であるわけではない、 という点をしっかり考えられている心理学者の方がどれだけいるだろうか?と考えると心もとない感じがします。 昔、もう二十数年前になのですが、 なんとそのテストの意義をめぐって論争がつづいていて、ほぼ拮抗した人数の賛成派と反対派に分かれて論議が続いているという事を聞いたことがあります。 テスト自体への賛成も反対もないだろうと思うところ、 このテスト賛成派というのは、たしかに曲者で、  まさに(一言で言うなら)レッテルを貼りたがる人たち(先生たち)だったのです。 表立って 精神疾患について先天的だと言うような心理学者は少ないかと思いますが、  おそらくそういう浅い考えの心理学者たちのグループにくくれる人かと思いますが、   なんと、 そんなふうな偏見を植え付けることに終始している本を書いているのを見たことがあります。 内容は 表ざたの批判はしたくないという私の方針から、明らかに出来ませんが、 そんな人やそんな人たちがいることは確かでしょう。 当時 その事を知ったのは、 精神疾患の中でも酷い神経症の人と接することがあったからなのですが、  一方でとても良心的な専門家もいて その酷い神経症の場合ですら 病気と考えてはいけないとう 論理を詳しく解説している本も見ました。 こうして、昔から 心理学やその歴史的な根元となっているのだろう精神分析の世界には批判的な心理学者の方がたも大勢おられたかと思います。 が、 ウィキの アスペルガー症候群の説明を見て、 十年ぐらい前から言われるようになったとも聞き、  たしかに、これこそ、 心理テスト賛成派(ほんとうはこんなに簡単に書けないところでしょうが、 ここでははしょって書いてます)や浅い学習の仕方、浅い見方の心理学者たちから生まれてしまった概念だなと、 その流れを つい、いろいろ推理してしまいました。  (実際のことは詳しく知りません) アメリカの心理学者たちのある大きなグループは、その心理テストの統計性と権威性から、それを体制のため政治のために悪用したことがあるとのこと、 まさに、これこそbragelonneさんの危惧されるところかと思います。 ほんとうは 専門家の方がたこそ そのへんをもっとしっかりして欲しいところです。 アスペルガー症候群(たしかに症候群というのもおかしな表現ですし)というのは、 ウィキを読んでいて思ったのですが、  それがおおよその説明であるとしても、 明らかに考えが浅い捕らえかたとなっていると思います。 例えば、 友だちが出来ないで悩んでいる人は、大勢いると思いますし、その苦悩は大きかったりするでしょう。  そんな時にとても有効な方法は、 「友だちが欲しいと思う気持が強すぎると友だちは出来ないよ。その考えはすてたほうがいいよ。 自分もそれを求めなくなったら友だちが自然に増えてきたよ。」という説明だったりします。     あなたの心は病気ですよ。とうのとは、逆な方法です。 そのような悩みがあるからと言って アスペルガーの症状であるわけではないわけですが、  症候群という一般的な名で呼ばれ始めると、 たしかに、アースじゃないですが^^伝染病であるかのように、 多くの人がそうでない人に対してまで 孤独で悩んでいる人をそのレッテルで 思いこむこととなります。 そして 「思い込み」というのは、 とくに家族や あるいは集団的な思い込みというのは、 その個人に強い影響を与えてしまうのです。 二枚舌というのは、 私たちの演技性の悪い面を語ってもいるかとおもいますが、 それを理解できない子ども達というのは その悪い面を知らない純粋な場合もあるでしょうし、悪い面を見たくない気持が強い場合もあるでしょうし、 あるいは それはいい演技の世界への過渡期としてそこにその心理課程となっている状態なのかもしれません。 あくまでも、 相手のための柔らかい言葉としての二枚舌という嘘の世界も、それ自体深い人格の人とは言えないでしょう。 その“人間としての演技修行”の世界は、まだまだです^^。 そんなのを理解できなくたって まして子どもがまだ理解できなくたって問題があるとは思えません。 仮に問題が多少あったとしても、 多くの方法で治せる世界です。 さまざまな遊び さまざまな興味、さまざまな触れ合い、さまざまな趣味をおおらかに友だちどうしで楽しめる環境がそこにあるだけでも そんなのはすぐ治っていく問題です。 知恵ある大人なら さらに そのへんをこそ深めるための思考がさまざまに働くでしょう。 なら、まして、 当然、病気のレッテルなどを、貼ってはいけないところです。 アメリカの大きなそのグループの流れは日本にも大きく流れているとも聞きます。 ならば、アスペルガー症候群という《病名》が生まれた裏には その匂いがしてしまう、あるいはそういう推理が働いてしまうというのも当然の事と思います。 わたしは、逆に 個人的なことではなくて、 アメリカの体制とか国家権力とかいうことが因である場合は はっきりとその悪を指摘もしますが、 もし そうならば これは今までの資本主義のせいだ、というふうにも言えるでしょう。 しかしながら、 そこには 権力のそれこそ二枚舌(嘘、や騙しの世界)が巧妙にかくされていたりしたとしても、 私の場合は、 それをも 太陽によってその服を脱がすとういイソップ式の方針でその悪に挑むでしょう。 嘘や 騙しは 見抜かなければなりません。 でも、それだけでは、自分も同じむじなとなる可能性があります。 善への真心の世界を しっかりと掴んでおかないと、その見抜きは骨抜きとなってしまうのです。 真逆に、 骨太なその「見抜き」の世界からは、 本物のそれこそ本物の太陽政策が行えるのです。 現在の朝鮮の 北への太陽政策は、 民族統一の美名裏では植民地政策と言えてしまうところがあります。  そのまま平等の民主主義の国どうしであることを望むなら 朝鮮全体がアフリカ以下の経済力となると言われていますが、それを太陽政策を行っている朝鮮の政治家さんたちが知らないわけがないからです。  つまり この太陽という言葉は、まさに二枚舌であるわけですが、 それを 本気で肯定している人たちは大勢います。 さて ここにてなのですが、ではどっちが アスペルガーか? ということを問題にすべきところなのでしょうか? 北朝鮮の場合 嘘つきの「おおかみが来た」と叫ぶ少年を地でいっているがごとき 嘘を繰り返しているわけですが、 これを私は イソップの言うその子供だというふうにレッテルを貼ったりはしません。 いや、北朝鮮の問題は ここでは置いておきましょう。 が、おなじ、ほんとうの政策は、アメリカにも太陽を送ることで 過去のアメリカ資本主義の服を、そして 知らずにもそれを信じている心理学体系(例えばマズローの欲求7段階説ですら、そのあたりで、 深くは矛盾しています)の服や、 あきらかな二枚舌とい意識的な悪どいグループの服をも脱がせる唯一の方法だと思っているということです。 懐柔策やごますりや、おだて、ではないです。 私は ここでは、その論議を推し進めるつもりはないですが、 あくまで、 その太陽の具体的な知恵の積み重ねこそ、骨太改革のすべてと思ってます。 私が 心理学で、問題にしているのは、 上記の「まごころ」がどうして生まれるのか その因果をまだ明らかにしていないことが明らかだからです。  推理ですがはっきりと、これははっきりと推理できるところなのです。 そこがはっきりしなければ、 二枚舌をどんなに批判しても 二枚舌は私たちの未来からなくなったりはしないでしょう。 情報化時代には、庶民も その知識や知恵のすべてを語ることができます。 ですので、このことには、私自身も責任を感じています。 が、その「まごころ」の存在さへ、しっかりと捕まえることができたなら、 アメリカの心理操作や  朝鮮半島の民族を利用した二枚舌政策も おそらく小さなグループのレジスタンスの力でですら、無くしてゆく事ができる土台を得たことになると私は考えています。 ところで、 また 文章の話となってしまいますが、 bragelonneさんの文は 個性とかはあってもいいのですし、文体とはそれが一定していれば読みやすいからこそ必要なものであり 読みやすければくずしてもいいとさへ言える面があり、 それはそれで一定し手入ればそのへんこそが個性でもあるわけですが、  誤解されやすい形となっていることには注意が必要かと思います。 例えば、よく読めば たしかに 《すべての精神疾患》にたいして、 社会的な洗脳の裏心を疑っているわけではなくて、あくまで 《すべての精神疾患》は、後天的であるとの主張を言われているだけのはずのくだりも、 そちらの文の流れで読んでいるうちに ふと、とか つい、という形ではあっても《すべての精神疾患は、アマテラスの策略である》というふうに読めてきてしまったりします。 それは 読む人の錯覚でしょ ですましてしまったら 交通がなりたたないほど、 そのへんの錯覚しがちな感じは   錯覚画のような感じすら受けてしまいます。 私は人の文は 詳しく読む方の人間だと思っているのですが、 なんとかそのへんの表現のあたりを変えることはできないでしょうか? 哲学であるからには、《すべての精神疾患についても》 このへん検討したいという意気込みが裏に流れているから、(また、 裏ではわたしもそう考えているから)、 ということもあるのでしょうけれども …。 このQ&Aの枠の中では おそらくそれは無理かと思うのです。 あるいは そうとうの時間と覚悟が必要となるかと思います。 無学な私では どこまでついてゆけるかどうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  哲学であるからには、《すべての精神疾患についても》 このへん検討したいという意気込みが裏に流れているから、(また、 裏ではわたしもそう考えているから)、 ということもあるのでしょうけれども …。  このQ&Aの枠の中では おそらくそれは無理かと思うのです。 あるいは そうとうの時間と覚悟が必要となるかと思います。  私では どこまでついてゆけるかどうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 残念ですと言いますか すでに前回で方針がわたしとは違っていたようですので 仕方無いと思います。

bragelonne
質問者

補足

 1. 蚊論争でみづからの見解を明らかにすべき。  2. 可能無限は ほんとうの――非経験としての――無限ではない。経験世界に属すものです。  3. 《武力行使が道徳的にも正当化される場合がある》とオバマが言ったそうです。(只今の情報)  4. (1)(2)もあいまいなままであり 以前から進歩していない。《無学》は聞き飽きた。  5. 《心理テスト》などどうでもよい。初めにこういう症状を実証しようという前提と意図があるからには 勝手にやってろと言うほかない。  6. 神経症など心理の障害は たとえ精神の大海にとって上っ面で嵐が吹きまくるだけだと言っても それだけの問題を持つ。休養が必要の場合もある。ただしそれだけである。  7. ★ 《そして 「思い込み」というのは、〔* ――精神にとってやはり上っ面の現象に過ぎませんが――〕 とくに家族や あるいは集団的な思い込みというのは、 その個人に〔* も集団全体にも〕強い影響を与えてしまうのです》。    8. ★ 《“人間としての演技修行”の世界》――☆ 特に《人生演技説》というのもあるようですが これについては わたしは くそくらえと言ってやる立ち場です。  9. ★ 《さまざまな遊び さまざまな興味、さまざまな触れ合い、さまざまな趣味をおおらかに友だちどうしで楽しめる環境がそこにあるだけでも そんなのはすぐ治っていく問題です》。――☆ よくもこんな安易な言い方をなしえたもんだなぁと思います。  10. ★ 《しかしながら、 そこには 権力のそれこそ二枚舌(嘘、や騙しの世界)が巧妙にかくされていたりしたとしても、 / 私の場合は、 それをも 太陽によってその服を脱がすとういイソップ式の方針でその悪に挑むでしょう》。――☆ さよか。  11. ★ 《善への真心の世界を しっかりと掴んでおかないと》――☆ よくもこんな歯の浮いた言い方ができるもんですね。  12. ★ 《さて ここにてなのですが、ではどっちが アスペルガーか? ということを問題にすべきところなのでしょうか?》――☆ たしかにわたしも そのように読める表現をしてしまっていますが あくまで焦点は 《起源》を突き留めることです。全体の説明から分かるはずです。対症療法には ここで関心を寄せません。  13. ★ 《私が 心理学で、問題にしているのは、 上記の「まごころ」がどうして生まれるのか その因果をまだ明らかにしていないことが明らかだからです。  推理ですがはっきりと、これははっきりと推理できるところなのです》。――☆ 勝手にやってください。  14. ★ 《錯覚画のような感じすら受けてしまいます》。――☆ 意味が読み取れません。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.9

こんにちは。 すみません。ちょっと浅いかもしれませんが、文化的価値観の相違という見解にしかなりません。そこに偏見(つまり優位と劣位の存在)があるかないか、もしくはどこまで歩み寄れるかの問題のような気がします。社会との関わりの中での漠とした生きづらさ、の理由づけとしてもよいでしょうし、ただの変人としてもいいわけで、何でもいいわけです。 何故、議題の決まっていない世間話がうまくできないのだろう。 空気を読むとはどういうことか今だ分からないし実践もできないのは何故。 理論的な理由がなくて行動できる人、つまり直感で行動できる人が不思議。 これらの何故を解決する理由づけ、また子供の頃の経験からの理由づけとしての最初の一歩としかとらえていません。そして客観的視点においてはそれらが苦手な人がいるという知識とそれらの人の長所の認識することにより社会でどう生かすかというこれからの問題の提起だと思うのです。そんなぐらいで良いと思うのです。アインシュタインとか特別な人ばかりでは無く、ある特徴をもった人たちという理解でいいのではと思います。それがひいては多様化の文化につながり、経済成長のヒントとなるという風に考えていますが。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  今回は 読み取りにくい内容だと受け取ります。  そもそもこの質問は――くみ取っていただけたかどうか 分かりませんが―― いまの心理学や精神分析に対して 真っ向から批判をする内容として問うています。  1. 精神疾患のすべてが 社会心理的な影響を受けて――それが 元凶となって――起こるという仮説を立てています。  2. すべて後天的な特徴を帯びるようになっているだけである。仮りに遺伝子にそういう《障害》因子がみつかったとしても それは 後天的に帯びた特徴からつくられて出来たものだという仮説です。  ☆ ですから この仮説がちゃんちゃらおかしいというご見解であれば そう言ってもらえばいいわけです。わたしは いまの精神医学が これを障害だと診ることのほうが ちゃんちゃらおかしいと思っているということです。  ★ 文化的価値観の相違という見解にしかなりません。  ☆ 分かりました。となります。  ただそのあとに説明がつづいています。この部分は どうも飲み込めないのですが どうなっていましょうか?  ★ そして客観的視点においてはそれらが苦手な人がいるという知識とそれらの人の長所の認識することにより社会でどう生かすかというこれからの問題の提起だと思うのです。そんなぐらいで良いと思うのです。  ☆ この部分でしたら 上の《見解の相違》というお答えになると思います。ともかくわたしの質問は はじめに述べましたとおり まったく新たな仮説をあつかうものなのですから。  ★ 空気を読む  ☆ これは――ほかの項目は別として これだけは―― 必ずしも健常な生活態度であるとは限らないと言わねばならないのではないでしょうか? ただ空気を読むというのであれば 関東軍もインパール作戦も ぜんぶ ずるずるとその成り行きに任せるということになると考えますが どうでしょう? 但し書きが必要でしょうね。  ★ これらの何故を解決する理由づけ、また子供の頃の経験からの理由づけとしての最初の一歩としかとらえていません。  ☆ つまり――少しは分かって来ましたので つけ加えますが―― わたしはこの見解に対して 《症候群》というふうに捉える見方は 周り回って経済効率をはかろうとする社会の政治権力の側からのでっちあげだという見解を持ちますが いかがでしょうか。という こういう質問です。

noname#117439
noname#117439
回答No.8

オコリザルです A7の前文で理解できなかったであるうか所の修正です。 >または刷り込み(洗脳)による自発性の発揮で、子供ながらに自らを認めていけない。 または刷り込み(洗脳)による自発性の発揮で、子供ながらに自らを認めて歩む事が出来ない。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます。  その自発性は 自分のものではないということですね。夢遊病者のごとく 動かされているだけだという。  まぁ そういう事情というのは いつでも何かのきっかけによって ただちに気づくものですけれど。きっかけがないと むつかしいのかも分かりません。

noname#117439
noname#117439
回答No.7

オコリザルです。 心理学的見解に終始します。 >☆ 別に《まねをする》のではないと思いますが そして論理の整合性をとうとんでいるだけだと思うのですが 病人にしたがる人びともいるのかも知れません。 ただし自発的学習のできた方はそのような見解をもつでしょうが、刷り込みで、学習する目的を誤解したなら、たとえば、アインシュタインみたいにならなければ認めてもらえない、または刷り込み(洗脳)による自発性の発揮で、子供ながらに自らを認めていけない、との規定をしてしまったとしたらいかがでしょう。 そのような場合には、天才の業績を理解すると病人になってしまうと言う事になるのでしょう。これはあくまでも軟弱者の言い分です。そういうわけで、自発的にまねをしたから失敗した。そういう病気です。 刷り込みですから後天的な現象です。 人格から意思が表れる限りではアマテラスさんは自発的に責任をとるでしょう。アマテラスさんが自発的に健全性を回復する努力をするならばスサノオさんはそれを理解して疑いが残ったとしても反乱までせずに協力姿勢を示すべきです。それならば和解の糸口もつかめるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 アマアガリ症候群より派生する社会心理の現象について  その基本的な感染の過程を推定します。  1. アマテラス語方言現象=アマテラス語体験:     もっぱらの公民(要するに 公務員)との対話において ほぼ絶対的な無力感を味わうこと。権威および権力の強さも然ることながら その使用することば・すなわちアマテラス語という方言によって 確実にひとはうちのめされる。  ことば自体は通じるのであり だからその内容はともかくのこととしてとなるのだが 最終的に言おうとしていることは わたし(=アマテラス公民)の言うことに従いなさいという意味であり それ以外にない。  2. この無力感をひとはその配偶者に その日常の振る舞いや感覚そのもので 伝える。つまりおよそ自然に(非人為的に)その無力感は 伝わる。  3. 配偶者は その日常振る舞いをとおして その子に 無力感の思いを伝えることになる。  ○ 《冷蔵庫マザー》や《母原病》といったことが言われた。  (ヰキぺ:冷蔵庫・・・)=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E8%94%B5%E5%BA%AB%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%BC  (同:母原病):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E5%8E%9F%E7%97%85  4. そのあと――あくまでそのあと―― 神経細胞に或る種の特異な形状があらわれる。ことはありうる。  遺伝子にまでかかわるのではないかと言う向きが出てくる。  この乱暴な仮説を検討・検証したいと考えます。  すべての精神疾患は でっちあげである。これが 標語です。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ★ 刷り込みで、学習する目的を誤解したなら、たとえば、アインシュタインみたいにならなければ認めてもらえない、または刷り込み(洗脳)による自発性の発揮で、子供ながらに自らを認めていけない、との規定をしてしまったとしたらいかがでしょう。  ☆ ですから この刷り込み(洗脳)が 元凶であるのではないかという問いかけです。刷り込みは 人間社会においては 避けることの出来ないことなのでしょうか?  ★ 刷り込み(洗脳)による自発性の発揮で、子供ながらに自らを認めていけない、との規定をしてしまった  ☆ これはどういうことなのか よく分かりませんでした。つぎも むつかしいです。  ★ そのような場合には、天才の業績を理解すると病人になってしまうと言う事になるのでしょう。これはあくまでも軟弱者の言い分です。そういうわけで、自発的にまねをしたから失敗した。そういう病気です。  ☆ 一方で《アインシュタインみたいにならなければ認めてもらえない》とされ 他方で《天才の業績を理解すると病人になってしまう》というのは 解せません。  仮りにこうだとして――つまり《病人になってしまう》のは 仮りにみづから《自発性を発揮し しかも自らを認めてはいけない》という行動の結果だとして―― その病気の規定は 刷り込む側がおこなうのでしょう? なんでそんなことをしていいのですか? いったい何を考えて生きているのですか?  ★ 人格から意思が表れる限りではアマテラスさんは自発的に責任をとるでしょう。  ☆ いますぐただちにそうすべきです。  ★ アマテラスさんが自発的に健全性を回復する努力をするならばスサノオさんはそれを理解して疑いが残ったとしても反乱までせずに協力姿勢を示すべきです。それならば和解の糸口もつかめるでしょう。  ☆ 第一代スサノヲは 反逆児でしたが その後の世代は おとなしいものです。《くにゆづり》をしたからです。  つまり 相手のアマテラスの側は 話が分からない・頭からおれの言うことに従えと言い続けていただけです。しまいにだだをこね始め土下座までし出したので スサノヲ側は根気負けして お二階を用意しその神だなにまつるというようなかたちで・つまりそこに鎮座ましましていただくかたちで生きて行ってくださいと 道をゆづったのです。千五百年 そのまま続いています。  もともと お山の大将でないと生きて行けないというアマアガリ症候群があったのです。この症候群がはびこって スサノヲ市民のあいだに感染したというに過ぎません。この二階建ての家――国の家と言いますね――の構造が どうもふるくさいものとなっている。それとアスペルガーをはじめとしてあらゆる精神疾患とがつながっている。こういう問いかけです。  スサノヲ市民のあいだには 昔のくにゆづりのことを忘れてしまった人びとがいるでしょうけれど 《協力姿勢を示すべきです》と言ったって 神棚に祀り上げたことがいけなかったと反省することだけです。かれらの為すべきことは。同じ人間として どこまでも まじわっていくべきだったという反省です。自由かつ対等なる人間交通の原則。

noname#117439
noname#117439
回答No.6

オコリザルです。 WIKIを読んで考えたのですが、個人に固有の能力を逸脱して天才のまねをするとアスペルガーと言う形で心身にストレスがかかると言うだけで才能を発揮できた人そのものは別に病人じゃないんじゃないですか。 それから子供に多いと言う事については大人になるための訓練だけが学習であると言うような刷り込みを与えられると子どもの自発性は委縮しますから自閉症気味にもなるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 個人に固有の能力を逸脱して天才のまねをすると  ☆ 別に《まねをする》のではないと思いますが そして論理の整合性をとうとんでいるだけだと思うのですが 病人にしたがる人びともいるのかも知れません。  ★ 心身にストレスがかかる  ☆ のは もし病人にされたとすれば そのあとのことだと思います。  ★ 自閉症気味  ☆ という事態に注目することができるのではないでしょうか。何かそれ以上問い質したり問い求めたりする意欲が削がれるという交通事故があったと考えなければならないと思うのです。  何でも先天的に決まっていると考えるのは どうなんでしょうかねぇ。わたしは 後天的に獲得した特徴であるのではないかと考えます。それも 弱い立ち場にいた《アース役》の本人には まだその症状が出ずに その本人の配偶者あるいは子に感染していくのではないか。このようにも推測しています。  むろんその元は まなざしを上からそそぐ側のアマテラス語二枚舌現象であるのではないか。こうにらんでいます。  アマテラス語は 人格語でもあるのですが スサノヲ語が 自由な人間語であるのと対照的に 硬直した道徳規範や人格模範をかたちづくりがちになります。その規範かつ模範という建て前に対して 本音が隔たっていくようになりがちです。二重基準・二枚舌というわけです。  しかも お上には逆らえないという通念がなおはたらいているなら その建て前は 絶対的であり無謬性を帯びます。みづからも 自分はあやまちを犯すなどということはありえないと気をつけているし 思っているのでしょう。  神聖にして侵すべからずというという模範像が かつては ありました。そういう社会関係が影響しているのではないか。という推測です。

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