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新田義貞の鎌倉攻めの自然状況

新田義貞が鎌倉に攻め込んだとき、伝説的には稲村ガ崎を渡って進入したと言うことらしいですが、そういうことができると言う根拠はあるのでしょうか? やはり、鎌倉は、天然の要害であり、陸方面からは切通しを通るしかなく防御が万全である。ゆえにそれ以外のルートをと言うことになって、海からと言うことになったのだと思うのですが、これは真実味があるのでしょうか?しかも夜襲ですよね。 これができるためには、月明かりがあることや、干潮であること、あるいは当時の地形の状況、そういったものが検証されるべきだと思うのです。記録による日時と、現在の天文学を駆使して当時の月齢、干満の状態を調べることは可能なのでしょうか?また、当時世界的寒冷期だったと聞いていますので、海岸線は多少後退していたことも考えられます。 そういった、事前条件的な考証と言うのはなされているのでしょうか?

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  • Pinhole-09
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回答No.5

No.1です。   本を読むといろいろありますね。 義貞の攻撃前に干潟を通った攻撃があります。 5月18日大干潮の日と思われますが、稲村ケ崎方面担当の、大館宗氏が一部の兵300ばかり率い、干潟を通り由比ヶ浜の奇襲を敢行しました。 しかし干潮に備え、波打ち際に逆茂木(さかもぎ)をして守りを固めていた北条軍に敗れ、大敗し宗氏は討ち死にしました。 義貞はこれを聞き、大軍で干潟を渡ることにして、21日(当日の干潮は天文学者の小川清彦氏は午前4時15分と推定)深夜強い浜風(海から吹きつける)に苦しみながら、大干潮ではない中を強行しました。   難渋の反面、逆に油断していた、北条軍はやすやすと侵攻を許し、敗北することになりました。 その後現在まで数度の大地震に見舞われ、地形も変わり現在の状態から当時を想像するのは困難といわれます。 当時は小氷期で海岸線は今より後退していたようです。 今より徒渉が楽だったかも知れません。   もっとも多人数が渡るのは大変ですが。    時間が掛り末尾の徒歩兵のなかには、潮が満ちてきて足を取られ、水死したものもあるとも聞きましたが。 

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  • isaa535
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回答No.6

下記のサイトかなり詳しく調べた様です。 http://www.ashikagatakauji.jp/taiheiki/nanboku2.html 稲村ヶ崎は徒歩で渡れた 太平記や梅松論などによると、新田義貞は鎌倉攻撃に際して、 天然の要害になっている 鎌倉を攻めあぐね、海神に祈ったら海の潮が引いて、 稲村ヶ崎をまわって鎌倉突入に成功したとあります。 何度か足を運びましたが、現在の稲村ヶ崎は切り立った岩場が そのまま海中に深く潜り込んでいる様子で、とても引き潮であろう と徒歩で回り込めるような場所ではありません。 ただ『太平記』では稲村ヶ崎を「沙頭路狭きに」と表現しています。 「沙頭(しゃとう)」つまり砂浜の事です。「路狭きに」つまり、狭いとはいえ、 満ち潮でも渡れる逆木を並べた道があり、その道の防衛には海上船団が 当たっていたとあるのです。 これは当時の稲村ヶ崎が遠浅だった事を意味しますので、 現在の姿だけで判断することは危険ですね。 稲村ヶ崎は奇襲作戦ではなかった 新田義貞の稲村ヶ崎のお話の続きです。 稲村ヶ崎を経由して鎌倉市中に殺到した新田義貞の話は太平記中の 名場面のひとつとして有名ではありますが、太平記では、あたかも 新田義貞の考えた奇襲作戦でもあるかのような表現ですが、実際には奇襲と言えたでしょうか。 それによると作戦は5月21日の夜に行われたとあります。 なお『歴史群像シリーズ』(学研)の『戦乱南北朝』には、「天文学者の計算によると、 元弘三年五月二十二日午前二時五十八分が稲村ヶ崎の干潮だった。」とありますが、 短絡的に「なるほどね」と言えないところがあります。それは次の理由によります。 実際の鎌倉攻防戦は5月18日ころから始まっていますが『梅松論』によれば、 このときすでに新田軍は稲村ヶ崎を突破して前浜の在家にあったとあります。 つまり稲村ヶ崎は、さほど強固な防衛線では無かった事になります。 実際には主力軍が稲村ヶ崎を越えたのが21日の夜半で、幕府滅亡が翌日ですから、 たしかに大軍勢が通過したのは21日なのでしょうが、その先鋒はすでに 鎌倉を包囲した初日の時点で稲村ヶ崎を確保していたということになり、 海神に祈る新田義貞がそこにいたとするなら、「大将、なにを今頃大げさな」と言われてしまいそうです。 また『岡見正雄校注太平記(二)』によると、その他由良文書、塙文書、熊谷文書、 天野文書、石川文書、大塚文書などには、それぞれ17日以降21日前までに 稲村ヶ崎の内側で戦闘が行われていた様子が書かれているそうです。 そうなると戦端は稲村ヶ崎より先で開かれたことになり、稲村ヶ崎をいかにして 突破するかなどという問題は元々存在せず、その作戦も奇襲とは言いがたいものだったことになります。

garcon2001
質問者

お礼

これは、大変参考になるご考察、ありがとうございます。 地形はこれだけ時間がたつとずいぶん変わりますから、今のでは判断できないところがあるのでしょう。こういう伝記というのは、往々にして、事実をよりドラマチックに脚色して定着すると言うものですから、実際は奇襲と言うよりも正攻法に近い状況だったのでしょうね。攻めるにはそこしかないとすれば、とうぜんそのような攻め方を取るものですし。

  • jkpawapuro
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回答No.4

現地人からすると、人の往来くらいなら干潮なら余裕でできそうですよ。 小荷駄隊が通れるかとか、部隊として隊列組んで移動できるかとかとなると難しいですが、最高の条件がそろえばかのうじゃないかなあ? 浜なんて100年あれば何mも増えたり減ったりしますので、現在の地形からではなんとも言えませんがね。

garcon2001
質問者

お礼

日本の地形と言うのは地震国のためにしょっちゅう変わりますからね。今の状況からではなんともいえないのでしょう。ただ、史実が示すとおり、そこは通行可能であったはずです。

  • isaa535
  • ベストアンサー率56% (31/55)
回答No.3

単に引き潮を待ち渡ったのではないでしょうか。 待ったと言っても地元の漁師にあらかじめ時間を聞き、味方の兵に 竜神が味方に付いていると心理的に思わせるために引き潮の前に 太刀を竜神に奉納する芝居をして引き潮の時間帯に渡ったのではないでしょうか? 私は海のある町に住んでいませんが、海水浴と潮干狩りに千葉の富津(千葉の内側で東京湾) と九十九里(千葉の外側で太平洋)に何度か行きました。 2ヶ所共に引き潮では海が数十メートル引いていました。 浜の終わりは岬だと思いますが、浜だけ海が引き数10メートル離れた岬の前の海が引かないなど ありえないと思います。 引き潮時、稲村ガ崎は確実に海が引いて海面が下がっていて鎌倉攻めの当時船を使わずに渡れたのでしょう。 下記はwikiの新田義貞よりの引用です。 検証は大分昔ですが過去に行われた様です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E 鎌倉攻撃の際に、大仏貞直の守る極楽寺切通しの守りが固く、 さらに海岸は北条方の船団が固めていたが、義貞が稲村ヶ崎で 黄金造りの太刀を海に投じ竜神に祈願すると、潮が引いて干潟が 現れて強行突破が可能になったという話が『太平記』などに見られ、 文部省唱歌にも唄われた。 なお、『太平記』では、この日を元弘3年5月21日としているが、 1915年に小川清彦がこの日前後の稲村ヶ崎における潮汐を 計算したところ、同日は干潮でなく、実際には幕府軍が新田軍が 稲村ヶ崎を渡れないと見て油断したところを義貞が海水を冒して 稲村ヶ崎を渡ったとする見解を出した。 これに対して、1993年になって石井進が小川の計算記録と 当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び 鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、 『太平記』が日付を誤って記しているとする見解を発表している。[3]

garcon2001
質問者

お礼

>待ったと言っても地元の漁師にあらかじめ時間を聞き、味方の兵に 竜神が味方に付いていると心理的に思わせるために引き潮の前に 太刀を竜神に奉納する芝居をして引き潮の時間帯に渡ったのではないでしょうか? これ、非常にありえそうですよね。こういう願掛け的な演出は大将クラスがよくやりますよね。頼朝やら。 やはり、自然条件を利用してわたったはずだと思われますね。こういうことは、油断させるとかいうことよりも、まず舞台が安全に移動できるかと言う現実を優先するものです。

  • kimari14
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回答No.2

海上保安庁の(潮汐推算)というサービスあり。 過去にさかのぼって、特定の海湾の潮流と潮位(満潮干潮)を時間ごとに調べれるものと人からきいたことがあります。 三河尾張国境紛争戦(通称桶狭間戦)を調べたとき、なぜ今川方が丸根鷲津両砦の攻撃を大高の浜の満潮時を選んで攻撃したか。信長公記にありますように、砦の守将の佐久間から清洲の信長への救援の要請の中に、満潮になるときが攻撃の時だからといっています。大高の浜が満潮になりますと信長の熱田の浜からの背後挟撃の後詰救援はできなくなるからです。本当に18日は満潮であったのかということで、このサービスを使おうとおもっていましたら、知人に先を越されました。一度見てください。

  • Pinhole-09
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回答No.1

大干潮の時は稲村ケ崎の海上を、由比ヶ浜から徒渉出来るとの漁師の話から、実証を試みた歴史家がいました。 大森金五郎氏で明治35年8月4日午前9時40分、由比ヶ浜の崎の崖から約40m離れた海中を、竿で水深を測る漁師を案内人に、小舟を後に歩きました。    水は大抵膝下でせいぜい股下までという事でした。 義貞の渡渉は夜襲でなく朝と思いますが。 幕末には120m離れた浅瀬まで、大干潮の時は子供でも歩いて渡れたといいます。

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