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カントの道徳基準の義務論がよくわかりません

義務論を解り易く言えば、自分が行為したい事が、だれが、いつ、どこで、なぜ、いかに行為しても文句なしと自分が意欲出来る行為ならそれを道徳規則とし、その規則に従う事、である。ここで気を付ける事は、あくまで自分が意欲出来るから規則とする事、あくまで規則だから行為する事、規則を作る場合「~の場合」を付ける様な例外条項にせず、いかなる場合でも指令される事が妥当とする事である。 ~~~~~~~~~~~~~~ これって自分がやられて嫌なことは人にするなってこと??

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noname#135843
noname#135843
回答No.1

 こんばんは、はじめまして、Hidocchiと申します。  お役に立てればと思い、筆を取らせていただきました。    まず、倫理学におきましては、大きくわけまして、以下の2種類になろうかと思われます。因みに、カントは後者の方でございます。 ・「目的論」:規範を守らなければならないのは、ある目的(たとえばみんなが幸福になるため、みんなの利益のため)のためである、とする考え方で、功利主義に代表される。 ・「義務論」:規範を守らなければならないのは、それが義務だから、とする考え方で、その理論づけを与えているのがカントの倫理学。  カントは、人間である以上誰もが従う義務のある《究極のルール》(=「道徳法則」)を、この信念(=ポリシー)が従うべきルール、すなわち「自分なりのルール」についてのルールとして見出しました。  なお、自分のみの主観的なルールを“格率”と命名しました。この“格率”が「普遍性」を持つ必要があると考えた訳です。  平たく申しますと、「ある行動を行う前に、その行動によって表現される自分のポリシー(=“格率”)が、他のあらゆる人間のポリシー(=「普遍性」)となって成立するかどうか自問自答し、もし成立するならば行うべきだし、そうでないのならば行うべきでない」というわけです。  一方、以下の事項は「道徳法則」とは認めませんでした。 1. 道徳的行為の動機は、(「好き」「嫌い」とか「自分の利益」とか)感性的なものであってはならないとしました。 2. 他の目的の手段であってはならない。道徳的行為が目的となるようなものでなければならないと戒めました。 3. 「もし幸福になりたいと思うなら(条件付き)~しなさい」という道徳律を、“仮言的命令”として退けました。  そこで、ご質問内容でございますが、 「自分がやられて嫌なことは人にするな」とは、確かに、カントの「道徳法則」に適合しますが、「道徳法則」=「自分がやられて嫌なことは人にするな」は成立しないかと考えられます。あくまで、これは「道徳法則」の一例でございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  なお、次のご質問でございますが、http://okwave.jp/qa5472224.html   確かに、お金をほしくない人は“少数”でありますが、存在します。ですが、これは<<すべての>>ひとが採用できる”という条件と矛盾すると考えられます(<<すべての>> ≠ “少数”)。  また何かございましたら、ご返信くださいませ。  お役に立てれてば幸いでございます。

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