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官僚の天下りと徳川幕府

徳川幕府の歴史を読んでいますが、どうも大名同士の談合や、奉行同士のなれいや、やらせなど、今日の政治と何も変わらない(いや、今日の日本社会は、江戸時代のままなのではないか)と思うようになりました。 そうすると、今日、霞が関が江戸幕府とすれば、市町村や民間企業は、その他の大名、旗本になります。 当時も、それなりに厳しい監視がなされていたでしょう。忍者や、公儀隠密など。 しかし、今日の特殊法人や建設会社など、監視だけでは不十分で人間を派遣し、管理しています。これを出向とか天下りとかいいます。 そうすると、徳川幕府においても、天下りや出向という形で、様々な役人が地方の大名・旗本に送り込まれ、様々な形で幕府の影響力を行使したのではないかと思います。 歴史上の記録ではどうなっていますか。 また、当然、今日もそうですが、こういった、「やばい」資料は歴史的に葬られますので、文書としては残っていないと思われます。 このあたりどう思われますか。個人的意見でも結構です。 教えてください。

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回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>これを出向とか天下りとかいいます。 まず、回答から先に述べますと、 「天下り」はありませんが、「出向」はありました。 将軍の娘を嫁にもらうと、江戸に「御守殿」という建物を建設させられ、幕府からは、御付きの女中が一緒に移り住み、さらには、「御住居掛り」と呼ばれる役人が派遣され(出向させられ)御殿の事務の一切を取り仕切る慣わしとなっていました。 (よもやま話) (1)竹姫(浄岸院)を紹介します。 竹姫は、宝永2年(1705)2月19日、公家の清閑寺熙定の娘として生まれました。 公家との結びつきを重んじた将軍家は、5代将軍綱吉の時に「養女」として、千代田城北の丸へ迎えました。 (なお、江戸時代「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民は、ただ単に「お城」と呼んでいました)。 (2)宝永5年(1708)7月に会津藩主松平正容の嫡子久千代(正邦)と婚約するも、12月久千代が死亡。 (3)宝永7年(1710)、有栖川宮正仁親王と婚約し結納まで済ます。しかし、享保元年(1716)、輿入れ直前に親王は没する。 8代将軍吉宗が正室を亡くした時、竹姫を継室に、と望んだか、血のつながりは無くとも、形式上は「大叔母」に当たるため断念。 (4)そこで、外様大名ではあるが、琉球などとの取引で割合裕福な藩と思われていたことから、白羽の矢が立ったのが薩摩藩の第22代島津継豊。(薩摩藩主としては第5代)。 しかし、薩摩藩の財政事情は実際には「火の車状態」。 そこへもってきて、将軍家の姫をもらうということには、それ相応の支度などもしなければならなかったので、「災難」以外の何物でもなかった。 (5)先にも述べた通りですが、江戸に藩邸とは別に「御守殿」の建設をしなければならなかった。また、姫だけではなく、大奥からお付の女中たちもやってくる。さらには、幕府からは「御住居掛り」と呼ばれる役人が来て、御殿での事務の一切を取り仕切る慣わし。 (6)そして、島津継豊は2年前に正室を亡くしてはいるが、「益之助(後の宗信)」という嫡男がいたため、竹姫が、もし、男子でも出産すると、益之助派と竹姫側との「お家騒動」にもなりかねない。 薩摩藩邸では、色々、口実をつけて断ったが、将軍家より、もし、竹姫に男子が生まれても益之助がいるかぎり、世継とはしない。という「確約」を取り付け、ついに「承諾」。 (7)将軍家からは、特別に「持参金」代わりとして芝に6,890坪という広大な土地が与えられ、さらには、従四位上中将を朝廷に働きかけて授与。また、玉川上水の流れを芝の屋敷内に通すことも許可。 (8)竹姫は、その後、女子を産んだが、幸い?なことに男子には恵まれず、「お家騒動」への発展はなかった。 晩年は、継豊の嫡子宗信(益之助改め)をよく支え、宗信が22歳で亡くなると、宗信の異母弟重年(久門改め)を援け、さらには、重年が亡くなると重豪(しげひで)を養育し、島津家を盛り立てました。 安永元年(1772)12月28日死亡。浄岸院。

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回答No.1

幕府の組織ですが、将軍家の直属の配下を旗本、御家人といいます。まあ、旗本は確かにキャリアといえるかもしれません。しかし、いわゆる幕政を行っていたのは、譜代の有力大名のなかから選ばれた老中の合議制です。将軍親政はほとんどありませんし、その将軍すら直系は三代家光までで、その後は紀州藩と尾張藩から、それに吉宗以降はその血筋の御三卿からでています。十五代の慶喜は水戸ですが、御三卿のひとつの一橋家をついで将軍になったのです。 各藩は地方自治体というよりは、独立国にちかく、さらに藩の内情に関しては、江戸初期の取りつぶしの多発もあり、非常な秘密主義でしたので、他家ましてや幕府からの出向を受け入れることは考えられません。 ただし、主替えの場合はあったでしょう。忠君思想が徹底していましたので、主君には絶対ですから。実際には、世継ぎなき家は断絶ですから、婿とりと言う形であちこちの大名家や家臣たちの養子として人は動いてはいますが、出向というような現代的なものはなかったと思います。 内情偵察という意味あいだけならば、将軍家の娘たちを大名家に嫁がせるというのは、近いかも。嫁についていく多くの取り巻き女性は、ある意味でスパイ以外のなにものでもなかったでしょう。

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