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小説が読めない。
現在、大学で「海外の文学作品を読む」という授業を受けています。 その授業はゼミ形式でクラスで討論するのですが、私はいつも全く的外れな意見しか言えなくて困っています。 その作品を何度読んで授業に臨むのですが、いつも上手くいきません。 小・中・高の入試国語や授業のように設問や先生の説明があれば、それに沿って答えられるのですが、自分一人で読んで理解することが出来ないようです。 「この場面のこういう部分から私はこう思った。」とか「この○○は~~の象徴だ。」とか書き出してみるのですが、それが何の裏付けも無い自分一人の思い込みになってしまっている気がします。 どうにかして論理的に読めるようになりたいと思っています。どなたかアドバイスお願いします。
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俺も読めませんでした。 映画も、見れませんでした。 その世界に引き込まれるというのはありましたが、分かるか分かる、みたいな、共感というようなものが無かったのです。 しかし、なぜか最近、それを作った作者の気持ち、背景というものに、触れれているような気がします。 それは、人の心に、触れることと、同じなのだと、思います。 小説と付き合うとは、人と付き合うことと非常に似たものではないかと思います。本の中に、作者が住んでいるわけではないのですが、その彼の内面を吐露した、 雨のように降る、数々のパーソナリティが、読んでいる私の心に、ぽたぽたと、落ち、波紋を広げてゆくのです。 だから、小説や彫刻など人の創作物に限らずとも、芸術に接するというのは、自分の心を、どれだけ空けれているか、その心に、どれだけの天候を許容できるか、そのような、見る人の心の状態にこそ、むしろ関わっているのであり、その芸術が、あなたの心に生きているか、あなたの中に息づいているか、そういうことが大事なのだと思います。 心が広ければ広いほど、それが澄めば澄むほど、芸術と親しくなれると思います。いろんな天気が起こりえるからです。 小説を論理的に読むとは、小説を読むことで、あなたに起こった感応、あなたの心象、心模様を、論理的に、説明的に表現することに他ならないのであり、それはもはや、あなたの、一つの芸術表現になっているのです。 なぜなら、その心に起こる様々な変化は、あなたのパーソナリティとして、あなたの心に現れた芸術によって、または、あなたの心が、その芸術に奪われたり、共鳴することで、起こっているからです。 芸術表現の大敵は、こうでなければならない、ああでなければならない、などとという、不自由をさそうような考え方だと、思っています。
私の周りにいる小説を読まない(読めない)人はどちらかと言えば理屈っぽい人です。小説を素直に感性で読まず、理屈をつけながら、時に作者に反発、反論しながら読むので面白くないのだと思います。 ゼミでのやり取りが具体的には分からないので、これ以上申し上げる事はありません。人の意見を気にせずあなたの感じた事を発表し、徐々に表現方法を磨けばよくなると思いますよ。ありきたりのことをしたり顔でいう人より、ユニークな考えを持つ人大歓迎ですけどね、私が教授なら。
>「この場面のこういう部分から私はこう思った。」とか「この○○は~~の象徴だ。」とか書き出してみるのですが、それが何の裏付けも無い自分一人の思い込みになってしまっている気がします。 という tantan123 さんの疑問はあながち的外れというわけではなく、 実は、このように作品からなにがしかの意味を読みとっていくという手法は、 今日ではずいぶん手垢のついたものとなっているように思います。 ゼミという形式や、「文学作品を読む」なんていうタイトルから 割とご年配の教授クラスの先生ではないかと勝手に想像してしまうのですが、 いかがでしょうか? それでもそうしたいわば使い古された(わぁ、言っちゃった!)手法で研究なさるのでしたら、 アドバイスとしては「何度も読む」ということしかありません。 何度も読むというのは苦痛をともなう行為になり、 一見無駄が多いように思えますが 実は得るところは大きいのです。 何度も呼んでいくうちに、何か引っかかる表現がちらほらとあるはずです。 感動したとか、理知にあふれてるとかいうのではなく、 ん!と思うような言葉なり言い回しを見つけていくのです。 この引っかかりは、何も理由なくひっかっかったわけではなく、 引っかかるにはそれなりの理由があり、 作者もまたそれをねらって書いているのですから、 よく読んでみる価値はあります。 他の書評や論文を漁ることも大切ではありますが、 何度も読むという下地がなければ 仰るとおりあまり意味を成さないと思います。 もちろん短い大学生活でいったい何度読めるのかという疑問はあるでしょうし、 その一冊ばかり読んでいるわけにもいかないでしょうが、 私は、大学生活の中でたった一冊を確かに「読んだ」と言え、 他の作品は分からないけれど、この一冊なら俺に聞いてくれといえるようになれば、 それは立派な文学だと思います。 そういうところからはじめられてはいかがでしょうか。
No.1です。 (海外)文学作品を論理的に読むという表現は珍しいですね。小説は作者が主人公とその時代背景を通じてある種の自己主張をしていると思いませんか。まず先入観なく読むことが先決だと思います。 その結果、第一に面白いか、楽しめたかが問われるでしょう。次に設定された時代背景の中で作者は何を訴えているのか。最語に小説の技法(文体、表現方法など)で見るべきものがあれば、同じ作者の他の作品或いは別の作者の同じような技法と比較してみる。 >感心させるだけなら、書評や解説に書いてあることを分かったふりをして言えばすむと思います。 それでは誰も感心しないでしょう。すぐばれます。自分の意見がないからです。何を感じ取ったか、何故そう感じたかを表現するための練習に書評や解説を読むことを薦めたのです。素直に読みきって自分なりの感性で受け止めた事を書く。書くために他人の文章、まとめ方を参考にするという意味です。天才は別として普通の人は、そのような訓練を経なければ標準以上の文章(表現)は書けないと思います。
- myu_to
- ベストアンサー率47% (29/61)
こんばんは。 私は趣味で海外文学を結構読みますが、その「作品そ のもの」以外にも「作者の評伝」や「作品の書かれた 時代の風俗・文化」についての本もかなり読みます。 その作品が生まれた時代背景や、作者の人となり等を 知ってから読むと楽しさ倍増なので。 tantan123さんも、既にそういうものも読んでおられる かも知れませんが、その辺りの知識を仕入れてから作 品を読めば、そんなにズレた読み方にはならないので はないかなあ?と思います。 でも、tantan123さん自身の感じ方は、それはそれで 大事にされたらいいんじゃないかと思いますが…。
補足
ご回答ありがとうございます。 やっぱり作者の生い立ちや時代背景は切り離せないものなんですよね。 そういった資料も探してみたのですが、新人の作家さんのためか、あまり見付からなかったんです。 今の自分の知識じゃ、あまりにもお粗末過ぎて。。。 やっぱり私の知識不足が原因なのかなぁ。 どうもありがとうございました。 また何かあったらお願いします。
映画化(ビデオ化)された小説を読むというのは、 どうでしょうか。 まず、小説を読んでから映像を見て、自分の読み方 を確認してみては。
補足
ご回答ありがとうございます。 映画というのも一つの手ですよね。 ただ今回、課題になっている本は残念ながら(?)映像化されてないんです。。。 映画化された作品を見るというのは、その監督が、この作品をどう読んだかを知るということですよね。 だとすると、やっぱり他の人がどう読んだかを、出来るだけ多く知ることが大事なのかなぁ。 そのためのゼミなんだろうなぁ。 どうもありがとうございました。
- HAL2010
- ベストアンサー率24% (37/150)
受験国語になれてしまうと違う読み方をするというのは、大変なことなのかもしれませんね。 個人的には、課題となる作品に限らず、自分が興味を持てる(持てそうな)本を大量に読むことで、おのずと自分の文章に対する視野が広がると考えています。 同じ本を何度も…という考え方もわかる気がするのですが… あと、自分で文章(小説)を書いてみるのもいいかもしれません。表現方法を自分で模索できれば、他人の書いた文章の意図も、見えてくるかもしれません。 結論としては、考えるのではなく、楽しむことが第一だと思います。
補足
ご回答ありがとうございます。 仰るとおり、私の読書量が足りないんだと思います。 たくさんの知識を得て、さらに精読することが大切なんですね。 今までに、もっと本を読んでおけば良かったと今さらながら後悔してます。 自分で文章を書くというのもありなんですね。 でも、私には、厳しいかも。。。 >考えるのではなく、楽しむことが第一 それが一番大事ですよね。 でも、それで卒論とか書けるかな。 私の読みが浅いのかも。 どうもありがとうございました。
先生や仲間を感心させるような意見をいうのは一朝一夕には出来ないでしょう。まずその本の巻末の解説や一般の書評を数多く読んで形からはいる練習を心がけるべきでしょう。そして、徐々にオリジナルな意見の割合を増やしていけば恥ずかしくない討論が出来ると思います。
補足
ご回答ありがとうございます。 もちろん解説も、きちんと読みました。 その作品に関する書評もあまり数は無かったのですが、探して見付かったものは読みました。 「解説や書評を読む」というのは、「他の人は、この作品をどう読んだか」を知るということですよね。それは、つまり受験国語で言えば設問者の読みを知るということだと思うのですが。それが、無いから困っているのです。 最後に誤解の無いように言っておきたいのですが、私が望んでいるのは「先生や仲間を感心させるような意見を言う」ことではなく、「自分の力で作品を読む」ことです。 感心させるだけなら、書評や解説に書いてあることを分かったふりをして言えばすむと思います。 質問の仕方が悪かったようで、すみませんでした。 皆さんが普段どのように小説を読んでいるのかを教えて頂けたら嬉しいです。
補足
再度、ご回答ありがとうございます。 私の質問の仕方が悪かったようで、申し訳ありません。 >作者が主人公とその時代背景を通じてある種の自己主張をしている martinbuhoさんの仰るとおりだと思います。 それが読み取れなくて困っています。 あるいは自分では、これだと思っても、それが的外れになってしまうんです。友達は「感じ方は人それぞれだから」と言うのですが、感想文なら、それでも構わないけれど、論文あるいは討論というなら、また違ってくると思うのです。 個人の娯楽としての読書も授業で大勢でする読書も同じなのかなぁ。 >何を感じ取ったか、何故そう感じたかを表現するための練習に書評や解説を読むことを薦めたのです 私の勘違いでしたね。ごめんなさい。 誰かの意見を鵜呑みにしろってことではなく、文章の組み立て方や考え方を学べってアドバイスだったんですね。 それは確かに必要かも。私の文章ひどいもの(^^;) 前回の補足の文も、改めて読み返したら、すごい嫌な奴みたいで恥ずかしいです。 お気を悪くされたなら謝ります。 よろしかったら、またアドバイスお願いします。