• ベストアンサー

「存在」について

crazykingの回答

回答No.3

私は質問を読んだ後、直感でデカルトの「我思う、故に我あり」の哲学がお求めになっていらっしゃる回答になり得るのではないかと思ったのですが。 どうでしょう。 ちなみに、以下の文章がわかりやすいと思ったので参考まで。

参考URL:
http://www6.plala.or.jp/swansong/000300wareomou.html
dpdr4
質問者

お礼

デカルトの方法序説も積読状態でした。やっと読むための精神状態になったんですね。いやはや、真実の追求の旅に出ます。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 学問としての哲学の存在意義は何ですか?

    哲学の目的は真理を追究することにあると思います。 哲学の研究対象の主なものは世界であり、それがどうなっているかです。 しかし、得られた結論が真理なのか人間には判断できないということは明らかと思います。 (無数の無矛盾の世界モデルが存在可能です) だとすると哲学のやろうとしているのは原理的にわからないものを求める徒労なのでしょうか? あるいは最もありうる世界モデルを提唱することなのでしょうか? そしてその世界モデルが興味深いものであればよしとするのでしょうか? 学問としての哲学の存在意義を教えてください。

  • 「存在」とは何か?定義してみて下さい。

    前に一度質問したと思うのですが 哲学において大きな位置を占める「存在」と言うもの これは何でしょう?「存在」を定義してみてください。 これが人それぞれバラバラで、認識が一致しないなら 哲学は何をなすことができるでしょうか いま哲学の役割は大きくなって来ていると思います 宗教も信じない人も多く、理系と文系の間を埋める哲学がなければ 科学技術も問題を起こしかねません(原発とか)(倫理の問題とか) 「存在」とは何でしょう? どうかよろしくお願いします。

  • 『存在と時間』、“世界=内=存在”について。

     ちくま学芸文庫版、『存在と時間』上巻、142pについて質問があります。  『現存在自身において、現存在自身にとって、この存在構成はつもすでにある仕方で知られている。ところがそれを認識しようとすると、あたかもこのような課題のなかで表立ってくる認識が、自分自身をー世界についての認識としてー「心」の世界への関係の範例にすることになる。それゆえに、世界の認識や、あるいは「世界」を呼び「世界」について語る言説が、世界=内=存在の原義的な様態としての役割をひきうけるようになり、世界=内=存在そのものは理解されなくなる。』  とありますが、「心」の、世界への関係の範例となってしまう認識とは具体的にはどのようなものでしょうか?また、そのような“認識”は「世界=内=存在」といった認識とどのように違うのでしょうか?  ご回答お待ちしております。    

  • 私が認知していないものは存在しているのでしょうか?

    私が認知していないものは存在しているのでしょうか? 私が認知していないもの(実際に見たことがないもの)は存在していると言えるのでしょうか。例えば私は海外渡航経験がないのでハワイに住んでいる人やそこにある物、そもそもハワイの島自体も実際に見たことがないわけで、TV等で見て、「確かにあるらしい」というだけで、実際に存在しているかどうかは自分が確かめない限りわからないですよね?もしかしたら自分の認識している世界だけがこの世界なのではとも思ってしまいます。 最近、ふと浮かんだ疑問なんですが、これは哲学と言えるんでしょうか。。。 わからないですが、皆さんのご意見お待ちしております。

  • 存在(者)とは何か?存在論を打ち上げてください。

    哲学の世界は様々な哲学があって それぞれで存在(者)の定義も違うのではないでしょうか? あなたは存在とは何だと思いますか? 無のような内容のないものでしょうか。それとも存在が全てであって存在しないものはない? あなたは存在(者)とは一体何だと思いますか。簡潔に教えて頂けませんか? よろしくお願いします?

  • 「絶対的価値は存在しない」の考えの理論について

    勝手にこんな理論を考えてみました、少し神学的です。 まず人間が愚かだとするならば、その原因はそんな「愚かな人間」を作ってしまった、もしくはそんな「愚かな人間」が生まれる世界を作ってしまった、神様が愚かだということになります。 同じように、「神様」に「愚かな人間をつくる」という行為をさせ、結果「神様」を愚かにした「神様」の{神様}が愚かだということになります。 このように考えると、どんどん無限に「愚かなのは神様の神様の神様の・・・・・・・・・・・・・・・・神様だ」となり、愚かなのは最も上の神様ということになります。 しかし、無限の考えでは「最後」や「最大」などの考え方がないように、「最も上」という考えもできないので、結果その「最も上の神様」は存在しないことになり、愚かな人間、もしくは神様という存在は一切存在しないということになります。 よって「愚かな存在」は存在しないことになります。 しかし、ここで「愚か」を「素晴らしい」にしても、まったく同じことが起きます。つまり、「素晴らしい存在は存在しない」ということになります。ほかの「〇〇な存在」としても同じです。 結果、(哲学的な)絶対的価値は存在しないことになります。 こんな内容です。またこの後、考察として自分の中では「絶対的な価値観が存在しないのだから、「自分に価値観に自信を持ち、そして他の価値観も認めるべきだ」ということを考えました。

  • なぜ世界は存在するのでしょうか

    私は小さいころから世界が存在すること自体が不可解かつ恐ろしくて仕方ありません。「神が作った」といえばそれまでです。しかし、そうなるとその神の「存在」そのものがなぜ存在するかを説明できません。 仏教では無記と言って、問うことが妥当ではない疑問、回答不可能な問題としているようです。けれども、そう言われたからと言って、この疑問が私の頭から止むわけではありません。 なぜ世界は存在するのでしょうか。この問いが寝入り際など、心が隙を見せる時に突然蘇り、私を先の見えない不安へと駆り立てるのです。(どうもこのような心理状態を離人症というようです。) 世界の存在の理由について皆さんのお考えや、哲学者、宗教者の考えをお聞かせください。よろしくお願いします。

  • 存在と認識

    大学で哲学の授業を取っています。 「存在」と「認識」の問題がよく取り上げられているのですが、 私は哲学が専門ではないため、 いまいち理解が出来ません。 専門用語で話されるので、より一層です。 なので、哲学が専門ではない私でも分かるような言葉で 「存在」と「認識」の問題について 教えてもらえないでしょうか。 よろしくお願いします。

  • 信仰無き世界は存在するか?

    政治カテに投稿するつもりだったのですが、質問を突き詰めていった結果非常に観念的なものになったので、哲学カテで質問させていただきます。 人間は誰しも形而上的な世界、いうなればイデア界を持っていると僕は考えます。 例えば、国家。 日本列島にいる一億人の人間が偶然にも共通の「日本」像を持っているが故に、かろうじて日本が存在している。 例えば、貨幣。 人間の「信用」で価値が成立することはまさに貨幣のイデアがある証拠かなと。 政治も宗教も経済も人間があるべき世界、あってほしい世界を心に秘めているからこそ、共同体が生まれたり、逆に対立が生まれたりする。 何かしらの「信仰」をもって生きるということは、古今東西の人間にとって不変の真理のように僕は思います。 しかし人それぞれに「信仰」の違いがあるわけで、違いがあるときに喧嘩になり悲しみが生まれる。 ならばそんな「信仰」は無いほうが幸福かなと。 で、本題なのですが、 理想を追い求める気持ち(=信仰)が存在しない人間社会はありうるのでしょうか。 また、そんな世界には人間が存在できるのでしょうか。 若干言葉足らずですが、学生の無知ゆえにご勘弁を。。。

  • 哲学は進歩していないのですか?

    このコーナーを読んでいて思ったのですが、かなり古代の哲学者の名前が頻繁にでてきます。ソクラテスだとかプラトンだとか。 自然科学の研究だとそれはありえない。確かに、古い時代の人の名前が出てくることもありますが、それはまれで、その古代の人が書いた書物を研究のために真剣に読むことはないでしょう。いつでも、その時最新の研究論文を研究者は読みます。そして論文ではやはり1~2年遅れてしまうために、学会発表に参加して論文になる前の情報を必死でつかもうとします。最新の情報がいつでも重要です。 そうして考えると哲学という学問にはあまり進歩がないのでしょうか?人間というものがそんなに変わるものじゃないからだという答えはありえるかと思います。確かに、文学だったらそれは納得です。むしろ古典のほうが人間の忘却というフィルターを乗り越えて存在しているため価値があるといいます。文学作品はまず、その著者が死んで評価が固まらないと駄目だという人さえいます。 はたして、哲学は文学のような存在だと考えればいいのでしょうか?そして忘却のフィルターを通過した学者が偉大ということになるのでしょうか?