• ベストアンサー

幼児に“死”を教えること

命あるものはいつか皆、死を迎えますよね。 大人になれば誰もが知っていることですが 我が子ら(4才と1才)はまだそのことを知りません。 ・子どもに「命あるものはいつか死ぬ」と教えてもよいのでしょうか。それとも自然に任せるべきでしょうか。 ・お子さんが「もうすでにそのことを知っている」方、お子さんはどういう経緯でそれを知ったのでしょう。  また、そのことに対するお子さんの反応、考えをお聞かせ下さい。 ・あなた自身は「いつか死ぬ」そのことをいつ、どういう風に知りましたか。 ・そしてそれをどう受け止めましたか? ・最後に、“死”自体をいつ、どういう風にお子さんに教えましたか?(教えたいですか?) 死んだ後のことは付け加えたかどうかもお聞かせ下さい。 ご意見、体験談、お待ちしております。 ************* 経緯についてはここに書くと二つに分けなければいけなくなってしまったので 反則かな…とは思いますが補足欄に書かせていただきます。 面倒臭い方は読まずに答えて下さって構いませんのでよろしくお願いします。 (回答をいただければ…の話ですが;)

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  • ベストアンサー
  • azzaro
  • ベストアンサー率17% (416/2361)
回答No.8

先日、子どもが可愛がっていた金魚が2匹死んでしまいました。 すごく元気だったのに、突然横になって沈み数日後動かなくなってしまいました。(塩水浴させたり、薬浴させたりは主人がやりました、子ども達は時々覗きに行ってました) 主人と上の子(5歳)で近所の墓地にある花の咲く木の下に埋めてきたそうです。(団地に住んでるのでそのへんに埋められない) 最初の1匹の時は「動かない、恐い」と言ってましたが、2匹目のときは「あんなに元気だったのに何で?」と寂しそうに言い「もう金魚は飼わない、さつき(猫)がいるからいい」と泣きそうな顔で言ってました。 現在、空の水槽が目に付くところにおいてありますが、下の子が時々「きんちゃん(金魚の名前)いなーい」と言ってます。 「死」=「いなくなる」「動かなくなる」程度には認識してると思います。 上の子は三歳の時に「タイタニック」の沈没シーンで「船から落ちたら終わりなの?」とゲームのようなことを言ってましたが、今回のことで少し「死」と言うものがわかったのではないかと思います。 ちなみに私がやるゲームで主人公が倒されてしまうと「死ぬ」ではなく力尽きてひざをつくだけなので、「諦めない」を選ぶと力がみなぎって復活します。倒れても「死んだの?」っていつの間にか聞かなくなりました。 ただ、死んでしまうキャラについては一応説明してます。土に埋めて墓標を立てたり、消えてしまうシーンなどで説明するのは大変ですが…(人間以外の種族も出てきますからね~ファンタジーだし) 毎年母の帰省に同行するので、お盆の「お迎え・送り」には子どもも参加させます。花やお茶を持たせます。 お墓につくと、石のないお墓もありますので、踏まないように注意したり下には骨が埋まってることなども一応説明します。 補足読みましたが、うちの子はまだ自分が死ぬことに関しては何も考えていないようです。人間の死をまだ身近に感じていないからだと思います。 上の子の友達はおじいちゃんが亡くなった時(当時5歳)、葬儀場で「おじいちゃんが!!」と泣き叫び、しばらく夜うなされていたそうです。 今でも「死」と言う言葉には敏感で、幼稚園で他の子が悪気なくだす「死んじゃえ~」にも心を痛めてるようです。

MAFUYU
質問者

お礼

けれど、だからといって自ら『いつか来る死』について話した方が…というのは 飛躍していて早急すぎる考えだったな、と みなさんのおかげで思うことができました。 まだ理解が難しい時期にそれを話すというのは、とても不自然で それこそ混乱を招いてしまいますね。 たとえ早すぎる時期でも“死”に出会ったりなどして起こる不安との葛藤は 何者にも語られない、自分自身の目で見た、肌で感じた そこからの自然な感情なわけですから… いつかはそれを自分なりに消化して、受け止めていくのだと 子どもは親が思っている程弱くないのだと信じたいです。 お子さんのお友達も、今自分の中にある胸の痛みを少しずつ、 消化し受け止めている最中なのでしょうね。 そんな葛藤をも心の糧にしていってほしいと、それは我が子にも願うことですね…。 ありがとうございました。 ********************************** 今度は補足にも収まりきらず、補足→お礼へと続く形になってしまいました… 申し訳ありません。

MAFUYU
質問者

補足

azzaroさん、ご回答ありがとうございます。 お礼が大変遅くなってしまい、本当に申し訳ありません。 金魚の話、とっても温かいご家庭の雰囲気を感じて 感動してしまいました。 自分の小さい頃や今飼っている金魚が弱った時なども 「あ~弱っているなぁ…」と気にしながらも見ているだけだったので 塩水浴させたり、薬浴させたり…など、 そういう方法もあったのかと驚いてしまいました。 飼っているのに勉強不足だったなぁと反省です。 そして、ご主人が金魚を看病?しているのをお子さんが 時々覗いている様子を思い浮かべると、 そういう親の態度から 小さい命を大切に思う気持ちが生まれるんだろうなぁ…と思いました。 うちにも同じく猫と金魚がいて、金魚がこれまで何匹か死んでいるのですが 金魚が水槽の底に沈んでいるのを見つけて 「あ、死んでる!」と言いはしても、あっさりしたものですから… 「何で死んだのかなぁ…」と考えたりしている様子はあるのですが 猫ちゃんがいるからもう金魚は飼わない…と 泣きそうになったりなんてことは一度もありません。 それもやっぱり私たち親があっさりしているからなのかな… なんて、思ってしまいました。 それでも埋める時は丁重にお墓を作り、それについて色々話をしたので 金魚を埋めた所を通る度、「金魚、もうお空へ行ったかな」と 今でもたまに言います。 小さくても命は命。それに対する親の態度が重要で、 そういう所からなんだな…と改めて感じました。 ゲームのキャラなどの死も丁寧に説明してらっしゃるんですね。 そうか、現代の子はテレビや本からだけでなく、ゲームで感じる“死”もあるんですね~。 ゲームといえば、銃を撃ちまくったりなどしてゲームの中で人を殺しているから、 現実の生に対しても命の大切さが希薄になる…なんてことも言われていたりしていますが… そんな単純なものでもないでしょうにね。 まあ確かに剣でゾンビ(悪者)でもない普通の人間を ばっさばっさと切っていくようなゲームなどは 幼児期には、親がやってるだけだとしても見せたくないものではありますが…(^_^;) その点ファンタジーは、絵本のような優しさがあるような気がするので (あまりやったことがないので想像ですが) そういうものをazzaroさんのようにお子さんとの話の種にするのは なんだかいいなぁと思いました。 お盆の「お迎え・送り」…こういうのも大切ですね。 けれど、こういった風習を全く知らない子ども達も今や珍しくないのでしょうね… そういう点では今より昔の子どもの方が 生活の様々な所で自然と、より身近に“死”を感じていたのかもしれませんね。 お墓での説明も大事なことだなと思いました。 うちもお墓ではいつも小うるさくなってしまうのですが、 小さいながらに分かっているようなんですよね。 今では4才(上の子)が1才(下の子)に注意していたりします。 それから補足欄、読んでいただいてありがとうございました。 >自分が死ぬことに関しては何も考えていないようです。 > それはまだ知らないということなのか 知ってはいても実感として全くないということなのでしょうか… 人間の死をまだ身近に感じていないから…というのは、そうかもしれませんね。 そういえば、私の小さい頃に伯父が亡くなっているのですが 多分4~5才くらいの時だと聞いた記憶があるので 「夜が怖い」と言い出した時期と重なっているかもしれない、と今ふと思いました。 多分数回しか会っていないでしょうが、初めて目の当たりにする人の死というものは やはり大きかったのだろうな、と思います。 …今まで、小さい頃の自分に何があったのだろうと考えていたのですが これでなんだか少し心が軽くなった気がします。 上のお子さんのお友達の話は、とても胸が痛みました。 初めて目の当たりにする“人の死”が、本当に身近な人のものであったりしたら…。 大人でも時には抱えきれなくなってしまうような“悲しみ”を、 幼い子らはどういうふうに受け止めようとするのでしょうか。 >今でも「死」と言う言葉には敏感で、幼稚園で他の子が悪気なくだす「死んじゃえ~」にも心を痛めてるようです。 > そういう様子は見ているものも胸が痛みますね。 “死”に関わらず、早すぎる時期に何かを知ってしまったら、その分無邪気ではいられなくなる… けれどその知ってしまったことにも自分が追いつかない苦しみ。 幼い子はそういう自己分析もできないから、 それが得体のしれない不安や恐怖になってしまう。 私が幼い頃そうであったから、我が子にはそんな苦しみは味わってほしくなかったのだと思います。 ↓

その他の回答 (11)

回答No.12

#2です。 わざわざご丁寧に,長文ありがとうございます。 熱意がとても伝わってきました。私も文章力もなく脱線している話ですが,死生観以上といっても良いくらいに私を決定づけた事ですので,ちょっと脱線して書かかせていただきます。 >絶対視している親の言葉が影響力を持つわけで… >そういうことを考えると、たとえば『地獄があるかないか』というような >一生かかっても正解が分からないような問いかけなど >flower_pinkさんの親御さんのように >はっきりとした答えを示さない方がいい場合もたくさんあるのだと思います。 私の両親は,はっきりとした答えを示さないタイプの人間ではありません。(もし,こんな親なら絶対視しません。) たとえば,私が生まれる方法も非常に上手に話してくれました。どうやって赤ちゃんって生まれるの?って聞かれたらどうします(笑) 私の母は,お父さんから”精子”単語がちょっと違うかも。をもらって私(母)が持っている卵と一緒にして数ヶ月またったら赤ちゃんが・・・という回答でした。 「見せて」っていったら,特別な時だけ交換するから今は無理?みたいな回答だったからだったか??もう思えてませんが,私なりに納得して,今から検証しても一部重要な単語が抜けていたのですが,嘘だけは一切ありませんでした。 そのころは,これだけで,ふーん,そうなんだ。もうおしまいです。多分,小学校3,4年あたりの保健の時間の後に不思議に思って親に聞いたような気がします。 私の親は,知らないことはまず無い(ちなみに,今から考えると二人とも高卒で優秀というわけではありません。)と言わしめるほどに,すべてのことに対して回答を持っていました。そして,すべてのことを知っているこれが大人で,子供を絶対に騙すことはないというのが絶対視するようになった原因だと思います。逆に,それ故,親に依存しすぎになったということが弊害です。 あと,すこし話がずれるのですが,子供の頃に毎回同じ事を言っていたら多分,死ぬまで忘れないと思います。 私の親は,お金が無く大学に行けませんでした。だから,おまえは大学に行けと1ヶ月に2,3回は言われてました。また,名前の意味も何度も言われました。”博”という文字が私の中に入っているのですが,この意味は,博学,博士,博識などのいみだと言われました。知識のすばらしさというのを何度もいわれまいた。 ちなみに,今は大学生です(良いところに行きたく浪人までしたのですが残念ながら。優秀な大学ではないですけど・・・) 私個人の考えなのですが,親子が似るというのは,自分がしたことをそのまま子供に教えるからだと思います。良い癖も,悪い癖もすべて子供は見ています。嘘を平気でつくタイプの人間なら子供も多分そうなります。雑な性格なら多分そんな人になります。もちろん,良いところ全部似るというわけではありませんが,年を重ねるたびにあ,ここ父さんに,ここ,母さんににてる・・・とよく思うことがあります。 帰省した時,リサイクルのため牛乳パックを切ったのですが,1週間後にこのパック誰が切ったか知ってる?と聞かれました。俺じゃん。と答えたらら,以前切ったパックではなく,実は,昨日父が切ったものでした。切り口までよく似てました。恐るべし親子という感じでした。本当に親子というのはよく似てきます。 >子ども自身に考えさせる、または一緒になって考えてみる… 確かに,この方が親を絶対視しなくて良かったかもしれません。個人的な意見ですが,嘘・適当なことを言うのだけはやめてあげて欲しいです。信用するものがなくなります。 以上,ほんの少しでも子育てに参考になれば幸いです。

MAFUYU
質問者

お礼

↓ よ~し、今度はなんだぁ~!明日は何を聞いて来るんだ~? って、楽しみにしているあたり、子どもと一緒に育っていってる気がします。 頼りない親かもしれませんが いつかはflower_pinkさんのご両親のように、尊敬される親になれたらな…そう思います。 >子供の頃に毎回同じ事を言っていたら多分,死ぬまで忘れない… > そうですね。これは躾の上でも言えることですよね。 親子が似るということ… ごみのポイ捨てをする親ならば子どももかまわず捨てるだろうし、 「おはようございます」「ありがとうございます」 自ら挨拶を人に出来ない親ならば、子どもにだけいくら教えたって 説得力がないですよね。 たとえ従ったって、うわべの挨拶しかしない子どもになるかもしれません。 親は反面教師にもなれる…と言いますが ささいな癖やなんかはともかく、 倫理観や大きな部分の価値観などでそうなるとしたら それは子どもに親の否定をさせる、ということで… そんな心に負担をかけさせる方法を期待するような親にはなりたくないですね。 そして、子どもに嘘・適当なことを言うべきではないというのは、 本当にその通りだと思います。 他の回答者の方のお礼でも書いたように、私は『子どもだから』とたかを括ったような扱いは できる限りしたくない、と思っています。 こちらが思っている以上に、子どもはそういうことを敏感に感じ取るものだと思いますから… 要は子どもだから…親子だから…といったって、人間同士なんですよね。 忙しくても他人が話しかけてきたならそう無下にもしないものを、 子どもだから適当にあしらったり…。 自分では気付かなくても、“子どもだから”適当に済ませてしまうことって 結構あると思うのです。 何も四六時中子どもに気を張るということではなくて、 小さくても一人の人間であるという…当たり前の尊重を忘れてはいけない、 そういうことなんですよね。 親はどんな親でも確かに親なんだけれど… 信頼され、尊敬される親になる為には親ヅラしてるだけではダメ!ってことでしょうね。 血の繋がりに甘えないで、安心しないで、人間同士の関係をしっかりと築いた そういう親と子になりたいなと思いました。 とても参考になりました。ありがとうございました。 (またまた長文で補足→お礼欄続きになってしまいました。申し訳ありません…)

MAFUYU
質問者

補足

flower_pinkさん、再度ご回答下さって嬉しかったです。 すぐにでもお礼をしたかったのですが大変遅くなってしまい、本当に申し訳ありません。 flower_pinkさんのご両親のこと、 “はっきりとした答えを示さないタイプの人間”などとは思いませんでしたよ。 “場合によって、はっきりとした答えを示さないという選択も考えることのできる” 方達で、そう思った時はあえてそうできる… そういうご両親なのでは、と思ったのです。 その点自分を振り返ってみると、そういうふうにありたいと願いながらも、 すぐに答えを用意してしまいつつあった…と反省してしまいました。 たとえばブロック遊びなどでも、子どもが「できないよ~」というと すぐやり方を教えてしまったり…。 本当ならば、そういった想像力が生きる遊びなどでは やり方をハナから教えるよりも 時間がかかっても自分で考えて作り出すほうが断然面白いですよね。 そしてある程度自分の世界を作り上げた頃に、 ここをこうすればもっとこうなる、こんなふうにもできる、 と教えてやることで世界がさらに広がるのであって 最初からあれこれ示してやったら 想像力を型にはめてスタートさせてしまうことになると思うのです。 当然いつかはそれを破るでしょうけれど、最初から型のない方が やっぱり自由ですよね。 それは色んなことにも言えるわけで… だから、“答えのないこと”に関しては 真っ白な心に最初から私の言葉で書きこむのではなく、 なるべく自分自身で感じ取ったことを書き込んでいってほしい…そう思うのです。 けれど本やテレビ、色んな所からもたくさん他人の考えが入ってくる世の中ですから それはとても難しいことだと思うのですが…。 けれど取り分け幼い頃の“親の言葉”というのは特別な位置を占めるものだと思うので、 そう考えると配慮が必要かな、と思ったのです。 うまく言えないけれど、教えるにしても たとえて言うなら漫画のようではなく、小説のように教えたい… といったら分かりづらいでしょうか。 もちろん、事実として在ることなんかは別で、 これらは逆に出せる限りの知識をもって教えてやりたいと思っています。 子どもがどうやって生まれるのか…なんてことも、笑ってごまかす親にはなりたくないですね。 もちろん、時期に合わせた言葉、言い様はあると思いますが。 どうして影はついてくるの? どうして夜は来るの? なんでスリッパ履いてるの? なんであの場所工事してるの? なんてことなんかも(^_^;)どんどん、聞かれるもの全て、 納得するまで答えてあげたいと思っています。 flower_pinkさんのご両親もとても努力されたのではないかと思います。 私などは本当に未熟ですから、子どもが育っていくにつれ 親ってなんて知識と知恵が必要なんだろう…と痛感する日々です。 世間知らずで無知な親であることを「若くして親になったから」なんていう言い訳は通用しませんし 言い訳したくないからこそ、勉強の日々です。 若くとも聡明な方はたくさんいらっしゃいますしね。 私って本当にのほほんと、無知を恥とも思わず生きていたんだなぁ…と思います。 答えられないことが多すぎて、子どもに尊敬されている自信なんて も~全くないのですが、 私なりに一生懸命考えたり、調べたりしている姿で、 子どもへの気持ちを感じ取ってくれればいいな…と思っています。 そういえば先日も、OKのステッカーを「これ、どうしたの?」と聞かれて 「お母さん、パソコンでお勉強してるでしょ。(そう説明している;)それで、頑張ってお勉強したからご褒美にもらったの。」 というと、「誰に??パソコンからシールが出てきたの???」 「いや、あのね…え~と、他の人もパソコンを持ってて、みんな同じようにこれを見てて…それで…」 (↑まずはサイトの説明からしようとしている) 「???…何でみんな同じのが見れるの???」 「え~~とそれは……」 …どこからどういうふうに話していいのやら、困ってしまいました``r(^^;) 他にも 「何でテレビのごはんは匂いがしないの?」 「どうしてお月様はついてくるの?」 「どうして磁石はくっつくの?」 答えられないことだらけです… たとえ難しい言葉を使ってなら答えられたとしても、 4才の子どもに分かるように…と考えると、なんとも言い難いことがたくさんあります。 でも、そういうふうに困りながらも 普段は真剣に考えていなかったことを改めて考えたり、忘れていた知識を勉強し直したり、 時には思いも寄らない疑問にハッとさせられたり… そういうことが何とも言えず面白くもあるんですよね。 ↓

noname#10814
noname#10814
回答No.11

非常に難しい事で、深いご質問(補足欄)ですし、皆さんの素晴らしい回答に「うーん・・・」と感慨深く思っています。 私は子どもが居ませんので、自分の体験を元に。 物心付いたときには母方のおじいちゃんとおばあちゃんが既に亡くなっていたこともあり、 両親からは「人が死ぬ」ということはしっかり事実として教えて貰っていた記憶があります。 ですが、MAFUYUさんと同じく・とある年齢(多分、5-6才だったと思います、飼っていた金魚の死をきっかけに) 「死」に対してもの凄い恐怖を覚えたことがありました。 夜中に泣いて起きて、母親に「コワイ!」と訴えた事がありますね。 その際の母の言葉はあまり覚えてないのですが、 「天国でみんな(おじいちゃん・おばあちゃん)で仲良くしてんだよ・大丈夫・・・」とか何とかだったと思います。 私事で恐縮ですが、その後、父を10才で亡くし(病死)、『死』に対し深く教えて貰う(考える)事無く肉親の死を間近に体験してしまったことで、 計らずとも『死』=怖い、というのを飛び越えちゃって 『死』=『哀しい』もの、 とインプットされてしまいました(^_^;)。 それからウン十年経ちまして、亡くなった父親の年齢をまさに追い越さんばかりの年齢になって来て(苦笑) 「死」というものの重み・「生きている」ということの重み、もこの年になってようやく解って来ました。 何だか、とりとめのない回答になっちゃって恐縮ですが・・・要するに、 出来ればお子様達が程良い年齢になられたら、隠すことなく・死と生の重み、みたいな事を子どもに解りやすく、 また子どもと同じ目線に立ってお話しされては如何でしょう? 感受性豊かでお優しいMAFUYUさんなら、絶対大丈夫ですよ、 きっとお子さん達も解ってくれることでしょう。 特にこのような事を教えてゆくことは本当に大事ですし、 大変なことですが頑張って下さいね(^_^)。 長々と失礼しましたm(__)m。

MAFUYU
質問者

お礼

fairysnowさん、ご回答ありがとうございます。 お礼が大変遅くなってしまい本当に申し訳ありません… fairysnowさんも子どもの頃、“死”への恐怖に怯えた時期があったのですね。 お母さまの言葉、とっても優しいですね… やはりこういう慰めが、幼い心にはとっても響きますね。 あるかないか分からないもの(私は信じていますが…“天国”。)を、 その場しのぎの慰めで口にしてもよいのだろうかと変なためらいを感じていたのですが そんなに難しく考えることではなかったですね。 真実は誰にも分からないことだから嘘を教えるわけでもないですし… 自分は、信じているのですから。 もしも、これから先、息子が“死”の不安に苛まれるようなことがあったなら 何を置いてもまずは不安を和らげてやりたいと思いました。 死を恐怖の目でしか見れないうちは、それについて深く考えることも 生に目を向けることも難しいでしょうから…。 >肉親の死を間近に体験してしまったことで、 >計らずとも『死』=怖い、というのを飛び越えちゃって >『死』=『哀しい』もの、 >とインプットされてしまいました > そうですよね… 『恐怖』を感じるのはまだ頭で考えている部分が大きいのかもしれません。 大切な存在を亡くすことを肌身で感じてしまうと、それはもう『哀しみ』の感情の方が大きくて 誰かに語られずとも、頭で考えなくとも、それらを越えて 身に、心に染みて感じ取ってしまうことなのですよね。 だからその哀しみを乗り越えた時、 その心にはきっと、経験していない人よりも深い深い “生と死”を見つめる目があるのだと思います。 生前のお父様と近い年齢になられて… fairysnowさんのお気持ちをお察しするなど、私にはそんな偉そうなことは言えませんので 思っていること、あまりうまく伝えられないのですが… 命がつながっていくってこういうことなんだなぁ…と感じました。 ご自身のお話、思い起こされることもあったでしょう… それでもお話して下さったこと、感謝の思いでいっぱいです。 そして、温かい励ましのお言葉… 本当に嬉しかったです。 とても、勇気づけられました。 ありがとうございました。

  • sinnkyuusi
  • ベストアンサー率19% (639/3298)
回答No.10

3歳の長男には、漠然とながら死について話をしています。 >・子どもに「命あるものはいつか死ぬ」と教えてもよいのでしょうか。それとも自然に任せるべきでしょうか。 ある程度は教えるべきだと思います。 あまり深い内容・残酷な死については自然に任せた方が無難かなぁと考えています。 >・お子さんが「もうすでにそのことを知っている」方、お子さんはどういう経緯でそれを知ったのでしょう。  また、そのことに対するお子さんの反応、考えをお聞かせ下さい。 ディズニー映画なんか観ていると、白雪姫が毒りんごをかじって死んでしまったり(生き返りますが)するシーンがあるもので、息子に「この人、どうしたの?」と聞かれて「死んじゃったんだよ」と答えたのが最初かなぁ・・・。 子供は「ふーん・・・」って言っただけで頭がハテナのようでした。 死を理解していない頃ですから、無理もないです。 >・あなた自身は「いつか死ぬ」そのことをいつ、どういう風に知りましたか。 幼稚園の頃だったと思います。 親戚のおじさんが亡くなり、葬式に連れて行かれました。 『死』を理解していなかったものですから、最後のお別れの時、棺おけから覗いているおじさんの顔を棺おけに引っ付いてジーっと見ていたら、普段はめったに怒らない母親にこっぴどく叱られました。 その時、周囲の人たちの泣き顔や雰囲気から、子供ながら「死ぬっていうのはこういう事なのか」と漠然と死を認識しました。 >・そしてそれをどう受け止めましたか? 何とも思いませんでした。 おじさんの亡骸は青白い顔をしていて、眠っているように見えたからです。 すやすやと気持ち良く寝ているように見えたもので・・・。 >・最後に、“死”自体をいつ、どういう風にお子さんに教えましたか?(教えたいですか?) 死んだ後のことは付け加えたかどうかもお聞かせ下さい。 食事の際、豚肉や牛肉、お魚、果ては野菜類だってみーんな○○くんが大きくなるために死んでいるんだよ・・・と教えています。 まだ幼いですから理解していないとは思いますが、動植物の摂取に伴う死というものは身近に存在している人間の『業』ですから、死生観の初歩には向いているかなぁと。

MAFUYU
質問者

お礼

sinnkyuusiさん、ご回答ありがとうございます。 お礼が大変遅くなってしまい、本当に申し訳ありません。 ある程度は教えるべき… ほんとそうですよね。 程度の問題だよなぁ、と自分自身につっこみながら 改めて質問時のナーバスさ加減が分かりました。 ご回答下さった皆様には申し訳ない思いでいっぱいですが、 こうして間を置いたことでだいぶ冷静に考えられるようになった気がします。 質問時は自然に任せる、ということがなんだか親の責任から逃げているような気がしてしまっていたのですが そういうことではなく、子どもには子どもの『真実との出会い方』があって 親がすべきことはそれをサポートする、これだけなんだと思えるようになりました。 もちろん全ての事がこれに当てはまるわけではないですが。 >息子に「この人、どうしたの?」と聞かれて「死んじゃったんだよ」と答えたのが最初かなぁ・・・。 > これはうちと似ていますね。 確か、テレビで怪獣が倒されたのを見て、 「寝ちゃったの?」と聞いてきたのを「ううん、死んだんだよ」と答えたのが 息子に“死”を教えた最初だった気がします。 反応は同じく、「ふーん・・・」でしたが… sinnkyuusiさんご自身は幼稚園の頃に“死”を認識されたのですね。 すやすやと気持ち良さそうに眠っている… 素直な受け止め方だなぁと思いました。 必要以上に不安や恐怖を感じるものではなく、“死”とは永遠の眠りにつくような安らかなものなのだと… そういう風に感じるのが一番穏やかで、いいですね。 そんな風に“死”を受け止めることができたら…と、大人になっても多くの人が願うのですから…。 私達がたくさんの命をもらって生きているということ… 大事なことだと思ってはいてもそれを話すとお肉など食べなくなってしまうのではないか… なんて思ってしまって先延ばしにしていたのですが 先日、生肉から染み出ている血を見て、「これなに?」と聞かれてしまいました。 恐る恐る、「血だよ」と答えると、えっ!?と言う顔をしましたが 私達が色んなものの命をもらって生きているのだと話すと、 「そっか。」と拍子抜けするほどすんなり受け入れていました。 そういうのも、考えすぎだったんだなぁと…。 子どもは素直ですもんね。事実をすんなり受け入れるのは大人よりよっぽど上手ですね。 ありがとうございました。

  • doonacho
  • ベストアンサー率14% (31/214)
回答No.9

死を知るということは生を知ると言う事でもあると思います。 死んだらどこへ行くとか恐いとか痛いとかいろいろ考えると思いますが、大事なのは限りある時間のなかでどう生きるかと言うことを教えなきゃいけないと思います。 でも子供に得々とお坊さんのような説教をしてもわかるはずないと思うので、なにかきっかけがあったときに少し考えさるくらいでいいんじゃないでしょうか。 それこそ、ペットを飼うのも手だと思います。 大事な者の死というのは心に大きな影響をもたらすと思います。マイナスの方にいかないようにお母さんが手伝うことが必要だと思います。 どうして人を殺してはいけないのか、人はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか。難しいし答えなんてない事かもしれません。子供は子供なりに色々考えると思います。考えさせることが大事だと思います。 こんなんでいいでしょうか。

MAFUYU
質問者

お礼

doonachoさん、ご回答ありがとうございます。 お礼が大変遅くなってしまい、本当に申し訳ありません。 >死を知るということは生を知ると言う事でもある > 本当にそうですね。 死を恐れるからこそ、自分の命を、そして全ての生命を尊ぶ人になってほしい。 そう願います。 けれど生も死も意識としてはまだおぼろげな頃は 生は今当たり前にしていること、死は計り知れない未知のもの… というのが多分子どもにとっての感覚でしょうから、 どうしても未知の“死”の方が強烈で、その恐怖ばかりに囚われて 「それが来るから日々を大切に生きよう」とは思えないのではないかと思うのです。 と言うか、私がそうだったのです…。 夜ごと…時には日中でも、“死”を思い出すたびに泣いておびえる私に母が 「だいじょうぶ、まだまだだよ。まだ長~い時間があるよ。だからそれまでいっぱい楽しく遊ぼうよ。」 と、生に目を向けさせようといつも色々な言葉をかけてくれました。 それでもそれは私の中で全く何の慰めにもならなかったんですね。 「どんなに楽しいことをしたって、いつか死ぬのは変わらない」 と思うと、もうだめでした。 だからそんなふうに息子がなってしまったらどうしよう… そう思ったらあせってしまって…。 なので『生きること』を考えられるようになる前に『死ぬこと』を知ってしまったら… という不安はやっぱりまだありますが、 みなさんのおかげでだいぶラクに考えられるようになりました。 もしもそうなったとしても、それは自然の『出会い』なのかな…と。 親にできることは、子どもがその自然な出会いを受け止められる心を持てるように 日々、生活の中で“生”と“死”を学び、感じられるような 環境作りをしていくことなのかな…と思いました。 大層なことでなくとも それは昔ながらの風習を大切にすることであったり、 花や小さな生き物を慈しむことであったり、 四季折々の変化に心を寄せ、感じることであったり…。 ささやかだけれど、でもとても大切なこと。 それらが溢れた暮らしをさせてやりたい…そう思いました。 >子どもは子どもなりに色々考える… そうですね。 たくさん、色んな事を感じ、考えてほしいです。 ありがとうございました。

  • koma24
  • ベストアンサー率56% (1976/3487)
回答No.7

こんにちは、 私もこどものころすっごく死、というか両親がいあなくなったらどうしよう、弟がいなくなったらどうしよう、って考えてこわくてたまらなかったことが記憶にあります。それは祖父母の死がきっかけだったかなあ。でも、中学生くらいになると全然ありませんでした。 で、すっごいおすすめの絵本があるんですよ。少し前のベストセラー”葉っぱのフレディ”ってしりませんか?これは子供も大人も考えさせられるかわいい絵本です。木の葉の一生を通してかたられる、死について。でも難しい言葉はいっさいなくて、難しいことも全然かいてないんです。著者は哲学者の方なんですが大人でも子供でもそれぞれの感じ方で何かを感じることができるおすすめ本です。

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887470029/ref=pd_bxgy_text_1/250-1203029-8387431#product-details
MAFUYU
質問者

お礼

koma24さん、ご回答ありがとうございます。 お礼が大変遅くなってしまい、本当に申し訳ありません。 koma24さんも“死”が怖かった、ということですが 自分の死ばかりを恐れていた私とはずいぶん違うなぁ…と思いました。 ご両親や弟さんのことを思う気持ちが伝わってくるというか、優しい方なのですね。 けれど親にしてみれば、そちらの方が胸が痛むかもしれません… 「お母さんが死んじゃうのいやだよ~」なんて言われたら、そんなことで小さな胸を痛めているかと思うととても辛いですね。 それに確かに先に死ぬのは親の方ですから… まるで今の小さい我が子を置いていくような錯覚がして ごめんね…なんて心苦しくなってしまいそうです。 koma24さんも中学生くらいになると収まったんですね。 やはり、世界が格段に広がって色んな出来事が起こり 自分の生を考えることで精一杯になってくるからでしょうか。 それとも死への認識が深まって、幼い頃ほど『得体の知れないもの』ではなくなるから…? おすすめの絵本の紹介、ありがとうございます。参考URL拝見させていただきました。 “葉っぱのフレディ”題名は聞いた事があったのですが詳しい内容までは知らず こんな絵本があったのかとあらすじを読んだだけでぐっと込み上げるものがありました。 それで実は早速買ってきたのです(^^)が、 数日前から風邪のせいでのどは痛くないのにほとんど声が出ない状態でして… 手元にあるのに読んで聞かせてあげられないのが悲しいです。 「お母さんと読みたいから」と息子も本を開くのをがまんして楽しみにしているので 私もまだ中を開いていません。 早く読みたいな~。とっても楽しみです♪ 息子と一緒に読んだらこちらに感想を書かせていただきますね。 ありがとうございました。

MAFUYU
質問者

補足

声がようやく戻りまして、先日“葉っぱのフレディ”を息子と一緒に読むことができました。 思ったよりも言葉が多く、挿絵(写真)が少ないのと 言い回しが難しいのとで 正直、息子にわかるかな…と心配したところ やはり読み進めていても集中せず、流して聞いている感じでした。 やっぱり内容がまだ少し早かったかな… そう思いながら後半部分にさしかかったところ、 文章の中に初めて「死ぬ」という言葉が出てきました。 するとその単語に反応したようで、 そこからは真剣に話を聞き始め、一生懸命理解しようとしているようでした。 そうして全て読み終わって、どうだった?と聞くと、 感想は「え~と…え~と、わかんない」でしたが… フレディは最後、どうなったかわかる?と聞いても やはりわかっていないようで、その後はすぐ違う遊びに入ってしまったのですが 最後の方は興味を寄せていたので 雰囲気的にはなんとなく、わかっていたのではないかと思います。 絵ではなく、言葉で読み聞かせるところが幼児には少し難しいかな…というのが正直な感想ですが 作者が哲学者、ということで、そういうところがこの本の良さなんですよね。 穏やかで、優しくて、とらえようによっては希望も感じられる… “生”と“死”、“命の廻り”をこんなふうに感じ取ってほしいです。 今は難しくても、一ヶ月後にはまた違った反応があるかもしれない… 何度も何度も読み聞かせていきたい本だな、と思いました。 あまりいい反応ではないな、と思われたかもしれませんが それはとりあえず現時点での感想ということで、 本当に買ってよかったと思っているんですよ。 長く読み聞かせられる、大切な本になりそうです。 koma24さんに教えていただいたことでこの本に出会えて良かったです。 まさに、必要としていた本でした。 ありがとうございました。

  • sarube
  • ベストアンサー率19% (145/734)
回答No.6

こんにちは!  私も、以前同じような事で悩んでいました。  と言うのも、私自体、子供の頃から死というものが、とても怖くて、自分の脈の音で何度も、飛び起きたりしていました。(汗だくになり、、、)死んだら、どうなるんだろう?って事ばかり考えていましたねー。  子供が2人いますが、長女が、とても感受性が強く、幼稚園の年長の時に、(お母さんは、おばあちゃんになったら、死んでしまうの?)と、毎晩のように、泣いていました。   私も、なんて言えばいいか、本当に苦しみましたが、死んだら、また、今の生活と同じように、お空でみんなで暮らすんだよ。 っていったところ、少し安心したみたいでした。   これから、身近な人の死にも直面するであろう我が子の事を考えると、胸が痛みますが、命って大事なんだよ。って事を教えていきたいです。    子供同士のけんかで、よく、死ね!死ね!などといってる時もありましたが、ちょうど、イラクの戦争の時期だったので、死にたくなくても、死んで行く子供たちの話をしました。  死は永遠のテーマですので、私自信さえよくわからないし、子供に話す時は慎重に話しています。  

MAFUYU
質問者

お礼

sarubeさん、ご回答ありがとうございます。 お礼が大変遅くなり、本当に申し訳ありません。 ご回答を拝見して、ここまで死に対する恐怖を感じていたのって 私だけじゃなかったんだな…と、なんだかほっとしました。 自分のことをどこか異常なのでは?と少し思っていたのかもしれません。 そしてみなさんの回答を拝見するにつれ、子どもの頃に 死に対して恐怖を感じることってそんなに珍しくないんだ…とも思えてきました。(程度の差はありますが) 何かトラウマになる程のショックが原因でそうなるのだと思っていたのですが そういう場合ばかりではなく、知らない世界に出会って行くにつれ起こる心の葛藤というか 言ってみればひとつの成長過程、ということもあるのかなと思いました。 そう考えれば、「夜が怖い」という言葉だけで飛躍して あれこれ考えるのは心配しすぎだったかもしれませんね。 けれどsarubeさんの娘さんのように泣かれたりしたら… 本当に辛いです。 何て言っていいのか…きっと私も苦しむと思います。 >死んだら、また、今の生活と同じように、お空でみんなで暮らすんだよ。 > とっても優しい言葉だなと思いました。 不安や恐怖は…最終的には自分で消化していくしかない問題で、 親はこういう言葉をかけてやるぐらいしかできないのが辛いですが… sarubeさんがおっしゃられるように私も “死”そして“生”について… 少しでも多く、子どもに何か伝えられたらいいなと思います。 イラク戦争の時期にお子さんにそういった話をされたこと…とても大切なことですね。 自分の死に目を向ける…それができれば、そこから他人の死にも目を向けることができる…。 そしてそれらに目を向けた上での“生”を考えることができるようになってほしい、そう思います。 生や死は答えの出ない、誰にも分からない問題ですから永遠のテーマになるでしょうし ある程度成長してからはむしろ大いに考え、悩んでほしいと思っています。 その頃にはお互いの考えは話し合えても、思い悩むことの手助けまではしてやれませんから(必要ないでしょうし) 親が手を差し伸べてやれるのは今だけなんですよね…。 色々考えるより、今は今の大切なこと、子どもが必要としていることをやってあげればいいんですよね。 考えれば当たり前のことなんですけど… なんだか楽になれました。 ありがとうございました。

  • rikaaa
  • ベストアンサー率16% (2/12)
回答No.5

小学生の子供がいます。 うちも子供には、MAFUYUさんと同じようなことを言ってます。 幸い?もともと深く考える子ではないので、「死」について特別なにかを考えたりはしていないようです。 私ですが・・・小学校低学年の頃から中学生になる頃くらいまで、「死」をすごく恐れていました。 きっかけは覚えていませんが、人が死ぬドラマなど見た夜はやはり眠れませんでした。 その頃、ベットからジャンプした時に頭を強くぶつけてしまい、その時に「頭を強く打った後、気持ちが悪くなると死ぬ」という話を思い出し、そうしたら気分的か本当に気持ち悪くなってきて、誰にも話せず「私はもうすぐ死ぬんだ」と思い、ベットに入ってからも怖くて眠れなかったのを今でもハッキリと覚えています。 でも、中学生になり勉強・遊びなどに夢中になり始めた頃には(今、思えばですが)「死」に対する怖さはなくなってきました。 あと、私はよく「子供のメンドー見過ぎ!」と言われます。 いつも子供の質問などに(人から見ればくだらない質問でも)真剣に話をするからです。 「もっと適当でいいんじゃない」とか「あんまり真面目に話しても子供も考えすぎちゃうよ」とか「そーゆう時は(子供が絶対笑わないでね・・・と話した時)笑っちゃえばいいんだよ」とか言われます。 NO.1の方のお礼の中の「うらしまたろう」の話を読んで私と同じことしてるなぁと思いました。 お互いもうちょっと、肩の力をぬいて子供と向き合えたらいいのではないでしょうか? なんか質問と違ってしまったかもしれませんが・・・

MAFUYU
質問者

お礼

またまたお礼に入りきらず、補足欄に書くことになってしまいました… 何回も考え直したのですが、どうしても削れませんでした。 すみません。

MAFUYU
質問者

補足

rikaaaさん、ご回答ありがとうございます。 お礼が大変遅くなってしまい、本当に申し訳ありません。 小学生のお子さんがいらっしゃるんですね。 それくらいになると、“死”への認識はどんな感じなのでしょうね。 命が終わりあるものだということはもうとっくに分かっていますよね、きっと。 rikaaaさんご自身のお話も聞かせて下さって嬉しいです。 rikaaaさんも“死”への恐れに囚われていた時期があったのですね。 今はもうそのことで夜眠れなくなったりすることはないのでしょうか。 私は実は今でも一年に一回くらい、たまらなく怖くなる時があるんです。 眠れないでいるとふとした時に不安が押し寄せてきて… そういう時はもう本当に起きて何かをやるしか紛らわしようがなくて… 大人になってもこれですから…こんな思い、小さな子には本当にさせたくないと思います。 「子供のメンドー見過ぎ!」ですか(笑)でも、 >いつも子供の質問などに(人から見ればくだらない質問でも)真剣に話をする > というrikaaaさんの姿勢、本当に共感しますし、私もずっとそういう親でありたいと思っています。 私自身、子どもの頃…親が自営業で忙しかったので 「今お客さんがいるから後でね」とあしらわれることが多く ずいぶん寂しい思いをしていたんです。 だから余計に子どもにはあんな思いはさせたくないんですね。 もちろん、親も気にしていたようで後で「なんだったの?」と 聞いてきてくれたのですが、子どもにとっては話したい時が全て、なんですね。 後で言われても「もういい!」って感じで、「話を聞いてくれなかった」という思いだけが残ってしまって… 今でこそ親も辛かったんだ、と分かるのですが、子どもには親の都合なんて考えられないし ましてや忙しくもないのに真剣な話を笑って済まされたら… それこそ本当に信用を失ってしまう気がします。 こちらが思っている以上に子どもって、相手の自分に対する姿勢… 自分への心の向き加減に敏感なのではないでしょうか。 大人にとってはどうでもいい話でも、子どもにとってはすごく大事な、 また親の愛情を確かめる為の意味のある話かけだったり…すると思うのです。 だから子どもが「絶対笑わないでね」と言えば、私は絶対笑いません。 いくら小さくても人間同士として、真剣な問いかけには真剣に付き合うことが 信頼を築いていく上での基本的なことだと思っていますから…。 そういうことに関しては子どもだから、という区別はなるべくしたくないなと思っています。 もちろん、てきとーなこと(冗談)を言ってきた場合には こちらもめちゃくちゃてきと~に返してますよ(^.^) 普段はかなりおちゃらけ人間なので``r(^^;) でも私、話はよくしても面倒みてるかといえば…反省する点の方が多いので…; rikaaaさんのお子さんに対する姿勢、本当に尊敬します。 子どもによく注意を向けるのと甘やかすのとでは全然違うんですから! rikaaaさんはこれからも、自信を持ってそのままの素敵なお母さんでいて下さいね。 励ましのお言葉、とっても嬉しかったです。 ありがとうございました!

回答No.4

私には8歳、5歳、3歳の子供がいます。 「死」については大変難しい問題だと思っています。 2年前に子供が通っている保育所の仲のいいお母さんが亡くなられました。とても若くて・・・。そのお母さんのお通夜に子供を連れて行きました。それ以来子供は何となくですが、「人が死ぬ」ことについてわかったみたいです。 その後に保育士さんが「○○ちゃんのお母さんはお空のお星様になってみんなをとくに○○ちゃんを見守っているからね」っていってくれたみたいです。 早過ぎなく遅すぎなく子供が疑問を持ったときからゆっくりじっくりと教えてあげてはいかがでしょうか??

MAFUYU
質問者

お礼

hiromakahoさん、ありがとうございます。 お礼が大変遅くなってしまい、本当に申し訳ありません… お話して下さったご友人のこと…とても考えさせられました。 2年前…ということは、今5才の真ん中のお子さんが3才の時、ということでよろしいのでしょうか。 子どもにとっては“友達のお母さん”が亡くなるというのは “数回しか会った事のない曾祖母”が亡くなるよりも現実味があって とても衝撃を受けることなのでは…と思いました。 年を取ったおばあちゃんではなく、“お友達のお母さん”が…。 だとすると、自分のお母さんはどうなんだろう… そんな言いようのない不安が湧き起こってきてもおかしくないですもんね。 けれどhiromakahoさんのお子さんはそんなふうに 必要以上に死から恐怖を感じ取ってしまうこともなかったんですよね。 私も、できるなら子どもにそんなふうに“死”を受け止めていってほしいと願っています。 もちろん、生命を尊ぶことにつながるような“死”への “恐れ”や“悲しみ”はむしろ人よりも感じられる心を持ってほしいのですが… (ほんと勝手な願いです) それには周りの対応の仕方もかなり重要ですよね… 保育士さんが言ってくれた言葉、お子さんもかなり救われるところがあったのではないでしょうか。 やはり、こういう救いの言葉は必要ですね。 私が子どもにこういうような事を言った時は 「あるかないか分からないものをいかにも存在するように教えるのは価値観の押し付けにならないだろうか」と 少し迷ったのですが、「死んだ後はどうなるか分からない。」ではそれこそ不安を煽ってしまいますもんね… 「価値観の押し付けをしないように」なんて考えていたら、子育てなんてできませんね。きっと。 考えてみればしつけなんかでも価値観の押し付けいっぱいしちゃってますし… やっぱり考えすぎですね~私… 答えを用意しすぎるのもよくないし、結局、両極端ではいけないんですね。 その辺りをバランスを取りながらやっていけたらな、と思いました。 『いつか死ぬ』ことについては早すぎず、遅すぎず…難しいですが、おっしゃられる通り、 じっくり時期を見て、ゆっくり…でいいですよね。 子どもより私の方がナーバスになっていたのかもしれないな、と思いました。 ありがとうございました。

noname#3563
noname#3563
回答No.3

フランダースの犬のビデオを見せたり、人魚姫を見せたり そういう接し方でいいのでは?説明して死を教えると 「なにか身近に死でもおこるんだろうか」 と変な不安を抱かせてしまうかもしれません。 とくに自分の父母とか・・・。 まだ理解できないだろうし。 お葬式にでる機会があって目の当たりにしても まだ理解できるかわからないぐらいだとおもいます。

MAFUYU
質問者

お礼

お礼が大変遅くなってしまい、申し訳ありません。 お名前をお呼びできる間にお礼を書けなかったのが悔やまれます。 説明して教えると、確かに不安を抱かせてしまうかもしれませんね。 今、そういうことに少し敏感になっているならなおさら 下手なことはできないなと思っています。 時期を見極めるのは非常に微妙で難しい問題ですが やはり、今はまだ早すぎるかな…と思うようになってきました。 “死”自体もおぼろげにしか分からない幼児に そんな得体の知れないものがいつかあなたの元にもやってくるのだと話すのは どんなに柔らかな伝え方をしても不安がらせることにしかならないですよね。 私の祖母のお葬式では、周りの雰囲気を察してか 大事な場面、場面では神妙な顔つきでおとなしくしていました。 (雰囲気に飲まれていただけかもしれませんが) 普段は色々聞いてくるのに、その時は不思議と 「みんな何してるの?」とか祖母の安らかな顔を見ても「寝てるの?」とか、 そういったことは一切聞かないんですね。 けれど合間にはやっぱり何事もないようにはしゃいでるし… やっぱり『おぼろげ』なんですよね。 そんな内は、まだまだ早いですね。 “死”を感じさせる物語は、やはり大切ですね。 フランダースの犬はもうちょっと大きくなってからがいいかな…と思っているのですが こういうものに早いも遅いもないのでしょうか? ありがとうございました。

回答No.2

私は,21歳・男です。 私自身は,保育園の頃,地獄の出る人形劇を見て,いわれのない恐怖に見舞われ, ”地獄”これがあるのかないのか?これが知りたくてこのころから,死生観についてよく考えました。 それに,この時に,親に聞いたことがあります。結局,よく分からないというのが結論でした。 親を絶対視していた私から見て,親が知らないということは,たぶんこれのみだったと思います。その影響か,それ以来そのことにはよく考えるようになりました。 死について理解は,自ずと分かったような気がします。虫が死ぬのを見たときか,近所の葬式にいったのが理解の理由だと思います。 たぶん,これが始まりです。 そんなに深刻に考えなくても,中学生になるまでに死を理解できない人はいなくなるのでどちらでもいいと思います。また,子供に言葉や,概念を言っても理解は困難だと思います。実際に体験させてあげるのがいいと思います。(今だって,体験しないとしっくりきません・・・) あと,私だけかもしれませんが,子供の時考えたことは,今でも永遠の命題となっているような気がします。 それと,できれば,MAFUYUさんの体験談も書いていただければ幸いに思います。 以上,参考になれば幸いです。

MAFUYU
質問者

お礼

お礼を補足欄に書くことになってしまい、本当に申し訳ありません。 言い訳になりますが、4時間考えても文章力のない私には どうしても1000文字に収めることが出来ませんでした… お見苦しい点をお許し下さい。

MAFUYU
質問者

補足

flower_pinkさん、経緯が後付けになったにもかかわらず ご回答下さってありがとうございます。 お礼が遅くなってしまい、大変申し訳ありません。 子どもの頃のお話、興味深く拝見させていただきました。 flower_pinkさんの場合は人形劇が死について考えるきっかけとなったのですね。 覚えていらっしゃるなんて、よほどの衝撃だったのでしょう。 やはり、こういうことは絵本にしろテレビにしろ、小さい頃から自然と耳に入ってくるものですよね。 それについて疑問が湧いた時、子どもが小さければ小さいほど 絶対視している親の言葉が影響力を持つわけで… そういうことを考えると、たとえば『地獄があるかないか』というような 一生かかっても正解が分からないような問いかけなど flower_pinkさんの親御さんのように はっきりとした答えを示さない方がいい場合もたくさんあるのだと思います。 もしも、flower_pinkさんの親御さんが地獄のことをあるよ、とかないよ、というように きっぱりと答えていたとしたら… このことはflower_pinkさんの永遠の命題にまではなっていなかったかもしれません。 だから、子どもにした死後の話(お空に昇ってずっと見てる…というくだり)も あくまで私の価値観なので、言ってよいのか迷ったのですが…。 私などはついつい色んなことを話して聞かせたくなって 一歩外へ出たらなんでも「あれはね、これはね…」となってしまうので なんでもすぐに答えをこちらで用意してしまうのが子どもの為になるとは限らないな、と反省してしまいました。 子ども自身に考えさせる、または一緒になって考えてみる… そういうこともとても大切なことなんですよね。 死についても >自ずと分かったような気がします。虫が死ぬのを見たときか,近所の葬式にいったのが理解の理由だと思います。 > flower_pinkさんがこう言われるように、私も自分で感じ取ってくれるのが一番だと思っています。 いくら説明されても、実際に感じることに勝るものはないですもんね。 だから、死については今後詳しく聞かれでもしない限り 息子なりに感じている今のままでいいと思っています。 ただ、「いつか死ぬ」ということについては補足した理由から ある時突然知るよりも、軽くでも親の口からワンクッション置いた方がいいのかな…という迷いはまだあります。 もちろん、今すぐとは思ってないのですが…。 >子供の時考えたことは,今でも永遠の命題となっているような気がします。 > そうかもしれませんね。 なぜなんだろう…子どもの頃は何かを不思議に思わない日はないほど真っ白で… 親や大人が何でもかんでも勝手な価値観を植え付けるのはもったいない気がしますね。 難しい問題ですが… せめて“答えのないもの”、“多数の正解があるもの”は なるべく自分で考えられるようにしてあげたいな…と思いました。 永遠の命題をいくつも持ち続けることは、苦しみの種になることもありますが 人生をより深く感じ、生きられることにもつながると信じていますから…。 ありがとうございました。

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