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日本はなぜアメリカと戦争したのでしょう

>日本はなぜアメリカと戦争したのでしょう。 >はめられ説、侵略説その他いろいろの説があるようですが、大勢の方々のご見解をお聞かせください。

みんなの回答

回答No.18

整理からもれた点です。 ドイツに宣戦通告するのはイギリス、スペイン、フランスの 世論を味方にする為です。それによって政府を味方にする為です ソ連攻撃だけでは警戒感は消えないので関係改善は出来ない。 ドイツに対しての先制攻撃をしない事でドイツからの攻撃を 出来る限り避ける為です。日本艦隊は十分に圧力と成れる。 日米関係が限度以上に悪化したのはイギリスの意思によるものです イギリスとの関係改善はアメリカとの改善を意味しているのです 両国にはソ連敵視の世論が在りましたから日本がここを利用する 事は関係改善の唯一の道だったのです

回答No.17

回答を整理します。 ドイツがポーランドに侵攻。ソ連がバルト3国ラトビア、エストニア 、リトアニアに侵攻。ポーランドに侵攻。フィンランドに侵攻した。 この時点で遅くても3ヶ月以内にドイツとソ連に宣戦通告する 満州国および中華民国で兵士を募集してソ満国境からモスクワ目指 して進撃を開始。燃料や軍事物資は海軍の物を投入する。海軍航空 隊の一部も対ソ戦に投入する。ソ連周辺の海を封鎖する。 イギリスとフィンランド支援で合意して海軍の3個機動部隊および 大和を含む2個戦闘艦隊そして陸軍3個師団をイギリスの支援を受け ながらアデン湾に派遣する。ドイツに対しては先制攻撃はしないと 外交ルートで伝えて置く。ヨーロッパ派遣軍はソ連に対する軍事的 圧力を加える事を目的としてフィンランド軍と共に戦闘を行う。 日本艦隊護衛の基でフィンランドに支援国の物資を輸送する ヨーロッパ派遣軍は海軍、シベリア侵攻軍は陸軍が担当する。 戦費をイギリス、スペイン、フランスから得ると共にアメリカで イギリスの保障つき戦時国債を発行して得る。 軍事物資を大量にアメリカから輸入して戦争に用いる。 ドイツとの戦闘はイギリス、スペイン、フランスに任せて日本は 航空支援およびソ連戦を担当する。 ◎英米戦争を避けられると考えます ◎なぜ出来なかったのかと思いますよね。 石原莞爾は戦略家ではあるけれど欧米人の身勝手さと残虐さに 理解が不足でした。それが原因で戦争の順序を間違えていた。 中華民国と同盟してもソ連には勝てない。同盟は欧米の全ての 国からの軍事介入を招く。ソ連攻撃の機会を待ち時が来たら 全力で戦い勝利を得るのが先なのです。 東条英機は東北人の節約精神でソ連との戦争を避けたのだと思う。 ノモンハンの経験から対ソ戦で損害を出したくなかった。また 必要となる大量の燃料は陸軍には無かった。海軍には在るが。 陸海軍の対立で対ソ戦が不可能と成っていた。 昭和天皇は2・26事件で軍隊に対して不信感が大きかったので 陸軍が提唱する対ソ戦に賛成する気持ちに成れなかったでしょう 戦争反対の姿勢。結果として海軍を力づけた事になり対アメリカ 戦争の準備が進んだ。ますます日本に対する圧力は高まる。 ◎断固とした国家的決定が無いまま時間は過ぎて経済困難は増え ていき燃料、物資は減少を続け安全保障上の危機を迎えた。 責任のなすりあいの中で国内対立が起きた。対ソ戦の時期を失し た理由が海軍に問われ責任回避の為に対英米戦争に突入した。 対ソ戦を開始していれば南方戦での犠牲者は出なかったですよね

回答No.16
回答No.15

補足としてソ連行動の参考にしてください。(カティンの森事件) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

回答No.14

ドイツとソ連の軍事秘密条約で空軍力の研究開発が行われていました。 ドイツでは空軍所有を禁止されていたからです。ソ連領土内で実験 開発が行われたのです。ドイツは場所を使えるしソ連は航空技術を 導入できたのです。 その結果として強力なドイツ空軍とソ連空軍が誕生しました。 スペイン内戦に際してはドイツはコンドル軍団を組織して約100機 の航空戦力を実践投入して戦術運用力を高めました。 当然の事ですがソ連も戦いを注目して参考にしていたのです。 ポーランド侵攻の時にはドイツとソ連は軍事的友好国なのです ドイツがポーランドに侵入した時には東からはソ連軍が怒涛の 様になだれ込んだのです。ドイツが2週間も時間がかかっている 間にソ連は広い占領地を得ていました。イギリス側で見れば協力 して占領地を広げていると受け止めたのです。 フランスが崩れそうになる中でイギリスはドイツに宣戦布告した。 国内にはソ連に対しても宣戦布告をするべきとの強い世論が在った のにしなかったのです。 イギリスは孤独です。 アメリカは物資を供給するけれども無料では在りません。そして 一番欲しい軍事力はモンロー主義の為に得られなかったのです。 この時に敵ではない有力な軍事力としてはアメリカと日本だけです。 どちらかを味方にしたい。出来る事なら両方を味方にしたいと言う のがイギリスの外交目的と成っていたのです。その為の日本に対して の経済封鎖という圧力なのです。中国市場の事は後回しで良い事です ◎条約通りに破棄の時間が在りません。中国との同盟政策は最悪の 事態を招くものです。日本は台湾近代化に成功し朝鮮の近代化にも 成功していました。満州という広大な領域でも大成功を収めつつ 在りました。数億人の強大な国家が誕生しつつ在ったのです。 すでにこの段階で欧米の日本に対する警戒感は頂点を超えています 中華民国との関係改善が達成した場合には直ちに欧米の敵対行動が 時をおかずに発生します。イギリスは直ちにドイツと和解して合同 軍事力で介入してきます。アメリカももちろん参加するでしょう 中華民国との同盟は警戒感が頂点を超えている時には破滅を招きます 資源を輸入すれば良いと言われますが経済封鎖では無理です 大陸からの全面撤退は日本の属国化となります。日本は全ての市場 を失い工業生産力は壊滅し貧しい農業国と成る。 ◎ドイツがソ連を攻撃する前に日本帝国がイギリス側で戦争を開始。 イギリス世論がソ連を敵対視している時、アメリカが軍隊を出さな い時。条約を無視して日本がイギリスの味方として参戦する。 ソ連攻撃の口実はパリ講和条約を破棄した軍事力でポーランドを 侵略したドイツ軍に軍事的に呼応したソ連を座視出来ない。で良い。 日本軍の航空戦力はソ連空軍を十分に相手に出来たと思います これはソ連対フィンランド航空戦から推測しました。 航空優勢のもとでは戦車の優位性は発揮できないでしょうから 兵力に関しては中国人とインド人がいますから無尽蔵です 年寄りから岩手県人は日本で一番がめついと聞いた事は在ります ソ連は早い段階で自国の都合で近隣国に戦争を開始しています。 同じ時期にドイツも戦争に乗り出したのです。ドイツとソ連は イギリス側で見る時には同じ軍事拡大主義だったのです。 日本は気楽な傍観者←これには頭から湯気を出して怒ります 経済封鎖の真実と想います。どんな交渉も無益だった原因。 石原莞爾も東条英機も能力を超えた事態に遭遇していたのでしょう 荒唐無稽に感じるかも知れない回答ですがもし明治天皇だったなら 何とか出来たかも知れないとの意見は昔から在ります 昭和天皇は若くして即位したのでやはり能力を超えた事態だった のでしょう。私の回答の様な意見はあまり無いのでしょうか? 大東亜戦争を考える時には当時の世界戦争全体を考慮する必要が 在ります。

回答No.13

なぜアメリカと戦争したのかという問いに対しては対ソ連戦争 対ドイツ戦争を条約の存在を理由として避けたからです。また 中国戦争を維持するだけの資金や資源を得る方法が制限された事。 ◎当時のイギリスはドイツとソ連によるヨーロッパ戦争に対して 対応に苦心していました。フランスが対抗力を失っていく中で ドイツに対して宣戦布告が成された。この時にソ連に対しては 宣戦布告をしていませんよね。イギリス世論は大いに不満でしたが 当然の意見です。同じ戦争をしているのにソ連を責めないのか? イギリスは単独でドイツとソ連の軍事力に対抗して行くしか無い。 アメリカはイギリスの重大な危機というのに外交不干渉の原則を 盾にしてイギリス側での戦争参加を断っていました。戦争で金儲 けをしているのにです。島国イギリスの孤独感は大きいと思います ドイツとソ連に対して分断可能性にわずかな望みをかけソ連に対して 宣戦布告をしない政策を選んだのです。この状況に基づいて日本の 政策を決定する必要が日本国を背負う指導者の責任だったのです。 孤独なイギリスに対して同盟条約の実績が在る日本国が友好国の 存亡の危機に際して国際条約を無視してイギリス側に立ちドイツ ソ連に宣戦布告する。ただちにソ連国境に軍事力の展開を行う。 ドイツは遠いので戦争はソ連が相手となりますね。膨大な物資が 必要になりますが支払いは日本とイギリスなのでアメリカは安心 して供給するでしょう。日本軍がモスクワ近郊に迫る頃にはドイツ も対ソ戦に踏み切る。ソ連消滅の話し合いの中でイギリスと日本 の圧力によりドイツの拡大戦略も終わりを迎える。条約を無視した と批判を受けても日本が得る物はとても大きいと思います 大陸中国とシベリア全土。オホーツク周辺はもちろんですね。 何よりも日本が失っていた樺太の回復が出来る、悲願実現ですね。 ついでに賠償金名目でドイツ技術を大々的に輸入出来るのです ◎このように考えるのが国家指導者なのだと言うのがマキャベリ が残した意見と思うのです・・・

kintarou37
質問者

お礼

 条約は破棄できるものです。条約を無視して開戦することは許されませんが、破棄してからなら問題ないでしょう。  陸軍はノモンハン事件でソ連の強さを知り、かつ政府はゾルゲ・尾崎の策によりシベリアに得るものがないと思っていたから、ソ連への攻撃はむずかしかったのでは。攻撃してもとてもモスクワ近くので進むことなどできなかったでしょう。戦車の大きさの違いは横綱とふんどしかつぎ以上でした。  そもそもソ連は、ドイツに攻められるまではどことも戦争をしていなかったのではありませんか。  仮に日本がソ連を攻撃し、ドイツがソ連に侵攻したとき、日本とドイツはお仲間になっちゃいますね。三つ巴で行きますか。  のちになっていろいろ考えることはできますが、あの当時、「中国と講和し中国と同盟してソ連との戦いに備え、ソ連を破ったのちに中国とともにアメリカとの世界最終戦争に臨むべき」と主張した石原莞爾の先見は卓越していました。その石原を放逐しアメリカに開戦した東条英機は日本を滅ぼした張本人です。日本は、維新のとき賊軍とされ、冷や飯を食わされ、薩長に対しルサンチマンを抱き続けた岩手県人(東条英機、板垣征四郎、及川古志郎、米内光政ら)によりほろぼされたのです。東北人の特異なキャラクターは、長く東北に住んだ人にはわかります。私は東北生まれで岩手県育ちですがね。  日本が開戦しなくても、アメリカは日本と戦争して日本をつぶす段取りだったといわれています。  しかし日本が中国・仏印から撤兵し中国と講和すればアメリカとしても日本をつぶす口実を失うこととなったでしょう。  資源を得るために戦争する必要はありません。資源は輸入すればよいのです。輸入にはカネがかかりますが、戦争にはそれ以上のカネを要し、しかも多大な人的損害をもたらします。そして戦争は勝つとは限りません。私の父が大戦中の昭和18年兵隊にとられ、南方で戦死したため私の母や兄弟は言語に絶する苦労を強いられたので、私は日本がなぜあの戦争をしたのかを長年にわたり考え、一定の結論を見出したものです。

回答No.12

説明を続けます。 ですからあの時点では条約を無視してドイツに宣戦する事が 必要だったのです。条約を結んだ為に出来なくなった。 こう言う考え方が学歴者的なのです。条約で戦争を考える。 イギリスが日本に圧力を加えていたのは日英の条約を再び結び ドイツに対抗する為だったと考えています。名目は日本の海外 進出に対する抗議でしょうが本音は味方にしたい為でしょう 中国と和解しただけでは英米関係の改善は出来なかったと思います 軍事資材が急速に減少していく中では関係改善か戦争しか無い。 ドイツに対して戦争開始する事でイギリス、アメリカの支持を得る。 中国を固めて対ソ連戦を開始。開戦当時はイギリスにはソ連不信感 が在りましたから理解は得られたでしょう 天皇に対しては複数の政策案が報告されていたと思います しかし正式の会議では国際条約を無視してドイツ戦を開始するべき とは誰も言えないですよね。まして東条は軍事学歴主義ですから。 言えるとしたら天皇しかいなかった。それが国運を背負う者の使命。 世界がおおむね平和なら漁夫の利を求める事は可能です。 有力な国々が生存をかけた戦争に突入する時には不可能です

kintarou37
質問者

お礼

 1917年駐日大使グリーンは「うわべだけの日本との友好関係は長続きしない。日英同盟を解消しアメリカを味方につけて極東における勢力の均衡を取り戻すことになるだろう」と本国に伝え、1923年同盟は解消されたとのことです。日本との関係の悪化したアメリカと有効な関係を望む英国が日本との同盟するはずがありません。  また、「条約を無視してドイツに宣戦布告」は、「真珠湾のだまし討ち」以上の汚点を、日本の歴史に残すこととなります。そもそも日本がわざわざドイツに宣戦布告する理由も必要もありません。仮にドイツに宣戦布告したとして、独ソ戦が起こったとき日本はソ連に味方するのですか、それともまたもや条約を無視してソ連と戦うのですか(前回はドイツではなくソ連と戦うべしとのことだったと思いますが)。  御前会議において天皇に国際情勢を客観的に奏上したとしても、天皇が「条約を無視してドイツに宣戦布告せよ」なんていうはずがありません。ソ連に対しても同様です(日ソ不可侵条約)。  国際間の基本的ルールは、約束を遵守することです。これは学歴と無関係な、人間間の常識でもあります。  回答者のご回答はあまりにも卓越していて、読者には支離滅裂・荒唐無稽と受け取られるかも知れません。ありがとうございました。 

回答No.11

こちらの説明が足らなかったようです。 軍内で陸軍大卒者が重きを成して行く事については明治の元老 と呼ばれた人達も心配をしていたようです。進めるしかなかった。 その結果として学歴者集団が軍の上層部の多くを占めた シベリア出兵を学び中国戦勝利を記憶し近代兵器に自信を持つ。 対ソ連戦を避け中国戦勝利に喜び目先の成果を自慢する 不足する資源を求めて南進を選ぶ。記憶力は在っても思考力不足。 一人や二人でなく集団として機能したという事です 世界が戦争しても日本がする事は無い。これは難しいことです。 国運をかけて戦争している国を利用して自国を豊かにする事は。 日本が戦争しないという事は他国の犠牲を利用して漁夫の利を得る 事ですからね。まさに当時の政府はこれを選ぼうとしていたのです 参戦が遅れたのはこの為でしょう。しかしこの政策には問題がある。 アメリカの政策と同だと言う事がです。これがアメリカの反発を 招いた。イギリスに協力する形で日本に重圧をかけたのです アメリカとの交渉で解決する状況では無かったのです 解決方法はイギリス側で参戦するしか無いのです。参戦により アメリカとの問題が解決するのは当然ですね 三国防共協定を無視しての参戦は学歴者集団の誰にも不可能です 個人の行動に日米開戦の責任を求めるなら天皇しか在りえない。 天皇が 対ソ連戦に国運をかけるべし との指示を明確にして いれば東条は北進のためにイギリス側で参戦した事でしょう スペインのフランコ政権の政策を考えて見れば荒唐無稽では無い 高みの見物などは戦争時代に在り得ない事です 現代でも自衛隊が海外に派遣されているのでは在りませんか?

kintarou37
質問者

お礼

 ご丁寧にありがとうございました。けれどもまだ少々わからない点があります。日中戦争のさなか、ドイツは多量の兵器を中国に売り、兵器の原料となる地下資源を獲得し、かつ軍事顧問団を派遣して中国軍を教練し対日戦を指導しました。これはドイツがうまく立ち回り漁夫の利をえたということでしょう。今の中国はアフリカの内戦に乗じ兵器を売り、資源を確保するという策をとっていますがこれも漁夫の利でしょう。  天皇がソ連との開戦を指示しなかったのは、東条首相はじめ御前会議出席者がそれを進言しなかったからです(天皇といえども全能ではないから客観的情報なく国際情勢を正確に判断するのは無理でしょう)。東条が天皇に南進を進言したのは、ゾルゲ・尾崎秀実の策が奏功したためでしょう。  アメリカとの開戦に当たり、さすがに心配した天皇は、「勝てるのか」と尋ねたとのことです。このとき東条が、「勝てるかどうかわかりません」とか「負けるでしょう」と答えれば天皇も開戦を裁可しなかったでしょう。とすれば、開戦の責任の大半は東条にあるといえませんか。  開戦前年に日独伊三国軍事同盟が成立していたから、日本がイギリス側に立って開戦することなど無理です。石原莞爾主張のとおり、対中戦争をやめて中国と同盟し(仮に同盟できなくても)、ソ連との戦いに備えることの方が現実性があったでしょう。そののち実際にドイツがソ連に侵攻したから、日本が東からソ連を攻撃すればあの時点でソ連は崩壊していた可能性も考えられ、そうすれば満州国は健在で、樺太も千島列島も失われず北方領土問題も存在しなかったこととなりそうです。その石原莞爾を東条が解任したという事実は、日本にとって最大級の不幸だったのではないでしょうか。  国の政策が多数の意思で動いているのではなく、個人とその追随者の意思で決定されていることは、小泉さんによる郵政民営化によく表れています。全体責任的発想は問題の本質を韜晦することとなります。  名誉ある中立は高みの見物ということにはならないでしょう。為政者はどんな場合でも、自国・自国民の利益を第一として行動することが必要ではないでしょうか。日本が勝ち目のない戦争をして惨敗した結果、アメリカの半属国となり、宗主国のいうがままに湾岸戦争・イラク戦争に莫大なカネを出したり、自衛隊を出したりせざるを得ないことになったのでしょう。  

回答No.10

質問が限定し過ぎなので不十分な回答しか出来ませんが一言。 どうせなら 当時の国々が世界中で大戦争をしたのはなぜか? この中の一部分として大東亜戦争も在ったのですよね 日本では陸軍大学卒業者と皇族が上層部を占めていました。 軍上層部を批判する事が皇族批判となるような制度運営です 高等教育を進めた結果は学歴主義者の天下となりました 薩長の凋落は東北ではなく学歴主義との対決の結果でしょう 国家指導部が学歴主義者で固まればどうなるか? 困難に対して実績の無い計画を作り出す事はしないものです そこで経験済みの戦争政策に走り出す事になります 実戦部隊の意見を無視し教室で覚えた戦争に基づいてです 満州国や条約と英米蘭など多くの意見は在ると思います 学歴主義者の政策能力がどういう物かは最近の日本経済に対する 政策を考えて見れば推測できます。明確で有効な指針を示せては いないのです。学歴主義者には日英条約を再び結び対ドイツ対 ロシア戦争を開始して対米戦争を避けるという決断が出来なかった。 これが対米戦争の原因と考えています

kintarou37
質問者

お礼

 なるほど、薩長は陸軍大学に入れなくなり、学歴派に負けたんですね。  陸軍大学第一期首席卒業の東条英教が薩長により陸軍を追われたこと、東条英教による薩長への恨み、そして息子東条英機による薩長派退治についてはウィキペディアにすら書かれています。  日米開戦当時の首相・陸相が東条英機だったことは誰でも知っていますね。世界のどこかで戦争していたからといって日本が戦争しなければならないということはありません。  陸軍大学次席卒業の石原莞爾中将は、「中国との戦争をやめ、中国と同盟して来るべきソ連との戦いに備えるべき」と主張し、中国との戦争を拡大する東条陸相・梅津大将を「捕えて銃殺刑に処すべし」と公言し、解任された由。学歴もさることながら、その人の資質や思考が重要でしょう。もうすこし客観的事実に基づいたご回答を期待します。

  • rikukoro2
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回答No.9

1904年~1905年、日露戦争  そして、日本がロシアに勝利したことによりを米国が仮想敵国として認識したのです 1904年、アメリカは日本を仮想敵国として「オレンジ計画」を策定。 日露戦争での日本の勝利は、白人の敗北としてアメリカで排日運動が高まり、 「事後法」による移民や日系人の排斥へと推移していきます。 当時、日本人は先人の努力で黄色人種の中では世界でも特別扱いでした。 一流ホテルへ宿泊できたのは黄色人種の中では日本人だけでした。 アメリカ移民の先輩中国人は鉄道の線路工夫がやっとで奴隷状態でしたが、 日本人は農業などで次々と荒れ地を豊かな農地へ変えていきました。 それは白人にとっては魔法でした。白人より優秀な黄色は許せないことでした。 白人移民は技術も才能もなく貧乏でした。 白人は日本人の農地や店舗を強奪しても神から許されると考えました。 「事後法」による移民や日系人の排斥へと推移していきます。 1906年、アメリカで新帰化法。帰化申請を白人とアフリカ人に限る。日本人は帰化不可。 1913年、排日目的の「外国人土地所有禁止法」。 アメリカ市民になり得ない外国人(日系1世)の不動産取得、保有、使用、譲渡を禁止。 法案のなかには、日本人の営業不許可や日本人学童を隔離するものまで含まれていた。 1922年ケーブル法成立。アメリカ市民(日系2世)が非アメリカ市民と結婚した場合は市民権を失う。 1924年、「移民法」で日本人の移民を全面的に禁止。別名「排日移民法」。 これまでアジア人の中では特別扱いだった日本人についても 他のアジア諸国と同じ人種差別的な取り扱いとなる。 1941年12月7日 日米開戦、日系アメリカ人は敵国日本と同一視される。 1942年、日系人12万人の強制収容(3分の2はアメリカ市民)。ドイツ人イタリア人は自由。 日系2世がアメリカに忠誠を誓い従軍しました。 1946年、収容所が閉鎖される。日系人は家屋の破壊や資産喪失に愕然となりました。 今のアメリカ西海岸の農地の多くは日系人が荒れ地を開拓したものを強奪されたものです。 ・マッカーサー元帥  昭和二十五年十月トルーマン大統領に対して「東京裁判は誤りであった」と告白。 さらに昭和二十六年に米国上院において「日本がおこなった戦争は正当防衛であり侵略戦争ではなかった」と 公式に証言。

kintarou37
質問者

お礼

ありがとうございました。史料に基づく論理的ご説明で、とてもわかりやすく、助かりました。  大部分のご回答が、日本の責任について触れておられないようですが、私は、東北人、特に岩手県人のひがみとコンプレックスが引き起こした戦争ではないかと思い至った次第です。日清・日露戦争はそれなりに評価されるかと思いますが、主導したのは薩長でした。東北人は維新の戦争で賊軍とされ、盛岡(南部)藩士の子息東条英教は陸軍大学を首席で卒業したものの中将止りで、山県有朋により退役させられました。  息子の英機はこのような薩長の行為に反発し一所懸命勉強して大将となり、軍部から薩長勢を一掃したとのことです。  満州事変・満州国建国は石原莞爾(山県)と板垣征四郎(岩手)によりなされ、その板垣や東条英機は日中戦争を推進したと思います。米内光政(岩手)は平和主義者として評価されていますが、日中戦争当時海軍大臣のとき近衛首相の裁可を得ず上海を爆撃し日中和平工作を頓挫させたとのことです。その米内など海軍が反対していた日独伊三国同盟に賛成したのがやはり岩手の及川古志郎(当時海軍大臣)です。満州事変・満州国建国・日中戦争、日独伊三国同盟などが米英などの強い反発を受け、日本が経済封鎖(ABCDA包囲網)を受けた結果、石油などの資源を求め仏印進駐(侵略)をするに至り、結局ハルノート(中国の意志が強く反映されていた)に到達したのではないでしょうか。東条・板垣・及川・米内という4人の岩手出身者が軍人でなかったならば、あの戦争はなかったのでは、と思います。東北は貧しかったので、頭のよい貧乏人の出世の早道は軍人になることでした(陸軍士官学校・海軍兵学校は官費)。岩手の貧乏人の代表格石川啄木もはじめは軍人を志していたのでした。  私は岩手県に20年余り住んだので、東北人コンプレックス説には自信を持っています。東北に歴史のねつ造(青森県の「東日流外三郡誌」「東日流六郡誌」、仙台の「東北旧石器文化研究所」の副所長による旧石器ねつ造、岩手の九戸政治実英雄説-岩手県人は、政実が天下を取りに行ったが秀吉にだまし討ちにされた、との荒唐無稽な高橋克彦の小説「天を衝く」が史実だと思っている)が多い事実は、彼らが「東北こそ文化の発祥地だ」「東北人は優秀なのだ」などの主張を裏付ける証拠をつくり、コンプレックスを解消しようとするものです。

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