• 締切済み

1944年のフランスの国名

1944-1946年のフランスの国名を教えてください。 出典URL(できればWikipedia以外で)を載せてくれるとありがたいです。

みんなの回答

  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8859)
回答No.1

Republique   Francaise(フランス共和国) ただし、ペタン政権は Etat Francais(フランス国) と称していた。 http://homepage3.nifty.com/tomohsawa/munze61.htm ※ド・ゴールは、ペタン政権の正当性を否定し、自らが第三共和制の正等臨時政権と考えていた。 25日の夕方、ド・ゴールがパリに入った。一部のドイツ軍部隊が降伏に従わずに抵抗を続けているとはいえ、路上には群集がひしめき、家という家の窓からは三色旗がはためいていた。パリ市街を進むド・ゴールの車が銃撃を受けたが、ド・ゴールは車から降りて銃弾の飛び交うなか悠然と煙草をふかし、「少なくとも国を出たあの時よりは、ましな条件で戻ってきたようだな」。ド・ゴールは陸軍省の建物を訪れた。1940年6月10日、ド・ゴールと当時の首相レイノーとがここを離れて以来4年間、調度は何一つ変わっていなかった。  パリ市庁舎ではレジスタンスの指導者たちがド・ゴールを待ち受けていた。パリのレジスタンスを指導した共産党員のひとりジョルジュ・マラーヌと「全国抵抗評議会」の議長ジョルジュ・ビドーその他である。ド・ゴールは評議会のメンバー紹介を受けようとしなかった。ビドーはド・ゴールに対し、市庁舎のバルコニーから共和政宣言をすることを提案した。しかしド・ゴールはそのようなレジスタンスからの提案を退け、「共和政はいまだかつて存在しなくなったことがない。自由フランス、国民解放委員会が相次いでこれを体現してきた。ヴィシーは常に無効であったし、いまも無効である。私自身は共和国(臨時)政府議長なのだ。共和政を宣言すべき理由があろうか」といって窓の所に赴いて身振りで挨拶し、群集の大喝采を浴びた。ド・ゴールは共産党を、そしてレジスタンスをも出し抜いたのである。(この場にいた訳ではないが)後の大統領であり、自身もレジスタンスの活動家であったフランソワ・ミッテランは、レジスタンスの栄光をド・ゴールが独り占めしたことに対する強い反発を終生抱き続けていたという(渡邊フランス現代史)。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう