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弥生の小氷期について

「弥生の小氷期」というのを聞いたことがあるのですが、この寒冷化と中国の戦国時代は重なるのでしょうか?また、戦乱の世になったのは、寒冷化によるものでしょうか。そのために、渡来人が増えたのでしょうか。もしそうなら、寒冷化は戦乱の元ともいえます。

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  • isa-98
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回答No.1

氷河期が終わり、縄文時代までは温暖化が進みましたが、 数百年周期で温暖期、寒冷期が繰り返しました。 縄文前期には平均気温は現在より+2度も多かったようです。 この頃は近畿には人口が極めて少なく、東北に人口が多かったようです。 栗の森から十分な食料が得られ 東北地方には巨大な集落がありました。 後期には現在よりも-2度平均気温が下がりました。 これによって東北地方は栗の採集が出来なくなり 大集落は消滅したと見られています。 これが小氷河期です。 弥生時代になると近畿以西の人口が多くなります。 炭素測定値ですと、 弥生時代は現在の平均気温より2度程低く、 晩年にかけて温暖期と寒冷期の激しい交代をしながら上昇に向かったようです。 データー的には飛鳥、奈良時代に 平均気温が-2.5度下がる事が2回あり、 飢饉と疫病と言う史実的にもあてはまります。 次に江戸代中期には平均気温が-3.5度程下がり、 大飢饉にみまわています。 弥生時代の米の収穫量は、現在の下々田程度~中田程度まで向上したとも言われています。 不足分は狩り、採集で賄われ、縄文時代とほぼ変わらず、 食生活は次第に向上したと見て良いと思います。 また、アジアの小氷河期ですので、魏志倭人伝による三国志も一致します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B7%BE%E3%81%AE%E4%B9%B1

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 縄文には温暖化して(そもそも温暖化が城門の扉を開いたともいえないでしょうか)東北にも巨大な集落がありました。弥生が近畿を中心に発展したと言うのも気候的影響が大かもしれません。 やはり、寒冷化と飢饉は対応するようですね。江戸時代にはなぜあれほどのと思うほどのがありましたが、これも近世の寒冷化なのですね。

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