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木戸孝允について

木戸孝允はどんな人だったんでしょうか? 剣術にも強くいろんな面で優れていた人というイメージがありますが。 また木戸孝允のエピソードもあれば教えてください。

みんなの回答

  • 500416
  • ベストアンサー率34% (15/43)
回答No.3

桂小五郎は若い頃は吉田松陰の松下村塾にいたこともある。松下村塾の生徒は後の維新の原動力になる人物が多く在籍していた(久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、伊藤博文、山縣有朋など)。しかし、他の塾生とは違い小五郎は松蔭の補佐で講師的な立場であったらしい。後に松下村塾出身の志士たちが小五郎をリーダーと仰いだのはこの頃の力関係がスライドしている。 小五郎はかなり忍耐強く合理的な性格であったようだ。不利なら戦わず無駄死にを嫌い、勝てない喧嘩は絶対にしない。誇り重視の武士道よりも生きていてなんぼの現実的な現代人のような考え方をしていた。 例えば京では新撰組がいた。いくら神道無念流の達人である小五郎でも喧嘩慣れした剣豪集団である新撰組と戦ってたら命がいくらあっても足りない。「逃げた方が生き残る可能性が高い、卑怯と呼ばれようとも逃げて生き延びれば次がある」と思い戦わず逃げ続けた。 もう一つ例えれば、外国の軍事力を知ったら早々と攘夷を諦めて密かに開国に転じるあたりも、勝てない喧嘩をしない小五郎らしい選択だ。もう一度日本を一つにするなら幕府を無くした方が確実という考えも合理主義の小五郎ならではだ。 武士としての死よりも生きて再起を図り、誇りよりも結果を重視する。 明治になり元勲の一人と呼ばれた桂小五郎(木戸)だったが西南戦争の頃は重病の床にあり、また戦を起こした西郷に対して「西郷もいいかげんにしないか」と寝床からぼやいていた。 そんな小五郎は人生で一度も人を切ったことがなかったという。 せっかくの剣の腕が無駄になったようだが、無駄な死を好まない小五郎らしい素晴らしい人生だと思います。

porupopo
質問者

お礼

剣はすごく強かったんですよね。 ありがとうございます。

回答No.2

長州藩士で、いわゆる「長州閥」の巨頭。幕末には、桂小五郎として知られていて、尊王攘夷派の中心人物。薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。 萩藩医 和田昌景の長男として生まれ、桂家の末期養子に入り家督を継ぐ。 吉田松陰の弟子であり、江戸は斉藤弥九郎の神道無念流剣術練兵館に剣術修行に出、塾頭になる。 同じ頃には桃井春蔵の明智鏡心流士学館に武市半平太、千葉定吉の北辰一刀流剣術桶町千葉道場に坂本龍馬がいた。 ・志士時代には常時幕府側から命を狙われていたが、いつも寸でのところで  危機を回避するため「逃げの小五郎」と言われていた。 ・京都祇園の舞妓「松菊」と懇ろになり、維新後?、正式に妻に迎えている。 てな感じでどう?

porupopo
質問者

お礼

練兵館聞いたことありますねー。 ありがとうございます。

  • mainPC
  • ベストアンサー率21% (62/287)
回答No.1

確か、桂小五郎の事ですよね。 逃げの小五郎っていうイメージがあります(^^; 大きいのをして逃げたというエピソードがあったと、子供の頃学研の秘密シリーズで読んだ記憶が。。。

porupopo
質問者

お礼

やっぱり桂小五郎のほうが親しみやすいですねー。 ありがとうございます。

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