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キリスト教対グノーシス主義
なぜ「知」が「信」に敗北したのか?
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質問の意味が理解できないのですが。 一応「グノーシス主義が、現行のキリスト教に駆逐されたのはなぜか?」という質問だと解釈し、回答します。 現在のキリスト教は、当初ギリャ世界に広がった考え方で、グノーシス派は、ヘレニズム世界に広まったキリスト教になります。 現行のキリスト教は、一神教ですが、グノーシス派では、多神教の世界となります。 グノーシス派が、活躍するのは、アレキサンドリアが中心で、キリスト教とゾロアスター教がまじりあったようなものと考えてください。 3世紀くらいまでは、アレキサンドリアが文化の中心として栄えていたため、ヘレニズム的キリスト教であるグノーシス派も活発に活動していましたが、3世紀の中ごろより、ヘレニズムの中心であるアレキサンドリアの地位が低下し、地中海全体にギリャ式・ラテン式の文化の影響が強くなってきます。 そのため、クノーシス的な考え方(ヘレニズム的考え方)がローマ帝国内で行われなくなり、グノーシス派は衰退してゆきます。 また、キリスト教グノーシス派は、個人個人の考え方に差が大きく、統一的な解釈が存在しないことも弱点でした。 (司祭が代わるたびに、基本的な考え方が変わってしまうため、教義の継承ができていないことも理由です) そのため、知(グノーシス)が信(現行キリスト教の信仰)に敗北したのではなく、あくまで文化の違いによるものです。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.7です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私は、おかしな言葉遣いをする、宗教にあれこれ言うなぞの人になりました。 いいかげんって結構重要らしいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは ★ いいかげん ☆ の質によります。たとえば ○ 文字は殺し 霊は生かす。 ☆ というとき 文字をとおして 霊において捉えることを意味します。文字を捨てるわけではありません。――これは 《いい加減》にしたかたちであるでしょう。《文字》の意味するもので 要らぬものを減らして 要るものを加えるわけですから。 言いかえると 《霊》の意味するところは 中途半端という意味でのいい加減ではありません。そもそも 霊は これが霊だと規定することも出来なければ じつは これが霊だと指し示して見せることも出来ません。おっしゃるように 《なぞ》です。しかも いい加減ななぞではないですね。 こちらの《なぞ つまり 霊》には 《性は 存在しない》のです。経験世界を超えており それは 包括していると言えば 言えますから 《性をも包む》と言って言えなくはありません。ありませんが このことは 中途半端という意味での いい加減なあり方を ゆるすものではありません。 これをゆるすならば 《「知」が「信」に敗北した》あとでも そのグノーシス主義は 残っていることでしょう。平家の落人も 時に まだ生きているぞと言いたげになるかも知れません。
お礼
>まだ生きているぞと言いたげになるかも知れません 私にとっての物語が終わったので、これまでのように頻繁にサイトに書き込むことはないけど 私も、ときどきやって来ては、まだ生きているぞって感じで書き込むつもりです。 「母親」のことが気になるからね。 文字は殺し 霊は生かす。
- mmky
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>>なぜ「知」が「信」に敗北したのか? 難しい問いですね。天ではイエスの教えに「霊的な部分」が少ないのでその補強という意味でいくつかの流れを送り出したのですが、全て異端裁判にかけられて昇天してますね。グノーシス主義もその一つであったはずですね。 歴代の法王が並みドンブリ程度であったということがたやすい答えではあるけど、元はイエス自身にありますね。「カエサルのものはカエサルに神のものは神に」という方便を使いましたからね。この世のための法王なら「霊的な部分」を含む2分法は容認できないでしょうね。 いい例が、自由の女神ですね。神の代理の自由の女神さえ火あぶりですよ。戦争の間だけ重宝してその後は異端ですからね。 というように狂信が正しい信・知を駆逐した歴史ですね。でもこれはもう終わりですよ。これからは正しい信・知が狂信を駆逐していく時代ですからね。イエス様も未来で新しい教えを説くために準備中ですからね。もうすでにキリスト教自体がイエス様から見れば異端なんでしょうね。
お礼
こんにちは。遅くなりましたがお礼です。 こんな展開になりました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.4&1です。 Zohar さん 神に 性は 存在しません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ グノーシス主義には女神が登場するから。 母なる神ですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 神学ではありません。文学です。修辞学です。 ★ 「知」 ☆ の問題でもないですよ。むろん レトリックを 《信》とするわけにはまいりません。そういう問題であると心得ますが いかがでしょう? ちなみに わたしは 教義・組織にもとづく宗教を いっさい 有効だとは認めていません。信仰は あくまで 個人の主観の問題であり それにとどまります。もし外に出かけるなら それは 信仰にとって 自殺行為であると見なします。 非経験にかかわる信が 経験的な思惟としての知に成り変わっってしまうからです。 宗教としてのキリスト教にしても まったく 同じです。つまり 教義を 組織をつくってその中で 保つというかたちでは 《信》が 経験合理性にもとづく知性にとっても 《規範》になるという意味です。教義が 信に取って代わりよって この教義が 規範となって ひとは これにみづからを拘束させて 振る舞うことになります。 道徳規範は 愚の骨頂だと考えます。《文字は 殺し 霊は生かす》。 規範としてのキリスト教教義と グノーシス主義の教義とを比べる気はありませんし その必要はないと考えます。後者も 主観内面を離れて 自殺行為をしているか それとも その内面にとどまりつつも 信を 文学とその趣味嗜好に変えてしまっているかです。
お礼
こんにちはbragelonneさん。遅くなりましたがお礼です。 私は、おかしな言葉遣いをする、宗教にあれこれ言うなぞの人になりました。 いいかげんって結構重要らしいです。
- kigurumi
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kigurumiです。 >>両者が了解しているので、良い関係を築いているわけです。 >契約? 契約 そういったものかもしれない。 共依存ってありますよね。 支配的な人格の人にくっついている隷属的な人。 お互い依存関係にあるので、はたからみて「あんなことまでされて・・・ 別れればいいのに」と思うけど、絶対に虐待されている側は、虐待する側から離れない。 前、宗教に関する講義を受けたとき、発見があったんですね。 それまでは、キリスト教が信者を支配しており、キリスト教が主で、信者が従の関係だと思っていた。 とろこが、実際は両者が交互に立場を変えているとわかった。 絶対的な力をキリスト教は持っているわけではなく、信者の欲望を満たすことで、支持されているとわかった。 告解ってカトリックにあります。 どんなことをやっても告白すれば罪は消えるという考え。 たとえ殺人をやったとしても、罪を許す権限が神から授かっていると認定されている人に告白すれば、許されるとされる。 こんなに悪人にとって都合にいいことをしないと、信者はついてこない。 だからバチカンってマフィアから多額の資金を受けていられるわけで、マフィアの幹部が死ぬ間際になると教皇はかけつけるってわけです。 教皇が死ぬ間際に「あなたの罪はぜーーーんぶ許され清らかになりました」と言えば、天国に行けるとされるので。 スポンサーであるマフィアが主で、教皇は従の関係。 本来の立場が逆転していますよね。 これを契約とするなら、そうかも。 映画のタイトル 思い出しました。 マンダレイ。 http://72.14.235.132/search?q=cache:NVtiNSUz2aYJ:d.hatena.ne.jp/seijotcp/20070131/p2+%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AC%E3%82%A4&cd=18&hl=ja&ct=clnk&gl=jp 『グレースはこれを、権力による非人間的な管理の手法だと捉え、憤慨する。それぞれの役割にハイアラーキーが与えられ、上下関係を構築するための暴力的な行為だと思われたからだ。しかし、映画がクライマックスになると、実はそのノートの中身を多くの黒人が既に知っており、コミュニティの秩序を保つためにあえて「各人がそれぞれの役割を演じること」を守っていたことが分かる。「マンダレイ」では、奴隷制度がただ漫然と続いていたわけではない。「自由や平等」よりも、奴隷であるがゆえ、虐げられる立場であるがゆえの幸福を選択していたのだ。』 マンダレイを見て、私はまるでグレースだと思った。 『物語の最後で、黒人の一人がグレースに対し、「農園の周りの柵はそれほど高くなく、ハシゴを使えばいつでも越えられたはずなのに、自分達がそれをしなかったのは頭が悪かったからだとでも思っているのか?」という趣旨のことを問う。つまりそこでは「役割から降りる自由」も、「演じ続ける自由」同様に実はあったのだが、彼らは「降りる」方がリスクだと考え(実際、映画の中では、「降りる」選択をした者は無惨な死を遂げている)、あえて「演じる」ことを選んでいたのだ。』 が、映画により私が悟ったこと。 『物語のラストでは、グレースを除くコミュニティの成員が全会一致である結論に達する。 それは、グレースを新たな「ママの法律」にすること。 元々はママもまた、「皆の嫌われ役になる」という役割を演じていたのであり、絶対的な権力者というわけではなく、むしろ「平等に」配役されたプレイヤーの一人にすぎず、秩序を管理するための共演者であったのだ。 実際、「ママの法律」は「ママ」が書いたものですらなく、 黒 人 の 一 人 が 「 み ん な の た め に 」 作 っ た も の で あ り 「ママの法律」は「みんな」が「幸せ」に暮らすための台本であった。 すなわち、コミュニティの成員は、「グレース型の自由と平等」よりも、 「マンダレイ型の自由と平等」 を選択していたと言えよう。 そして、それが映画の最後で「再」確認されたというわけだ。 グレースは黒人達のそのような希求に耐えられず、即座に逃げ出すことになる。そして、次の舞台へと駆けていくのであった。』 キリスト教もグノーシスです。 生きたまま超人(すなわち人間ではない物)になることを目指す集団です。 ですが、人間の欲ってきりない。 従って、これでよしという満足を得ることは無い。 満足できたら解脱するわけですが、解脱を望まず、グルグルと回ることに満足を感じるのではないかと。 グルグルと回り続けることに生きている実感を感じ、歯車から逃れるという目的をかかげながら、車輪から足を外さないのは、実は望んでなどいない と思えてならない。 マンダレイの住民を見ててもそう思う。 智が欲望に勝っていて、コントロールできなず欲すなわち信が暴走状態。 イドをコントロールし自我を形成するのですが、あまりにもイドが強いと、支配することはできない。 自我の無い状態。 智が何故信に敗北することになったのか。 智が無いからとしか思えません。 ほどほどがよろしい。 どちらも極端だと、歪んでしまうので。 いいかげんって結構重要なのかも。
お礼
こんにちは。kigurumiさん。 >いいかげんって結構重要なのかも。 なるほど。 >ほどほどがよろしい。 >どちらも極端だと、歪んでしまうので。 kigurumiさんがよく言うアリストテレスですね。 私は行動が極端だから中庸を学ばないと。 >満足できたら解脱するわけですが、解脱を望まず、グルグルと回ることに満足を感じるのではないかと そのうち私は仏教を肯定する予定ですが、往生を目指そうと思います。 >告解ってカトリックにあります。 >どんなことをやっても告白すれば罪は消えるという考え。 これと因果論が対立していたのかも。 文化の違い。 >マンダレイを見て、私はまるでグレースだと思った。 kigurumiさんはグレース >元々はママもまた、「皆の嫌われ役になる」という役割を演じていたのであり、 おや。 >グレースは黒人達のそのような希求に耐えられず、即座に逃げ出すことになる。そして、次の舞台へと駆けていくのであった。 次の舞台がどこか気になりますね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.4&1です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 今さらだけどキリスト教は啓示宗教だから、 むこうから「啓示」してくる。 女主人ソフィアが鞭で打ってくる。 それは愛。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ Zohar さんが どのあたりに力点をおいておられるのか まだ よく分かりませんが この言説についてでしたら おっしゃるとおりだと考えます。 つまり ★ 鞭で打ってくる女主人ソフィア ☆ は 《絶対》を 仮りに 人間の言葉で 表わしたものであるという前提においてです。絶対とわたしとの関係を――つまり 信仰を―― 《女主人ソフィアが鞭で打ってくる》と 物語ったものだと考えます。《人間は 受け身である / 焼物師に対しては その陶器でしかない / 要するに 絶対他力である》という意味においてだと考えます。 グノーシス主義は この《ソフィアの知恵や 鞭》を 人間が その想像裡においては あたかも使えるようになると言っているでしょうか。絶対の領域におけるそのような内容を想定することは 自由ですが 意味がない(つまり あるとも ないとも 決められない)と考えます。 グノーシス主義は その神ないしソフィアの物語に――善悪二元論は もとよりのこととして そのほかにも―― 飾りが 多すぎるという点で いただけないと考えるのが 妥当なところではないでしょうか。輪廻転生の物語と重なるところも あると言わねばならないのではないでしょうか。
お礼
>グノーシス主義は その神ないしソフィアの物語に――善悪二元論は もとよりのこととして そのほかにも―― 飾りが 多すぎるという点で いただけないと考えるのが 妥当なところではないでしょうか。 キリスト教の話だけするなら、それはそうなんですけど グノーシス主義には女神が登場するから。 母なる神ですよ。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.1です。Zohar さん ご返事をいただきました。 ★ よかったら三位一体論について教えてもらえませんか? ☆ わたしの表現は 最新のものでは 次のようです。定義集のかたちですが。 ○ たましい: (1)身体組織としての感性 (2)こころ (3)霊 ○ こころ: (1)感覚を意識し 認識すること。また 認識した内容。 (2)それらを基体として 自己および他者あるいは世界に相対するときの存在のはたらき。 (3)さらには たましいが霊としても捉えられるように 肉(つまり精神および身体)をあたかも超えて 伸びるかに思われるところがある。→《信じる》 ○ 信じる・信仰: 非経験思考(経験思考に非ず。または 思考とは呼べないのだが非経験の思考。または 表象しえぬものの その代理による表象)。あるいは 絶対とわれとの関係。→《絶対》 ○ 絶対: そういう想定である。経験的な相対世界を超えたところと規定し 想定する。 ○ 肉: (1)身体 (2)身体および精神 すなわち 経験的な存在の全体 ○ 精神: こころのこと。特にこころの(2)のはたらきとして 基本的に 記憶・知解・意志の三つの行為能力を捉える。 ○○ 記憶行為: 精神の秩序。感性内容を意識し記憶する。その組織・その過程。先験的に 存在じたい もしくは その自然本性じたいの秩序を司ると思われる。 ○○ 知解行為: 記憶組織という宝庫から ものごとを捉えて認識し さらにあらたな整合性をもった認識内容につくる。 ○○ 意志: 大きく広く 直接的にせよ間接的にせよ 記憶および知解を行為するときに すでに それらを促すように 発動していると思われる。知解行為の結果から 取捨選択し その内容を みづからの意志(おもむくところ)として判断決定する。実行にも及ぶ。 ○ 三一性(三つの行為能力の一体性): これら 記憶・知解および意志の三能力行為は 経験的・時間的な行為を為し 他者のそれらと 社会的な関係をむすぶ。このとき 時間的な隔たりを持って 三行為は けっきょくのところ 一体性を有すると考えられる。 社会形態(一般に国家)にあっては 順番に 司法・立法および行政という役割に それぞれ 相当する。 ○ 三位一体(三つの位格の一体性): これは 《絶対》という表象しえぬものを 人間のことばという代理物で 仮りに表象し仮りに表現しようとしたもの。 記憶能力が 父なる神。そこから生まれる知解行為が 子なる神。それら両者から発出するかのような意志行為が 聖霊なる神。 絶対の領域では とうぜんながら 三つのものは 一体である。三つのそれぞれの個は全体と 全体は各個と 各個は各個と それぞれ 等しい。無限の半分も三分の一も 無限である。 ○ 霊: 絶対のこと。 ○ イエスはキリストである: 霊なる神が 肉(精神および身体)になった。という物語。 ○ 人間: このキリスト・イエスつまり かみ=ひと なる存在に似るが それは 霊なる神を分有するというかたちだとされる。《絶対》によって触れられている。または その方向へ 窓が開けられている。それが 《分有する》という意味である。 ○ 人間は神の似像(にすがた)である: 三位一体のはなはだ不類似にして類似の三一性をそなえた人間は 神にかたどって 造られたと表現された。 一定の社会形態も 三権分立かつ協業というかたちで 一種の三一性を有し 似姿の様相を呈している。 無味乾燥に響くかも知れません。ぎゃくに 物語だと おとぎ話のように響くかも分からないと思いますが いかがでしょう。
お礼
bragelonneさん 今さらだけどキリスト教は啓示宗教だから、 むこうから「啓示」してくる。 女主人ソフィアが鞭で打ってくる。 それは愛。
- kigurumi
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ん? 両方ともオカルトで、どっこいどっこいですが、キリスト教の場合、自虐主義だと思える 両方とも善なるものを信仰しているわけですが、キリスト教の場合、主人と奴隷の関係で、主人は奴隷を鞭で打ち罰することで愛を示し、奴隷は主人に鞭打たれることで主人の愛を感じるって関係にある。 だから主人はなんとかして奴隷を鞭打つことを考えるのが仕事で、奴隷はなんとかして主人から鞭打たれることを考えるのが仕事。 サドとマゾの関係。 両者が了解しているので、良い関係を築いているわけです。 映画にドッグビルってありまして、2作目がキリスト教をよく言い当てていた。 主人は奴隷が罰せられることを望んでいるとしているから、鞭打ち罰していたし、奴隷は主人が自分たちが罰を受けるように望んでいるからとワザと悪いことをしていた。 グレースは、平等ということを教えに開放された奴隷たちの集団に行ったわけです。 智を持って彼らに平等を説こうと教育し、奴隷たちはその言葉に魅力を感じ、熱心に勉強するようになり、グレースは自分の欲求が満たされたと満足した。 人々に博愛を教えられたと喜んだわけです。 ところが、真実は、奴隷たちは自分たちを罰する女主人の役割をグレースに望んでいたと知った。 死んだ前の女主人は、悪人じゃなく奴隷たちが彼女に奴隷を痛めつけることを彼女に望んでいたから、その奴隷たちに望まれた役割を演じていたにすぎないと知った。 奴隷たちに望まれた以上、女主人から振り分けられた悪役を奴隷たちは確認し、その与えられた役割を奴隷たちは演じていた。 両者はまさにキリスト教の世界。 そして、奴隷たちに次の奴隷をいたぶる女主人の役割を迫られたグレースはとうとう本質通り、愛した奴隷を激しく力いっぱい打ち据えた。 奴隷に本質を見抜かれたグレース。 新たな奴隷を虐待する女主人にふさわしいと奴隷たちに自覚させられた。 「ああ 私は人々を救う天使の役割のはずなのに・・・」 『あんたは化けの皮をはげば奴隷を虐待する女主人なの! 奴隷たちはあんたにそれを望んでいるからその望みをかなえてやれ。 それが信仰者を支える つまり 愛だ。 自らの愛を示すために信者を虐待するしかない』 奴隷たちによって自分の本質を明らかにされてしまったグレース。 3作目はこのキリスト教をもっとも如術に現すグレースがどういうことをしでかすのでしょうね。 ニコール・キッドマンがまた演ずるらしいです。 グノーシスってどれがグノーシスなのかよくわからないのですが、少なくとも、人を罰する神、神に罰せられることを望むって歪んだ愛を認めていなかった。 人を罰する神は神の中でも低次元の愚かな神で、人々はこの独裁神の支配する世界に閉じ込められており、本当の高次元の神は別にいるはずだって考え。 支配者に捕囚され閉じ込められておらず、開放を求めている点では評価できます。 智と信という言葉とは違うと思います。 ユダヤ教の元はエジプトで奴隷として使われ手いた人を神が解放したってストーリーじゃないですか。 キリスト教は逆で解放された人々を再び閉じ込めた。 アメリカはそういう人々を奴隷化する宗教から逃れた人々で作られた国。 19世紀後半までは自由だったらしいです。 ところがベトナム戦争が起り、反戦活動が起り、人々は自由が辛くなり、自分たちを閉じ込める者を望んだ。 その欲望にマッチしたのが再洗礼派など福音主義派の教会。 人々は自由が辛くなり、自分を縛って閉じ込めてくれる教会にどっとつめかけた。 「縛ってください 手錠をかけて自由を奪ってください、奴隷になりたい もう自由はこりごりだ」 というわけで、せっかく開放されたのに、人々はまた牢屋に自らの意思で入ったってわけです。 人間って自分にきちんとした主義が無いと、自由が苦しくなり、縛ってもらわないと落ち着けなくなるのかもしれないですね。 高校生は制服を嫌がりながら、パラパラダンスというみんな同じ格好 同じ動きしかしてはいけないという集団に属することで安心感を得るでしょ? 結局 自由って辛いから、自由を得ても不自由にまた身を置くことで安心感を得られやすいから、そうなるんじゃないか と。 宗教ショッピングを繰り返す人も、結局 縛りをしてくれる物を常に望んでいるわけでしょ? これがグノーシスがはやらなかった理由じゃないかと。
お礼
こんにちはkigurumiさん >奴隷たちに次の奴隷をいたぶる女主人の役割を迫られたグレースはとうとう本質通り、愛した奴隷を激しく力いっぱい打ち据えた。 女主人は鞭で打つわけですね。 ただ黙っているだけの存在ではない 罵声を浴びせて鞭打つ女性。 そして奴隷はそれを喜ぶ。 >両者が了解しているので、良い関係を築いているわけです。 契約? 「知恵」を「愛する」ときの「女性」は黙って待っているだけで 「啓示」を「与える」女性はむしろ鞭打つ「女主人」なのかも。 >それが信仰者を支える つまり 愛だ。 自らの愛を示すために信者を虐待するしかない >人を罰する神、神に罰せられることを望むって歪んだ愛 >「縛ってください 手錠をかけて自由を奪ってください、奴隷になりたい もう自由はこりごりだ」 >人間って自分にきちんとした主義が無いと、自由が苦しくなり、縛ってもらわないと落ち着けなくなるのかもしれないですね。 何もかもが混じりあってわけのわからなくなったヘレニズム時代も そうだったのかもしれませんね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 二つの側面があると考えます。 ひとつに 知に対しては 知を持って来て それらの優劣を判断するものだという側面です。もうひとつは――ほとんど 同じことですが―― 《信》は 経験的な《知》の世界を超えたところに 非経験の領域として想定されるものであるということです。 後者の性格からいけば 比較対照するには 次元がちがいます。 前者の点は 経験合理性による判断の問題です。 つまり 信にかんして いくら経験世界を超えた領域だと言っても――それは 一般に 神ということですが―― その神とわたしとの関係が 信なのですから その信にもとづけば 経験合理性で判断できる経験知として どういうことが言えるのか これが 問題になります。そのように 次元を同じくして 知と知とで いわば争います。 そのあらそいの焦点となり グノーシス主義の決定的な欠陥であることは 絶対者の領域に 善とそしてその反措定である悪との二元を想定するところです。 そうしますと もしこの善なる神と悪なる神との言わば対等なる共存が 想定されますと この経験世界において 人間が考えおこなうことのすべては みな そのどちらかに根拠があると ひとは言いだすことになるからです。 もっと早い話が どれだけ悪と呼ばれることをおこなっても 悪なる神に根拠があるのだからという理由で 悪を改め善に就きなさいという側の議論を しりぞけ得たと思ってしまいます。 そうなると 世の中 すべて まったくののっぺらぼうの世界になります。何が人間の意志であって かにがわたしの主張であるのか いっさい どうでもよくなり 何ごとも やったもん勝ちであり 勝てば官軍であり 世の中 飲めや歌えや主義が 正解となります。 善悪二元論という想定が まちがいだと じんるいは 判断を下したと思われます。 なお よろしかったら 次の質疑応答をも参照してください。 【Q:グノーシス主義の良さをおしえてください】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3183765.html ○ 絶対者における善悪二元論がいけないという議論です。 【Q:ユダの福音書の何が注目されるのか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531741.html ○ 1000827313 さん(No.5&11)が ユダの福音書におけるグノーシス主義を取り上げ それには 見るべきものがあるではないかと主張しておられます。それは むしろ イエスを立てるために 行動しているのであり わづかに 《裏切り》のあとでは もう 身を引いたという見解のようです。 ○ そのあと arayata333 さんとわたしも いくらか このグノーシス主義をめぐって 追究しております。
お礼
bragelonneさん 私は今回の質問より先に「ヘルメス・トリスメギストス」の質問をしたんですが そこでの回答を読んでいて思いました。 三つのものが一つになる… これって「三位一体」? そしてbragelonneさんは善悪二元論と絶対者の一。 一、二、三 もしかしたら新しく質問するかもしれませんが よかったら三位一体論について教えてもらえませんか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 >クノーシス的な考え方(ヘレニズム的考え方)がローマ帝国内で行われなくなり、グノーシス派は衰退してゆきます。 グノーシス派はヘレニズムの思想なんですね。 >キリスト教グノーシス派は、個人個人の考え方に差が大きく、統一的な解釈が存在しないことも弱点でした。 教義の継承をするためには「統一的な解釈」が必要になる… >あくまで文化の違いによるものです。 勝ち負けではなく、「文化の違い」 文化の違いって大事なんですね。 今さらわかりました。