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愛洲移香斎と上泉信綱の関係
1.愛洲移香斎と上泉信綱は出会ったことがあるのでしょうか? 2.どちらが強いと考えたら宜しいのでしょうか?
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- Kage-Ryu
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回答No.2
1.愛洲移香斎と上泉信綱は出会ったことがあるのでしょうか? ございます。 神道流=新當流(新当流)=影流が一般に公開されてからは、 初代愛洲移香斎久忠様→二代愛洲小七郎元香斎様→三代上泉伊勢守信綱様です。 2.どちらが強いと考えたら宜しいのでしょうか? 愛洲移香斎久忠様でございます。
- phantasie
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回答No.1
愛洲移香斎久忠は陰流の創始者。そして上泉信綱は兵法を松本備前守政元または塚原ト伝高幹に、それぞれ神道流(新当流)など香取・鹿島系の兵法を学んだとも、念阿弥慈恩にはじまる念流を学んだとも伝えられていますが、その流名(新陰流)でも察せられるように愛洲移香斎の陰流を中心に諸流を勘案して新流を創始したように思われます。 では、上泉信綱が陰流を誰から学んだかについては、享禄二年(1529)信綱22歳の時、78歳の移香斎から陰流を皆伝されたという説(正伝新陰流)と、陰流二代目の小七郎から学んだとする説(武芸流派辞典)、小七郎から学びはしたがそれはヒントを得たに過ぎず、松本備前守政元の神道流を主流としたものとする説(上毛剣客史)があります。しかし、伝書史料によって判断するのであれば『正伝新陰流』の説をとらざるをえないことから、二人は出会ったことがあると考えるのが妥当だと思われます。 どちらが強いかというのは、ちょっと判断が難しいところですね…。
お礼
22歳というとまだ大胡に居た時分? 場所的にはかなり離れている気がします。 (未だ武者修行はなかったでしょうから、小七郎から学んだとした方が、よさそうな気がします。 大胡を離れてから修行の旅に出たようですから。) 少し分かったような気になりました。 有難うございました。