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復活とは? 不死の境地とは?

bananasandの回答

回答No.27

最初に・・ ”霊”という漢字を使っているのですが、幽霊とか、それこそ日常で使う 霊 の意味とは全く別のことを 表しているので、継ぎ接ぎで読んでいる方には誤解を受けるでしょうね。 それはさておいて、 選択においては、 《ある》が故に《ない》ではない。 《ない》が故に《ある》ではない。 で終わります。 同一の論理をもってしても、正しさが異なる場合、理解に方向性を持ちますので、 《ある》かつ《ある》、《ある》かつ《ない》、《ない》かつ《ある》、《ない》かつ《ない》 ですね。 そこで、(3)の《ある》かつ《ない》、《ない》かつ《ある》で、 >(3-1) ★ 時空間宇宙の《日常》と《実相》との違い  ☆(3-1)について:同一の現象を二人の人が 違って観測した場合。観測の地点や情況やあるいは主観の違いによって 異なりうる。――このこと自体は 超経験と かかわらない。  ここが、最初にANo.12で記載したとおり、ご質問の一番難しいところです。  社会性は日常性の上に成り立っていますから、時空間宇宙の実相を改めて日常が完全に取り込む必要があります。  日常を作り出しているのは、我々であって、時空間宇宙ではないということですね。  当然、時空間宇宙なしには日常は成り立ちませんし、日常の全ては時空間宇宙に包含されてますよ。  しかし、端的に言うと日常を日常たらしめているのは我々自身ということですね。。  時空間宇宙の実相を取り込むというのは、時空間宇宙には実体がないということであって、  実体をあらしめているのが我々だと言うことでしょうか。  今の常識的日常という視点で見た時間と空間は、時空間宇宙の実相とはかけ離れた人間知性に都合の良いいわば解釈である  ということです。   >――このこと自体は 超経験と かかわらない。    そうですね、この段階で超経験とは関わりません。   >(3-2) ★ 《特異点》の問題: ☆(3-2):★ 《特異点が日常ではないにしても当選確実だからですね。是非ここまでは経験の範疇に入れてください》という表明のとおり なおまだ《経験世界》のことなり。  特異点定理で特異点は避けて通れない問題となりました。量子重力論などによって特異点の数学的点は否定される  日が来るでしょうけど、微少の特異量子(造語)の存在は間違いないでしょう。  この特異点は、《ある》かつ《ない》を最も端的に実証するものの一つです。 >(3-3) ★ 人間精神を超えた霊が 精神の中に入り込む事態 ☆(3-3):これは 《接点》の問題として捉える。じつは (3-1&2)の場合にも 超経験は 経験現実とかかわらないけれども すでに 接点を持っているかも知れない。《超えている》ということは 《包んでいる》そして ゆえに《接している》と想定しうる。  我々はどうしても「時間」を消費しないと思考できない存在ですからこればかりはどうしようもありません。  物質、エネルギー、時間の要素を含まない精神的なものを思考しているのですから・・・かといって、否定しうる根拠も半分しか見あたりません。  霊との直接接点はありませんし、実体は知り得ません。だから、《ある》《ない》のみの思考となります。 >☆(3-4):おそらく《これゆえ 人間知性は 驚異的能力を持つ》。ただし 《霊との直接対面が 人間にとって 絶望的である》のは 初めからの想定事項だ。  そうですね。 >☆(3-5):このような《霊と人間》との関係は しかしながら 《二元の対立》ではあり得ない。どちらかと言えば 《越えたほう・包むほう》が 根元だ。その霊を分有するかのように《宿す》ほうは その霊に 基本的に 従属している。要するに 人間に勝ち目はない。  勝ち目かどうかは解りませんが・・・超えているものが根元でしょう。  霊は時空間宇宙を包んでいるでしょうね。しかし、我々は時空間宇宙から遊離してしまっているのです。  つまり、我々の脳細胞は霊に包含されていても我々はそこから遊離しています。独立してしまっているのです。 >☆(3-6):ゆえに ・・・・・・・・・・・・・・最大限に尊重しようとして 出来た理論なのではあるまいか。  時空間宇宙の実相、即ち、《ある》かつ《ない》からのインスピレーションに過ぎないと思いますよ。 極く単純です。 >以上は 《包摂》観を実相とする思想に立つと 日常生活でわれわれは(わたしは) 身動きがとれないようになるのではないかと恐れて 考えたところです。一応 ボールをお返しできたかと思います。  そうですね。日常の延長線上に社会性がありますから、今の日常に、単純にこれを入れると  身動きがとれなくなるというところもこのご質問の非常に難しいところだと思います。恐怖でさえあります。  そこに潜在力があり、遊離した「生」を焼き尽くし、復活させる熱さがあります。

noname#80116
質問者

お礼

 bananasandさん。総じて 前回のわたしの応答でよかったと思います。  最後の箇所 すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  今の日常に、単純にこれ(* 霊は存在でありかつ非存在である両面肯定論)を入れると / 身動きがとれなくなるというところもこのご質問の非常に難しいところだと思います。恐怖でさえあります。  そこに潜在力があり、遊離した「生」を焼き尽くし、復活させる熱さがあります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを わたしも さらに 追ってまいります。にわかには 思考が進みません。  一点 ひっかかっているところが あります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   霊は時空間宇宙を包んでいるでしょうね。しかし、我々は時空間宇宙から遊離してしまっているのです。  つまり、我々の脳細胞は霊に包含されていても我々はそこから遊離しています。独立してしまっているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《時空間宇宙から遊離してしまっている》なら 《霊》の領域にある ということでしょうか? その《独立》とは これいかに?  ちょっと 分かりません。上にあらためて掲げたわたしにとっての新知見のほうで  ★ 遊離した「生」を焼き尽くし  ☆ というふうに 《遊離》が使われています。もし この意味あいで捉えるなら どうなるでしょうか。或る種の仕方で 《我々またその脳細胞 あるいはつまり われわれの生》 これが 霊の領域に行ったというのではなく そうではなく 単純に さまよっているというところなのでしょうか?  この日常の社会生活において われわれは 《わたしが わたしである》状態を見失っている ということでしょうか?  もしそうでしたら No.25の補足欄に 或る程度のことを書きこみました。よろしかったら たたき台にしてください。  それこそ 火花が散りましたね。  そして 有神論と無神論のほかに 非思考(信仰)などどうでもよいと主張したがる第三の道 これは ありうるかの問題にも 一定の回答が得られたのではないでしょうか。よかったと思います。  * 特異点は あくまで 経験世界に属するのでは?

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