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ユダヤ教系の一神教特有の楽天主義とは?
- 一神教の信者だけが自殺を犯罪と考えているとされるユダヤ教系の楽天主義について、著者は関心を持っています。
- 全ての宗教が楽天主義であるという通説がある中、一神教の義務づけられた楽天主義について詳しく知りたいと質問者は述べています。
- 質問者は、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教に限定した義務づけられた楽天主義についての解説を求めています。
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No.1,2です。 >私は、彼が道義を説いたとは思っていません それは彼が「絶対的な人の生き方を説いていない。」ということならそうかも。 尚、彼は、、、こっちが早いか。 ↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC ここの<自殺論>ってところ。 『セネカなどのストア派は回復の希望のない苦痛を忍ぶよりは自殺を推奨するものであるが、ショーペンハウアーはこれに対する共感を語ってはいる。反面では、自殺のもたらす個体の死は、けして意志の否定による解脱を達するものではない点、虹をささえている水滴が次々に交代しても、虹そのものはそのまま残るようなものであって、自殺は愚行にすぎないとも説かれている。』 さらに、 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1164.html 『ショーペンハウアーの哲学は「意志の哲学」であって、「存在の倫理学」である。 その意志と存在は、第1には「共感」によって支えられている。第2に、この共感を動かす動機は「同情」(シンパシー)にある。まずはこの共感と同情によって世界があらわれてくると、みなされた。』 ちなみに、共感ってのは、同じ気持ちになることではなく、「そういう気持ちなんだ」と相手の気持ちがどういうものか<理解する>こと。 とうことからして、 >彼は自殺の肯定論者なのでしょう ううん。 松岡正剛氏のサイトの解説だと、 ↓ 『ただし、ここからは強靭な推理力が必要になってくる。なぜなら、これまでショーペンハウアーはしばしば誤解されて「自殺の擁護者」などと揶揄されるのだが、どっこい、ショーペンハウアーはまったくその逆の哲学を打ち出し得た最初の哲人であったからで、そのような、一見、逆説的な印象のなかでショーペンハウアーの「共苦の哲学」を語ることが、一般にはかなり難解だとみられているからだ。』 だそうです。 >ショウペンハウエルの説は、もう少し高尚で、「キリスト教はその最内奥に、苦悩(十字架)が人生の本来の目的である、という真理を含んでいる。それ故にそれは自殺をこの目的に反抗するものとして排斥するのである、~」と言っています。 これは、支配者が、被支配者にそうあるべし と押し付けた結果 そうなったんじゃないか と。 一種の去勢。 去勢すると、被支配者は、はむかわないでしょ? 支配者に絶対服従になり、支配者がおかしいと気づきにくくなるでしょ? 2.ですけど、神話のイエスと、史実のイエスと考えて、どの話が史実で、どの話が古代からの神話のパクリか、分けて考える必要があると思うんですね。 1)ですけど、まず イエスって聖書にしか登場しないんです。 いろいろな歴史家が、その当時も含めた歴史の記録を残していますが、誰もイエスについては書いていない。 マイナーだったのでしょうか。 それとも、そんな人などいなかったから、当然いない人のことは書けなかったからでしょうか。 >自らを自らの意思によって十字架に赴かせた。 ↑ この部分は、神話の方が、理解しやすいかも。 自らの意思じゃなくて、万物の法則で、そうなっていたから。 ただし、地球のある地点から観測しないと、そうならない。 文章で説明するより、動画を見てもらった方がわかりやすい。 けど。。。。 リンク貼ると駄目なんで。 ヒントは、、ニコニコのZeitgeist 1/6 の10分後から。 2)は、ユダがどの惑星に該当するのかは、わかりませんが、ひとつの情報としては「うらぎり」と訳されたものが、その当時はそういう意味じゃなかった って何かの本で読んだことがあります。 「選ばれた」だったか、、、とにかく 裏切り者とはぜんぜん違う意味なのだとか。(忘れました。) 3)は 私もそう思います。 というか、イエスは実在しませんでしたが、、、、 イエス(ヨシュア記)では、異民族の土地を奪って、子供からなにから虐殺していますよね。 人を殺してはいけないが、神の命令ならOKなのか? いえ、この殺してはならない は、イスラエル人同士限定。 異邦人に対しては、10戒の法律は適用されないので、殺して処女だけ生かしておいて、子供をはらませた。 (聖書には、はらませた までは書いてありませんが。) で、キリスト教は、それを拡大して、イスラエル人以外にまでしちゃった。 でも、なぜか異邦人を殺している。 (十字軍とか、魔女裁判とかで。つまり、イスラエル民族限定だったものを、キリスト教徒限定に変えただけ。) メシアって油を注がれた者、つまり聖別された者って意味で、聖婚で女神の地上の体現者の相手に選ばれた者って意味だったと思えるんですね。 で、ギリシャ語には、その概念の語彙が無かったのか、救世主を意味する、キリストって翻訳したらしいんです。 ローマでは、救世主ユピテルがあがめられていた。 皇帝は、ユピテルの地上の体現者とされた。 ユピテルはゼウス。 キリスト教は、神をデウスと言う。 4) >新約聖書をもってキリスト教の経典として代用してしまうとは、キリスト教徒とは何と楽天家なのだろう。 うーん あっち方面の神話を用いたわけですから、、、 イエスがいたとされるより、何千年も前からあった神話をモチーフにしています。 が、もうそろそろ終わりですね。 動画をみれば、どうして終わりとされるのかが、わかります。 >新約聖書をユダヤ教の経典として認めないユダヤ教徒とは何と頑迷なのだろう。 ユダヤ教は、タンムズ神話を取り入れています。 毎年身代わりに生贄にされるタンムズ。 よき羊飼いタンムズ。 あの動画見ると、どうして毎年身代わりに生贄として、十字架に貼り付けになるという神話があるのか、わかると思います。 あっち方面では、そう見えるから。 本の紹介 ありがとうございます。 手に入れてみようと思いますが、松岡氏も難解で誤解されやすいと述べているように、彼の思想(言いたいこと)を理解するのが難しいみたいですね。
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- kigurumi
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No.1です。 >陳腐であろうとなかろうと道を説きつつ自殺を肯定するのは自己矛盾も甚だしいです。 道を本当に説いているのでしょうか? ショーペンハウエルは、宗教側は自殺の否定の説明の根拠が不明瞭で、説得力に乏しいにも関わらず、「自殺は悪である。だからするな。 以上!」と、責任を放棄しつつも、するなよ と断言しているこの宗教責任者の罪を告発したのではないか と。 自殺した信者は、教会の管理する墓地に埋葬されません。 彼らは罪を犯した穢れた者とされるから。 フランダースの犬ってあるじゃないですか。 ネロは見捨てられ、教会の中で餓死したわけですが、私それを見て、どうして教会は助けてやらなかったのだろう?と思いました。 まあ、創作文学ですが、実際、マザーテレサが教会を去った理由も、同じですよね。 教会が恵まれない人たちに見向きもしなかったので、教会にいやけがさして、教会を出ていった。 私はイエスの磔刑の逸話は事実じゃないと思っています。 創作文学ですが、それにしても、イエスの死は、どうみても自殺ですよね? 自分で死ぬように計画して、仲間を説得して自殺した。 ユダは自殺ほう助をしたわけです。 その宗教が自殺をすることは罪で、天国に行けないというのなら、イエスは地獄に落ちているはずです。 信者 みんなでイエスの元に行くのなら、みなさん 地獄に行くことになりますね。 キリスト教が自殺を罪だとしたのは、殉教すれば天国に行けると思った人たちが多数出たことに、ストップをかけるため ですよね? イエスと同じことをすれば、天国に行けると思った信者が、自殺しまくった。 元い、自分が殺されるようにした。 布教を推進したあげくに殺された場合、殉教として、誉められた時代があったからですよね。 まあ 他にも奇怪な風習があったのをやめさせるためとか、神が人間の運命を決める権限をもっているのに、自分でそれを変更することが罪だ とか そんなのがキリスト教が自殺を罪だからダメだと信者に義務づけたわけですよね。 と、そういうこと言ったところで、何の良きことは出てこない。 もし ショーペンハウエルが仏教に出会っていたら・・・・。 その本 本屋で探したのですが、どこにも無くて、読まないことには、彼の真意がわからないと思っていたのですけど、、、 本屋に無いし。。。 ネットでもう一度探すか って検索かけていて、こんなん見つけました。 ↓ 『仏教経典にはお釈迦様が僧侶の自殺を認めた記載があります。 しかし前回お話し したように、お釈迦様は苦集滅道を説かれました。 ここで苦と翻訳された言葉は「思い通 りにならない」という意味です。 生老病死他の四苦八苦が生まれる原因は「愛欲と生きる 欲望と死の欲望の三つである」と説かれた。 これらの欲望が制御された状態が涅槃であり、 思い通りにならない四苦八苦を思い通りにしようと苦しむのを止めて、思い通りにしたい と思う自分の心の方を制御する。 従って仏教の僧侶は、自殺を望みはしないが、生きるこ とにも執着しないのであり、これは尊厳死の立場と共通するものです。 しかしこれは僧侶 の場合であって、全ての人に尊厳死を勧める訳ではありません。他人に対しては慈悲を実 践するのが仏教です。』 高みから下界を眺めて、「がんばれよー これは命令だ お前らの義務だ」って言うことは誰だって出来る。 そうではなくて、自ら下界に下りたち慈悲をかける。 このことに価値があるように、私には思えるんですね。 仏陀は高みに上がっていく途中で、下界に救われない人々がいると気づき、彼らを残して自分だけ行くべきじゃないと思い、上昇するのをやめ、下界に戻った という逸話がある。 ユダヤ教の逸話では、エロヒムとシェキナが天空を納めており、エルサレム神殿がローマ帝国により破壊されたとき、シェキナは地上に下りたとされます。 それ以降、天空はエロヒムが1人で納めているとなっている。 シェキナとは慈悲という意味もあるそうです。 慈悲があるのなら、自殺した信者も教会の墓地に埋葬すればいいのに。。。 そんなことしたら、信者の自殺率が増加する? 「そうじゃないでしょう 信者が自殺するのは、あなたがたに慈悲が無いからでしょう。高台から下りろ 馬鹿どもめが」と言いたい。 自殺した人を埋葬したら神が穢れると言うが、その程度で神が穢れるのなら、その神大したこたーねー と思います。 何もしなかったあげく、 汚い って。。。。 身勝手すぎる。 楽天主義ってのは、要するに高いところから下界を見下ろす何もしない幹部たちのことをさしているんじゃなでしょうか。 聖書にも足が萎えた幹部をイエスは痛烈に批判しています。 高い壇上から見下ろし説教をするだけの幹部をイエス作家は足の萎えた人 と批判している。 つまり、これらの宗教幹部者は 全員 地獄行きってわけですね。 イエスから嫌われているので。 イエスは存在しなかったと知って一番喜ぶのは、キリスト教の幹部たちでしょう。
お礼
「補足欄」から続く 3 自殺と仏教といえばショウペンハウエルはこういっているので抜粋しておきます。 「またインド人のもとでは周知のように自殺は宗教的行為として出現してくる。――たとえば、寡婦焚死とか、ジャガノートの神車の轍の下に身を投ずるとか、ガンジス河や寺院の聖池などの鰐に身を捧げるとかいった風のことである。」 4 >>キリスト教が自殺を罪だとしたのは、殉教すれば天国に行ける~殉教として、誉められた時代があったからですよね。 こういう要因もあったのですね。今の私の知識では、そうかも知れないとしかいえません。話が発展せず張り合いのないことで済みません。一つの説として傾聴します。 5 >>楽天主義ってのは、要するに高いところから下界を見下ろす何もしない幹部たちのことをさしているんじゃなでしょうか。 これがキリスト教固有の楽天主義という訳ですね。これも4と同じで生返事しかできません。済まない事です。知識の基盤を共有している人同士ならビンと来るのかも知れません。 藪から棒で、説明もなく「義務づけられた楽天主義」なんて書いて欲しくないです。 6 自殺にもショウペンハウエルにも特に関心が有る訳ではありません。「安楽死」絡みで「ケオス島の棄老伝説」を追いかけていたら何時の間にか、この著作に辿り着いていたのです。桶屋さんの懐事情を調べていたら季節風の研究に行き着いたようなものです。 お薦めする訳ではありませんが絶版ではないようです。http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/3/3363210.html。図書館と言う手もなくはなさそうです。 ご回答に焦点の合ったお礼にならなくて済みません。もうちょっと噛み合った返事が書けないかと躊躇っていましたが、あまり遅くなってもいけないので送信してしまいます。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
補足
1 >>道を本当に説いているのでしょうか? ショウペンハウエルに対する印象は着包みさんと私では理解の深浅(浅が私。自明のことをわざわざ断る辺りが私の念の入ったところです)に違いはあっても、当面ほぼ共通しているのではないでしょうか。私は、彼が道義を説いたとは思っていません(事実は承知しません)。 私が記したANo.1の補足欄の2の真意を申し述べます。 適否は承知しませんがショウペンハウエルは自殺を否定しなかった著名人として、しばしば名を挙げられていませんか。どうかすると「しかし、彼自身は人生を全うした」なんぞという記述もあって、そんなに自殺を肯定するなら、さっさと自ら実行するべきだったのに、と言わんばかりの表現にすら出合います。無条件ではないにしても彼は自殺の肯定論者なのでしょう。私見では、これは彼が道を説く人物ではないからです。彼が道を説いたとは思っていません。 これに対して横丁の隠居、説教愛好家、我が輩は社会の指導者層を形成している一員であるぞよ、と勝手に錯覚している各界各層の面々……、こういう何処にでもいる街の道学者は道を説くのが大好きで、その結果、自殺を敵視します。多分、自殺をするのは我が輩の言うことを信じないからだという思い込みがあるからでしょう。また、自殺者が出るとお前の力量が足りないからだとか、お前の説教力が足りないからだと責める人間が現れることになりかねない、と警戒心が働くのだと想像します。これに属する最たる者が宗教家です。我が説教に従順であれば褒美が沢山与えられるぞよと説いているのに、自殺者はそれを信ぜず、あからさまに否定するからです。つまり理論上、説教人間は自己防衛の観点から自殺を否定するのが必然なのだと考えます。これが「道を説きつつ自殺を肯定するのは自己矛盾も甚だしいです。」の真意です。これは私の説です。 ショウペンハウエルの説は、もう少し高尚で、「キリスト教はその最内奥に、苦悩(十字架)が人生の本来の目的である、という真理を含んでいる。それ故にそれは自殺をこの目的に反抗するものとして排斥するのである、~」と言っています。 以上、私見によれば宗教と自殺は敵対関係にあって当然です。ショウペンハウエルが何者かは知りませんが、僧侶が自殺を忌避・嫌悪するからといって、こんな当たり前の理由で僧侶を攻撃するなんて、この点だけで言えば彼の眼力も大したことないなぁ、と思ってしまいます。「陳腐であろうとなかろうと道を説きつつ自殺を肯定するのは自己矛盾も甚だしいです。」、ここでいう「道を説く人」にショウペンハウエルは入れてありません。 2 >>イエスの死は、どうみても自殺ですよね? これは全く同感です。一例としてヨハネによる福音書11章45節以下を資料として次の仮説を立てています。 (1)ローマとその傀儡ユダヤ勢力の意向を汲んで、イエスは危険人物視されていた自らを自らの意思によって十字架に赴かせた。これによってローマの弾圧を緩和しユダヤ人の自治とエルサレムの神殿を守ろうとした。にも拘らずユダヤ戦争を防げずイエスの企図は水泡に帰してしまったのですが。 (2) イエス磔刑はイエスとユダの合作ではないのか。(1)のイエスの意図を最もよく汲んでいたのはユダではなかったのか。ユダの死はイエスへの殉死でないのか。後世の早い時期に、自殺は教義を心底からは信用していないことの表れだということに気付いて、イエスの死が自殺でないことにするためにユダに罪を擦り付けたのではないのか。 (3) 私が聖書を読む限り、イエスは人類の救済ではなくユダヤ人の救済のために生きたと思う。イエスが異邦人のために何かを成したという記述を聖書に見つけるのは難しい。イエスはメシアではあってもキリストではない。 (4)今の新約聖書の内容はユダヤ教の経典にはなっていても、ユダヤ教と敵対する宗教の経典とはなり得ないと思う。新約聖書をもってキリスト教の経典として代用してしまうとは、キリスト教徒とは何と楽天家なのだろう。また、新約聖書をユダヤ教の経典として認めないユダヤ教徒とは何と頑迷なのだろう。新約聖書を巡って捻じれ現象が起きているのは傍観者にとってトテモ、オモシロイ。 以上、俄か聖書読み、臆面もなく、ぺらぺらしゃべるの巻でした。 「お礼欄」に続く
- kigurumi
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その本を読んでいないので、受け取り方が固定できないのですが、、、 >これは「自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ教系の宗教の信者達だけである」 作者は本当にそう言っています? 昨日さーっと調べた限りにおいて、、、、 彼は「聖書には自殺が悪であるというは書かれていない。にもかかわらず、自殺が悪であるという認識を我々は持っている。 どうしてか、誰が一体 自殺は悪だとしたのか」と言っているとか、、、、」そんなことが昨日読んだブログに書かれていたような。 (すいません そのブログ探したんですけど、検索キーワードが違うのか、今日は出てこない。) 宗教団体が、信者に自殺してはいけない どんなことがあっても生きろと義務を与えたわけでしょ? 重病で、苦痛にのたうち、あと数ヶ月の命の人にも、臓器が完全に停止するまで自ら命をたつな、悶絶しながら痛みに耐えろ と誰が義務だと強制して、楽をしているのか。 「神様が救ってくれるから、苦痛に悶絶しちゃってくださーい、あなたに信仰心があれば、天国に行けるから~ まー がんばっちゃって 生きてくださーい。 神様が迎えにくるまで、決して神の計画を邪魔しちゃいけないよぉぉ それがあんたの義務だじょ~。 邪魔したら地獄に落ちますぞ~。天国生きたいでしょ~ じゃあ 痛みを絶つため自殺しちゃ駄目。」 って言い切って楽をしている楽観主義者って誰?
補足
1. 前半の >>作者は本当にそう言っています? にお答えします。 私の読解力によれば著者は、そう言っているし、またご覧のブログの記事もこれに必ずしも矛盾していないのではないかと想像します。私の見るところ、 ・ブログがいう「聖書には自殺が悪であるというは書かれていない。」は著者の見解に一致しています。 ・ブログがいう「自殺が悪であるという認識を我々は持っている。」は我々を、著者を除く「神学者たち」や「僧侶ども」の強い影響下にある市民一般と読めば、これも著者の見解に矛盾しません。 ・ ブログがいう「誰が一体 自殺は悪だとしたのか」の答が「一神教の宗教の僧侶ども」であれば、これも著者の見解に一致しています。 即ち著者の記述とブログの記事に矛盾が有りや無しやは、ブログのその他の箇所の記述次第だと判断します。 引用文の原文は PARERGA UND PARALIPOMENA: KLEINE PHILOSOPHISCHE SCHRIFTEN 1851 Arthur Schopenhauer の第2巻13章と推定します。第10~14章の何れかであることは訳者の跋文によって確実です。なお、質問文は岩波文庫P.73~P79の関連です。 この章、即ち「自殺について」は全4節構成で、1節は “私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ教系の宗教の信者達だけである。ところが旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関する何らの禁令も、否それを決定的に非認するような何らの言葉さえも見出されないのであるから、いよいよもってこれは奇怪である。” こう書き出され、 “一神教の宗教の僧侶どもが、聖書によってもまた適切な論拠によっても支持されていないにも拘らず、あんなにも並はずれて活発な熱心さをもって自殺を排撃しているのには、何かしらその底に隠された理由がひそんでいるに違いないように思われる。その理由というのは、自発的に生命を放棄するなどとは、「すべて甚だ善し」と宜うたあの方に対して余りに失礼な、というようなことではあるまいか。――もしそうとすれば、ここにもまたこれらの宗教の義務づけられた楽天主義が見出されるというわけで、この楽天主義は自殺から告発せられないように先手を打って自殺を告発しているのである。” こう終わっています。この間、口を極めて神学者や僧侶を罵倒していると読みます。が、正しく読んでいるとは主張しません。それはともかく、ブログとの矛盾は予感しません。 2. >>宗教団体が、信者に自殺してはいけない どんなことがあっても生きろと義務を与えたわけでしょ? 後半のこれ以下は読後感が不鮮明で適切な返事ができません。 宗教と限らず「オイラの言うことを聞けば幸福になる」、「アタイの言うことを聞けば幸福になる」と給う説教好きな街の三文道学者は全て自殺を嫌悪・忌避するのが当然で、陳腐であろうとなかろうと道を説きつつ自殺を肯定するのは自己矛盾も甚だしいです。私自身は、ましてや宗教家が自殺を嫌悪するのは必然の結果で、こんな理由で僧侶を攻撃するなんてアホカイナと思っています。今日の人間が、今日の宗教そのものを攻撃するなら理解できます。 焦点が結びませんが、取り急ぎ前半へのお答えのみ。
お礼
(補足欄から続く) 6 反応が乏しいのも立派な情報の一つです。唐突に「ユダヤ教系の一神教特有の楽天主義」と言われても、多くの人には心当たりがなさそうなのが判りました。また、「今日現在の、全ての宗教は楽天主義である」というのも、世間の通説や思想界の定説とはなっていないらしいのが判りました。私固有の感じ方が一つでもあると人真似でないような気がしてうれしくなります。 7 そうそう、「ショウペンハウエルに対する印象は着包みさんと私では理解の深浅(浅が私。自明のことをわざわざ断る辺りが私の念の入ったところです)に違いはあっても、当面ほぼ共通しているのではないでしょうか」、こんなことを勝手に決めてはいけません。撤回します。共通しているなんて矢鱈に判断すべきことではありません。済みませんでした。 きょうこそは、きょうこそはと思いつつ誠実さと責任感の欠如からご返事がとても遅くなりました。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
補足
1 ショーペンハウアーが自殺をどうみているかですが、 「彼は自殺の肯定論者なのでしょう」・・・・・・・・・・・・・・・・・・(a) 「無条件ではないにしても彼は自殺の肯定論者なのでしょう。」・・・・・・(b) 「無条件ではないにしても彼は自殺を否定してはいないでしょう。」・・・・(C) 私の言語感覚では(a)と(b)では随分違います。 私は(a)だとは思いませんが、(b)だとは思います。(c)くらいに緩和したほうがよいというなら従えます。 「自殺について」には次の記述があります。 (1)――自殺に反対せらるべき唯一の適切な倫理的根拠を、私は私の主著の第一巻、第六九節のなかに述べておいた。その根拠はこうである、――自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗することになるものであるということ。 (2)~悪行にともなうところの倫理的非認というよりもむしろ、彼の行為に対する一種嘆賞の念がかえってしばしばいりまじることであろう。 (3)我々には余りにも必要な最後の避難所なのであって、これは坊主どものただの命令などで我々からとり去らるべきものなどではないのだ。 質問人注)(3)は[異文]としてあって、初版にはなかったようです。 (1)からは僧侶とは別次元の観点から、彼が自殺に反対する考えをもっていたことが判ります。これは読み落とせません。同時に(2)、(3)もあります。(2)で言う通り、自殺者に対して倫理的非認の情が湧かないか希薄であるならば、自動的に(1)でいう反対の理由が消えるか希薄になるということです。時に嘆賞の念がまじると書く著者が全ての自殺は愚行であるというとすれば詐欺みたいなものです。嘆賞の念がまじる者は無条件では否定しないと読みます。 (3)では「最後の避難所」といい、「とり去らるべきものなどではない」と言っています。こう言いつつ「全ての自殺は愚行である」と主張するとすれば、それも詐欺みたいなものです。 以上、(a)ではないが(b)、(b)と言って悪ければ(c)までなら譲歩する所以です。 それにしても、(1)では悲哀の世界からの救済と言い(3)では最後の避難所という辺りからすると、ショーペンハウアーは自殺の要因を「苦からの解放」と捉えているのでしょうか。それとも諸々ある要因のうち「苦からの解放」に基づく自殺に限定して考察しているのでしょうか。自殺といえば「苦からの開放」としか思い浮かばない貧弱な発想だとすれば関心をもてません。苦からの開放の他にも表現・顕示・主張、闘争・抵抗、復讐・面当て、殉情、無理由、謝罪・処刑、政治的取引……、自殺の要因は様々あって、こちらには興味深いケースが混じっている気がします。そもそも自殺の是非なんぞという粗っぽい議論はできないというのが私の考えです。物分かりがよさそうで嫌な言い方ですが、自殺の是非は場合によりけりの最たるものだと考えます。 2 松岡某氏がどういう人物かは知りませんが、 “~誤解されて「自殺の擁護者」などと揶揄されるのだが、どっこい、ショーペンハウアーはまったくその逆の哲学を打ち出し得た最初の哲人であったからで、” これは無知な人間には反証を挙げられないのに乗じた嘘っ八だと直感します。ショーペンハウアーは18~19世紀の人間です。この時期までに『「自殺の擁護」の逆の哲学』を打ち出した人物がいなかったとは到底信じられません。これは「イラクに大量破壊兵器が見つからないからといって、それが存在しない証明にはならない」と述べて戦費を負担した論理と同じです。この種の人間には、「太平洋に竜宮城が見つからないからといって、それがない証拠にはならない」といっておきます。 3 氏の言う「共苦」と言う言葉にも私には一言ありますが、松岡某氏は私の同意を得るために書いている訳ではありませんし、私も氏の同意を得るために考えている訳ではありませんから互いに勝手を述べればよいでしょう。 4 Zeitgeist 1/6は観ておきました。イエスは実在しなかったのでしょうかね。脚色に脚色が加わっているにしても原型をなす人物くらいは存在しなかったのでしょうか。 5 私は21世紀の今日では自殺は究極の自由だと考えますが、日頃の関心がないので話題になると戸惑います。5万年前くらいだと倫理に悖ると主張するかもしれません。 (お礼欄に続く)