• ベストアンサー

宗教と道徳について。

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

  • ベストアンサー
回答No.5

 ANo.3です。まぁ、私の言いたいことはすでにお答えくだすった方もいらっしゃいますが、少し疑問が残っていらっしゃるようですのでもう少しだけ。 >>余談ですが、一つの宗教のみを信じるという感覚もよく理解できないのです。  それも多くの日本人が共通して日本人がもつ宗教倫理の一つの考えのように思います。これは、日本にそもそも備わっていた文化を受け入れることに抵抗が少ない土壌の影響もありますし、私は仏教とですから仏教系のことから言わせてもらえば聖徳太子の作った(歴史学的にはそうともいえないようですが・・)『十七条憲法』の第十条の中には 「心の怒りを断って、表に怒りを見せることは止めて、他者が自分と違うことを言っているからといって怒ってはいけません。人にはそれぞれの心があります。その心にはおのおのが大切にしたいものが違うのです。相手が正しいとすれば、私が間違っている。逆も然り。意見が違ったとき私が必ず正しいとは限らない。相手が必ず間違っているとは限らない。お互いに正しいことも言うこともあれけれども完璧じゃない間違うこともある弱い一人の人間(凡夫)なのです。どちらが正しくてどちらが間違っているか、誰が完璧な判断ができるだろうか。(筆者訳)」 という言葉があります。このように日本人はどちらが正しくて間違っているかに対して非常に寛容であり、どちらの意見も聞く耳を持つ公正な態度というものが美徳とされます。こういった判断は成否をはっきりさせる文化を持った西洋人には理解できないでしょうね。ただ、「日本人が一つの宗教にこだわりたくない」という理由はこれだけではないと思います。戦前の国家神道やオウム事件というものに対しての拒絶反応という爪あとということも考慮に入れておかねばなりませんね。 >>日本でも宗教的行事をしており、完全な無宗教ではないことが分かりますが、 >>自分の中にある常識に宗教が関わっている・・・ということが実感できずにいます。 >>本当に仏教や神道、儒教の影響を受けているのだろうか?て・・・  だから「市民宗教」なんですよ。何か特定の宗教ではなく、常識になってしまっているということです。lenji777さんは直接宗教と関わっていないから影響を受けていないということかと思いますが、間接的なかかわりは誰しもが持っています。たとえお寺に行ったことがない神社に言ったことがなかったとしても。これがいい例かは分かりませんが、言葉なんかでも仏教から生まれた言葉を日本人は無意識のうちにかなり使っています。「経営」「自然」「ぜんざい」「無垢」「敬礼」「学生」「生徒」「授業」「実際」「意識」「ガキ」「決定」「上品」「下品」「子孫」「邪魔」「愚痴」等々枚挙にいとまがありません。「落語」「講談」「浪花節」や「茶道」「華道」「香道」日本の芸能と呼ばれるものも仏教の影響下にあるわけです。J-POPだって、源流をたどっていけばお経の読み方、またはキリスト教のゴスペルまでさかのぼれると思いますよ。こんな風に日本人は間接的にでも関わりがあることは否定できないと思います。  ここからは四方山話と読んでください。私が思うにこういったものを知らずにいるというのは怖いことだなって思うことがあります。宗教は良くも悪くも人を染めていきます。たとえそれが市民宗教であったとしてもです。こういったものを意識せずに付き合うということは無意識の差別を生み出すのではないかと思います。アメリカの研究結果ですが、キリスト教に熱心な地方ほど人種差別が強いという調査結果が発表されたことがあります。こういった研究結果を見ますと、宗教とのお付き合いは難しいですねぇ。ではこのようなことを防ぐためにはどうしたらよいか、私は特定の宗教と意識的に付き合うということが良いのではないかと思います。これは一つの宗教にこだわるということではなく、一つの宗教と意識的に付き合うことで、それ以外の宗教や思想を理解する突破口を手に入れるということです。  長々自説を述べましたが、最終的にないが言いたいかと申しますと、 >>やはり、欧米の人の感覚はどこか分かりづらいですね(^^;)  ということは私も分かります。けれども、たぶん向こうの人も日本人の宗教観に関して同じことを思っていると思いますよ。また、もし自分が向こうの方々と同じ環境にいて、同じ感覚にならずにいられるか??きっとそんなことは難しいでしょうね。けれどもそういった考えを理解することはできます。私はそう言った理解に勤めるのが日本人的じゃないかなって思うんですよね。  またしても長々書き連ねましたが、まとまらぬ文章故読みにくいかと思いますがどうぞご容赦ください。  合掌 南無阿弥陀佛

lenji777
質問者

お礼

二度目のご回答ありがとうございます。 何だか一つの宗教だけって、言うことに漠然とした怖さを感じるんですよね。 それだけを絶対的なものと思えないからでしょうか。 やっぱり、曖昧のほうが一種の安心感があります。 私もお祭りは行きますし、お盆にはお寺にも行きます。 ただ、この質問を機に考えてみたのは、それは生活習慣の中の一つになっていることで、 宗教だと思ったことがほとんどないということでした。 日常用語にも、仏教から来たものが多いのは聞いたことがあります。 受けた授業の中でも、日本の行事には神道が多く関わっていることも知りました。 でも、私の常識の中まで入り込んでいるとは思ってなかったので。 確かに宗教のお付き合いは難しいですよね。 西アジアや欧米を見ていると分かります。 自分の常識や考え方が宗教に染まっているなんて思ってもみなかったので、 宗教に対しては中立な見方が出来ていると思ったのですが、そんな考え方は危険ですね(^^;) なので、baka-hage様のご回答によって考え直すことができそうです。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 宗教に詳しい方、この決まり事は何の宗教なのか教えてください!

    最近好きになった人が、どうやらとある宗教を信仰しているらしいという事をその人の友人に聞きました。 ところが、その話は本人にはしないでくれ(聞かなかったことにしてくれ)と口止めされてしまい、何の宗教なのかとても気になっています。 その宗教のことでわかっているのは (1)ギャンブルはしてはいけない (2)週3日(?)しか働いてはいけない です。 (2)は3日かどうかはいまいち不明ですが、 この決まり(戒律?)だけで、何の宗教かお分かりの方おられますでしょうか? 別に宗教を信仰していること自体は良いのですが (ギャンブルは私も嫌いですし) それがもし、私が唯一苦手なあの新興宗教だとしたら…。 と思うと気になってたまりません。 「もしかしたらこれかも」程度でかまいませんので 教えてください。 よろしくお願いいたします。

  • 何故宗教は信仰されるのでしょうか

    今現在、世界には様々な宗教があります。ユダヤ教、イスラム教、ゾロアスター教、仏教、オウム真理教など種類も信仰の対象も様々です。 しかし、私には何故宗教が信仰されるのか今ひとつ理解できません。 世界史的に見ればほとんどの宗教は神権政治や民衆反乱によってできた、つまり人が人を動かすために都合のよいからという理由で生まれてきているということです。そして宗教は基本的に神と呼ばれるものを信仰しますが、今日に至る過程の間に宗教同士が混ざり、神が混ざり、新たな神、信仰が作り出されるといったことが少なからずありました。現在においても同じ宗教でも考え方に相違がある、等ということがあります。 人類はここまで宗教のルーツについて客観的な調査ができています。それなのに何故、人類は人類自らが人民誘導のために作り出した宗教を何の疑いもなく信仰できるのでしょうか? 現在キリスト教には20億人の信者がいると言われています。そしてその起源はユダヤ教にあるとされています。そのユダヤ教もバビロン捕囚によって精神的に追い詰められたイスラエル民族がまとまりを取り戻し再び歩み出す際に生まれた宗教です。実際に誰も神の世界を見たわけではないですし、世界を想像した主が信じるものしか救わない、それも必ず救われるわけでもない。(信じて救われるのなら人は死にません。)そんな確かな存在証明もされていない神を本当に20億人もの人が信じているのでしょうか?(例えば、まだ宗教のルーツが完全に把握できておらず、なおかつ神がいたという古代人による表記が多数見つかっている、とかならまだ神はいないという意見に確証性が足りないので理解できないでもないですが・・・) 私は無宗教ですので宗教を信じる人の気持ちを理解しているわけではありません。しかしこうも条件がそろうと神を信じている人の言うことよりも神が人為的に作られた架空のものであるという考えのほうが辻褄があうのでは、と思います。 宗教の自由についてとやかく言うつもりはありませんが、一体何人の宗教信者が史実を理解し、それでも神はいるという確証性のある持論を持ち信仰をしているのか疑問に思います。 どなたか詳しい方ご教授をお願いします。 また、私は世界史についての学があるわけではないですし、宗教についても見当外れな知識や、差別的な見方を持っている可能性があります。この文を読んで不快感を覚えた方には深くお詫び申し上げます。

  • 無宗教も宗教なのか

       ある人の考え。 無い神は有るとゆー。 無い神も有る神も等しく神であり同じであるとゆー。 無神論は無い神を信じる宗教であり、無宗教も宗教であるとゆー。 多くの日本人は神にも宗教にも関わりたくないとゆーておるのに、無理やり無い神を持ち出してきて神と関わらせよーとする。 まるでカルトの引っ張り行為である。 結局初めに神が存在せねばならず、神なくしてこの世は成り立たず、全てを神によって語ろーとしているのである。 無神論を含めあらゆる人の活動は宗教活動であると見なすのである。 このよーな考えは何から生まれるのか。 何故このよーに考える必要があるのか。   

  •  宗教と道徳と法律とは矛盾するものでは・・・・・

     「宗教と道徳と法律とは矛盾するものではありません。」  こう云ったのは明治から大正にかけて活動された山崎弁栄(やまざきべんねい)というお坊さんです。  このお方が地方伝道に行脚されている間、留守居のお坊さんに伝道資金を預けておいたところ、そのお坊さんは、預かった資金をあることに“消費”してしまったので、その非を懇々と諭された。が、懺悔する様子がないので「それでは法律に訴えますぞ」と裁判沙汰にしたのを「宗教家らしくもない」と非難する人に云った言葉が「宗教と道徳と法律とは矛盾するものではありません」です。  裁判後の結果は悪用された三宝物の半金をその兄弟が出すことで示談になったと云う事ですが、他日、弁栄というお坊さんは「監獄(刑務所)は個人の力では直せぬ罪悪を、国家の力で直してくれる所である」。また「人の心霊は名刀のごとし、はなはだしき錆(さび)は荒砥(あらと)を用いて除き去る」とおっしゃって、本人の更生を願われたとのことです。  宗教。道徳。法律。  これらをどう捉えるかで、意見が分かれると思いますが、私は単純で無知、且つ素直なので何の疑問も持たずに、なるほどと思うばかりです。  よろしければお考えを聞かせてください。  

  • 日本の道徳観

    日本では、「悪いことをしたら同等以上の償いをする」との 道徳観があります。この道徳観がなくなれば、世知辛い 世の中になると考えます。 また、「人の命をあやめた人は、償いとして自分の命であがなう しかない」という倫理観も多くの人が持っています。 この倫理観が殺人の抑止にも働いているものと考えます。 みなさんは、いかがお考えですか?

  • 世の中には色々な宗教が存在していますが、それぞれの

    世の中には色々な宗教が存在していますが、それぞれの宗教に存在している神は違う神ですよね。 皆さんが信じている神は人によって違う神なのだと思います。 皆さんの自分の心の中にある信仰している神はどういう神ですか?

  • 宗教のことについて困っています。

    現在僕は大学1年生です。 あるきっかけで僕は聖書の勉強をしています。 最初は知り合いの人にバレーボールをする団体として参加していただけなのですが、誘われた人と何度か食事を一緒にし、そのうち聖書の勉強をすることになりました。 最初は『聖書って世界中で読まれてるから読んでみようかな』と好奇心で思い、二つ返事で勉強をしはじめました。 最初は聖書で勉強になることがあるなぁと思っていたのですが、最近その聖書を教えてる人達は宗教団体であることを知りました。 ここからが本題です。 僕は様々な理由で宗教は嫌いです。 神様を信じていないわけないですが、宗教はどうしても信じられません。 聖書の教え自体は納得出来るものもありますが、その団体に所属している人達に聞くと、 『聖書の教えは全部正しい。僕たちはその通りに行わなければならない』 『日本で自殺が多いのは霊が死んでるからだよ』 など、『聖書を学ばない人』=『悪人』 みたいな考えがあり、どうしても納得できません。 しかしその団体から抜けるにも、後が怖くてなかなか言うことができません。 嫌がらせなどあったらどうしようと思うと、すごく疲れます。 もしかしたら信仰をしてるうちに、偏見が無くなって健全で信仰出来る宗教だと思えるかもしれませんし……正直どうしたらいいかわかりません。 支離滅裂な文章ですが、ご助言を頂けると嬉しいですm(__)m

  • 宗教について

    宗教に入っている方は、自分が信仰する神様以外の事をどう考えるのでしょうか? また死後の世界の解釈は宗教によって違うと思いますが、自分の入っている宗教以外の人の死後は自分が入っている死後の世界で考えるのでしょうか?

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 宗教って何?OTL

     私は休日ローカル局でやっているキリスト教の番組を見るのが日課になっています  そこで、紹介される人たちは「神の存在によってすくわれた」  という方々です  ある人は虐待の記憶から犯罪を繰り返したものの、聖書によって安らかな気持ちを得られた  また、違う人は障害や難病を背負って投槍な気持ちで人生を送っていたが、聖書によって性格が180度変わって明るく前向きになった  という体験談を語っています  とってもすばらしいことじゃないですか!  そのまま、腐った心で生きているよりかは、聖書によって自分に対する捕らえ方が変わることができたのならば、誰もそれを咎める必要もないと思います  でも先日POSOという動画の存在を知りました  イスラムとキリストの宗教対立からの戦争がリアルに紹介されていたんですが、民衆の幸せのためにある宗教同士によって人同士が不幸になるということに対する矛盾を感じました。  もし、「神の存在のおかげで救われた」と言っている人たちにこの点について問うてみたら、なんと答えるのでしょうか?   神に対する信仰心を失い、またすさんだ心になってしまうんでしょうか? それとも、神の存在を元に戦争を正当化し押し進める軍人のように「ほかの宗教が間違ってるだけ!」という偏った考えになっているんでしょうか?