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日本人が『理論的反論』と『情緒論』を混同するわけは?
なぜ日本人はこの二者を区別しないのでしょうか? それ以前に、日本人は両者を混同しているのか、 それともあえて区別しないのか、私にはわかりません。 ※質問者は20歳台男性の日本国民です。 純粋な内国人です。他国在住歴はありません。 自身の社会的評価を“不当に”陥れる理不尽な言動、 即ち、誤った前提事実に基づく言動や、 歪んだ視点に基づく感情的言動に対しては、 時には客観的論拠を示した上で、 理論的反論・反芻を行なう必要があります。 ところが、客観的事実の提示を行っただけで、 「人の話やアドバイスを真摯に聞かない人だ。」 というレッテルを貼りつけてくる人間がいました。 客観的論拠を示した冷静な“理論的反論”に対し、 「狂ったような反論だ。」「ムキになっている。」 「真摯に人の話を聞かない。」「態度が悪い。」 などという“情緒論”を持ち出す人間が、 日常生活においても非常に多いと感じます。 これは日本人の文化なのでしょうか? 私は純粋な内国人なので外国の実態は知りませんが、 やはり現代においてもなお、日本人は他民族と比べ、 そのような傾向が強いのでしょうか? もし本当にそうだとすると、戦後の日本人は、 古びた島国根性を一向に抜け出さないまま、 強いグローバル嗜好と欧米化嗜好を持った、 歪んだ民族ということになりますよね。 (両方の悪いところばかりを取ったとも言える。) これに関して、学者が書いたもので役に立ちそうな 文献があればそちらも参考としてご紹介願います。
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質問者が選んだベストアンサー
そもそも日本人は議論が嫌いなのです。議論して喧嘩するよりも お互いの良いところを取って折り合うことを良しとする文化なのです。 私はその文化の根元は聖徳太子の「和をもって尊しとなす。」だと思います。 貴方も人の意見をよく聞くようにしないと日本の社会では苦労しますよ。
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- cpslk
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私は私、あなたはあなた、 それはあなたの意見であって、私の意見はこうだ なぜなら理由はこうだ、というものごとを客観視して 他者と対峙する思想・やりとりがなかったからでしょう。 それを理解する文献としては横山雅彦著 「高校生のための論理思考トレーニング」ちくま新書 がわかりやすくお勧めです。 日本語が感情(情緒)を豊に表現できる反面、 論理・思考の道具に向かないわけが、 明治維新前後の日本語変革期をふまえた考察にすぐれ 読み物として大変秀逸です。
補足
関連書籍の紹介に感謝いたします。 該当書籍を読み終えたら感想を述べます。 (08/08/26記)
- papabeatles
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聖徳太子の偉大だったのは日本の神教と仏教の良い面だけを旨く利用して国造りをした事だと思います。あの時に神教と仏教の戦争(論争)が起こったら日本の形は全く違った物になっていたと思います。 実は明治維新の時に武士の子供の多くをキリスト教の学校に入れたのは仏教とキリスト教を旨く融合させる方策だったと思います。 親は仏教で親の言う事は家庭の中では絶対 学校に行けばキリスト教が絶対的な教え、子供は仏教とキリスト教を旨く使い分けなければ生きていけない事になります。
お礼
ありがとうございました。 二度目の回答に感謝いたします。 大昔から日本人というのは、 無から新たに文化を創造することよりも、 外から流入した文化の融合が得意ですね。 伝統的に見ると、 日本人は外来文化の「良い面」だけを融合し、 自国の文化としてきたようです。 そして、戦後の若年層・中年層の日本人は、 (A)戦前から存在する自国の伝統文化と、 (B)戦後に欧米から流入した文化を、 混ぜ合わせて自分達のものにしました。 しかしながら、この現代日本人は、 見事なほど上の両者の「悪い面」ばかりを継承し、 融合してしまったようにも思えます。 それが将来この国に災いをもたらさないか、 私は気がかりでなりません。
- piyoco123
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欧米と比べ、日本では義務教育の課程で、 議論のやり方や意見の発表の方法は一切教えられません。 質問者さんが感じたことは、そのような技術上の未熟さに由来すると思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 “技術上の未熟さ”は的確な観点ですね。 おっしゃる通りですね。 日本の国語教育には偏りがあると思います。 納得できました。 >欧米と比べ、日本では義務教育の課程で、 >議論のやり方や意見の発表の方法は一切教えられません。 帰国子女といわれる方々、 特に米英仏などで初頭教育を受けた人は、 そのような教育を受けているせいなのか、 議論の技術に長けた方も多いようですね。 ただし、帰国子女の中には、 意見を主張するという習慣だけに染まっていて、 “論理のすり替え”などを平気で行う人もいます。 そういう人は単に自己主張が強いだけであり、 ある意味では一番タチが悪いですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど。とてもよく納得できました。 >私はその文化の根元は聖徳太子の「和をもって尊しとなす。」だと思います。 日本は資源に乏しい狭い島国であったが故に、 周囲との協力関係を極力壊さないよう、 「和」という習慣が育まれたと聞きます。 >貴方も人の意見をよく聞くようにしないと日本の社会では苦労しますよ。 全くその通りですね。 しかし、相手の理不尽な主観的言動に対して、 何ら客観的事実を提示しないことが、 人の意見をよく聞くことであるという考えに、 私は必ずしも馴染めません。 また、議論というのは、 互いに人格を否定し合うものではありません。 議論から新しい知恵が創造されることもあります。 そのため、私は時々困惑することがあります。
補足
ここで追加の質問をさせてください。 現代日本を生きていくに当たって、 半ば抜け殻と化した「和」という伝統的習慣が、 人生において仇とならないようにするためには、 どのような言動を行えばよいのでしょうか? こちらも参考文献があれば紹介をお願いします。 【背景説明】 欧米文化が中途半端に流入した戦後日本では、 「和」という伝統的習慣が本来の意義を失い、 「格差社会」や「搾取」を助長する一因へと 成り下がっているようにも思われる。 日本人が持つ「あいまいさ」もその一つで、 例えば、部分的サービス残業などは、 「あいまいさ」を利用した労働者搾取である。