• ベストアンサー

人が 人のあやまちを赦すことができますか

arayata333の回答

回答No.42

ANo30のarayata333です。 私には遠慮なさらずに、とのお言葉に甘えて この際そちらを悪者にしたてて、重箱の隅をつつきます(笑)。 代3部にも入ったとのこと、 しかし2部も3部も1部がしっかりすれば、おのずと決まってくる点も大きいとの見解を自ら崩されているわけではないので、 一部にあたるだろう蒸し返しとなるかもしれませんが、 かならずしも全体の論議の進行も妨げるものではないだろうと そのへんもあまり心配せずに書いてみます。 私の一番の関心は第3部です。 実践編です。 だから、トラウマにならないように忘れる事の必要性というのは、その失敗をむしろできるだけ早く深く分析して次にはどうしたらいいかを考えたら過去のことは忘れるという手法のことです。 ほんとは3部に関わる方法論の肝心な部分を言ってます。 更生方法に重要な一部ですね。 ここに、ものすごく関心があります。 長所とか価値感とかに気がつかせてあげる(友としてです。)ことがその前提としてあります。 これ文学的倫理的な愛とか、相手への想像力とかからではないです。 言葉による文学も、声をだす演劇さへも自然な相手への偽善のない愛とか真心からの愛とか あるいは愛という言葉がすでに汚れてるなら「ふつうのそういう優しさ」を理論的(第一部)には掴んでいません。 近代演劇のそのへんの本質は、仮定(もし)の想像力による演劇の世界の探索にあると言われています。  もし私が(私自身が)その状況をその場にて生きていたらという「もし(仮定)」の想像力によって、 演技の世界を追及してゆく世界です。 しかしこの方法では 善と悪の因果の心の部分は理論的にはいくら追求してもいつまでたっても大きな壁があるようなものです。 表現の世界で言えば 歌や絵や、音楽の世界、そして目や声の世界の何かの客観的な評価法が確立されないと、理論としてそれを掴むのはたしかに困難です。 つまり“その実現は困難なところでもある”というのが私にも結論としてないわけではないのです。  ただし、私の場合は、そういう心の世界、心から人が人のあやまちを赦すことができる心の世界はありえるという理論も あるという希望も持ってます。 bragelon様は、ほんとうに文学的倫理的世界に限界の壁を感じていますか? 神という概念を、この論議に必要としないのはなぜですか? 神の概念を持ち出すとこの問題は複雑になると思っているかもしれませんが その定義が過去においては複雑だったかもしてなくても、本気で考えたら複雑なんかじゃなくて心や頭を整理するのに役立つということには気がついていないからなのじゃないですか? すこし、このへん書きますね。 神というとたしかに神話とかの想像力の中の神様が連想されてそのことまで話し出すと話はほんとうに複雑になってしまいますけど、   bragelon様なら 次ぎの事解りますでしょうか? 神様が存在するならば 神様だけが悪魔なんだということをです。 他に悪魔も悪人も 悪は存在しないということをです。 わたしの場合 それは考えたわけじゃないです。(もし、私の言ってる意味がわからない場合にはとうとう気が狂ったと思われかねないことを書いてますが(笑)、遠慮無くといわれましたので(笑)) 考えたのじゃなく ある時本気で酒の勢いで泣き叫んでました。 血をはいてのた打ち回って神様をののしってました。 「おまえこそ悪魔だ。 いや唯一、おまえこそだ。 うわあああああ。」こんな感じです。 絶叫です。 シャウトです(笑)。 シャウトそのものでした。 気がついたら気持ちよくなってましたけどね(しんだわけじゃないです。) でも絶望をくぐってみれば、 あるのは希望への道だけでしたね。 神様って この世にいないのと同じです。 これ解って、このことほんとに解って、解った上で、 私の場合は実際にも存在して 実は悪魔でもない神とは何なのかを考えています。 また 感謝はすべきとも感じてます。  今ではひざまずきひれふすような心でです。       あのシャウトがあった後、 長い間私は 神とは恐怖の対象でした。 忘れること生きてる限りできるだけ忘れることそういう存在となっていまいした。   でも おそらくようやくそこから自律できたのでしょう。 ようやく、怖くはなくなりました。 こんなに長くかかったのは、私の脳がバカだったからでしょう。  でも、bragelon様はどうなのですか? 神のことを語らないということは、わたしにとって音楽や絵や歌の本質を語らないということになります。 目や声については語らないということを意味します。  たしかに 神という言葉を使わなくてもそれらのことやその本当の評価基準を語らうことはできます。 でも、それを使うと文学的表現の限界や演劇や人間の想像力や倫理道徳の限界もよりはっきりわかりやすくなることを考えれば、 なにも神という言葉を使わない手は無いと思います。 ここでは真実だけを書きましたから解らない人には全く解らないだろう表現となっているかと思いますが、 ほんとに解りやすいさまざまなその言葉の使い方はあると思います。(真実をけして曲げたりはしないそれがです。)   ほんとはそのへん自由であるわけですが(笑)、 bragelon様を悪者にして 信頼を前提に、つつかせていただきました(笑)。 言いたいことは 四川省の子供達にも音楽を という標語です。 生涯 恐怖の夢でうなされるかもしれない、その子供達にもトロイメライがどんなに美しい音楽か聞いて欲しいということです。 まだその耳が新鮮な間に聞いて欲しいということです。 そしてまだその目が新鮮なうちに すぐそばに咲いてる合歓(ねむ)の花を忘れないように心にきざめるようにしてあげたいという闘いの同志を求めるだけだということですね。(悪魔なる同志をここに求めて←かなり文学的かな。) 以上です。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん こんばんは。じっくり読ませますねぇ。ご回答をありがとうございます。  (1)わたしの人生におけるわたしと神との関係・その生きた歴史  (2)トラウマを忘れるというのは トラウマから逃げるのではなく そうではなく それとの格闘のあとのいわば自然史としてだ。   (3)《野の花を見よ》 そのいわば ことだまとしての交感( correspondance )を聞け。  これらを総合して 《理論 即 実践》を主張なさったと受け留めました。  これにお応えするには 大論文を書かなければなりません。通りすがりの応答では 持ちません。(この質問じたいが そういう性質を はじめから持っていたようで みなさんともども 決して 通りすがりでここまでやってきたのではありません)。  (2)と(3)は あえて 割愛しましょう。感覚的にも分かる部分があるでしょうし どんな議論にも基礎となっているでしょうし これからも そのどの議論にかかわってでも 触れることができるでしょうから。  あえて(1)に挑んでみます。これも むろん どの議論にもかかわっていますが それとしてまとめて述べておかないと 議論はいつも断片的になってしまうと思われるからです。  ★ 神様が存在するならば 神様だけが悪魔なんだ / 他に悪魔も悪人も 悪は存在しない  ★ 神様って この世にいないのと同じです。  ☆ 曽野綾子が――かのじょの思想をわたしは必ずしも支持していないのですが・そして次の発言については 中立の態度でいますが―― 《クリスチャンは そして 神に召されたクリスチャンだけが 極悪人になれる》というような趣旨の発言をしています。  arayata333さんの命題ともども どちらも 微妙ですが その種の文章(判断)については わたしは 次のような解釈の中に位置づけています。  この世は 閉じているのではない / 《開け》がある / その窓をとおして いろんな表現が 神にかんしても 与えられる。人は そのことばの世界 あるいは 心の世界を 持ちうるのだ。   そこでは しかも 言葉を超えて 感性として体験として すべてが真実であり この世にあるのは その主観真実に過ぎない世界だけであると思える。その現在が 永遠の現在として 推移する。・・・  そうとう長い議論になると思っていたのですが 案外 ここで 一たん休みました。これはこれで ひとまとまりであると考えるようになりました。とりあえず すでにここで ボールをお返しするのも いいかと考えました。どうでしょう?  要するに 《風は 気ままに吹く / わたし(神)は〔双子の弟の〕ヤコブを愛し 〔兄の〕エサウを憎んだ / わたし(神)は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ》という現実です。窓をとおして流れてくる声あるいは風の音ですが それでも これらの文句も やはり 《なぞ》を含むと思われます。《なぞ》でありつづけるとも思います。・・・  で そこでの問題です。その時点で問題つまり前向きの課題が 現われます。わたしには現われたのでした。  飽くまで 《なぞ》は あります。このなぞを敷き詰めた大地に立って その上で 経験領域のことばだけで 社会のことがらは 語っていこうという趣旨です。窓は つねに 開いています。《神》という言葉を できるだけ使わないだけです。語る内容は けっきょく同じです。  このようなお応えになりました。受け取っていただくなら幸いです。  次のご回答では 《更生》という言葉からして 抹香くさいというご批判をもらっています。うんぬん。

関連するQ&A

  • 人は 人のあやまちを赦すことができるか

     同じおもむきの質問をしたことがあります。ふたたびみたび問いたいと思います。  ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  こういう問いです。  さらに この主題の内実が明らかにされて行くことをのぞみます。ふるってご回答をお寄せください。  * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  どうでしょう?

  • 人が 人のあやまちを赦すことができるか?

     この問いをなお問います。  1.   まづ前身の質問の趣旨説明をかかげます。    ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。  ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  こういう問いです。  この主題はその内実として まだ分からないところがあるかも知れません。それが明らかにされて行くことをものぞみます。ふるってご回答をお寄せください。  * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  どうでしょう?      _________    2.  さらに趣旨説明を継ぎます。  早い遅いはあるでしょうが 誰もが自分の与えてしまった迷惑や危害については いかにオモテ向きは低姿勢であやまり続けていたとしても 内心では《取り返しがつかない。けれども 詫びようがない。どうしようもない》というところに落ち着いて自分を赦していると思われます。  もっと言うならば たとえばそのあやまちを犯してしまったそのあとの人生をすべてその害をこうむった相手のためにささげて生きるのみだと考え じっさいにそう生き切ったとした場合 そうだとしても オモテ向きは自分を赦していないけれども そのようなつぐない人生を送るというかたちで自分との和解は成り立たせていると思われるからです。  つまり たいへんな負い目を負いそれをすべて払いきるというきびしい人生ではあるのですが たとえばそのようなかたちで けっきょく自分を赦している。こう思われます。  そしてちなみに 昔は 死んでおわびしますという言い方(および実行?)がありましたが 死んだからと言って 自分を赦さなかったということにはならないように考えられるのではありませんか?  そのように 自分を赦すかどうかについて考えるなら たいていは赦すのであり おそらく赦さない能力は 人間にはないのではないでしょうか?  でも 被害者やその近しい人たちから見れば その加害者については とうぜんのごとく《おのれを赦す能力も資格もないに決まっているではないか》というふうに扱うはずです。  そうして もしこの被害者やその身内の人びとが 仮りに自分たちがそれぞれ加害者になったとした場合を考えるなら どうなりましょうか。  つまり 世間の相場から行けば 加害者である自分については遅かれ早かれ赦すでしょうし かつて自分が被害者であったときにはその加害者に対しては こんなことを言っていた。(あるいは思っていた)。と思い出す。つまり 《どんな面をさげて おまえは自分を赦せたのか? 自分を赦したなどと言えるのか。オモテにはその気配も出さないからと言って その内面でいったいどんなことを思っているのか? わたしは知っているのだ あんたは内心ですでに自分を赦してしまっているということを》と。  だったら――つまりそんな内心の探りっこをしているくらいなら―― けっきょく人間には《赦す資格も能力もなく 同時に赦さない能力も資格もない》 こう考えをあらためるなら きわめて人間的な共生のための方程式が得られるのではないか?  3.  さて このように趣旨説明をさらに伸ばしてみたのですが なお言い方を変えて説明します。  すなわちぎゃくに言えば 《赦すことができず赦さないことも出来ない》という能力を人間は 持っている。のではないか?   《赦す・赦さない》にはかかわりを持たないという能力が 生まれつき人間にはそなわっている。のではないか?  わたしは人間として 能力によって人を赦すことも赦さないことも出来ない。のだと。  つまり 或る人 A が或る人 B を死なせてしまった場合などを例として考えるとき それでも A は・つまりわれわれの おそらく 誰もが 自分を赦すようになると思われます。  これは いかにつぐないを続け 残りの人生がすべて償いの時間であったとしても その内心は自分を赦しているものと思われます。  むしろ そうであるゆえに(つまり やがて時とともに自分を赦してしまったと或る日悔いたことがあった ゆえに) つぐないをして 自分の不甲斐無さのつぐないをしようと思うものなのでしょう。  自分を赦していないという姿勢を採り その心を持ち続け つぐないの人生を送るという外形と 片や内心とは 果たして同じでしょうか? 舌を出して笑っているわけではないとしても 心はと言えば もうとっくに自分を赦しているのではないでしょうか?  もし自分が加害者であって 想うにそのような外面と内面とを合わせ持つポスト加害の人生を送らざるを得ないのだと決めた場合 果たして《つぐない》ということは もしそうすべきだとして どうすればよいのか?   おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?  赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか?  4.  この質問が問うこととしては あやまりの言葉 おわびの言葉を申し述べること これは問題ないと思うのですが 問題は そこに《赦す・赦さない》が入ると ことは人間存在の一大事にかかわっているのではないかということにあります。  きわめてぶしつけで挑戦的な言い方をすれば 《ごめんなさい》のひと言で ことは全部終わったということ これが 人間たちのあり方なのではないか?   あとは 法律上の――あるいは法律に準じた考え方の上での――かたちあるモノによるつぐない これは それとしてしかるべく伴なわれるだろうとは思います。心身のあるいは生活上の損傷を埋めるだけとしてでも 助け合いは必要でしょうから。  5.  いかがでしょう?   そして 問いの出し方や問題点の切り口がずれていたり間違っていたりしていましょうか? 主題そのものの認識がつたないでしょうか?

  • 人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

     次の質問の続編です。  【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html  ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。  ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。  (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。  (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。  (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

  • 人は他人や自己やそのあやまちを赦す能力があるか

     次の命題についてその当否を問います。  ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~  (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。  (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。       (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。  (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。      (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。  (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?  (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  別の言い方で問います。  (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  (こ) その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。    (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

  • 大人と未成年のセックスはなぜいけない?

    「なぜ大人が、未成年(18歳未満、あるいは12歳未満)とセックスしたらいけないのでしょうか」 法律や条例で決まっているから、というのはもちろんわかります^-^; 未成年の判断能力を考慮してのことなのだと思っていますが、私自身がうまく言葉で説明できません。 どなたかご教示ください。 (よく「人を殺すのはなぜいけないのか」といった哲学的(?)な議論を見聞きしますが、 そのような議論と同じような観点からの書き込みもありましたら是非お願いします。)

  • 好きな人のことを思うと自分がちっぽけに感じる

    いま好きな人がいます。 告白したい、付き合いたいと思うほどに、その人のことを考えると、自分が人としてちっぽけに思えてきます。(能力、容姿、その他色々に関して) 良さそうなタイミングがあっても、自身がなくいざというときの踏み込みができません。 相手は年上で恋愛経験も自分より多く、誰とでも仲良くなれるような明るい性格です。 この自己嫌悪のような感情を乗り越えるには勇気と自己研鑽の努力が必要だと思うのですが、こんなとき、元気が出る言葉を教えてください。 言葉に限らず、こんな状態を経験したエピソードなどがあればお聴かせください。

  • 哲学の現在について

    哲学の現在について。 ヒュームに代表される、「現象主義」って、認識論の到達点、真理?をめぐる哲学の最終的な結論だとぼくは思うのですがどうでしょうか? それ以降の哲学は、なんだか あんまり意味のないトートロジーに思えてなりません。 現象の域を脱し得ないという「理性」の限界を無視して、語り得ない、答えの出ないものについてあーだこーだと終わりのない堂々巡りの議論を続けているだけのような気がします…。 つまり、現象主義的な結論によって認識論は既に一つの決着を迎えていて、哲学の一つの大きな流れはもう終わっちゃってるのかなーと思うのです。そんで、あとは解釈や可能性を細々と提出するだけ、みたいな。 哲学に限らずあらゆる学問は、大前提として、「仮の真理」にしか到達できない擬似問題じゃないのかなと。 以上、哲学初心者のぼくが哲学(というか、認識論?)の現在についてなんとなく思うことなんですが、哲学に造詣の深い皆さんはどう思われますか? 勉強不足で、かなりトンチンカンなことを言ってるかもしれませんが、その辺は大目に見て貰って、バカでも分かるよう優しめにご教授頂ければ幸いです。 長文失礼しました。 タグ:不可知論 懐疑主義 懐疑論 カント 独我論 心の哲学

  • 自己アピール文

    現在就職活動中の大学3年生です。 自己アピール文の提出を求められている企業があるのですが、 就職課にどのように書けばよいか聞いたところ、 まず結論を最初にはっきりとさせておくことが大事だと言われました。 自己アピール文においての結論とは、自分はこのような人間です、 ということですよね。 つまり全体の構成としては、 1.私はこういう人間です。 2.1ということを理由付ける具体的な経験。 3.その1という人間性、能力を会社でどのように 生かしていけるか。 という感じでいいのでしょうか。 また、履歴書と一緒に提出する場合、 履歴書の自分の性格・長所・課外活動の欄に記入した 内容とかなりかぶる、というか、言い回しは多少違っても 同じになってしまうと思うのですが、問題はないのでしょうか。 出来上がったら、来週就職課に見てもらうつもりではいるのですが、 今日就職課に行った時、ここの部分を質問するのを忘れていたので、 取り急ぎ、ここでお訊きした次第です。 ご回答よろしくお願いします。

  • 私(男)にはどのような恋人が合っているでしょうか?

    私(男)にはどのような人が合っているでしょうか? 私自身、自分の性格はしっかりと自己主張をし自分の意志が強くこだわりも強い性格です。 おかしいと思ったことはおかしいと伝えますし、そのためには議論も厭わない性格です。 そして私が彼女に毎回選びがちなのが、わりと自分に似たような性格の人を選んでしまいます。 芯があり、女性の権利意識が強く、自己主張やそれによって起きる喧嘩も厭わないような人を選びがちです。 正直そのような人をいつも好きになってしまうのですが、毎回馴れ合ってくるとお互いの主張がぶつかり合い喧嘩喧嘩の日々になってお互いが全く譲らないような状況になってしまいます。 私の好む人と合ってる人が一致しないのではととても悩んでいます。 私の性格を踏まえてどのような人が合っていると思いますでしょうか?? ご意見お願いします。

  • やはり宗教カテは残すべきであった

      かつて宗教カテは存在していました。 しかしある時期(2000年12月21日とされる)をもって宗教カテは消えたのであった。 その理由については、以下を見れば分かります。 http://okwave.jp/qa/q6616400.html 簡単に結論すると宗教に関する質問、議論、問題提起は口論になりやすく、管理上収拾がつかないので消されたということです。 つまり宗教一般には自浄能力が欠けているってことなのです。 神や仏を語る者に限って、自らを清める能力を欠いているって証拠なのです。 ではあるが宗教カテはやはり残すべきであったのではないか。 その理由は、宗教と哲学は厳然として異なるからです。 宗教は信じるものであって、神や仏を論じるもの、天国や地獄などあの世について信じ語るもの、その他これらに関連する奇跡とか終末とか末法とか戒名とか葬式事とかの儀式的なものの類です。 一方哲学は純粋に真理の探求であってその中心は人間と宇宙の正しい理解です。 宗教カテが存在しない現状においては、宗教は哲学とは無縁のものであるにも関わらず、あたかも哲学であるかのように錯覚して、神学やら仏教やらを哲学カテの中で論じているのですが、この状況は哲学にとっては甚だ迷惑なことなのです。 神や仏、天国や地獄、また奇跡や終末や末法や戒名や葬式事について語りたいのであれば、その共通世界の中で思う存分、徹底的に語ればよいのではないでしょうか。 その結果地獄絵のような議論が巻き起こるかもしれない。 しかしそれが宗教の本質を物語るのであれば、それはそれでよいのではありませんか。 それ故やはり宗教カテは残しておくべきであったと思うのですがどうでしょう。