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夏目漱石が自殺しなかった理由
当時の作家は自殺をした人が多々います。 漱石は自分を見つめ社会を見つめ発狂して悩みながら作品を残しました。 漱石が自殺をせず、最後まで生き抜くことができたのは何故でしょうか??
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> 夏目漱石が自殺しなかった理由 ちょっと前からおもしろい問題意識だと思って拝見していました。 回答するとしたらどんなふうに書こうかなあ、と考えているうち、日ばかり過ぎていました(その気になるまで時間がかかるんです)。締め切られていなくてよかったです。 おもしろい問題意識と書いたのは、「~しない理由」という問いは、「~した理由」にくらべて「問題設定自体がものすごく高級」(石川千秋『大学生の論文執筆法』)だからです。「ものすごく高級」かどうかは微妙に留保をつけたいような気がしないではないんですが(笑)、少なくとも、質問者さんご自身は「漱石は自殺するに足る理由があった」と考えておられるわけで、そこらへんに関してはぜひ、今後とも考えてほしいなあと思います。 まず明治期の文学者を考えるとき、明治という時代の特殊性を頭に入れて置いたほうがいい。それは、明治という時代が、それ以前と大きく変わっていったこと、そうして、そのなかでも刻々と移り変わっていったことです。時代が変わるということは、人の考え方も変わるということです。「自殺」という行為は同じでも、それが持つ意味は、時代によってまるで変わってくるのです。 たとえば近世文学を見てみると、近松門左衛門の『心中天網島』においては、治兵衛と遊女小春は心中したということになっているのですが、実際は、治兵衛は、自分のためにあれこれと手だてを考えてくれた妻のおさんに義理立てして、時間差をおいて、小春を刺したのちに、自分は首をくくる(この治兵衛の行為の解釈をめぐってはなかなかおもしろいものがあるんですが、こんなことを言っているといつまでたっても漱石にはいかないので端折ります)。その意味で、一種の自殺といってもいいかと思うのですが、ともかく治兵衛は、相手と添い遂げたいという願いと、世間の義理の両方をなんとかたてるために、あの世で結ばれる、という道を選択します。 一方、武士はどうかといえば、森鴎外の『阿部一族』など見てもあきらかなように、切腹は「家」のために行います。阿部弥一右衛門は切腹をすることで自分の忠義を示そうとする。 ひと口に「自殺」といっても、いまのわたしたちの考える自殺、つまり、自分自身の体は自分のものだから、自分の思うとおりにすることができるはずだ、その「思うとおり」の選択の一つとして「自殺」がある、という発想は、決して人間にもともと備わっているものではなく、きわめて近代的なもの、日本でいうと、明治の、それも日露戦争以降のものかと言えるように思います(生活苦によるものはここではいったん分けて考えます)。 それ以前の自殺というのは、家名のためだったり、世間に義理を立てるため(あるいは、生き長らえると義理を欠くため)にするものだったわけです。 漱石は『吾輩は猫である』のなかで、登場人物のひとりである迷亭先生にこのように言わせています(おしまいの方です)。 「今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中(うち)で喧嘩(けんか)を買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、滅多(めった)に人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明かに昔より弱くなったんだろう。強くなるのは嬉しいが、弱くなるのは誰もありがたくないから、人から一毫(いちごう)も犯(おか)されまいと、強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛(はんもう)でも人を侵(おか)してやろうと、弱いところは無理にも拡(ひろ)げたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。かくのごとく人間が自業自得で苦しんで、その苦し紛(まぎ)れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。」(引用は青空文庫) 迷亭先生はここで、「あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して」といっていますが、言葉を換えれば「自我意識の肥大」ということになります。「個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。」自分がどうしていくかは自分で決める。けれども、それは反面、「平等に弱くなった」ということでもある。 人と人とが余裕、つまり対人関係のうちに距離を求めて、「親子別居」をするようになったり、このあと迷亭先生は「結婚の不可能論」まで予言する。 つまり、この作品を書いた明治38年の時点で、すでに漱石は地縁・血縁の崩壊を、近代個人主義の行き着く先に見ているといっていい。なかでも個人と個人の愛情に基づいた結びつきとしてあるはずの「結婚」の問題は、以降の作品にかたちを変えながら繰りかえし描かれていきます。 さて、近代人の未来を見通した漱石は、果たして近代人だったのか、というと、これはいささか微妙なところがある。 漱石は1867年、つまり慶応3年の生まれです。江戸時代最後の年です。この年にはいろいろおもしろい人がたくさん生まれているんですが(『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代) 、明治の文学者というのは、ちょっと年がちがうと、受けてきた教育とか、基本的なものの考え方とかがものすごくちがっているんですね。 江戸末期から明治初年に生まれた文学者というのは、近代日本がどのような国になっていくのか、なっていくべきなのか、ということが、非常に大きな問題意識としてあるわけです。たとえば森鴎外の『舞姫』の主人公は、ドイツの恋人を捨てるわけですが、それは何のためかというと、結局は、外国で学んだ知識を日本のために役立てるためにそういうことを選ばざるをえなくなる。そうして、そういうことをした自分を、主人公は許さない。 たとえば漱石は明治39年、これはまだ職業作家になる前なんですが、鈴木三重吉にアドヴァイスを求められてこのように書いているんです。 「僕は一面に於て俳諧的文學に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい。それでないと何だか難をすてゝ易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰拔文學者の樣な氣がしてならん。」(十月二十六日付鈴木三重吉宛書簡 引用は青空文庫) 「死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な」と漱石は書いていますが、おそらくこの気概は、鴎外や二葉亭など、この時期の文学者に共通するものと言えたのではないかと思います。 その意識が大きく変わったのは日露戦争の終結以降です。 西洋文明をお手本に、日本国内を改革していくという明治維新が、一応その目的が達成されたと国民や政治家に意識されたのが、日露戦争だった。 「一方で目的を達したという安心感と、それから、もう自分は、どこへ出ても一流の国民であるという自信と、それから眼前の現状を見ることが一緒になって生まれるのは、必ず幻滅です。…… とくに戦後になりますと、政治とか経済とかいうような実際的な仕事、国家の実務というようなことは、自分らには無関係である。自分の興味は、そういう一時的な生活の必要というものにはなく、もっと永遠なものにあるというようなことを考える人がだんだん殖えてきました。… 日露戦争後になると、そういう実際社会の問題から、自分らは離れてしまうんだ、離れたところに宗教なり文学なり芸術なりの問題があるんだ、というような気風が出てくるわけであります」(中村光夫『明治・大正・昭和』岩波書店) つまり、漱石が「今の世は個性中心の世である」ということが見通せたのも、彼自身はそういう空気のなかで育ったわけではないからこそ、逆にそういう傾向が見えた、と言えるのではないか。 この日露戦争以降の空気のなかで成長した芥川龍之介は「漠然とした不安」ということを遺して、昭和二年に自殺しています。中村光夫の本のなかには「プロレタリア階級の勃興とか、労働運動、いわば社会革命を恐れた様子がある」とあるし、そのほかにもいくつかの原因があげられてもいます。ただ、そこにはっきりしているのは、「自分の身体は自分のものである」、自分の生死の決定権は、完全に自分に委ねられているのだ、という発想でしょう。 先にも引いた漱石の書簡中の「死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な」という言葉を、今日のわたしたちは一種のレトリックとして読むわけですが、はたしてこれはほんとうにレトリックだったのだろうか。 職業作家としての漱石が十年という期間しか生きていなかったこと、そうして、明治四十三年には当時の一種の死病でさえあった胃潰瘍が悪化して、意識不明の重体に陥っていることを考えると、漱石自身はその当時から、自分の余命というものを意識せざるを得なかったのではないか。自分の命を削るようにして作品をつぎつぎと生み出していったわけです。 そこまで漱石を駆り立てたのは、いったい何だったのか。 「あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる」という意識とはまったくことなるもの、日本の将来に対する責任感だったのではないか、と思うのです。 いろいろ書きましたが、わたしの結論は、いまのところ、漱石は「自分の身体は自分のもの」という考え方に何ら疑問を持たないのが近代人であるとしたら、その意味では近代人ではなかった、だから自殺しなかった、ということになります。 たとえば『こころ』におけるKの自殺や、乃木希典の殉死が一種の引き金ともなった先生の自殺、あるいは『道草』や『明暗』など、個々の作品を見ていくと、もっとあれやこれやおもしろい話になっていくんですが、まあそういうことはゆっくりと考えていってください。
その他の回答 (3)
自殺しなかった理由 というのも変な気がします。 漱石は自殺したかったのですか? 自己本位ということに苦しんだ漱石は、晩年(死ぬ直前)やっと「則天去私」の精神というものに気づき、さてそれを体得せんというところで死んでしまった。というようなことが書いてある資料がありますので、貼っておきます。http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-souseki/souseki3.htm なので私の死に様は漱石的には不満だったのではとすら思っていたのですが・・
- alchera
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「何故でしょうか??」と問うて、正解が得られる性質のご質問じゃないことはおわかりですね。 それとも回答がついて(しかも回答者がどの程度夏目漱石を読んでいるかもわからないのに)、 これこれこういう理由です、と解説されればそれを鵜呑みにしてしまうのですか。 ここで問うのは「情報」までにして、後は自分で考えるようにしないと首から上の意味がなくなりますよ。残念なことです。 夏目漱石に興味を持ち、上記のような疑問を持つならば、彼の本をまず5冊か10冊くらい読んでみたらいかがでしょう。 彼の作品は後期になるに従って、だんだん陰りが濃くなります。(わたしは初期の軽めの作品が好きですが……) ご質問について何らかのヒントがあるとすれば、後期の作品を中心に読まれた方がよろしいでしょう。 ごく単純な理由でよろしければ「硝子戸の中」という随筆に、彼が生き続けている理由を3行程度で書いたものがあります。 これは文庫で100ページしかありません。読むに難しいものではないと思います。 が、「死なない理由」が3行で書けるかといえば、それは無理ではないかと個人的には考えます。 なので、この文章は漱石が世間話程度に死と生に言及したもので、正面から内容を考えた結果の文章だとはわたしとしては思いにくい。 やはり答えは、質問者さまが探して得るしかないのではありませんか。 これは、そういう種類のご質問だと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 >>「何故でしょうか??」と問うて、正解が得られる性質のご質問じゃないことはおわかりですね。それとも回答がついて(しかも回答者がどの程度夏目漱石を読んでいるかもわからないのに)、これこれこういう理由です、と解説されればそれを鵜呑みにしてしまうのですか。 いや。どのように感じているかたがいるのかなと思ったので質問させていただけました。自分の感覚は大切にしますが、色んな思考回路があってもいいと思ったもので・・・。 >>ごく単純な理由でよろしければ「硝子戸の中」という随筆に、彼が生き続けている理由を3行程度で書いたものがあります。これは文庫で100ページしかありません。読むに難しいものではないと思います。ありがとうございます。チェックしてみます。 三四郎では日本のそんな中身をともなわない社会(都市)を批判していますし、それからor門では女性に対する愛にも目的を見出せていない感じがします。
- suunan
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当時の作家で自殺した人は何人かいますが 割合としてはわずかです。 また、漱石は発狂しておりません。
お礼
回答ありがとうございます。 最近小説にはまりだしたので、詳しくないのですが・・・ 漱石はイギリスに留学し、西洋化した日本の思想を探したのですが・・・見つからなかった。日本は形だけは西洋化したが、中身はなにもなかった・・・。その後、精神不安定になり、時には発狂した。とどこかで読みました。 違ったらすいません。 三四郎では日本のそんな中身をともなわない社会(都市)を批判していますし、それからor門では女性に対する愛にも目的を見出せていない感じがします。
お礼
時代ってものがありましたね・・・。言われてみれば当然ですが盲点でした。一般的に仏教や一族の信仰などがあったんですね。 現代の僕らみたいな年代はそのような考えがあまりないので・・・言い訳ですwww 漱石が慶応生まれってのも驚きました。漱石は近代人でばなかったんですね・・・。 我輩はの引用ありがとうございます。やはり漱石は時代に敏感というかすごいですね~。 >>つまり、漱石が「今の世は個性中心の世である」ということが見通せたのも、彼自身はそういう空気のなかで育ったわけではないからこそ、逆にそういう傾向が見えた、と言えるのではないか。 なるほど。 >>職業作家としての漱石が十年という期間しか生きていなかったこと、そうして、明治四十三年には当時の一種の死病でさえあった胃潰瘍が悪化して、意識不明の重体に陥っていることを考えると、漱石自身はその当時から、自分の余命というものを意識せざるを得なかったのではないか。自分の命を削るようにして作品をつぎつぎと生み出していったわけです。 勉強になりました。 >>日本の将来に対する責任感だったのではないか、と思うのです。 納得しました。 丁寧にありがとうございました。感謝感激です。