• 締切済み

江戸幕府 大名一覧のサイト探してます

以前見た江戸幕府における、大名の一覧のサイトを探しています。 内容としては ・各大名が藩主になった時点の官位と、逝去する際に与えられる官位が書いてある 各大名の江戸城での伺候席についても書いてありました。 ・トップページの右の方?だったかにある小さなとこをクリックすると、主だった将軍のエピソードやトリビア的知識が読めた気がします。 ・どの将軍か記憶が無いのですが、誰だったかの体格なども書いてあった気がします http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi3.html 上記の二つではありません 記憶があいまいで申し訳ありませんが、思い当たるものがありましたらお教えください

  • tewpi
  • お礼率98% (1804/1836)
  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数5

みんなの回答

  • goold-man
  • ベストアンサー率37% (8365/22183)
回答No.2

参考URLをご覧ください。

参考URL:
http://www1.parkcity.ne.jp/sito/
tewpi
質問者

お礼

大変恐縮ですが、これも探していたものではありませんでした しかしこれまた詳しく各家の歴史を概観できるもので、参考になるものでした ありがとうございました

  • deadline
  • ベストアンサー率63% (1239/1943)
回答No.1

『武家の家格』の所に極位・極官・江戸城内詰めの間(伺候席)による家格について書いてはありますが、将軍のエピソードについては見当たらないので多分違うと思いますが・・・ 『私的な旗本・大名の歴史ページ』 http://homepage3.nifty.com/ksatake/

参考URL:
http://homepage3.nifty.com/ksatake/
tewpi
質問者

お礼

お手数をおかけしたのに申し訳ありませんが、探しているサイトはこれではありませんでした。 しかしこれもとても面白いサイトで、おかげでまた楽しいものを知ることが出来ました 感謝します ありがとうございました

関連するQ&A

  • 江戸時代の大名家、官位・伺候席などの一覧

    江戸時代の大名家の官位や伺候席、石高等が一覧できるサイトを以前見た事がありました 詳しく見られるサイトをご存知の方、お教えください

  • 江戸幕府は封建制?

    日本の江戸幕府は歴史用語の上では封建制なのでしょうか?それとも絶対王政なのでしょうか? 江戸時代は確かに各大名に領地が与えられていて、行政や司法が委ねられていましたが、大名が己の領地に対し完全に主権を有しているわけではなく、幕府によって領地替えや取り潰しされる事がありました。 また将軍と大名は契約によって主従関係があるのではなく、完全に支配されています。 しかし大名は将軍が派遣した官僚ではありません。 こういう場合はどちらに分類されるのでしょうか? 西洋の歴史用語を日本の体制に完全に当てはめる事も難しいと思いますが。 また西洋で日本の江戸時代のような体制になっていた時期もあるのでしょうか?

  • 土佐山内家の藩主名乗り

    江戸時代、「国持大名」は代々将軍から偏緯を賜ることで他の大名と区別されていたようです。(島津斉彬、伊達綱宗など) 土佐藩主の山内家は、24万石で「従四位下、侍従」と国持大名の待遇ですが、将軍の偏緯を受けていません。代々「豊」を通字としています。 http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/shikoku/kochi.html 何かの理由があったと思われますが、ご存じの方はよろしくお願いいたします。

  • 定府大名とは.

    どのような理由で定府と決められたのですか。 定府になれば領地と江戸の二重生活をしなくてすむので財政面で助かると思うのですが、ごく一部の大名家だけが定府とされています。 1万石程度の譜代の新田藩が多いようですが、外様もあります。 大名一覧などで検索すれば10家程度は見つかりますが、どんないきさつで定府になったのですか。 出雲国広瀬藩 譜代3万石 http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/chugoku/hirose.html 歴代藩主はほとんど定府だったが、松平直諒は在任中広瀬から参勤し、藩政に力を入れた。 播磨国三草藩 譜代1万石 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8D%89%E8%97%A9  丹羽氏は高柳藩時代より参勤交代を行わない、江戸定府の大名である。 なお、水戸家の場合は分かります。 また、幕府の要職に就いた大名がその期間、定府となるのも分かります。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代の「大名改易」

    「幕府は江戸時代を通じて、諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」という見方があります。 6代家宣以降(1709年以降)幕末までのおよそ160年間に改易された件数は、wikiの「改易」によればわずか19件です。 そこで質問ですが「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」と言えますか。 幕府は、大名改易に関してどんな基本方針をもっていたのですか。 家宣以降は、将軍権力の改易・転封をちらつかせて大名を統制したというよりは、大名家をなんとか存続させてやろうと務めたと見る方がよいのではないかと思うのですが、如何ですか。 よろしくお願いします。

  • 江戸幕府 将軍関係

    江戸幕府の将軍と家来の関係についてです。 関係について聞きたいのは、大名と藩士と旗本と御家人と陪臣です。 私の今までの解釈は写真の通りですが、違っていたら教えてください。

  • 長府毛利家

    http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html ↑こちらのサイトを見ると、長府毛利家は五万石の小藩で、しかも萩宗家の内分大名にも関わらず、四代藩主までは侍従や四品に叙任されていて、かなり優遇されているようです。しかし伺候席は柳間の様です。 どういった理由で官位だけが優遇されていたのでしょうか?

  • 江戸幕府の終わり

    ある本に「1867年10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました。これをもって江戸時代は、終わりました。」と書かれていました。  そして、ある本には、「1868年3月14日、公家や各藩の大名たちを京都御所に集め、天皇にかわって三条実美が、新しい政治の方針を示した五か条の御誓文を読み上げた。これをもって江戸時代は、終わりました。」とありました。 約半年の違いなのですが、歴史上、どの時点をもって江戸時代は、終わったと考えられているのでしょうか。  大政奉還しても旧幕府の考え方を持った少数派がいて、幕府としての機能を果たしていたという考えの人もいました。いろいろな考えがあると思います。よろしくお願いします。

  • 親藩・普代・外様 大名の区分け

    江戸時代の大名の区分けに、「親藩・普代・外様」があります。 これって、当時も制度として存在した呼び名なのでしょうか?それとも当時の民衆や後々の歴史家が作った区分けなのでしょうか? 将軍拝謁時の待合室である「伺候席」、朝廷から頂く「官位(官職・位階)」は制度として存在したことは存じ上げています。 よろしくお願い致します。

  • 長府藩主家(毛利秀元の家)の幕府からの厚遇

    毛利秀元は、もともと毛利輝元の嗣子でした。輝元に実子の秀就が生まれたために身を引いて別家を立てた人で、官位は正三位参議と高く、関ヶ原の役以前は山口20万石を分知され「毛利家一門筆頭」であったようです。輝元の陣代を度々任され、優れた武将として多くのエピソードを持っています。 関ヶ原の役の後、防長2国に押し込められた毛利家の中で、長府5万石を分知されて「一門筆頭、正規の大名」の立場になったわけですが、秀元本人はともかく、2代目の光広、3代目の綱元はいずれも四品に上り、将軍の偏緯を与えられています。綱元は侍従にも任じられています。この「四品、侍従、将軍の偏緯」と言う待遇は、国持大名である毛利本家の当主と同じです。5万石の大名としては、他に例がない厚遇と思われます。 http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/chugoku/chofu.html 4代目・5代目は四品には上っても将軍偏緯は与えられず、秀元の直系が途絶えた6代目以降は「普通の5万石の大名」扱いになっていますが。 秀元は江戸時代に「戦国の最後の生き残り」的な尊敬を受けた人だったようですが、1651年に生まれた3代目の綱元(秀元の孫)にまでその余慶が及んだということでしょうか?4代目に至り、将軍の偏緯を受けなくなったのも何か理由がありそうです。