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超自我と自我について。

metalogueの回答

  • metalogue
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回答No.3

超自我をエデイプス・コンプレックスに関連付けて考えてみたい。 エデイプス・コンプレックスの場面に直面した個体にとっては、意味もわからないまま(自我が未発達なため)に、「良い子であれ」という両親の強制的要求に従わせられる。自我が未熟であれば道徳を理解するいうよりは恐怖、不安、痛みがつきまとう外傷体験となってしまう。 こうした経験が外傷として心に刻み込まれて超自我を生む。そこで超自我の持つ性質としては、道徳的な仮面を取りながらも、底にこのうえない残忍性が潜むという複雑な性質を持つこととなる。 超自我が支配的な人格となると、ホームレスが街を汚すといって暴行を加えたり、学校・会社では場の空気を読めないという理由でいじめるということになる。また超自我が支配的な社会(軍隊、専制国家)は、その構成員に対してそれぞれの個性を殺すことが集団の利益だという道徳感を生み、弱者や自由を求めるものを残虐に排除する体制となっていく。 ラカンによれば、超自我の強制的要求は道徳意識とはなんの関係もないという。 超自我の道徳風の仮面に代わる真の道徳性とは、相手の痛みのわかることから来る道徳性だろう。それには自我によるコムニュケーション能力や外交能力の発達を待つしかないということかと思う。 参考までに以下の本を参照しました。 精神分析事典(R.シェママ) 精神分析と社会学(竹内均)第1章 超自我は社会規範か ラカンはこう読め!(ジジェク)第5章 自我理想と超自我

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    カテ違いでしたらすみません。 僕は高校3年生の男子です。 小学校5~6年のころから吃音症があります。 原因はわからず、努力しましたが改善もできていません。 最近、姜尚中(カンサンジュン)氏の「悩む力」という本を読んでいると 次のような記述がありました。  「私は、自分がどんな存在として生まれてきたのかを詮索するようになっていたのです。 しかしそうすると、自分の人生は重いものにならざるをえないように思えて、暗い気持ちになってしまいました。 そして、『吃音』という状態に陥ってしまいました。 母音で始まることばが出なくなり、朗読などをさせられると、立ち往生してしまい、途方に暮れてしまったのです。そのときの気分を、いまでもときどき思い出す事があります。ちょうど水に潜って、水面が上のほうに見えているような感じです。水面が見えているのにどうしても浮かび上がっていけず、息が苦しくてしかたがない、そんな息が詰まる感じです。  「自我に目覚めてからは内省的で人見知りをする人間になってしまいました。」 下から一行目の文の「自我」という言葉ですが、辞書で調べてみても釈然としません。自我とはアイデンティティのようなものでしょうか? 僕は自分が他人からどう見られているのかが非常に気になります。 また、他人に否定されたりして、自分が傷つくのをいつも恐れているような気がします。もしかすると、このような気持ちの持ち方が吃音の原因ではないかと思い始めました。(小学校5~6年になる前は自分がどう見られているかなど意識したこともなかったと思います) 僕の知っている人は、誰かに理不尽な批判をされても軽く聞き流しています。全く気にしていないようです。どうしてそんなに寛容になれるのでしょうか。皆さんのアドバイスをお待ちしています。

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    下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。

  • みなさんは、いつ頃から自我を認識しましたか?

    文章が分かりづらいと思いますが、読んでいただけると幸いです。 僕は、24歳の男です。 ここ三年程前に、自我というものに目覚めた気がします。 その前までは、ずっと本能というか感覚の世界の中に生きていました。 その頃は、考えるということよりも、直感的で感覚の世界で生きていました。 例えば、悪いと思ったことをしたら、恐いとか、感覚の中にこうなるんじゃないかという論理があったような気がします。 だけど、いつも漫画を読んで不思議だったのは、主人公が自分の中で会話をしているということです。 それが、いつも不思議でならなかったんです。 自分の中で自分と話しているということが、僕には理解できなかった。 みなさんは、それはいつから出来るようになりましたか? なぜ、そんなことを言うかといえば、三年前に彼女といるときに退行(赤ちゃん返り)のようなものが起きました。 その時に泣きながら「お母さん、行かないで~」とずっと叫んでいました。 家庭環境が、すごく複雑だった僕にとって、多分昔から孤独だったのだと思います。 子供の僕にとっては、訳が分からず、ただそれを自分ではないと思い込むことによって、 その辛い自分を守るために、自分ではない違う人間がやられていると思うようにしたのでしょう。 そういう所から自分が来ているのかなと思いました。 その退行が起きたときに、初めて自我というものに目覚めた気がしました。 自分ではない人間が、泣いている。 すごく冷めている自分がそこにいて、初めて「この子は過去の僕か?」という言語で自分で自分を客観的に捉えている僕がいました。 その時に、初めていつも漫画で見ている、主人公が自分の中で会話している感覚が理解できたような気がしました。 思えば、それまでの僕は自分の事、私というものを深く考えたことがありませんでした。 自分が何になりたいのか、何者であるか、どんな性格か。どうしたいのか。 今までは、すごく直感的に、感覚的に生きていました。 非常に流されやすく、そして人から自分がここにいるんだって事を多分わかってもらいたくて、 色んなことをしていましたが、全て人に対して、自分がここにいるんだという叫びそのものでした。 存在を認識してほしいという欲求です。 自我に少しづつ目覚めた僕は、今すごく人との差異を毎日感じています。 なんというか、置いていかれている感じです。 自我に目覚めている人にとって、多分昔から自分というものに対して考えてたからかもしれませんが、 意思や「こうしたい」と思うものがあって、また自分がどんな人間かというものも知っているような気がします。 でも僕はそれが今だもって分からないし、 また内在的な自分と、現実の僕が一体になってくれない、自分にいつも腹がたちます。 自分というものを認識したのは、いつ頃からでしょうか? そして、何かを考えている時は、音声が聞こえるのですか? それとも文字が見えるのですか? 僕は考えている時は、文字が見えます。 映画のように字幕で言葉が出てくるんです。 なぜそんなことをいうのかといえば、僕はよく考えている自分が消えてしまうからです。 本能の僕になっている時は、自分が何をしてるか全くわけのわからない状態になってしまうんです。 自分という認識を逃がしたくなくて、いつも考えている状態に置いていたくて、 そのヒントが欲しいんです。

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    文章が分かりづらいと思いますが、読んでいただけると幸いです。 僕は、24歳の男です。 ここ三年程前に、自我というものに目覚めた気がします。 その前までは、ずっと本能というか感覚の世界の中に生きていました。 その頃は、考えるということよりも、直感的で感覚の世界で生きていました。 例えば、悪いと思ったことをしたら、恐いとか、感覚の中にこうなるんじゃないかという論理があったような気がします。 だけど、いつも漫画を読んで不思議だったのは、主人公が自分の中で会話をしているということです。 それが、いつも不思議でならなかったんです。 自分の中で自分と話しているということが、僕には理解できなかった。 みなさんは、それはいつから出来るようになりましたか? なぜ、そんなことを言うかといえば、三年前に彼女といるときに退行(赤ちゃん返り)のようなものが起きました。 その時に泣きながら「お母さん、行かないで~」とずっと叫んでいました。 家庭環境が、すごく複雑だった僕にとって、多分昔から孤独だったのだと思います。 子供の僕にとっては、訳が分からず、ただそれを自分ではないと思い込むことによって、 その辛い自分を守るために、自分ではない違う人間がやられていると思うようにしたのでしょう。 そういう所から自分が来ているのかなと思いました。 その退行が起きたときに、初めて自我というものに目覚めた気がしました。 自分ではない人間が、泣いている。 すごく冷めている自分がそこにいて、初めて「この子は過去の僕か?」という言語で自分で自分を客観的に捉えている僕がいました。 その時に、初めていつも漫画で見ている、主人公が自分の中で会話している感覚が理解できたような気がしました。 思えば、それまでの僕は自分の事、私というものを深く考えたことがありませんでした。 自分が何になりたいのか、何者であるか、どんな性格か。どうしたいのか。 今までは、すごく直感的に、感覚的に生きていました。 非常に流されやすく、そして人から自分がここにいるんだって事を多分わかってもらいたくて、 色んなことをしていましたが、全て人に対して、自分がここにいるんだという叫びそのものでした。 存在を認識してほしいという欲求です。 自我に少しづつ目覚めた僕は、今すごく人との差異を毎日感じています。 なんというか、置いていかれている感じです。 自我に目覚めている人にとって、多分昔から自分というものに対して考えてたからかもしれませんが、 意思や「こうしたい」と思うものがあって、また自分がどんな人間かというものも知っているような気がします。 でも僕はそれが今だもって分からないし、 また内在的な自分と、現実の僕が一体になってくれない、自分にいつも腹がたちます。 自分というものを認識したのは、いつ頃からでしょうか? そして、何かを考えている時は、音声が聞こえるのですか? それとも文字が見えるのですか? 僕は考えている時は、文字が見えます。 映画のように字幕で言葉が出てくるんです。 なぜそんなことをいうのかといえば、僕はよく考えている自分が消えてしまうからです。 本能の僕になっている時は、自分が何をしてるか全くわけのわからない状態になってしまうんです。 自分という認識を逃がしたくなくて、いつも考えている状態に置いていたくて、 そのヒントが欲しいんです。

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