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大乗非仏説の立場から見た「諸行無常」

neil_2112の回答

  • neil_2112
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回答No.5

現在の文献学的な仏教学の立場では、いかに古いものでも金口の直説たる経典は存在しない、ということになっています。ですから、大乗非仏説という立場自体に疑問符がつきますし、そもそもそこに経典の論拠なるものが求められるはずもありません。ご質問の背景がよくわかりませんが、まあその点は措いて、以下はいわゆる原始経典に論拠をとって回答します。 (1)お釈迦さまの教えである、と言えます。 諸行無常という言葉自体は比較的後のものですが、「無常」という言葉やその類なら非常に早くから出てきます。スッタ・ニパータやテーラガーターには脆くはかない身体を慨嘆する直截な言葉が数多くみえますし、もう少し整った形なら、サンユッタ・ニカーヤ(漢訳の雑阿含経)などでも非常に沢山説かれています。 例えば雑阿含経1-1「無常経」(抄訳)。 「お釈迦さまは弟子達にこのようにおっしゃった。色を無常と観じよ。このように観ることを正観といい、正観するものには厭離が生まれる。 厭離が生まれて執着を離れたものを解脱したものという。同じように、受・想・行・識も無常と観じよ・・・」 同じく1-11「過去無常経」には、「過去・未来の色は無常である。ましてや現在の色が無常でないわけはない。我が弟子達は、過去の色を顧みず、未来の色を願わず、現在の色を厭離して正しく滅盡に向かえ・・・」とあります。 また同じく1-16「解脱経」には、「色は無常なり、無常とは苦なり・・・。同じく、受・想・行・識もまた無常なり、無常とは苦なり・・・」。有名な長老ヴァッカリとの対話を含め、同様の内容が雑阿含経の中には頻出します。少し大げさに言えば、ページを開けばどこにでもこのようなことが書かれているのです。 もちろん、よく誤解されるように無常そのものがダルマであるわけではなくて、無常は事実つまりダルマの表れたる現象として説かれたわけですが、無常がお釈迦さまの口から実際に出た言葉であることはまず疑いのないところでしょう。 (2)原始仏教の無常の説き方は、そもそも非常に限定的なものです。人間の具体的な生き方に即してのみ説かれたのですから、教えの内容それ自体も無常かどうか、という質問そのものがナンセンスと言えるでしょう。 論拠というのなら、先に挙げた例を読んでみればわかります。古い経典に繰り返し無常だと説かれていますが、それは何についてかといえば、まずは五蘊つまり色・受・想・行・識のことに他なりません。大事な点ですが、原始仏教は生身の人間の主体的な世界における苦しみを解決すべく説かれたのであって、そこでいう「一切」とはせいぜい十二処・十八界のことなのです。 つまり、「一切は無常である」という言葉の本来の意味は、「私が、死の危機に常に襲われている脆いこの体でもって知覚し生きているところのこの世界ははかないものである」という、極めて限定的な意味だったのです。そのような主体的な問題として説かれた「無常」を、勝手に命題レベルにまで拡大してその教え自体の当否を問うというのは、たとえて言えばちょうど、生き物を念頭において「全てのものは死に向かう」とする命題そのものもまた死ぬのか、と尋ねるようなもので、まったく意味のないことです。 (敢えて付言すれば、後のアビダルマ仏教はそれまでの身の回りの主体的な世界観を、命題や論理を含めた客観的な体系にまで拡大しようとしたわけで、そのひとつの結果がアビダルマの五位七十五法です。周知のとおり、ここでは解脱は無為法として縁起の外に置かれたわけです) もう少し言えば、無常というものを単に「流動的なものであって、変化し続ける」と理解していると、このような錯誤に陥りやすいのであって、無常はやはり、常に縁起と合わせて、というか縁起を根本において理解しないといけません。経典が「生ずるものが滅する」というのは、別に客観的で科学的な真理のはなしではなくて、私たちの苦しみは無明があれば生まれるし、無明がなければ無くなる、ということを言いたいわけで、つまり人間という存在の宗教的な問題を扱っているわけなのです。 以上のようなことは、失礼ながら仏教学の基礎といっていいようなことで、実際に原始経典を少しでも読めば、専門であろうとなかろうと、誰にでも感じられることではないかと思います。どのような立場の人にも言えることでしょうが、そうした原典を読むことなしに我流の解釈を重ねてわかった気になるのは大変危険なことではないかと思います。

baka-hage
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。まさに模範解答。すばらしいですねぇ。 >>以下はいわゆる原始経典に論拠をとって回答します。 つたない文章から、文意を読み取っていただき感謝します。 >>(1)お釈迦さまの教えである、と言えます。 やはりそうですよね。わたしも『スッタニパータ』『ダンマパタ』『雑阿含経』は読ませていただきました。「諸行無常」という言葉自体はありませんでしたが、無常という言葉は数多く読み取れました。 >>無常そのものがダルマであるわけではなくて、無常は事実つまりダルマの表れたる現象として説かれたわけです 非常に端的でわかりやすい説明痛み入ります。 >>原始仏教の無常の説き方は、そもそも非常に限定的なものです。人間の具体的な生き方に即してのみ説かれたのですから、教えの内容それ自体も無常かどうか、という質問そのものがナンセンスと言えるでしょう。 なるほど確かにそうですね。 >>無常はやはり、常に縁起と合わせて、というか縁起を根本において理解しないといけません。 >>私たちの苦しみは無明があれば生まれるし、無明がなければ無くなる、ということを言いたいわけで(中略)  私もそのように思っています。     ただ、原始仏教経典といわれる『雑阿含経』第二十二の中に気になる文言があります。 「如来の正法の滅せんと欲すとき、相似の像法が世間にでおわりて、正法すなわち滅す」 とあります。仏教はかなり初期の段階で「法滅思想」を内在していたように思います。さて、この文言は「諸行無常」のうちにははいらないのでしょうか?? >>どのような立場の人にも言えることでしょうが、そうした原典を読むことなしに我流の解釈を重ねてわかった気になるのは大変危険なことではないかと思います。 と叱られたばかりですが、先の解釈どうぞお許しください。この問題に関しては経典類を読み直して考えなくてはいけないようです。たわごとにお付き合いいただきありがとうございました。

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