- ベストアンサー
何が正しくて何が悪いか
質問させて頂きます。 私は、この世界には「何が正しくて何が悪いか」なんていうものは存在しないと思うのです。 ひとつの行動をとってみても、誰々にとっては良かった、誰々にとっては悪かったという影響というものはあるのでしょうが、 やはりその行動自体には何もないと思うのです。ただ、その事実があるだけというのでしょうか。 例えば殺人の場合にも、その殺人に関係した人各々が正しいや悪いという感覚を持つのであって、殺人という行為そのものには正しいも悪いもないと思うのです。 こういう話を人としたときに「じゃあ人を殺してもいいと思っているの?」と言われたことがあるのですが、それはまた別で感情という部分で好き嫌い、許せる許せないというものが有り、別に誰かを殺したいと思っているわけでもありません。 ただ、なぜこんなにも殺人が絶対に悪であるかのように思っている人が 沢山いるのかわからなくなることがあるのです。 やはり、人に関わらず自分が愛着を持っている存在を失うことが大きな悲しみを生むからでしょうか。 それとも私のこういう考えかたがおかしいのでしょうか? 読んで頂きありがとうございます。ご回答頂けたら幸いです。 よろしくお願い致します。
- みんなの回答 (18)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
質問者さまの考え方に全面的に賛同しますが、これは哲学の基礎中の基礎であって別に特異な考え方ではありません。 物事の善悪を決めるのは誰でしょうか。 人間は(生物は)皆、主観的な考えや感じ方しかできません。 誰ひとりとして客観的な判断をできると言い切れる人はいないでしょう。では善悪の判断は神が決めるとしても、神という概念もまた人間の主観が作り上げているものです。 だからあなたの神と私の神は違うわけです。 だから地球上には無数の宗教が存在し、殺人を禁じる宗教もあれば殺人をよしとする宗教もあります。 動物愛護の観点からのベジタリアンもいますが、植物に痛みや感情が存在しないという証拠はありません。 この世に「絶対」や「客観的真実」は存在しません。 存在しても、それを判定する人がいないのですから。
その他の回答 (17)
- eienn
- ベストアンサー率16% (77/462)
はっきりいって、悩むことでもないと思います。 この世に真の意味での善悪など「存在しません」。 あなたの考えているとおり。 >ただ、なぜこんなにも殺人が絶対に悪であるかのように思っている人が 沢山いるのかわからなくなることがあるのです。 これが質問の核ですよね? そんなもの、「人はなぜ死を恐れるのか」と「セット」で、 謎なのですよ。 人が死を恐れるからこそ、殺人が罪に「成り」、 死刑が「刑罰」としての効力を「持つ」のです。 人がなぜ死を恐れるのか。 これがあなたの疑問の核です。 宗教では、それは、 「人は無限に死んできたから」、 「無限に別れや痛み」を繰り返してきた。 その経験が無意識に蓄積されているから、 「人は死を恐れる」 という考えもあります。 ま、別にどうでもいいんですけどね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 人がなぜ死を怖れるのか、それはわかりませんね。 知らないことだからか、それとも各々が自らの恐怖をそこに見出すからでしょうか。 >ま、別にどうでもいいんですけどね。 そうですね、100%ではありませんが私にもそう思う節があります。
絶対悪、絶対善とは「客観的に言え、万人に平等に通用する悪、善」というような事ではないでしょうか。つまり、恒久的法則性を帯びる、善悪と言い換えても良い。 たしかに、人の性質が千差万別である限りは、何を善悪というのかという事の感識の仕方もまた千差万別であり、定義された善悪など存在しないと考えられますね。 従って私たちは、自らの心の中に備わっている善悪の感識作用に頼って行動の基準にするしかない。 そこで殺人と自殺についてです。 これらを悪と感識しない者ははたして存在するんだろうか? 殺人者、自殺者が後を絶たないにせよ、彼らはそれを悪と感識しなかったんだろうか?そんな事は無い筈である。なぜなら、そうするまではそうしなかったのだから。 共感能力を持つという事は自殺、殺人の悪性を感識出来るという事である。感識出来るという事は程度の差こそあれ感識したという事である。 共感能力は程度の差こそあれ、一応万人に備わっている。だから万人は程度の差こそあれ自殺、殺人の悪性を感識したのである。 そこで、自殺、殺人の起こる仕組みであるが、感識された悪を抑制する苦痛を凌駕する別の苦痛を回避する為にそれは起こる。 従って自殺、殺人が起こったからといって、自殺、殺人が悪と感識されなかったのではない。万人は自殺、殺人が悪であると、程度の差こそあれ感識したのである。 そこで、万人が共通して感識している実際に従って、まるでそれが絶対悪であるかのように表現されているに過ぎないのではないでしょうか。
お礼
殺人と自殺を悪と感じるかどうか、それはきっと環境によって備わるものだと思います。 殺人と自殺は世界の常識として悪であり、またその環境の中でしか生きたことがありませんから、そう感じずにはいられないのですが、この常識が全く逆の世界があったならば、それを全く悪と感じないこともあるのではないかと思います。 しかし、現在こうして多くの人類が存在しているわけですから、人の始まりはそれを環境以外のものから悪と捕らえていたのかなとも思えてきます。 >そこで、万人が共通して感識している実際に従って、まるでそれが絶対悪であるかのように表現されているに過ぎないのではないでしょうか。 なるほど、言われてみればそれだけのことだったのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。
- tyr134
- ベストアンサー率51% (851/1656)
取り立てて、おかしいと言うわけではないと思います。 「善悪」の問題を、哲学的に思考した場合、必ず通る道と言ったところでしょうか。 私も、その道を通って今は以下のような結論に至ってます。 この問題を本格的に学ばれる気があるなら、「倫理学・道徳学」をやってみてはいかがでしょうか? 「倫理学・道徳学」というと、宗教的なイメージがありますが、それ以上に「人間学」でもあります。 また、「善悪の問題」は人間に属する問題であることも分ります。(もちろん、動植物や自然が善悪概念お持ってるかは分りませんが) 宗教というのは、この「人間学」の表層にしかすぎません。(まぁ、深い表層ですが) つまり、「善悪の価値判断問題」は「倫理・道徳」に繋がり、「倫理・道徳」は「人間はどうあるべきか」に繋がります。 人間は社会に生きる生き物ですし、その社会が上手く回らなければ個人もまた生きることが出来ません。 そして、個人が生きることは社会が生きる事になります。 ただ、人は時に個が全面に出過ぎるため、「社会を殺す行為(反社会行為)」を行います。 それを戒めるのが「法の支配」という概念です。 「法」は「社会が個を戒める」手段です。 しかし、その戒めが行きすぎると今度は「個」を殺すことになり、社会が死ぬことになります。 社会が死ねば、個は生きられません。 ※一番近い概念としては、J.S.ミル『自由論』での「自由はまた他者の自由とも衝突する。故に、他者の自由を尊重せず勝手な振る舞いをしてはならない」というのがありますね。 私がモヤモヤして持っていた概念を、見事に言葉に表されてしまいました。 と、まぁ、「善悪問題」をやって「倫理学・道徳学」に入ると、必然的にに「社会と人間」の関係を考察せざるを得ず、結果、(大きな概念での)「政治と個人」という考察に至ります。 最近は倫理学も細切れの「みじん切り常態」(「環境倫理学」「医療倫理学」「経済倫理学」など)になりつつありますけど、、、。 でも、目的は一つですね。 「個と社会が共に生きるための方法を考える」事ですね。 で、「個と社会を生かす」のが「善」であり、「個と社会どちらか一方、もしくは両方を殺す」のが「悪」というのが、今のところ私の出した結論ですね。 ただ、一つ一つの行為がどちらに属するのかは難しいですけど。(というか、相対主義に陥ってます・汗) 例えば、「殺人」にしても「人を守るために、相手を殺さざるを得なかった」場合と、「自分の欲求を満たすために相手を殺した」場合とでは、「善悪判断」が変ってきますしね。 つまり、行為と動機の相対関係によって「善悪が逆転」してしまう。 まぁ、だからこそ「裁判」によって「量刑」を決めると言うことが行われているんだと思いますけど。 参考になりましたら、幸いです。
お礼
私のこの疑問というのは、きっと社会で生きていく上では必要でない考えなのだと思います。 とはいっても、必要だから、不要だからといって考える考えないを決めているわけではないのですが。 私は今までさほど読書をしたことがありませんでしたので、これを機に読んでみたいと思います。 tyr134様のように私の中のモヤモヤが無くなるような、形になるようなものが掴めたら嬉しいですね。 ご回答ありがとうございました。
- hhituji
- ベストアンサー率30% (15/49)
私は人間の中には絶対の価値を持つ善悪の区別をつける共通の道徳観があると思いますよ。 selphie716さんは、特殊な状況の殺人について疑問を持っているようですが、人を殺すということに対する善悪の感情は状況によらず人類共通だと思います。 たとえば、妻が、夫を殺してばらばらにした事件がありましたよね。あれは、妻が日ごろから暴力を受けて、殺される可能性さえ感じていて、しかも精神喪失状態。情状酌量も考えると、無罪になる可能性が取りざたされていますよね。 だけど、あの殺人を犯した女の人は、いざ殺すとき激しい良心の呵責を感じたと思いますよ。もうどうしようもない状況だったと思いますが、それでも開き直って楽しく殺したなどということは絶対にないと思います。 そして、この感情は人類共通だと思います。 たとえ戦場で殺さなければ殺される場面であっても、やはり殺すことに楽しさを見出す人は(正常な人には)いないでしょう。そして、もしどんな状況であっても、楽しく、良心の呵責なく人を殺した人を、私たちは快く思わないでしょう。 私たちは、共通の道徳観を全ての人が持っていると思います。殺人は、シチュエーションによってはとても同情できる場合があるのは間違いありません。ただし、人を殺すということを正しいことだとはやはり誰も思わないのではないでしょうか? これが私の意見です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私は人を殺すということが正しいとは決して思っていません。 ただ、根本的なところには善も悪もないのではないか、 善悪はその行為そのものにあるのではなく、その行為から一人一人が感じて決めているだけのことなのではないかということが言いたく、聞きたかったのです。 hhituji様の仰る共通の道徳観というものは私の中にもあります。 殺人以前に肉体的にも精神的にも相手を傷つけるという行為が大嫌いです。
- aporo1
- ベストアンサー率0% (0/6)
>私は、この世界には「何が正しくて何が悪いか」なんていうものは存在しないと思うのです。 ゴルゴ13の原作者も似た様な事を言っていましたが。 もともと人間には善悪の解釈が無いと思う。 今でもそうですが、奪い合ったわけでしょ?人を殺して奪った。戦争なんてその最たるものです。それを善として扱う事が多いですよね? それは何故かというと、社会がそれを認めればそれは善になる。認めなければ悪になるだけのことで。 善とか悪というのは本来ないわけですよ。 ゴルゴ13にとっての善悪というのは彼の中で解釈する善悪であり、それで変えてきたから、その時代の善悪というのが全然ないんだそうですよ。 参考になれば。
お礼
その通りですね。対象を人間に絞らなければ戦争よりも、日々の食事がそれにあたるわけですし。 善悪の解釈がないと言い切ることはしませんが、自らの悪の部分に目を瞑りがちな気がします。 見ていないわけではありませんが、一日を平均してみると瞑りがちになります。私の場合はですが。 ゴルゴ13機会があったら是非読んでみたいと思います。 ご回答ありがとうございました。
- h1r0s13
- ベストアンサー率12% (61/497)
補足させて頂きます。 勿論、絶対的な善であり、無尽蔵な愛そのものです。
お礼
No.12と合わせてこちらにお礼をさせて頂きます。 それと同じように私の中にあるものは私の中にしか有り得ないとしか言いようがないような気がします。 ご回答ありがとうございました。
- h1r0s13
- ベストアンサー率12% (61/497)
この三次元に生まれてきたということは、多次元から生まれてきた人と、同じ時間を共有するということです。 三次元以上の世界では、在り得ないことです。 なぜそういうことが解るかというと、私自身見て知っているからと言うほかありません。
何をいまさら・・・・
- sicco
- ベストアンサー率27% (134/486)
人間は集団の生き物ですよね。 人というのは個体としては弱い存在で、もともとは肉食獣に狩られる側だった。 それが集団を形成することで、頂点に登り詰めたわけです。 だから、仲間を失わない、組織を崩さない、ということが本能としてすり込まれてきているのではないかと。 それが現代では、「悪を憎む気持ち」になっているのではないかと自分は思っています。 その気持ちが持てない人は、人間社会を脅かす存在であるがゆえに、皆から嫌われ、駆逐されるのでしょう。 もっともっと根源的なところまで登っていけば、正義も悪も、生存のために人間の決めた約束事ですから、自然界に存在するものではないと思います。
お礼
私が言いたかった、何が正しくて、何が悪いかなんて存在しないと思うというのは、 まさにsicco様の仰った自然界という位置での話なのです。 しかし、そこには絶対的な答えがあるわけではないので、自分がどう思うか、どう納得するかということなのでしょうね。 それはきっと、これからも時間や何かのきっかけで形を変えていくものなのだと思います。 わかりやすいご回答でした、ありがとうございます。
> 自分が愛着を持っている存在を失うことが大きな悲しみを生むからでしょうか。< 愛着というのなら、この考え方はおかしいでしょう。 だれにも愛着を持たれない人間とみなしてホームレスを殺害した少年たちがいましたが。。。 親が愛でなく愛着をもって少年たちに接していたのでしょう。 正しさは 過誤と照らし合わせる概念。 悪は 善と照らし合わせる概念。 そして、人が従うものには、人定率と自然率があります。 > 殺人という行為そのものには正しいも悪いもないと思うのです < 殺人は正しい状況がある。しかし善い状況はない。 おわかりにならないかもしれないけれども、 生命が欠けるところには闇があります。病ということばは同じ派生ですが、 身体の器官が失われても、重病にかかっても、自殺を願っても、 生命がおびやかされるとき、精神は闇の淵にあります。 ひとの生命に無関心であるとき、またおびやかすとき、精神は迷妄とした闇を招き入れます。 これをなんと呼ぶか、正確には誰も知らないでしょう。 精神科医エーリヒ・フロムはこれを悪と呼びました。 わたしたちは闇に慣れると、闇を恐れなくなります。 習慣的な悪、社会的な悪は、生命への無関心とかならず手を組んでいます。 ナチスのSSは正しい行いとして任務を遂行しながら、精神の闇に覆われました。 そして歴史はその行いを過誤と断定しました。 この世に絶対はないと考え、正誤は暫定的ルールであると考えてはいても、 わたしたちがみずから殺人をするときには、また自殺をするときには、とくべつに、絶対としか呼びようのない暗く深いものを経験する。 と、わたしは先人たちから学びました。 暗く深いものを悪と呼ぶかどうか、さあ、チベット密教やゾロアスター教のような元祖的宗教に学ばずとも、 わたしはそうだと思いますね。子供や虫や鳥や木々草花が、そう言っていますからね。 ただし、悪を否定するものではありません。悪という存在は、ある、と思うだけです。
お礼
私は愛着という言葉を、生命であれ、物であれ、それを大切をすることという意味で使いました。 頭の中にあるイメージ・モヤモヤを言語化するというのは難しいことだと実感しました。 ご回答ありがとうございました。
- 1
- 2
お礼
私の表現に至らなかった部分が多々あったと思いますが 私の言いたかったことを、とても柔軟に表現して頂いたように思います。 それは、宇宙の始まりなのか、地球の始まりなのか、動物の始まりなのかはわかりませんが、正しいや正しくないということは、はじめは何もなかったのではないかと思っています。 この世に悪とされていることには、それだけの理由があって歴史により築かれ必要であることは承知しています。 しかし、それが絶対的であるという考え方に疑問を抱かずにはいられなかったのです。 生きていく上では絶対的とする必要はあるのでしょうが、もっと根本的な部分では絶対的ではないと思っているわけです。 仰るとおり、判定する人はいませんから答えというのは自分の中の物としてでしか存在できませんし、その絶対的というのもまた私の中の絶対的という意味になりますね。 ご回答ありがとうございました。