• ベストアンサー

クドく感じる「ような」の用法

「病気の発見がもう少し早ければ、こんな地獄を体験しないで済んだ気がしてならなかった」 「病気の発見がもう少し早ければ、こんな地獄を体験しないで済んだ『ような』気がしてならなかった」  上文の違いは、「ような」の有無だけです。  こういった文章の場合、「ような」は付加するべきなのですか。  どちらのほうが自然にきこえるのですか。  正しい日本語の表現方法が知りたいです。  どうか教えて下さい。  何卒、宜しくお願い致します。

  • water5
  • お礼率91% (318/349)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#57571
noname#57571
回答No.2

● 着眼点1 「~てならない」は、その気持ちを抑えることが不可能だという意味です。「気がしてならない」ということは、単に「気がする」程度ではなく、「物凄くそういう気がする」わけです。つまりこれは強調です。 ● 着眼点2 「ような」(終止形は「ようだ」)は、詳しくは辞書を見ていただきたいのですが、この例文の場合は「不確かな断定」の意味で使われています。「済んだ」に「ようだ」を付けることによって、済んだかどうかは不確かになります。すなわち「済んだ!‥ かもしれない」という意味になって、「済んだ」と言い切るよりも意味が弱まります。 以上の2点を念頭において次の文を読んでください。 病気の発見がもう少し早ければ、こんな地獄を体験しないで済んだ【ような】気がして【ならなかっ】た。 「ような」と意味を弱めておきながら、同時に「なかった」と強調するのは論理的に矛盾します。「済んだ」かどうかはっきりしないのならば強調する理由はないし、逆に「気がしてならない」と強調するのであれば、「~ような」と弱めずに「済んだ」と言い切るべきです。 つまりこの文は、「くどい表現」(聞こえ方が不自然)かどうかと言う以前に、意味的に不自然な表現であると言えます。 したがって、意味を明快にするためには、下記のようにどちらか一方を削ることが望ましいと思います。 1. 病気の発見がもう少し早ければ、こんな地獄を体験しないで済んだ気がして【ならない】。 2. 病気の発見がもう少し早ければ、こんな地獄を体験しないで済んだ【ような】気がする。 1と2のどちらが正しいかは、当然ケース・バイ・ケースです ( ^^

water5
質問者

お礼

 tareteru様、返信ありがとうございました。  このレス、目から鱗が落ちました!  いやぁ……今回も参りました。わたしの悩みは、tareteru様が指摘してくれた通りなんです。痛いところをいっぱい突かれたのですが、理解できたという変な喜びがあります。tareteru様の言葉は相変わらず、説得力がありました。water5、また一つ賢くなれた気がします。 「着眼点1・2」の文章が、tareteru様の後文を読んでいく上で、深い理解を働かせてくれたのだと思います。今わたしにとっては、目覚めの一撃でした。こうやって自分の愚かさに気づくことに、ある意味での快感を覚えています。知的欲求が非常に高まりました。これもすべてtareteru様の親切丁寧な返信レスのおかげだと思います。  重ねて、ありがとうございました!

その他の回答 (4)

noname#57571
noname#57571
回答No.5

> 「気がしてならなかった」という日本語として綺麗な慣用句のなかに、 > すでに「ならなかった」と断定した表現と「気がする」と断定を避ける > 表現の間の自己矛盾が潜んでいたのだと考えます。 確かに、「気がする」の意味についての考察がまるっきり欠落していましたね。これは大失敗です ( ^^; No.2の回答は、細部にこだわり過ぎてかなり迷走してしまった感があると思います。 ただ、cyototu さんは「ような」は「気がして」の部分を引き出すための前駆で、意味を弱める意味(婉曲表現)はないとおっしゃっていますが、その点はどうでしょうか。 < 例 > ・敵は本能寺にいる気がする(多分いると思うよ) ・敵は本能寺にいるような気がする(いるんじゃないかなぁ‥) やはり「ようだ」には、実質的に意味を弱める効果があると思います。 それはそうと! つい先程気付いたのですが、「(ような)気がしてならない」という表現は、仮定形の文の結びで使用すると何だかしっくり来ないような気がします。 <例> ・うわさが本当ならば、嬉しい気がしてならない。 ・天気が良ければ洗濯物を干せた気がしてならない。 ・虎穴に入らなければ、虎子を得られない気がしてならない。 ・クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、歴史は変わっていた気がしてならない。 water5さんは「ような」がくどい感じだとおっしゃっていますが、もしかすると「くどさ」の原因は、寧ろこちらにあるのじゃなかろうか‥ との疑問がふと湧きました。 とは言え、それがどういうことなのかまだ頭の中で整理できていませんし、単なる思い過ごしかもしれませんが‥ ( ^^

water5
質問者

お礼

 tareteru様、何度もありがとうございます! >つい先程気付いたのですが、 >「(ような)気がしてならない」という表現は、 >仮定形の文の結びで使用すると >何だかしっくり来ないような気がします。  これも目からナントカってやつです。  いわれてみると、確かにそうだなぁと納得がいきました。

noname#160321
noname#160321
回答No.4

>「体験しないで済んだ『ような』気がしてならなかった」 は#2のお答えにあるように屋上屋の日本人の断定遠慮癖の典型みたいなものです。 私なら、全部取っちゃいますね。 「病気の発見がもう少し早ければ、こんな地獄を体験しないで済んだ気がした(or する)。」

water5
質問者

お礼

 doc_sunday様、返信ありがとうございました。  なんとか解決できました。感謝しています。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

「ような」という自信のない言葉を入れたくなった理由は、「気がする」という不確かな心持ちを表す動詞を使ったからでしょう。そういう意味では、#2さんの厳密な分析は、厳密ゆえに論理的には相変わらず不完全な分析になっていると思えます。要するに、「気がしてならなかった」という日本語として綺麗な慣用句のなかに、すでに「ならなかった」と断定した表現と「気がする」と断定を避ける表現の間の自己矛盾が潜んでいたのだと考えます。ですから、無意識に文章を考えた時に、一方で「気がしてならなかった」という表現を認めながら、他方で「ような」という言葉が引きずり込まれてしまったことを、一概におかしな表現だとは言えないように思えます。 その深層心理を認めた上でなら、慣用句として「ような、、、気がしてならなかった」は、十分受け入れられる表現だと思います。ただし、貴方の文では「ような」の位置が収まるところに収まっていないと感じました。 こんな地獄のような体験をしないで済んだ気がしてならなかった。 の方が、文章が安定していると思えますが、如何なものでしょうか。 ここでの「ような」の使い方は、地獄を弱めているわけではなくて、後の「気がして」の部分を引き出すための前駆として使われていると説明出来ます。 他の例では、「全然、、、ない」や古文の「な、、、そ」などが考えられます。この場合も、例えば「全然大きな魚がいなかった」という表現もあり得ますが、「大きな魚が全然いなかった」という表現もあり得ます。相手に通じると言う意味で話し言葉としてはどちらも優劣がありませんが、文章としては後者の方が洗練されています。

water5
質問者

お礼

 cyototu様、返信ありがとうございました。 >その深層心理を認めた上でなら、慣用句として >「ような、、、気がしてならなかった」は、 >十分受け入れられる表現だと思います。 >ただし、貴方の文では「ような」の位置が収まるところに >収まっていないと感じました。 >こんな地獄のような体験をしないで済んだ気がしてならなかった。 >の方が、文章が安定していると思えますが、如何なものでしょうか。  そうですね。そういった考え方もありますよね。  この意見も非常に参考になりました。  water5、もっと勉学に励みます!

回答No.1

付加する「べき」かどうか、どちらがより「自然」、または「正しい」か、に関しては、発言者の好みや性格、ものの言いようの癖などによるとしかいえないのではないでしょうか。 いずれも間違ってはいないし、不自然でもありません。 ただ、ここに用いられている「ようだ」は、「不確断定を表す」というはたらきをもつ助動詞ですから、この助動詞があることによって、 ・発言者の発言内容に対する自信(確信)のなさ ・聞き手に対する遠慮 ・控えめで謙虚な態度 などのニュアンスが加わることはたしかです。 日本語は、物事を婉曲に表現すると、丁寧さが出るとか、聞き手や相手に対しての敬意を含ませることができる、という傾向がある言語ですので、あまり自信満々にズバリと自分の言いたいことを伝えずに、「ようだ」を用いて遠回しに表現することで、謙虚さを演出し、丁寧さを加えているつもりになっている、という部分があるのでしょう。 ですから、はっきりと自分の立場や意見を述べなければならないような場合は、この種の「ようだ」の乱用は望ましくないと思います。 私は、学生に小論文や意見文等を指導するときは、  どんな意見であれ、きっぱりと自信を持って言い切れ。  「ようだ」や「とか」「など」でごまかすな。  内容の薄さや考慮の浅薄さを暴露する「婉曲」は、  使えば使うほど、自分がバカだと自己申告しているようなものだぞ。 と、キツイことを言って、婉曲表現には片っ端から情け容赦もない抹消線を引いてやります^^;

water5
質問者

お礼

 miirumatsu様、返信ありがとうございました。  明快な分析、とても参考になりました。 「ようだ」の使い方が深いところでわかりました。 >はっきりと自分の立場や意見を述べなければならないような場合は、 >この種の「ようだ」の乱用は望ましくないと思います。  miirumatsu様の仰る通りだと思いました。  なにげに「ようだ」という言葉で文章を誤魔化している自分に気づきました。これは自分にとって大きな発見です。的確に指摘してくれて本当に感謝の気持ちでいっぱいです。  重ねて、どうもありがとうございました。

関連するQ&A

  • 「どこでしょうか」の用法

    素人ですが、苦心しながら外国人に日本語を教えています。 ある人が「うまくいかないわけはどこでしょうか」という文を書きましたので「うまくいかないわけはどこにあるのでしょうか」と書き直してあげました。すると「『どこですか』は、場所をきく言葉ではないでしょうか」と言われてしまいました。 言われてみると「八百屋さんはどこですか」「あの人はどこですか」は、自然な表現です。しかし「うまくいかないわけはどこでしょうか」では不自然に感じますが、この違いをどう説明すればいいのでしょうか。 それともこれは私の考えすぎで、いずれも自然な表現なのでしょうか。

  • 「より」の用法

    日本語を学習している外国人が、日本語学校で比較級を習ったそうです。例えば、「中国語は日本語より難しい」という文章です。その外国人は、比較対象の「より」の用法については理解できたそうなのですが、その「より」が二つある文章について理解ができなかと言うのです。しかし、「より」が二つもある文章とはどのような文章なのでしょうか。私にはイメージすることができません。私が思い浮かばないだけなのか、それとも、その外国人が教師の説明を誤解したのか、真相が分からず、気になっています。みなさんはどう思われますか。「より」が二つある文章というの思い浮かべることができますか?

  • 「は」を理解したい

     日本語を勉強中の中国人です。私の書いた文「文章を書くときに、句読点の使い方に気をつけたいです」は日本の方に「文章を書くときに【は】、句読点の使い方に気をつけたいです」と表現したほうがよいと指摘していただきました。お聞きしたいのですが、「は」の有無でニュアンスはどのように変わるのでしょうか。ここの「は」の役割を理解したいと思います。  また、質問文に不自然な日本語がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 「~~自身」という言葉の用法(続)

    日本語の質問です。 以前、似たような質問をしたのですが、引き続き気になったことが有るので質問します。 日本語でよく、「私自身や彼自身、あなた自身」 という様に自分やその人を「~~自身」という 言葉を使って強調することが有りますよね? ここで疑問なのですが、次の文の違いを考えて貰いたいのですが、 (1) 「彼は私の経歴を知っている」 (2) 「彼は私自身の経歴を知っている」 以前の質問の回答者様によれば、「~~自身」という表現は、前後の文脈によって、 特に「その人」のことを強調したい場合に使うのが適切な日本語で、例えば 「その本は図書館で借りて読むのが一般的であるが、私自身はその本を持っている」 の様に使うのが正しく、対して前後の文脈が無く 単に事実を述べた文章で 「私」を「私自身」に置き換えると不自然な日本語になると おっしゃっていたんですが、となると(2)の文章は、これだけだと不自然ということでOKですかね? 宜しくお願いします m(__)m 以前の質問: http://okwave.jp/qa/q7659187.html?from=history

  • 「のであれば」の用法について

    日本語教師ではありませんが、チャットで複数の外国人に日本語を教えています。 ある人(以下「生徒さん」と呼ぶことにします)が日本語の勉強の一環として、生徒さんの母語で書かれた文章を日本語に翻訳しています。その文章は生徒さんと同じ国のある女性が国際結婚して主人の国に移住し、文化の違いなどで虐げられるなどでつらい思いをしているという内容です。 生徒さんが「両親が大切な娘の現状が分かるのであれば、きっと母国に連れて帰ると思いました」という文を書きました。意味としては「両親が大切な娘の現状を分かったら、きっと母国へ連れて帰ると思いました」ということなのですが、生徒さんの書いた文では意味が異なると思いましたのでそのように書き直しました(私にはどうしても「のであれば」を使って書き直すことができませんでした)。すると生徒さんから「~のであれば」では通じませんか、と質問され、うまく返事できなくなってしまいました。 皆さんは生徒さんの文を「両親が大切な娘の現状を分かったら、きっと母国へ連れて帰ると思いました」と同じ意味だと思いますか? もし違うと思われるなら、「~のであれば」を使ってどのように書き直せば同じ意味になるでしょうか。「両親が大切な娘の現状を分かったのであれば、きっと~」とすればいいのでしょうか。「~のであれば」を使えないのであれば、なぜこの場合は使えないのでしょうか。 それとも、私はこの件を難しく考えすぎているのでしょうか。 皆様方のご意見・ご回答をお待ちしています。

  • もっとも~の、ひとつ の訳し方に就いて教えて下さい。

    もっとも~の、ひとつ のような表現方法が外国語にはあるようですが、奇妙な感じがします。このような表現がでてきた場合、日本語の文章として違和感なく訳すとすれば、どうのようにすれば良いでしょうか? もっとも~の、ふたつ と書いた日本人の小説家もいますね。…… 宜しく、お願い申し上げます。

  • 「-のこと」の用法

    日本語の質問です。 次の文の違いは何ですか? (1) 彼は数学をよく知っている。 (2) 彼は数学のことをよく知っている。 何か(2)は不自然な様な気がするのですが、 「-のこと」は、どういう場面で使われるのでしょうか? 宜しくお願いします。  

  • 「何で来たの?」の用法について

    日本語教室のボランティアスタッフをしていますが、日本語の文法のテキスト等を読んでいて気づいたのが「なんで来たの?」の用法です。私は今までこの言い方は「来た理由」を尋ねる時にだけ用いるものだと思っていましたが、テキストでは他に「交通手段」を尋ねる時にも用いるものとして説明されていました。すなわち「徒歩で」「自転車で」「電車で」来た、といった風にです。 私は今まで、交通手段を尋ねる時は「なにで来たの?」を使っていたので、「なんで」と「なにで」両方とも可、という説明に感覚的に納得が行かないのです。 ところが、スタッフの中にはこの用法を平然と使う人もいるので、やはり私の文法知識が足りないだけなのかなとも思っています。 それに、理由を尋ねる用法として「なんできたの?」と聞かれた時でも、その言葉の裏に「来られると迷惑なんだよ」とか「ちょっとおかしいんじゃないの」といった良くない意味が込められているような気がして、使うのをためらいます。個人的には、このぶしつけとも捉えられる表現を外国人には推奨していません。 どなたか、日本語文法に詳しい方、また日本語教室で教えられている方などでこの疑問に明解に答えられる自信がありましたら、回答の程よろしくお願いします。

  • 日本語の表現の仕方についてお尋ねします。

    日本語の表現の仕方についてお尋ねします。 「いただきますようお願い申し上げます」 という表現と、 「いただけますようお願い申し上げます」 という表現では、 日本語的には、どちらの表現が正しいのでしょうか。 ちなみに、上記の文章の使用用途は、 「ご連絡いただきますようお願い申し上げます。」 「お支払いいただけますようお願い申し上げます。」 などです。

  • 中学の問題について教えてください。

    以下の文があったのですが、上文と下文の違いはvery easyかinterestingかの違いだけなのに なぜ、日本語への訳仕方が違うのでしょうか? 下文を主に考えると上文が「私はその本がとても易しいとわかった」というなら分かるのですが。。。 どのようにして「見つけた」と「わかった」の区別をするものなのでしょうか? I found the book very easy. (私はその本をとても簡単に見つけた) I found the book interesting. (私はその本が面白いとわかった)