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哲学では恋愛どうカテゴリされているのでしょうか。
哲学にはあまり詳しくないのですがなぜでしょう?たとえば往年の哲学者達は恋愛についてどう説いていますか? もし明確な概念がなければそれは同じことが心理学でもいえるのですが、では近年「恋愛心理学」という分野が成立しているようですが、古典的な流れでは恋愛を狭義に分析するということはなかったようです。 哲学ではどう捉えているのでしょうか?
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- cyococo
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往年の哲学者たちという全体はわかりませんが、 前期ウィトゲンシュタインの考えならば、恋愛は、恋愛関係にある人の集合体でしかないって感じです。恋愛に限ったことではないですが、その言葉が示す関係にある人の集団を、関係そのものだといった考えだったと思います。 恋愛という言葉が何を指し示すのか、(言語と世界のつながり)について言及することはあっても、その関係がなんなのか、については心理学や社会学の仕事ではないでしょうか。 哲学者によって「ひやかし」みたいな感じでコメントしてたりしますが、哲学の問題からやや外れているというか、真剣に論じていた人は私は未だ出会ってません。
- ganesha_me
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往年ではありませんが、 東洋哲学では古くから「愛」を欲望の根源としています。 日本においての漢字は近代になってから、この字を中てているので、 世相では古典と結びついて独自の解釈になっているように思います。 国や文化によっても価値観は変化するところです。
哲学者やに詳しくはないのですが、師説と私説を交えて言ってみます。 概念にしろ存在するものには対義語があるものなのです。 正義⇔邪悪、良好⇔異常、有限⇔無限、自由⇔不自由、快⇔不快、安心⇔不安のように。 でも「愛」に対義語がないかもしれない。 今愛の対義語を探してるところですが、「恨み」も愛が先行してあったからとも言え対義語でもなさそう。 「無関心」は一種の「許し」であり愛の一種かもしれない。 「軽蔑」は価値観の相違から気付けたり認識しますが、価値観というものも快⇔不快の定義でしかなく、それは各人各様なもので、哲学者の価値観次第なものが哲学の定義として従うしかないのです。従わなくても自分の快⇔不快の判断で恋愛を語っても間違いでもないようなのです。 現段階で私の定義する「愛」の対義語は「依存」です。 愛に似てるようで不満や不安ばかりだから滋養が入れなくて足らなくて、やせ細るか、まがい物で過剰になりそう。 哲学者は孤独の本性があるらしく、依存しない体質のようです。 そうはいっても親切な人が多いと思います。 全く別の愛の定義も関西人にはあるにはあるのですが「笑」です。 ~~の幸福論とかに笑いの哲学もあったりしますけど、これも詳しくないです。私も興味があって調べようとしていたんですけどね。決断力とか信条で自然に笑うのは困難ですが、愛もそうですね。多分ですが。
- tyr134
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>たとえば往年の哲学者達は恋愛についてどう説いていますか? これは、本当に様々で纏めようと思うと一冊の本が書けると思いますね。 難しさの一つに、質問者様が仰る通り、 >古典的な流れでは恋愛を狭義に分析するということはなかったようです。 があります。 多くの哲学者は、「恋愛」よりも「愛」のほうに重きを置いていました。 日本では「恋=愛」という概念が一般化している観がありますが、哲学では明確に別の概念ですし、「愛」も様々な言葉で表されます。 例えばキリスト教では、 エロス 肉体的な愛。主に男女関係の愛。対象の価値を求める、自分本位の愛。見返りを求める愛。 ストルゲー 従う愛。尊敬を含む愛。親子関係や師弟関係にある愛。 フィーリア 友情愛。自分を与える事で他人を生かす愛。 アガペー 無条件の愛。万人に平等な愛。神が私達に与える愛。見返りを求めない愛。キリスト教でいう一般的な「愛」。 という、四つの「愛」の概念があります。 これで言えば、「恋愛」は「エロス」という事が出来るかもしれません。 ただ、一般的には異性愛ですが、古代ギリシアでは青年に恋することも普通でしたので、同性愛にも使われていたようですね。 また、別の概念として「アモル(キューピッド)」というのもありますね。 所謂「恋のキューピッド」というヤツです。 ただ、日本では「恋愛」といった場合は総じて「異性間の恋」を指すようですね。 ===引用=== 「一組の男女が相互に相手にひかれ、ほかの異性をさしおいて最高の存在としてとらえ、毎日会わないではいられなくなること。」 『三省堂国語辞典』より ===以上=== 「日本ごの恋愛」Wikiより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E6%84%9B#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E8.AA.9E.E3.81.AE.E3.80.8C.E6.81.8B.E6.84.9B.E3.80.8D
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ご回答ありがとうございます。 「アモル(キューピッド)」というのは初耳です。 四つの愛の概念についてですが「欲求の五段階説」のように、段階を踏むと解説されてもいましたけど、必ずしもそうではないと思うんですね。エロスを与え奪う対象を持つと同時に、アガペーを与える対象も持てる(現に私が体現してます(笑))。 もちろん愛は異性間に存在するとは限りませんが、異性間の愛に特化して説く概念というか定義というか、それは哲学にはなぜないのかなと。心理学なら愛着論や病理的な側面から分析できますけれど。詩にした方がまだ納得がいくと(笑)。同じ人文学でも哲学というより文学の領域に強いのかもしえませんね。それほど不可思議で個人的主観的であり、手に負えない概念なのかも…。
- ANASTASIAK
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プラトン以来ずっと哲学における恋愛は「心の病」です。
お礼
詩人ハイネも言っていますよね。 「恋に狂うとは、言葉が重複しています。恋とは狂気なのです」。 ご回答ありがとうございます。
- harepanda
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こういうテーマは、本当に、人や時代しだいです。 ギリシャの古代の哲学者は、同性愛を当然のように考えていました。「若者には結婚を勧める。良妻にあえば幸せになれる。悪妻にあえば哲学者になれる」というソクラテスの言葉は、聞いたことがあるかもしれませんね。 中世になると、「哲学=キリスト教神学」になってしまい、哲学者は聖職者であるため、一生独身というパターンが増えます。カントは独身でしたが、サロン文化内での女性人気は高かったといいます。 フィヒテの時代あたりから、哲学者が結婚するのも自然なことだと思われるようになります。彼の妻は、彼以上に熱心な民主主義運動家です。ヘーゲルは貴族の娘と結婚しましたが、ヘーゲルが平民であるため、相手の親がかなり渋ったことが知られています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ソクラテスの奥方は悪妻ということで有名ですよね。哲学者と同様、芸術の方面も悪や不純物が美点になる方が創造性の源となるような気がします。芸術では抑圧からの解放が作品を生みますが、哲学者は禁欲がポイントなのかなあと。 ソクラテスやプラトンはホモセクシャルだったといわれますがその点思想にどう影響を与えたのかは興味深いですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >価値観というものも快⇔不快の定義でしかなく 確かにそうかもしれませんね。生理は理性の前にあるのですから、人も動物である以上案外そういう早い段階で判断しているのかもしれませんね。でも価値観が合うというのはヒトの安全欲求の本能を考えればとても自然なことであり、もちろん完璧に合うのは不可能ですけれど、価値観が合うことを確認しあうのは最高の快楽なのだと思います。男女の性差を超えてヒトが初めて人になるというか。 >従わなくても自分の快⇔不快の判断で恋愛を語っても間違いでもないようなのです。 とすれば、自分なりの恋愛も恋愛マニュアルという一種の哲学にまどわされることなく、マイ哲学(?)として自信をもてばいいのかなあと。… >現段階で私の定義する「愛」の対義語は「依存」です。 連鎖だし、相互作用する。とくに条件付の愛は実は奪っていることにしかならない。親の子への愛も、恋人や夫婦のそれもです。自分を通して相手を見るからそうなる。どうしてもエゴを与えてしまうのならいっそ最初からなければいい。 >「無関心」は一種の「許し」であり愛の一種かもしれない。 だからこそ無関心は確かに愛の一種かもしれない。他者への依存も愛も でも無関心こそもっとも残酷な手段といわれまてます。心理学では虐待でも暴力よりネグレスト(無視)の方がより深い傷を残すといわれてます。心理学も概念の学問ですが、同じ領域にある哲学の概念でもまったく違う意味になってきますよね…。 人は一人では生きて生けないのは宿命だからこそ自立することは課題なのでしょう。自立した人が自分も他人も愛せるのかなと。 関西人の愛の定義、とても面白いです(笑)。