- 締切済み
”KY"は悪か?
小学三年生のころ参加していた地域の子供会でダンス大会に参加しようという話が上がりました。 提案したのは大人たちで、子供たちが集められたときには既にその話は出来上がっていたようです。 しかし、大人の一人が「子供たち一人一人に参加したいかどうか聞こう。」と言い出したのです。 恐らく、大人たちが勝手に進めて来た話に子供たちが乗るという形では、子供たちの意欲が揚がらないと考えたのでしょう。 そこで子供たちに質問することによって「参加したい」と言ったのは子供たち自身であると思わせたかったのでしょう。 当時の私はこの大人たちの意図を見抜いていました。 そして大人たちの企てに抗うことなく乗ることは嫌だったのです。 私は皆が順番に「参加したい」という中で独りだけ「参加したくない」と発言したました。 すると皆の視線が私に集中しました。 皆「なんだこいつ」という表情をしています。私は泣き出しそうになりました。 そして慌てて発言を撤回して「いや僕も参加したい」と言い直しました。 その後数回の練習に参加していたのですが、だだ一回だけ無断で休みました。 そうすると、その日に参加者が登録され、私は大会に出場することができなきなくなりました。 私は大会に出場したかったわけではなかったので、このことに関しては悔しいとは思いませんでした。 しかし、子供会から受けた仕打ちに深く恨みを覚えました。 そしてその恨みは今も消えそうにありません。 昨今”KY”という言葉が流行しているようで、あのときの私は至極”KY”であったことを認めます。 しかしながら私は私の言動が間違っていたとは思いません。いやむしろ正しかったとさえ思っています。 しかし結果はよいものではありませんでした。私は子供会から疎外される破目になりました。 私は人を恨むことを好みません。けれども恨まずにはいられません。 私は恨みを解消することを望んでいるのではありません。 私は何度考えてみても本当にあのときの私の言動が正しかったのかどうか分からないのです。 そして今後どのように言動を気をつければいいのか… どうかご教授のほどお願い申し上げます。
- みんなの回答 (16)
- 専門家の回答
みんなの回答
- ahawk
- ベストアンサー率21% (7/33)
件名が面白いですね。“KYは悪か”。 さて。 まずこのようなものを善悪の二者択一で人に問うのは愚かです。 では、回答はいりませんので考えてください。 フランス革命は世界中のの教科書で大体こう記述されているそうです。 「人権を認める大きなきっかけとなった」。 人権に関して今は(この場では)あまり重要では有りません。 重きを置くのは、その結果です。 人権を侵害していたということでフランスで何が起こったでしょう。 そう、貴族・王族の虐殺です。 今やれば絶対「ジェノサイド法」に抵触します。 なのにそれは全世界的に「善」とされています。 このように容易に事象を善悪で判断してはいけません。 もちろん「KY」だって例外じゃありません。 善か悪かは歴史と同じく後世の人間が考えてくれます。 もちろん、後世に残らない事もあるでしょう。 でも、過去の責任も未来の責任も僕たちにはもてません。 それに、一般的に言わせて貰えば、 小学生の時の事をいつまで引きずっているの?ということです。 時間とは人間が作り出したものです。 でも、人間はとても重要な意味を時間に持たせました。 とても時間とは早く、短いものです。 その間にこんな事で悩むよりも、好きな事をする事ぐらいできますよ。 もう一つ。 >恨むことを好まない じゃあ、恨まなくて良いですよ。嫌いな事はしないほうが楽ですよ。 >恨みの解消を望んでいるのではない 返答から自己の精神内の解決を無意識に求めていませんか? 今後はどんな仕打ちにあっても、好きに振舞って良いです。 ただし、言動などには責任を持ってはいけません。 言動の受け止め方なんて人それぞれです。 どんな反応でもその「個」を認めてあげましょう。 それが人間的な高尚さだと僕は思います。
空気を読むというよりそのときの大人たちが子供の気持ちを 考えていないだけで、大人たちの傲慢さだけが目立ちますね。 話し合いというよりは談合じゃないでしょうか。 悪とか善とかよりなぜそこまで子供たちに行事をさせたかったのか 説明しない大人たちがよくなかっただけで、空気を読む読まない とはあまり関係がないように思います。 空気を読むというのはなにかに従うというのとは違うように 思うのですが・・・。
- ganesha_me
- ベストアンサー率24% (27/109)
「空気読め」ですか。 子供会に恨みの矛先を求めるのは間違っていますが、 言動自体は間違ってはいませんよ。 冷たいようですが参加したくないなら出てゆけと、 言ってのけるのもひとつの方便かも知れません。 あなたはそう言われて傷ついたでしょうか。 ただ、実社会ではそれぐらい返ってくる責任の重い発言を、 あなたは軽くしてしまったということになります。 こどもだからといって、おとなだからといって、 責任を逃れることはしょせん甘やかしです。 誰のために大会をするのですか。 みんなの為にするのではないですか。 努力した結果を披露するために大会に臨む。 大人と子供を分けて考える時点で、 あなたは大会でいい結果を残せなかったと思います。 確かに参加したくない子を無理やり参加させるのも良くないし、 参加させると圧を掛けたのなら最後まで世話をすべきでしょう。 大人たちは、大切だったのは自らやりたいとする気持ちを、 子ども達に芽吹かせることでした。 しかし、それ以上に大人達が、 あなたをその場において仲間外れにしたり、 それを後々まで阻害する姿勢は、 あるまじき大人の在り方ではないでしょうか。 当時、空気が読めていないのはお互い様だったようです。 結果としてあなたの過去は傷つきました。 それで十分ではないですか。 もうあなたは「空気」に気を付けることができるのですから。 人は傷つきながら大人への階段を上ってゆくものです。 あなたより先輩である人達が、世の中でどれだけ、 気を遣いながら仕事をしているか、少し考えて下さい。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
他のカテで<人は何故病名を欲しがるのか>みたいな質問があったんですね。 「私はACです。」「私は人格障害者です」と。 ACも人格障害も病気じゃない。個性。 ところがその個性がマイナスだとして、人間関係がうまくいかず、本人は困っている。 いやむしろ、こうなったのは親のせいだとか、社会のせいだとか、それにも該当しなければ、病気のせいだと自分以外のせいだとする。 安心感を得ようとしても、結局 名前をつけても、その名前はよそ様の名前なので、しっくりしないし、それで自分を守れるわけじゃないので、また飛び出す。 ある意味、律儀というか真面目とうか几帳面。 テーブルにシミひとつ許さない性格のようなもので、自分の人生にシミなどあろうものなら、必死に消そうともがく。 「あーー それ 模様じゃない? いいじゃん 生きるってまっさらなキャンパスにあっちこっち模様ができて、その人独自の模様ができて、私の人生はこれです ってわかりやすいし。それに世界に一つしかない模様なんだし。」と思う私は楽天家? 笑 人生をまっしろにする漂白剤があれば、、、、と思うより、模様を個性だと認めたらどうだろうか って思うんですね。 >そこで子供たちに質問することによって「参加したい」と言ったのは子供たち自身であると思わせたかったのでしょう。 当時の私はこの大人たちの意図を見抜いていました。 というのがあなたの推理ですよね。 私の推理は別なんです。 子供を援助する時、「子供に選択させる。子供の意思を尊重する」といのが現在の<正しい子供に対する援助法>なんです。 「踊りをやります。みんなやるように」はやってはならないやり方。 子供に選択させていないし、子供に決断させてないから。 で、大人たちは正しい援助法とされる、子供に考えさせて選ばせて、子供の決断を尊重したんです。 あなたは大人のいやらしい手口と捕らえ、それで反発した。 疑問なのは、無断欠席した人たち以外、全員大会に参加したのでしょうか? それも理由があったかもしれない。 「本当はイヤなのに、周りに合わせて一緒にやらされている子にとっては苦痛だろう。大会に出るなんて屈辱的なことじゃないか」とか。 あなたの本心を誰か聞いたのでしょうか。 聞いたけど、あなたはうまく表現しなかったか、敵とみなしてにらんでしかったとか 顔がひきつってしまったとか。笑 「ええ楽しいですよ」とムスっとして答えてしまったか。 もやもやするのなら、はっきりさせた方がいいと思うんです。 何故自分だけ外されたのか。 空気を読めない人。 確かに社会に出て、自分を押し殺して生きることは苦痛です。 長いものに巻かれた方が、生き易いかもしれない。 その安全の代償は、没個性、自分を捨てることです。 これも周りの雰囲気で、自分が欲しないことも欲すると嘘をつきつづけるという苦痛を伴うこともある。 どっちもどっちですね。 空気が読めなくってミスったとかじゃなく、空気を読む能力は十分あったが、別の情報というか推理が勝って、そっちを優先させたわけでしょ? 他の人はその別の可能性を推理する能力が無かった というか しなかった。 それだけのことでしょ? あなたが「参加したい」と最初から思っていて、練習をがんばったのに、たった一日参加しなかったため、その日に定員があって、出場者になれなかったのなら、説明があったはずだと思います。 で、私の推理はこうなんです。 あなたはこだわり続け、大人に操られざるを得ない情況に反発し、その心が演技に現れて、「やってられない」と露骨に集団の中で敵意を示し続けてしまった。 言葉じゃなく態度に表していた。 もしそうなら「本当にイヤなんだ」と普通は思う。 もしくは、「すばらしい出来だ。もしかして入賞できるかもしれない、 でも 一人だけイヤイヤやっている子供がいて、そのせいで作品がメチャクチャになってしまっている。 やる気の無い人は出る資格などない」とというという、腰の刀を抜いてしまったか。 誤解からとんでもない事になる。 トゲをそろそろ抜いたらどうでしょう? 当時の人に会って、あなたがどうして「参加したくない」と言ったか説明し、大会に参加できなかったことは、実はそういう制裁の仕方はあんまりだ 大人げない行為に傷ついていた と話す。 協調性とか空気を読めないとかいう問題じゃなかった と私は推測します。 いいじゃないですか、自慢気に「小学校の頃さ こういうことあって、大人たちったらズルくてさ。。。そしたら やりかえされちゃったよ。 あはははは」って笑いを取るネタにしちゃえば。 自慢大会ひらくと、結構みんな見せてくれると思います。 「ここの模様はね 小学校1年のときにできたもので。。。」って。
- eldolado
- ベストアンサー率39% (31/79)
>「参加したい」と言ったのは子供たち自身であると思わせたかったのでしょう。 大人のために、子供から「空気を読んだ」発言をさせたかったわけで、その大人たちは非常に偽善的であると私には思えます。 追記:山本七平の「空気の研究」でも読んでみてはどうでしょうか。 まさしくあなたのおっしゃる「空気」について書いてありますよ。
- 12125j
- ベストアンサー率29% (8/27)
- adaypajimy
- ベストアンサー率20% (201/964)
社会から疎外されることがあなたの悪の定義ならばKYは悪です。しかしながら大衆から社会から非難されて疎外されても、まぁ致死量に達しない出来事なら悪ではないと開き直ればいいのですよ。そんなことは人界に生きてりゃ毎日のように不条理に出会う。KYもその1つ。その人の認識によっては悪でもなんでもないこと。度が過ぎれば皆は否定する、大衆が1つの狂気は世の道理、この世は兎角住みにくい。 この悪を肯定しなければ、大勢にあなたは流されるだけですよ。 まぁ、この世の不条理を受け入れつつ大衆に合わせるのが、もっとも生きやすいと思いますが。
- noname002
- ベストアンサー率36% (97/264)
「恨まずにはいられない」ほどに「疎外される破目」になってしまったなんて、いったい、どんなことになってしまったのかは分かりませんけれど、お辛い思いされたのですね。。。 自分が正直なところを言ったがために、いらぬ心の傷を負うようなことにならないためにはどうしたらよいのか、考えてみましょうね。 大人になって社会に出て自力で生き抜いていかなければならなくなると、権力者の傲慢、それを取り巻く人々の数の圧力、どんなに自分と近しいと感じても、人と自分は、どこかしら微妙に異なっているものだ、ということ等を、ますます実感することが多くなります。 そんななかで誰もが自分を、できるだけ守ろうとし、そして、そうする権利があるのだということも思い知ります。それから、どのようにして守るのかも人それぞれだということも。守りかたの上手な人ヘタな人もいます。 ところで、いわゆる「KY」というコトバを巡って私が思うのは、自分がこうなんだから!という「欲求」でしかないものが他人とぶつかり合うことを避けよということと、これこれを許してしまうと最終的には人間社会全体に、よくない影響が蔓延するという危惧感を抱くゆえ敢えて苦言を呈するということとを混同してやしないのかな、という疑問です。 単なる個人のエゴから出ている欲求がぶつかり合っているに過ぎないのが真相であるなら、それは「数の勝利」で終わりがちになるのも自然でしょう。そして、負け側が勝ち、勝側が負けになるのも数によって簡単に逆転します。そこに精神性の問題など何もありません。単なる勝ち負けの問題です。 でも、これこれをウヤムヤにして見過ごすことは、いつしか人間社会全体にとっての弊害に繋がりかねないと判断できることであれば、それは、阻止する値打ちのあることだと思います。 まず、そのあたりの判断が本当にできているのかどうか、他人の思惑を批判することを辞さず自分の居場所を投げ打っても断行するべきことなのかどうか。 譲って自他に大きな弊害をもたらすものでなければ、譲ることも大事です。そのほうが自他共を守ることに繋がります。 でも、譲ることが最終的には自他共に弊害をもたらすこともあるということ、そのへんの見極めが大事だと思います。 この見極めをつけようと思ったら、自分の思いがエゴから出た欲求なのかどうかを、まず自分自身に厳しく追及しなくてはならなくなります。 私が御質問者様の立場であったら、そしてその年齢当時の私であったら御質問者様と同じような言動をとったかもしれません。ですから御気持ちは理解できますよ。 ただ、私なら大人たちに「なぜ聞くのか」と逆質問したかもしれません。「一応、子どもたち側の口を借りてイエスと言わせるのが意図なのか」と。大人から見ると、いかにも、かわいげのない子どもかもしれませんが。 或いは、その意図が自分には分かると確信したのであれば「大人に席をはずしてもらって自分たち子どもだけで話し合わせてくれ」と申し入れしたかもしれません。 そのうえで、正直な気持ち「参加したくない」ということならば、それはそれで仕方ないことです。確かに「参加したい」というのが圧倒的多数の正直な気持ちであるなら、それを咎める理由もないし、「参加したくない」という気持ちがあるのを咎める必要もないはずです。そういうことで「疎外する」ほうがおかしいのです。 ただ自分ひとりの気持ちのために、ある喜ばしき目標を達することができなくなるのなら、正直なところ消極的な気持ちであるのを抑えて周囲の思いに譲ってあげられるなら、それに越したことはありません。それは人徳と言っていいんじゃないでしょうか。 でも、大人が無言の圧力をかけて子どもたちの正直な気持ちを抑え込むことになるのを問題だと捉えるなら、敢えて「KY」で大いにけっこうだと思います。 自分一個のエゴからでなく、おかしいことはおかしい、と異議の声を挙げるのならば、疎外されようとも後悔することはないはずです。 >何度考えてみても本当にあのときの私の言動が正しかったのかどうか分からない まず、このあたりを自己検証なさってみてください。 そして「今後」ですが 「KY」を通す価値があるかどうかを、まず考える。 あると判断したならば、そのことを分かってもらえるように努力する。話しかたの筋道、論理力、説得力、要するにコトバの使いかたの鍛錬、そういうことも大事になってきます。 ですが、いくら噛み砕いて説明しても、自分自身の矛盾にさえ気づく力に乏しいとか、理解能力に乏しい(理由はいろいろです)人も現実たくさんいるんだという限界も視野に入れておくこと。 そのうえで、譲れることは譲ることです。ムダにエネルギーを消費しないためでもあります。 >慌てて発言を撤回して「いや僕も参加したい」と言い直しました。 撤回できる余地があったということになりますか。 あとは >子供たちに質問することによって「参加したい」と言ったのは子供たち自身であると思わせたかったのでしょう。当時の私はこの大人たちの意図を見抜いていました。 これも決して確証のあることではないのだということを忘れないことです。そして、そうであったとして、それがどのようによくないのかも検討すること。 こういったあたりから御考えを整理されていってはいかがでしょうか。そうして、御気持ちのほうも少し落ち着かれると思います。 なにしろ小学三年生の頃の出来事ですよね。御質問者様は、当時より格段に成長なさってこられ、これからだってそうであるはずと思います。
- soonmonk
- ベストアンサー率50% (2/4)
あなたは空気を読んだ上で、それに逆らおうとした訳ですから、いわゆるKYとは少し意味合いが違うと思います。 会議なんかで、皆が内心思っているけど言い出せないようなことを思い切って発言したために会議の流れが変わったり、皆が内心でその人に快哉を叫ぶというような場面はよくありますよね。 逆に勇み足になって、梯子を外されたような形で孤立することもよくあると思います。 質問者さんの場合も、空気をコントロールしようとして失敗したということでしょうか。 しかし、そこは何事も経験、成功と失敗の繰り返しでしょうし、子供で空気に逆らってNoを言えるのは、それ自体立派なことだと思います。 それがトラウマになって、消極的になってしまって、あなたの良い面がその後何年かスポイルされたのだとすれば、もったいないことだと思います。
- ozasa2
- ベストアンサー率23% (47/198)
僕も似たような経験があります。 小学生の頃クラブ活動でサッカー部に入っており、試合に負けたあと コーチが「やるきあるのか?!」と一人ずつ聞いてまわり、僕だけ 「ありません」と答えました。 僕は単にその日はやる気が無かったので素直に答えたつもりでしたが、さんざん怒られました。 答えが決めつけられた質問を大人からされるケースが子供時代は多いもんですね。 話し方しだいで他の人が経験していない「面白エピソード」にもなると思うので、自分はそんなふうに消化しました。
- 1
- 2