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社会はなぜ「お上品」になっていくの

差別用語は言を待たず、社会が「お上品」化しているようです。 それとともにカタカナ化も進んでいます。これも「お上品」化と連動していて、物事をはっきりさせないという手段に悪用されている面が多い。 たとえば リヴァイバルされた映画などの吹き替えがより穏やかな表現になっているとか、ほかにもいろいろと思いつくかと思います。とにかく「本音」「本質」「ずばりそのもの」をぼかす煙に巻くという風潮は、どういう時代精神から来ているのでしょうか。

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回答No.5

社会がお上品化してるのではなくて、言語や表現物のみが必然としてお上品化しているのでしょう。 差別用語、放送禁止用語という狭い枠内ではなく、 行政の情報公開原則だの、知る権利を守るだのと言う上品なお題目と不祥事の連発、民間企業のコンプライアンス宣言と腹黒い利益追求、 これらの二面対立が激しくなっていると言うことではないでしょうか。 つまりは、言語とか宣言や表現だけが妙にお上品になっている本質は、これらを使って覆い隠さなければならない他人に見せてはあまりにも汚いヘドが出るほどの汚物を持っているからなんですね。 なぜなら、そもそも汚物を持っていないものは、わざわざお上品に行儀良くしますとか、法律を遵守しますなんて宣言をする必要が無いからですね。 つまり、こういう行政庁や企業が、本音や本質を表現することは、人前でクソをたれると同じだということです。 あ、お下品で大変すいません。つい、本音が出てしまいました。

garcon2000
質問者

お礼

たいへん本質をついたご回答です。 その背後には悪意や発覚の恐れがある。これは深い状況ですね。 日とは素直になれるときは素直な言葉を発します。しかし、素直になれないときはそれが至難の業です。その企業的行政的精神が、人々の日常の言辞まで支配しているのかもしれません。

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  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.4

ただ、平和だから、その一言でしょう。 環境が変われば社会も乱暴になります。 むしろ、連日乱暴な事件ばかり。

garcon2000
質問者

お礼

そうでしょうね。食糧危機とか戦乱とか、体験した方がいいかもしれませんね。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.3

基本的には科学や文化の発達に伴なう現象ではないかという気がします。 人間は本来ただの動物で、生来的に備わっているのは本能のみと言えるでしょう。 それが環境の刺激を受けながら自我なり超自我が発達していくわけです。 つまり、人間が(無意識的にせよ)何らかの進歩を遂げようと希求する生き物だとすれば、これら自我や超自我の確立(あるいは獲得)を目指すのは必然の営為と捉えることができます。 そして科学や文化というのは本能的欲求の抑圧によって発展するものですから、この発展に伴なう文化を保持しようとすれば、どうしても自らの本能的な部分はあたかも無かったかのような取り扱いをすべきかもしれないという錯覚に陥ってしまう、ということではないかと思います。 一種の隠蔽工作的要素も含まれることになるでしょう。 本質をアカラサマにした場合に、それに耐えうるだけの精神性が確立されているか否か、といったような事柄も無意識的基準として存在しているのかもしれません。 たとえば、幼児の見ている前でのセックスを隠蔽することに非は認められないと思いますが、牛革のジャンパーを羽織ってステーキの味を云々しつつ堵殺行為には眉を顰めるといった「上品さ」はどうかという気はします。 ある局面においては、「上品さ」は逆に精神の退行を目指すものとも言えます。 映画の吹き替えの例について言えば、自ら(脚本家あるいは監督)の本能的部分を見透かされることに対する怖れがあるか、または観客の精神性を自分より低く見ているために相応の配慮が必要と判断した結果ということが言えるでしょう。 しかし、見る側として、そういった低劣さや高慢さ(による配慮)がどの程度まで認識できているのか、といったことも「上品さの存在理由」を探る上で大きな要素になり得るものと思います。  

garcon2000
質問者

お礼

多くの人が、表層的上品化に気づかないでいる?あるいはそれに賛同しているということから、こういう流れが続いているのでしょう。しかし、おっしゃるとおり、本音しかない世界はそれこそ原始時代しかないわけで、その殺し合いの世界に戻るわけには行かない。だから本音を隠蔽したお上品化した社会にならざるを得ない。その流れがまだまだ続いていて10何年か前よりどうとか言う思考が出てくるのでしょう。 ステーキの例のような人が増えていうるのでしょうかね?

garcon2000
質問者

補足

家にあった30年ほど前の雑誌をちょっと拾い読みしたのですが、ちょっと驚いたことには、「お父様」とか「お姉さま」という上層階級の言葉が平然と使われているんですよ!つまり、「階級」というものがあるいは「文語」というものが、日常的に存在した時代だったのですね。これがはるかに消滅しつつある現在ということも絡んでいる気がします。どう絡むのか定かでないですが。

回答No.2

それは本音を語ることを怖れる風潮といったところでしょうか。 本音というものは世界が一つの共通意識にならない限り必ず争いの種を生みます。 一昔前は、みな個別の小さい社会でのみ生活していました。 もちろんインターネットもカーナビもない不便な世の中です。 不満や疑問があってもそう細かく物事を揶揄するものではありませんでしたし、 それに情報はどこかで必ず調整されるわけで、規制が厳しかったのもあるでしょう。 しかし、それが今では一瞬で世界中を駆け巡る情報に変わってきました。 そこにおいてみなそれぞれが知識を持っているものですから、 その本質を見抜こうとし、またその情報が勝手にやりとりされます。 いつの間にかストーリーそのものよりも、 俳優の話す『ことば』について揶揄されるようになることも考えられます。 よほど自信をもって世にうったえなければ、リヴァイバルと内容が違うだとか、下手をすればオリジナル自体の品格を汚したと中傷されることになります。 責任が監督にまで伝わる社会現象になれば、結局興行としては失敗です。 映画もビジネスです。 この辺り、どうしても差し障りのない表現にしかできないし、 翻訳する側にとっても同じようにプレッシャーがあるのだと思います。 この辺りでよろしいでしょうか。

garcon2000
質問者

お礼

確かに「本音」は争いの元です。一方で本当の理解に至る道でもあります。つまり、この「理解」への道を絶った、それが現代なのかもしれません。「理解」よりもまず商売、「理解」しない方が商売になるんだったら当然邪魔者です。 この社会的圧力が大きく作用しているというのが本当のところなのでしょうね。

  • unyura
  • ベストアンサー率0% (0/7)
回答No.1

最近は色々な危ない事件も起きているし、 何かを完全に信用して、そのままの自分を表現するということが難しくなってしまったのかもしれませんね。 安全だと思っていた人や会社などが、どんどん信用出来なくなっていっています。 いつ裏切られるか分からないし、争いや問題が起きないように、皆当り障りのない言動を心がけているのではないでしょうか。 自分の意見をはっきり言ったり、事実をそのまま言ったりして他人の反感を買ったら、後が面倒だから・・・というような考えからくるのでは? 例えば教師の生徒に対する発言。今は生徒を泣かしてしまっただけでも親から苦情がくるような時代です。だから優しい、お上品な言葉を使って、 回りくどく、遠まわしに伝えているのだと思います。

garcon2000
質問者

お礼

最近が物騒になってきたというのはおそらく真理なのだと思います。それは心の空洞化というか疎外化がすすんでいるから。個人主義と言い換えることもできるでしょうが、一方では同胞的感覚が希薄になっている。形はもちろんありますが、忙しすぎ情報過多で、心が薄っぺらに成り下がっているんですね。そういう人が多い。 そういう意味で信用できない。当然自衛的になる。 しかし、先生の態度がそんなに変わったというのはいかにも狂気の沙汰だと感じています。

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