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《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.16

どうも、仕事の関係で遅くなってしまい申し訳ないです。 まず、最初に >>法爾自然なる愚禿さま ご回答をありがとうございます。 とのことですが、そういわれて悪い気はしない今日この頃です。ありがとうございます。けれども、私の思いとしては、理論はなんとなく分かっていますが(本当に分かっているかは分かりませんけどね)、それを体現しているわけではありません。私としてはまだまだそのような境地に立っていないように思っています。  では本題に入ります。 >>《「唯除五逆誹謗正法」》の不要についておしえていただきました。ありがとうございます。明らかに納得しました。重要ですよね。あまり気にせずに出してしまっていましたので 恥ぢ入っています。 これにつきましては、不要なわけではありません。法然上人にとっても親鸞聖人にとっても、非常に重要な一文です。  最近モンスターペアレントという言葉を耳にしますが、最近の母親は学校や幼稚園で子供が悪いことをしたときに叱られると、「うちの子は悪くないのに、なぜ叱るんだ?悪いことするような状況にした管理者が悪い。」とクレームを付けてくるのだそうです。しかし、これは本当に母親の愛なのでしょうか??本当の母の愛ということであれば、悪いことをしたならばしっかり叱ってやれることだと思うのです。近年の親に見られる過剰なまでの子供への執着は、まさに「割愛」という仏教的な意味合いで使われる愛のように思います。それとは違い、阿弥陀仏の「慈悲」は悪いことをする人にはしっかり叱ることができるものです。 けれども、(どこかに経典の例え話だったと思うのですが、はっきりした経典名が出てきません。ごめんなさい)親というものは十人の子供がいたとして、九人は健全に育ち、一人はグレてしまいました。そうすると、全ての子供がかわいいことには違いはありませんし、健全に育った子供を頼りにも思いますが、グレた子供がしっかり生きていけるのかどうか気になってしまう。仏様も同じように、善人悪人の差別などなくすべての者は救いたいけれども、気になるのはどうしようもない悪人のようです。 このような、悪人に悪いことは改めなさいとしかりつけるのも仏の慈悲。また、その悪人をも包み込むのも仏の慈悲。この二つがあって、本当の仏の慈悲なのではないでしょうか。モンスターペアレントではない阿弥陀仏の慈悲をあらわすためには「唯除五逆誹謗正法」の一文は非常に大切な一文です。念仏の信仰者は心して受けとらなければならないと思います。だだ、阿弥陀仏の救いに制限はないというだけで、不要ということは出来ません。 ▼ここでは聖道門が浄土門に包まれていることを前提にしてですが 《自覚する》ことも 《念仏し帰依する》ことも わがはからいによるものです。《非行非善》と言っても わが意志は介入します。つまり その意味でのはからいは これも 浄土門に掬い取られた人間の能力行為(――その限りで聖道門――)だということの確認です。  私はbrageloneさんがおっしゃる「人間の能力行為」「浄土門の中の聖道門」については、存在していると思います。しかし、私が浄土門に帰入して思ったのですが、「私はお念仏の教えを聞けるほどの人間だったであろうか??」「凡夫の自覚などということが出来るほどの人間だったろうか??」ということです。私は馬鹿チンであることに気が付けないくらいの馬鹿であったはずです。しかし、なんとなく自分が愚かであることに納得しています。それこそが「弥陀のはからい」だったのではないかと思うのです。つまり、「お念仏の教えを聞いた」のではなく「お念仏の教えを聞かせていただいた」、「凡夫の自覚をした」のではなく「凡夫の自覚をさせていただいた」と思っています。  ですから、浄土門帰入後になって見れば、やっぱり「非行非善」となるわけです。青春時代の思い出が後からほのぼの思うもののように、「凡夫の自覚」も「念仏し帰依する」ことも後からほのぼの「浄土門であった」と思うものなのだと思います。もちろん、青春時代の真ん中は胸に棘刺すことばかりのように、浄土門帰入したてはやっぱり自力生活が長いようですから俺がやったんだ俺がやったんだと思いたいものです。けれども、それを聖道門と呼んでしまうのは私としては抵抗があります。なぜなら、自分で「凡夫の自覚」が出来る人はいませんし、「念仏に帰依」出来る人も、いないように思います。  だからこそ、前回の回答の中にありますように、念仏門帰入以前は信機・信法という順番が大切ですが、浄土門の帰入後は信機が先か信法が先かなどは関係なくなります。両方が大事なんです。そしてお互いが作用しあい深まり続けていく信心「深心」となるわけです。 ▼これも すべて 浄土門を基盤にした考え方であり行動であると確認させていただければ よいわけです。(もし 浄土門の中でも いくらか 行き方の違いがあるのでしたら 基本的なものについては おしえていただけますか)。  行き方の違いというか、信心決定の方法にはいくつかあります。  法然上人は信心具足の方法には「智具の三心」と「行具の三心」の二つがあると説き明かしています。『東大寺十問答』の中で、 三心に智具の三心あり、行具の三心あり。 智具の三心というは、諸宗修学の人、本宗の智をもって信をとりがたきを経論の明文を出し、解釈のおもむきを談じて、念仏の信をとらしめんとてとき給えるなり。 行具の三心というは、一向に帰すれば至誠心なり、疑心なきは深心なり、往生せんと思うは廻向心なり。かるがゆえに一向念仏して、うたがうおもいなく往生せんと思うは行具の三心なり。五念四修も一向に信ずる物には自然に具するなり。 意訳 三心の中に「智具の三心」と「行具の三心」の二種類があります。 智具の三心というのは、聖道門の宗派を学んできた人にとっては、その宗派の視点から得た知識では念仏往生は信じがたいので、阿弥陀仏を中心に説かれている教典や論書から念仏往生を説いている文章を引いて、その解釈を説いて、念仏往生の信心を獲得する方法と、説かれています。 行具の三心というのは、ひたすら阿弥陀仏に身も心も任せれば至誠心で、その阿弥陀仏を疑うかとがなければ深心であり、極楽往生したいと思えば廻向発願心です。このように、ひたすらお念仏を称えて疑うことなく極楽往生しようと思うのが行具の三心です。五念門や四修なども、ひたすら信じるものには自ずと身につくものです。 とあって、三心の内容を理解して知識として三心を具足することを「智具の三心」といって、経典や論書に明かされている教義を学ぶことで、その内容を理解して得られる信心です。これに対し、「行具の三心」のといわれるものは教義的なことは分からなくとも、ただひたすら念仏を称え続けることで自然と得られる三心のことで、念仏の実践による体験によって得られる信心を言います。かくして、理論的に三心をよく理解して確固たる理論に基づいた信心を得ることを智具の三心と、聞法を重ねることで、理論的なことはわからなくとも阿弥陀仏が本願に誓われた通り素直に念仏を称え続けるうちに、自身の念仏体験が中心となって確固たる信心得ることを行具の三心という、二つの三心具足の形態を説いていますが、これはその人の機根によるもので、知識として得るほうが向いているタイプと体験として得るほうが向いているタイプがいるだけで、その三心自体に優劣の差はないものです。 ▼けっきょく 問題は――信の構造にとって―― 《信機と信法》との区別・それらは同等であるか あるいはそこに優先順位があるかになると思います。  信の構造つまり、三心の構造についてですが、三心は三つ心があるわけではないようです。信心という一つの心を三つの側面から分析したものです。つまり三心は一つの心であり、信機も信法も信心という一つの心におさまります。同じ心ですから、優先順位があるわけではないと思いますよ。 ▼そしてさらには 信法にしても信機にしても これらをわたしたち人間が 納得して 反省したり選び取ったりするのかどうかです。つまりこの後者は 誰が選ぶのかです。 ▼誰が選ぶのかで わたしの場合は 《脱》法爾自然となります。 (法を超えるものはないとも言えるとは思いますが 阿弥陀仏なる法を捉える人間・その主観を超えるものは 想定できると考えます。つまり 誰が言うのでもない阿弥陀仏ということになると思います)。 (脱主観・超客観の阿弥陀仏は これこれであると示すことは出来ませんが あれそれではないと言って 話し合うことが可能です)。  「脱法爾自然」論は、ちょっと私には難しくてよく分からんのですが、主観を超えるものを想定するという意見には共感します。それは客観ということではなく、その主観や客観を超えた何かに畏怖し敬虔の念を持つことは大切なことであると思います。  ただ、阿弥陀仏の場合は私が判断できる範囲では、こうであると言えるものでなくてはならないと思います。確かに親鸞聖人は「法性法身」と「方便法身」と二つの阿弥陀仏を説き明かされます。法性法身は姿かたちもなくこれこれこうであるとは示せないものであると思いますが、凡夫の範疇は超えていて判断しようがありません。ですから私は具体性を持った報身という「方便法身」を阿弥陀仏と思っています。浄土真宗では法性法身をメインにおく傾向が強いのですが、私はどうもなじめません。法然上人などは阿弥陀仏を説明するときは法身を前提にはおきません。なぜならそれは凡夫に理解できる者ではないからであり、私たちがどうこう心配すべき問題ではないからだと思います。 ▼この凡夫つまりわれわれ一人ひとりが そこで《出離の縁無し》と内に省みてその凡夫の自覚によって念仏に導かれるという場合が 一般にあるとまづ思います。これが 浄土門の内側なる聖道門です。(きっかけとしてだけの聖道門ですが)。  それについては、前述したとおりです。 ▼そのほかに 《阿弥陀如来も神も仏もないのか。なぜわたしは見棄てられたのか》と身も心も錆びつく場合があるのではないでしょうか。文字通り錆びつくのだと考えます。 (これは わかりやすい事例は 人びとから無視された場合です。誰とも話が合わなくなった場合です。いっさい言い分を提出することが適わないという状態です)。  ちょっと難しくてよく分かりません。ずびばぜん。 ▼いえいえ 出離の縁があるかないかを超えている状態です。つまり いっさいの聖道門は断たれています。浄土門のきっかけとしての聖道門もです。しかも ここに 超阿弥陀仏なる阿弥陀仏の声を聞くという場合があるのではないでしょうか。反省もへちまもないのです。わがはからいも能力も努力も潰え去り 何かが問題になるということもない状態です。  けれども、その状態は非常に難しいものです。私たちは常に問題を抱えています。つまり、問題を抱えていない状態を考えることは、凡夫である私には想像もつかない状態です。もし、そういったことを脱法爾自然というのであれば、凡夫の私にはなれないことです。私は凡夫であることは変わりません。問題は山積みのまま、阿弥陀仏はそれでよいとおっしゃってくださる。つまり、阿弥陀仏への帰依は問題など解決してくれません。けれども、解決されない問題を背負って生きることが出来る、そこに阿弥陀仏の慈悲を感じるのです。 ▼ですから「信機」をも「信法」をも超えてしまったと考えるのです。善良なる市民としてふつうに生きてきたが いま 自分は あたかも十字架上にはりつけになっていると やっとの思いで覚えるのみという事態 これは あると思うのです。  うーむ。難しくてやはりよく分かりませんが、私としては完成するということは止まってしまうことだと思います。凡夫とは常に完璧ではなりえない者です。つまり、信機と信法を超えてしまった、完成された信心というものが存在するとはどうしても思えません。不完全であることを前提としたとき、信機信法は超えることは出来ないことのように思います。 ▼このらせん状の「深まり続ける心」の過程――ちなみに 《 Si fallor, sum.( If I err, I am. あやまつならば我あり / 欺かれるならば我あり)》と捉えることが出来ると思います―― このふつうの人間の生の歩みから もはや脱線してしまっているという場合が いまの脱法爾です。精確には 法爾の中にあって その法にかんするわが主観を遥かに脱し超えている場合です。  さて、凡夫がどこから脱線することが可能なのでしょうか。たしかに、私の主観などは遥かに超えたものであることでしょう。しかしだからこそ、それでいて人間の知識でどうこう言えるようなものではないはずのものを、阿弥陀仏はどこまでも具体的で、優しく、そして易しく伝えてくださっているのだと思います。 ▼この自覚の問題からも離れ 《存在することが許されていない》を通り越して さらに《存在していてもよいし していなくてもよいとして扱われた場合》です。こういう場合 たいていは ひとりふたりは 声をかけてくれるものです。しかも これをも とおり超えた場合はありえないでしょうか。 ★有能で善根だという自己を否定し その自己否定をさらに否定してくれる二重否定の力としての浄土門 ▼もう これにも引っかからない場合です。  いやはや、難しい問題です。私の限界なのでしょうかね。もしかしたらそういった一人二人声をかけてくださった状態を「自信教人信」というのかもしれませんね。けれどもそれがなくとも、愚かな私がやっぱりいるわけで、それを超えるとか言うことはやはり今の私の範疇を超えた道理のように思います。 >>ひょっとしたら これは ためにする議論であるでしょうか。ご判定いただけますでしょうか。伏してお願い申し上げます。  私の判断を超えた問題ですね。ただ、brageloneさんのおっしゃることと、私の思うことは、違いがあるのかないのかも私には判断しようがなくなってまいりました。どこが?と言われると困ってしまいますが、そのように感じました。どうなんでしょうか?? 私は凡夫に判断できないようなことを、阿弥陀仏が凡夫にかすとは思えませんし、考える必要があるのかないのかも判断しかねます。だからこその、「自然法爾」なのだと考えています。 すみません。やっぱりお答えになっていませんね。申し訳ないです。 合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

(20071107記) 《自未得度先度他》 これを知りました。こうでなくっちゃとわたしが思っていた内容です。 でも 必ずしも このようには おっしゃっていなかったと思います。そのあたり よろしかったら ひとこと お考えを寄せていただければ幸いに存じる次第です。 (多謝)。

noname#80116
質問者

補足

法爾道理を歩まれるご同朋さま ご回答をありがとうございます。 必ずしも何が変わったかと言って 示すことのできるようでもないのですが おかげさまにて 新しい局面に出たように思います。これまでおしえていただいた内容を反芻するように あるいは 一たん寝かして 噛みしめていくことが大切なのではないかと思っております。仮称《脱法爾なる自然》のあり方と突き合わせて じっくり歩んでいくことが いまの課題であるのではないかと思う次第です。 簡単にですが まとめてみておきます。 (1)《「唯除五逆誹謗正法」》について また 間違ってしまいました。究極においては――つまり阿弥陀仏の目から見て―― 譴責が必要なのだけれど 《除外する》ことはしなくていい これで よろしいでしょうか。 (2)脱法爾自然を想定したくなるような経験事例については 一つ前のNo.15でもお応えさせてもらったところを 掲げさせていただきます。 →《Q:何とも融合していない自己に会ったことがありますか》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3390238.htmlそのANo.4&5 《Q:当然という思い》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3431578.htmlそのANo.9 《Q:気力が湧くということ》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3373399.htmlそのANo.5 (3)なお 脱法爾自然は 必ずしも法爾自然と並ぶ《道理》として捉えていなかったのですが 考えてみれば けがの巧妙のようにして そういう主張にまでなっているようですね。 (4)けっきょく 脱法爾自然がもし取り上げられるとすれば 今回説いていただいたところからすれば 念仏門への帰入の時に焦点が当てられます。その時点での意志・精神あるいはつまり人格全体のあり方にかかわっていると考えられます。  《念仏門帰入以前は信機・信法という順番が大切ですが、浄土門の帰入後は信機が先か信法が先かなどは関係なくなります。両方が大事なんです。》という以前と以後の問題とは微妙に違って――ただし その事情をもちろん踏まえて―― 帰入の時点でのあり方です。 まづはっきり分かっていることは 《信法》という阿弥陀仏の約束の声はいっさい聞こえていないことです。《信機》 これは むしろ 意識としてもあるかも知れません。ただ あったとしても そのような凡夫の自覚が 白い道に通じるとはとても思えなくなっているという状態です。。 というよりも 見る角度が微妙にちがっているようにも感じます。それは 善根であるか悪人であるかにこだわらず ごくふつうの人間であると思っている状態なのです。そのとき むしろ世間から その周縁ないし限界・境界にまで 精神的に 押し出され追いやられるのです。その世間の中へ戻っていくと どこでもいいから いろという扱いを受けるその状態です。 ここでは 信機も信法も ないのです。ないと言いますか いわゆる善知識もいなくなり 信機などの意識も たといあっても 何の関係もないという感覚になるのです。こころは錆びつきます。(これは ヨブ記の主人公ヨブの経験だと言えると思います)。 阿弥陀仏そしてブッディスムから 離れて行ったのでした。念仏の念が その念のほうからも わたしのほうからも 去って行ったという感じなのでした。親鸞を知ってから時が経っていたわけですが この別離の時点が 帰入の時点の問題だったのだと思われます。 (ある程度の幅をもった期間の出来事を 一つの時点と見なして まとめたかたちで述べています)。 信機も信法も消えている。もしくはそれらを超えていた。そして その意味で わがはからいは いっさいなかったという状態です。ですから 聖道門でもなく 浄土門でもない。脱領域とでもいう瞬間です。 (ですから 逆説というのでしょうか 言うとすれば このように 帰入の時点で帰入しなかったことにおいて あとから見れば そして広い視野から見れば なんらかのかたちで帰入していたというような状態であったのかも知れません。――ただし これは べらぼう話しです)。 こんなふうになりました。筆の力が及ばないことは しょうがないですね。 こんなかたちですが 感謝とともに お礼に代えさせていただくことになります。 いまひょこっと思ったのですが 念仏というおこないも要らないと わたしは 思っているのかも知れません。そういう信仰なのだと。これは お叱りを受けると思います。 ここまで漕ぎつけることが出来て うれしいです。重ねて感謝申し上げつつ 筆を擱くことと致します。ありがとうございます。

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     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知(やがて既知となるであろうと推察しておくもの)      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    【α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心    -----------------------    【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト     【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。つまり梵我一如なる類型。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ この仮説でじゅうぶん世界のモヤモヤのあたまは晴れ上がると思うんですけれどねぇ。どうでしょう。

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

  • 梵我一如に仏教は密着したのでは?

     ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう? 

  • ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに確かに ブッダター(仏性・如来蔵・自性清浄心)の理論があります。のちに言う《非思考の庭》の問題です。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った定理など)    非経験(経験世界を超えた場を想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ------------------------   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(有神論)    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらが わが心なる《非思考の庭》における《信》のあり方である。みな同じなのである。ただし思考に非ずとして。  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは そこにふたたび逆転し名前を変えて ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。