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《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.11

 どんどん、ディープな質問になっていますねぇ。私の範疇を超えてきているような気もしますし、私の能力では文章がえらい長くなってしまうよう予感がありますが、ながんばって答えさせていただきます。   (1)もし この身のまま浄土にあることが約束されているとすれば それは いつ 成るのですか。  浄土は極楽浄土のことですかね??娑婆即寂光浄土ってことですかね??私の考えでは前者の場合は信心決定のとき、後者であれば成仏のときではないでしょうか。  この信心決定=往生という思想は親鸞聖人の考えの中に強くあらわれています。『唯心抄』の中には、 「即特往生」は、信心うればすなわち往生すという。すなわち往生すというは、不退転に住するを言う。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるとのたまう御のりなり。これを「即特往生」とはもうすなり。 この文は、親鸞聖人が『無量寿経』の「即特往生 住不退転」と説かれている部分を解説されたものです。親鸞聖人にとって大切な往生は、死後の往生と同時に阿弥陀如来から信心をいただいた時点での往生ということも言えるようです。それを「現生不退現生正定聚」と表現するようです。不退転は下がることがない姿、正定聚は進み続ける姿と、二つの側面から仏道への姿勢をあらわしています。  大乗仏教の菩薩の段階の五十二段階(五十二段階とは、十信(一~十位)・十住(十一~二十位)・十行(二十一~三十位)・十廻向(三十一~四十位)・十地(四十一~五十位)・等覚(五十一位)・妙覚(五十二位))のうち、初地(四十一位)以上の者を「歓喜地」「不退転」とも言って、この段階まで至ったものは二度とそれ以下の位に戻ることはないといわれます。つまり、自力の修行に励む四十位以下のものはいつ堕ちていくかわからないという不安を抱えて暮らさなくてはならないことになります。  浄土往生においても、「来迎」もしくは「奇瑞」という信仰があります。平安時代の僧侶や貴族たちは、死を迎える際に心を静に定めて(正念)いなければ、阿弥陀仏の来迎はなく、来迎なくば往生はないと考えていました。また、奇瑞という極楽往生の証が死後の肉体にあらわれると考えられていたようです。つまり、阿弥陀仏の他力の信仰の中にあったとしても、来迎があるかないか奇瑞があるかないか、不安を抱えながら往生を待たなければなりませんでした。  この、二つの不安を解消したのが法然上人でした。阿弥陀佛の来迎は、死を目の前にして正念でいられない者のためであって、死に向かい合ったときに正念でいられるから来迎があるのではなく、阿弥陀佛の来迎があるのは死に向う者を正念でいさせるためであるとお説きになられました。奇瑞についても、それがあらわれる者もいれば、あらわれない者もいる。それはご縁の問題であって奇瑞のあるなしが往生極楽には何の関係もないとおっしゃっています。  その教えを受けて親鸞聖人は真実の信心を得たものは「臨終まつことなし。来迎たのむ必要なし」(『末灯鈔』)と説いて、死ななければ救われないのではないか?来迎がなかったらどうしよう?などの不安をもつ必要などなくなり、安心して娑婆を生き抜きなさいととくのです。極楽浄土は別の言い方をすれば「安楽国」です。安心・楽しい国なわけですから、阿弥陀佛からいただいた安心は極楽浄土と同じということですかね。娑婆においてその安心を得た姿を「現生不退現生正定聚」と表現されるのでしょう。  けれども、仏様から見れば「現生不退現生正定聚」かもしれませんが、自分自身を見つめなおした自覚はあくまで「凡夫である」という自覚が大切かと思います。それは法然上人は『念仏往生義』のなかで、 善根なければ、この念仏を修して無上功徳をえんとす。余の善根おおくば、たとい念仏せずともたのむかたもあるべし。しかれば善導は、わが身をば善根小なりと信じて、本願をたのみ念仏せよとすすめ給えり。 と説いて、自身が善根を積んでこなかった凡夫であるという自己反省を持つことで、本願念仏に心から任せきることができると説いています。ですから「現生不退現生正定聚」というのは、凡夫である自覚を核となす安心の姿であり、親鸞聖人にとってはそれを得ることが極楽の姿をこの世で現している姿となるのではないでしょうか。  私個人としては、その辺あんまりよく分からないですけどね。けっきょく、法然上人も親鸞聖人も「自分を馬鹿ちんだなと思って念仏しなさい」といっているのだと思いますよ。 (2)まだ瓦礫が金に変成していないとすれば それは 末法という時代規定が関係していますか。  もちろん関係はあります。末法は悟れない外的要因です。もう一つ内的要因があり、それは自分自身の凡夫の自覚です。  自分自身が末法に住む罪悪の凡夫であると、主体的にとらえるのが凡夫の自覚です。法然上人は自己自身を「愚痴の法然」「十悪の法然」といい、さらに「三学非器」といって自己の無力を告白しています。三学とは仏道を修行するものが通じて学ぶべき三つの学問、戒学、定学、慧学の三つのことです。この三学の完成状態を「無学(学ぶことが無い)」と呼び、悟りの境地です。しかし法然は仏教の基本的な修行法であるはずの三学の器でないことを『聖光上人伝説の詞(徹選択集)』において、 出離の心ざしいたりてふかかりしあいだ、もろもろの教法を信じて、もろもろの行業を修す。およそ仏教おおしといえども、詮ずるところ戒定慧の三学をばすぎず。いわゆる小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧なり。しかるにわがこの身は、戒行において一戒をたもたず、禅定において一つもこれをえず、智慧において断惑証果の正智をえず。 と述べて、悟るための仏教全ては三学であって、自身はその器ではないことを告白しています。この三つを修めなければ仏教の究極的な目標である悟りを得ることはできません。  また、親鸞聖人の徹底的な自己反省はただの愚か者になることもゆるしません。だからこそ親鸞聖人は「すでに僧にあらず俗にあらず、この故禿の字をもて姓とす」と説き、「愚禿」と名乗り、ただの「愚」かな者にもなりきれず、僧侶姿「禿」頭をしているものの戒律を守ることなど出来るはずもない。ただの愚か者にもなりきれず、僧侶にもなりきれないという自己反省は、親鸞聖人が自分の心と向き合った結果の悲痛な叫びのように思います。  そういった自覚の問題からも、悟ることなどかなわないという結論に至ります。親鸞聖人の説く竜樹菩薩の『十住毘婆沙論』易行品などを基礎にした「現生不退現生正定聚」であっても、あくまで菩薩の段階からすれば「等覚(五十一位)」ですから、悟りの前段階ですからね。だからといって「自分は現生不退現生正定聚の菩薩様だぞ」というのは傲慢でしかありえません。自覚として「自分自身は凡夫である」ということに尽きると思います。お釈迦様の言葉を借りますれば、『ダンマパタ』のなかに みずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。 なんていう言葉もあります。つまり、現生不退現生正定聚と凡夫の自覚は矛盾することではありません。愚かな自分であるという現実を見据えること(凡夫の自覚)が、実は理想の自分(現生不退現生正定聚)につながっている、ということではないでしょかね。けれども、何度も言うようですが、自分自身から見ればやっぱり「悟り」とは程遠い「凡夫」ということでしょう。 (3)《西方浄土》が 文字通りの意味を持つのでしたら――つまり この世での成道を否定しないけれど 一般に成仏は死後であるとすれば―― それは 約束のもとに いまは 徐々に完成していくと意味でしょうか。  そうですね、この世において成仏できるという人たちの成仏は私には否定することは出来ません。なぜなら、その方々は私よりずっと偉い菩薩であるからです。  しかし、私のような愚かな凡夫はこの世において徐々に完成しているとは到底思えないのが現実です。詳しいことは次の質問につながっているようなのでそこで答えさせていただきます。 (3)わたしのこだわりは こうです。《金に変わることが阿弥陀様によって約束された瓦礫という立場》は すでにこの今 完成されていると思うのです。約束が成就している その意味で 還相回向が 視野に入っている。視野に入っているという目覚めは すでに できそこないのブッダ( a buddha )である。つまり そう見ないほうが 阿弥陀仏の願をおろそかにしているのではないかとまで こだわれてきます。  質問の中の >>《金に変わることが阿弥陀様によって約束された瓦礫という立場》は すでにこの今 完成されていると思うのです。 というのは、私たちの成仏が完成されているという意味ではありません。あくまで阿弥陀佛の四十八願が完成されているということであると思います。  自分自身の成仏という点においては「菩提心」という問題が出てきます。菩提心(ぼだいしん)とはサンスクリット語のボデー・チッタ(bodhi-citta)の翻訳語になります。菩提はボデー(bodhi)の音写であり、心はチッタ(chitta)の漢訳ですから、「菩提心」とは梵漢併称した言葉といえます。意味は仏の位に入って「さとり」の智慧を得ようとする心構えのことで、大乗仏教を修行する菩薩は必ず最初に起こさなければならない心とされています。つまり、この心がなければ「悟り」を得ることも、悟りを完成させていくことも不可能ともいえます。  上述したように、「菩提心」とは大乗仏教の修行者(菩薩)が必ず起こさなければならない心としています。しかし、法然上人は『選択本願念仏集』において、菩提心を雑行のうちにおさめて、極楽往生には不要なものとしています。その根拠として挙げられるのが、『観無量寿経』の下品の往生の部分です。下品とは分かりやすく言えば、悪人の往生を説いた部分です。その中でも最も下に位置する「下品下生」の者の菩提心については、    蓮華の中において十二大劫を満てて、蓮華方に開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもって、それがために広く諸法実相・除滅罪の法を説く。聞き已りて歓喜す。時に応じてすなわち菩提心を発す。これを「下品下生の者」と名づく。 とあって、下品下生のものは往生して後観世音菩薩・勢至菩薩の二人の菩薩の説法を聞くことで菩提心を起こすものであることが説かれています。これは、下品上生、下品中生も同じです。ここで説かれているのは、菩提心は浄土往生のために必須の心ではなく、浄土に往生して後に浄土において起こすものとされているのです。この『観無量寿経』に説かれている下品の者は悪縁に出会ったものとされます。法然上人の説く凡夫とは、罪悪生死の凡夫であり、この『観無量寿経』でいえば下品三生に説く凡夫と考えられます。そのため、浄土往生のためには称名念仏一行を説き、菩提心は往生してから起こすもので、往生の行としないのです。また、そこからは凡夫であるという自身の自覚を持って、自分自身を九品の中でも最も下の下品のものと見る法然上人の厳しい自己反省が伺えます。  親鸞聖人は菩提心については、「横超の菩提心」というものを説いています。横超の菩提心とは「願力廻向の信楽」と説かれているように、阿弥陀仏が「大いなる慈悲の心をもって全ての者を救いとろうとされる本願の力」をもって衆生に廻向される、この阿弥陀仏の廻向を信じ受け取った心には、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったころ起こした菩提心をもって成仏した功徳が全て詰まっていて、その菩提心を受け取った凡夫が浄土往生して後に成仏する原因となるというのです。親鸞聖人の説く菩提心は、聖道門(自力)諸家が説くような衆生が自力をもって起こす菩提心ではなく、阿弥陀仏の菩提心のことであって、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった頃から気の遠くなるような時間修行して四十八願を成就させたのは、全ての人々を平等に救済するためであり、この大いなる慈悲を具現したものが第十八願となります。したがって、この本願を受け取ることが凡夫における「仏になりたいと願う(願作仏)」と願わせ、「すべての者を救いたい(度衆生)」と願わせるもので、それこそが真実の菩提心とします。親鸞聖人が説かれるところの菩提心とは、阿弥陀仏より与えられた菩提心であって、如来の菩提心がそのまま衆生の菩提心となり、やがて極楽浄土に往生して後に悟ろうとする菩提心の徳として現れ、悟りに入ることができるばかりではなく、仏になって後は現世へと還りすべての者を救うというすばらしい作用として現れるとするのです。  まぁ、法然上人にしろ親鸞聖人にしろ「菩提心」という心の完成である悟りは、あくまで往生浄土して後ということになるわけです。 >>約束が成就している その意味で 還相回向が 視野に入っている。視野に入っているという目覚めは すでに できそこないのブッダ( a buddha )である。つまり そう見ないほうが 阿弥陀仏の願をおろそかにしているのではないかとまで こだわれてきます。  確かに親鸞聖人は『教行信証』正信念仏偈のなかにおいて、 往還回向由他力(往相回向も還相回向も阿弥陀仏の他力による) と説かれています。それによってすでに救われているとします。しかし、悟りを目指す菩提心がない以上、出来損ないであっても仏であるということはいえないように思います。出来損ないであれ仏であれば、阿弥陀仏も極楽浄土も必要ありません。自分は仏ではないからこそ、阿弥陀仏の本願をおろそかに出来ないのです。私には測りかねることですが、念仏によってこの世で成仏できるとしてしまうほうが、阿弥陀仏の本願の御本意を無視しているようにも思います。   (4)法身ないし報身のブッダ( Buddha )がいて 応身のブッダ( Gautama buddha ら)が出て さらに わたしたちが 小型のブッダであるとすれば その自己表明は 《私自身は自分のことを仏だとは思えませんし》とおっしゃる厳格なお立ち場にも抵触しないと思うのですが。  仏性説から見れば抵触しないでしょうが、私たちは小型のブッタである仏性を見たことないわけですからねぇ。法然上人も「自分自身の中に仏性の欠片も見たことがない」とおっしゃっています。そもそも仏性を見ることができる者は、上述した菩薩の段階で言えば「初地」以上とされています。阿弥陀佛の本願はそういった小型のブッタを自分の中に見出すことができない者のためにこそ成就されたものと考えます。あくまで、それは自分の中に仏性がないということではなく、仏性を見たことがないから私には仏性があるとは言えない、ということになります。 (5)ここで 親鸞さんにも異を唱えます。つまり 《こころは浄土に遊ぶなり》というとき そこからは さらに――水平の関係性の世界として―― 《浄土にあそぶ我がこころは この世間に踊り出る》というところまで 進んで欲しいのですが。  それは『歎異抄』第九条において念仏を称えても「踊躍歓喜」の心が起きないという、『歎異抄』の著者である唯円の言葉に、 念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心でありけり。 このように親鸞は、念仏によって往生できるというのに喜び躍り上がるような心が起きず、すばらしい事であるのに早く往生したいという気持ちが起きないという唯円の告白に、自分もそういった疑いの心があると告白しています。またその疑いは『教行信証』信の巻にも著されて、 まことに知んぬ。悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし傷むべしと。 阿弥陀仏は自分を救いの数に入れてくださっているにもかかわらず、喜びを感じることがなく、愛欲に突き動かされ、その広い海に溺れ沈んでいるような思いに悩み、名声などというものは捨てたはずなのに、名誉欲への未練を断つことができないのです。そんなわが身を親鸞は恥じ、傷ついているのです。  そういった疑いをもってしまう凡夫の救いについて親鸞は先ほどの『歎異抄』第九条の中でこのように続けています。 よくよく案じみれば、天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころををさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめて、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 と説いて、喜び躍り上がるような心がおこらないという疑いは凡夫ゆえに消すことのできない煩悩のせいであり、愚かな身であることを感じれば感じるほど親鸞は仏の他力を求めてやまなかったのです。阿弥陀仏は煩悩をもって消すことができないでいる凡夫だからこそ、救おうとしてくださっているのですから、よりいっそう往生は確実なものであるといっています。親鸞の確信はそこにあって、疑っていながらもそのような凡夫だからこそ阿弥陀仏は救ってくださるのだとしているのです。親鸞は自らの愚かさを衝き抜けるような阿弥陀仏の他力を、力強く、頼もしく、思ったことでありましょう。 >>《浄土にあそぶ我がこころは この世間に踊り出る》というところまで 進んで欲しいのですが。 そういった心が、表に出てきたとしたら、それは煩悩がなくなってしまったということになって、やはり阿弥陀佛の救いなど必要なくなってしまいます。 (6)ただし 踊り出るのは 信心の勧誘ではありません。社会的なそれぞれの職務のことです。職業が 一定のかたちで もちろんありますが どの職業に就いていようと その人に即した職務があると思われます。基本は 抜苦与楽だと思いますが 幻想のごとく言ってしまえば 《浄土にあそぶ心のすがた わが身の状態》を見せることです。(たぶん そこでは しかも同時に わがはからいから自由になっていなければならないでしょうが)。  法然上人は念仏を助成する行いとして、日常の仕事、職務等の行いを認めておられます。それについて法然は『十二問答』において、 我こころ阿弥陀仏の本願に乗し決定往生の信をとるうえは、他の善根に結縁し助成せむことまったく雑行になるべからず、我往生の助業となるべきなり と説いています。また、『禅勝房伝説の詞』に(長いので意訳を載せます) この世を生きていくのは、念仏を称えながら過ごしていくべきです。お念仏の妨げであれば、たとえどんなことであっても厭い捨てて、それをやめなさい。たとえば、出家して世俗を離れた聖者として念仏が称えられないのであれば、妻をめとって念仏しなさい。それでは念仏できないというのであれば、世俗と離れ聖者として念仏しなさい。定住しては称えられないというのなら、各地を遊行して称えなさい。遊行して称えられないというのなら、家にいながら称えなさい。自分の力で衣食をまかなっていてはお念仏できないというのであれば、他の人に助けてもらいながら念仏を称えなさい。他の人に助けてもらっては念仏できないというのであれば、自身の力で衣食をまかないながら称えなさい。一人では称えられないというのであれば、お念仏の仲間たちと称えなさい。仲間と一緒に念仏できないのであれば、一人で籠って称えなさい。衣食住の三つは念仏を助けるためのものです。つまり、この自分が平穏にお念仏を称えて往生するためのことは、どのようなことでも全て念仏を助けるためのものになりえるのです。 と説いて、日常の衣食住を含める遊行・独処・籠居、そして妻帯にいたる一切の行為が念仏を助成するためにあるいう「異類の助業」というものを説きます。このことは念仏によって日常生活の行為の統括しようとするものであり、阿弥陀仏の他力に浴して生活するということになります。現世において念仏するという生き方が価値あるものとする考えにおいて、社会人として行う道徳的社会的な行為も、仏教徒としての持戒や布施等の行為も、さらには浄土教の信者として行う経典読誦等の念仏以外の正行もすべて念仏する人を助けるものとして価値づけるのです。それはお念仏の教えに出会うことで、どうしても凡夫が持ってしまいがちな慢心という煩悩等をおこすことなく、自らは凡夫であるという自覚をもって完璧な善を行えないながらも行う善として裏表のない謙虚な気持ちで、積極的に修することができる念仏を助けるための善に変化するということでしょう。  ただし、法然は「念仏の助業と思わずして身を貪求するは、三悪道の業となる。」と説いて、念仏をするためと偽ってまったく念仏をするためでない行為を、自分勝手な解釈を持って悪行を追求することは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に落ちる原因になりかねないものと強く誡めておられます。 こういったことが、 >>《浄土にあそぶ心のすがた わが身の状態》を見せる ということになり、または(7)の (7)そのとき そのような職務につとめる実践と そして その務めを言葉による説明としてきちんと明らかにする理論・教学とが あると思います。(言わずもがなでした)。 という問いの、浄土教なりの回答になっていませんかね? (8)このような務めの主体が とうぜん います。ただし ここで アートマンは措きます。〔あとに述べますように もともと 霊魂や怨霊信仰とは一線を画していましたが〕 これを ただ《わたし》とします。そのこころは 《そこに(つまり 五蘊の互いの差異に) 自分自身のアートマンを持っていると言ってみるのも いいかと・・・》と述べましたように 《務めの主体の互いの差異》に焦点を当てるところにあります。あるいは 差異関係の中の分節点としての《わたし》です。《エゴ》という語も もとは 自称(一人称)のことでしかないわけですから。〔つまり 英語の《 I 》は 《エゴ》(サンスクリットでは 何と言うんでしたか)と同じ語ではなかったですか〕。  お釈迦様のアートマンの否定も無自性も、個体としての私の否定ではないと思いますよ。あくまで、多くの要素が集まって、私と呼ぶべき存在を形成している。といえばいいですか?ただ、その多くの要素で形成され、なおかつその要素が増えたり減ったりして変化し続ける私を、常住(変化しない)・単一(一種類の要素であってほかのものが混ざっていない)・主宰(本体がある)という意味のアートマンという言葉では表現すことはできないというだけで、brageloneさんのおっしゃるような私というものは存在しているとおもいますよ。  私もサンスクリット語ではなんというかは知りませんが。 (9)そのように 個性・個体としての存在も大事だと思います。《ひとえに親鸞一人がためなり》を 仏教教理としても 明確にしていただきたいと願うのですが。親と子とのいわば垂直の関係と 子どうしとしての兄弟姉妹の水平の関係 しかも そこで 一人ひとりが 互いに自己の務めを持った如来の子であるといったふうにです。(生まれた時から寝たっきりの人生を送る人も 寝たっきりであることをとおして 自分の務めを持ちこれを果たしつつ生きているのだという明示的な教理を確立していただきたいのですが)。  「ひとえに親鸞一人がためなり」という言葉は、私に言わせれば違います。私が言えば「ひとえにバカハゲ一人がためなり」です。あくまで、この言葉は親鸞聖人が自分自身を省みて述べられた言葉です。他者との比較によって生まれた言葉ではないと思います。ですから、そういった意味では「ひとえに親鸞一人がためなり」この言葉の「親鸞」の部分には自分の名前が入るのだと思います。  私は如来の子だとは思っていません。私は父母の間に生まれた子であって、阿弥陀様の子供だとは思えません。しかも自分に何かの勤め(役割といういみですかね?)があるとも思えません。ただ、周りの人からは勤めを持って生きているように見える場合はあるようです。 私事で恐縮なのですが、私は友人(といってもずいぶん年上の方ですけどね)と飲みながら浄土真宗の話をよくします。その人も浄土真宗のご門徒で、興味はあったのですが取っ掛かりがなかったときに私に出会ったそうです。そんなある日、その人が「やっと阿弥陀様の教えが分かってきた。ありがとう。私から言えばあなたは観音様のようだ。」とおっしゃっていただきました。しかし、私としてはご存知のとおり愚かな凡夫の勝手な解釈を述べていたに過ぎません。しかしそれを「観音様」とおっしゃっていただけたことのありがたさに不覚にも涙を流してしまい、またその友人こそ私に念仏させんがためにあらわれた「観音さま」であると私は感じたしだいです。 親鸞聖人は奥様を自分に念仏させんがために現れた「観世音菩薩」であるとおっしゃっていました。しかし、奥様は奥様でその日記の中で、ひそかにだんな様である親鸞聖人を「観世音菩薩」であると思っています、と述べておられます。これが浄土教的横の関係を示す者なのではないですかね。「御同行御同朋」であると同時に、私に念仏させんがためにあらわれた観世音菩薩ということです。あくまで私自身は自分自身に勤めがあるとは思っていません。しかし、周りの方々は私に念仏させてくださっているという勤めを果たしてくださっています。 >>生まれた時から寝たっきりの人生を送る人も 寝たっきりであることをとおして 自分の務めを持ちこれを果たしつつ生きているのだという明示的な教理を確立していただきたいのですが。  浄土教においては勤めがあろうとなかろうと関係ありません。もしかしたら、勤めなどないものを救おうとした教義であるかもしれません。勤めがなくてもご縁をいただいたからにはお念仏をしながら死ぬまでは生きるということだと思います。私は森羅万象全てが阿弥陀仏のはからいだとは思っていません。自分自身の業による因果の法則によるご縁というものもあるわけですからね。自分自身に勤めを見出せるかどうかは、それは自分の問題であって阿弥陀仏の問題ではないとおもいます。もしも、自分の務めを見出した上で、それは阿弥陀佛のはからいであったと思えたならばそれは阿弥陀佛のはからいとなるのでしょう。  私は自分のなすべき勤めがあるから何かをしているわけではなく、いただいたご縁を大切にしているだけです。 (10)《・・・阿弥陀仏は全ての衆生を分け隔てなく哀れみ、その慈悲においては悪人も善人も救ってくださいます》――これで (8)や(9)の個性や兄弟関係の問題は 解決しているようですが そうしますと 迂回の関係のようにも見えます。横の関係は 縦の親との関係を介して そのあと つながるというようにです。  浄土門に帰して後はそういうことにもなるでしょうね。 (11)baka-hageさんにも盾ついて 《自分の成仏もままならないのに、他人の面倒までは見切れない》を 《自分の成仏もままならない弥陀の子どうしが たまには 話し合う》へと向き変えるわけにはいかないでしょうか。要するに 兄弟姉妹なのですから 互いに ふつうに コミュニケーションをはかるという最低限のことを やはり教理としても 明示できればと思うのですが。末法ですから ブッダもゆるしてくれるのではないですか。  別に普通にコミニュケーションはとってよいともいますよ。ちょっと誤解を招いてしまったようですが《自分の成仏もままならないのに、他人の面倒までは見切れない》というのは、愚かな凡夫である自分が仏道修行を積んだ功徳をもって他者を救済しよう自力の思い上がりを捨ててしまいなさいということであって、「私はお念仏の教え大好きなんだ。」ということを他者に伝えていくことを否定しているのではありませんよ。だからこそ、親鸞聖人は「問法」の大切さを強調して説かれています。浄土真宗ではお説教することを「相談させていただく」なんて言い方もしますからね。お互いにコミニュケーションをとっていくことは大いに結構だと思いますよ。  しかし、その「私はお念仏の教え大好きなんだ。」という思いを、勿論受けとってもらえるようにお伝えしても、受け取るかどうかの最終的な判断は相手次第ですから、やっぱり《自分の成仏もままならないのに、他人の面倒までは見切れない》になるのだと思いますよ。その方は私とはご縁がなかっただけで、阿弥陀様とのご縁が尽きたわけではないでしょうから、愚かな私が引き戻そう連れ込もうとする必要はありません。 (12)同朋高校では 校長をはじめとして教師を含め すべての生徒が 誰々さんと さんづけで呼び合っているそうです。 教育界にせよ どこにせよ 提言をする余地は 多いのではないでしょうか。神学研究のお立ち場は それとして おありでしょうけれど さらに広いご発言を――梵天勧請ではありませんが―― 要請されていると思うのですが いかがでしょうか。自己内観は 表現は――表に現わすことは――しないでしょうか。  そうですぇ。おっしゃるとおりだと思います。宗教とよばれるものが積極的に他の分野にかかわっていくべきときはきたようにも思います。しかし、力不足か不精なせいか、私がやっていることといえば、老人会でお話させていただいたり、子ども会のようなところでお子供と遊んだり、飲み屋で宗教談義をしたり、おしえてgooで小さく意見を述べる程度です。きっと、もっと他の方法もあるのかと思いますが、私も自分自身の生活に終われる毎日で今思いつくのはそんなところです。自分自身でもそういったことを、考えていかなければならないと思っていた矢先に、ありがたいアドバイスをいただきました。ありがとうございます。 >>校長をはじめとして教師を含め すべての生徒が 誰々さんと さんづけで呼び合っているそうです これには賛成できないところがあります。確かに「御同行御同朋」の言葉に従っているようには見えるものの、親鸞聖人が「生徒一人も持たず」とおっしゃったとしても私は親鸞聖人から教えをいただく立場ですから、そこにいれば、「親鸞先生」と呼ぶでしょうに。やはり学校ですから、私は教えをいただく側の人間は「先生」と呼ぶべきではないかと思います。まぁ、「さん付け」のなかで「先生」と呼ばせたくなるような教師がいらっしゃったら、それは素敵なことですけどね。  いろいろ、私も考えさせられる質問ばかりでした。最後の提言に関しても、私自身これからさけてとおれることではないと思っています。非常に有意義な時間をいただいたと思っています。ありがとうございました。  ほんとに書いてるうちに長くなってしまってごめんなさい。誤字脱字の多い、読みにくい文章であるかもしれませんが、そのあたりはご了承ください。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

凡夫の自覚ということによって 白道を探し当てるということでないことは はっきりしていると思います。《徹底的な自己反省 / 自分の心と向き合った結果の悲痛な叫び》によって 白道に就くのではない。ということは 二種の深心のうち 第二種の弥陀の願に乗ずるほうが 大事だとなります。これでよろしいでしょうか。 もし妥当でしたら 歓び踊り 世間に踊り出て行ってもいいように思うのですが。未完成・不完全ゆえ 浄土に遊ぶことができると信じられると思うのですが。この目で はっきりと 未だに仏を見ていないゆえに 深心・信心であり これによって背中を押され促されるでしょうか。 字数制限の関係で 貴重なご論文の途中までになってしまいました。さらに噛みしめてまいりたいと思います。

noname#80116
質問者

補足

もちろん血も涙もお有りなのですが 教理にかんして柔軟というわけには行かない――それゆえにこそ 宗派は守られて来ているというものなのでしょうね。 だからと言って 何か柔軟になってもらえたらなぁというものでもないわけですが 考えてみれば わたしには 一つの魂胆があったように思います。それは 言語学に言語類型論という研究分野があるように あらゆる信仰にわたって その信仰類型を把握してみたい――このような尋究を進めようとしていたのだと気づきました。この類型が 論理に流されないようにという注意にも 自信があったと思います。 さて このたびは 論理に流れてみようと あえて 思い立ちました。    「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念     若不生者 不取正覺 唯除五逆 誹謗正法」 この第十八願の内容を是非 おしえてくださいますか。というのも 阿弥陀仏は すでに 成仏しています。報身だとも聞きました。しかも 十念して浄土に生まれないなら正覺を取らないということでしょうか。 五逆・誹謗正法を除けば 大丈夫みんな成仏しますよという意味でしょうか。 あるいは 十念した者が浄土に生まれるまでは 仮りの成仏のままでいるということでしょうか。 前者であれば 約束は 実現することが決まっていると思います。 後者であれば どうなのでしょう? 急ぐことはない じっくりと今の世間で生きていなさいと言うのか。あるいは 念仏の功徳は すでに 報われているから 今 この今 往生して その場が浄土であるとさとりなさい そしてまた 浄土にするように つとめていきなさい――と言っていないでしょうか。 《けれども、仏様から見れば「現生不退現生正定聚」かもしれませんが、自分自身を見つめなおした自覚はあくまで「凡夫である」という自覚が大切かと思います。》とおっしゃるわけなのですが 堂々巡りになるでしょうか。つまり 凡夫→その自覚・念仏→「即特往生」→凡夫の自覚・念仏→・・・ 《そういった自覚の問題からも、悟ることなどかなわないという結論に至ります。》とのことですが こういうふうに考えることはできませんでしょうか。つまり《悟ることなどかなわない》でありつつ 《悟ることが約束されているし わたしは そのことを信じている。つまり 阿弥陀仏に帰依している》という状態です。 ということは いまの循環の過程で 凡夫の自覚が浄土への道を歩ませているのか それとも 信心決定によってこそ歩んでいるのかの問いになります。むろん 後者だと思うのです。前者であれば それは 聖道門となります。 となれば 凡夫の自覚によって念仏するという・それとしての聖道門が 信心決定という易行門によって包まれていればよいという問題になるでしょうか。 すなわち 《親鸞聖人が説かれるところの菩提心とは、阿弥陀仏より与えられた菩提心であって、如来の菩提心がそのまま衆生の菩提心となり、やがて極楽浄土に往生して後に悟ろうとする菩提心の徳として現れ、悟りに入ることができるばかりではなく、仏になって後は現世へと還りすべての者を救うというすばらしい作用として現れるとするのです。》 しかもこのとき――ここで 論理に頼ってしまうのですが―― b-hさんは 《まぁ、法然上人にしろ親鸞聖人にしろ「菩提心」という心の完成である悟りは、あくまで往生浄土して後ということになるわけです。》というふうに やはり循環過程において 凡夫の自覚という従属的なだと思いますが聖道門に一たん落ち着くというかたちを見ておられます。 つまり同じく 《私には測りかねることですが、念仏によってこの世で成仏できるとしてしまうほうが、阿弥陀仏の本願の御本意を無視しているようにも思います。》とです。《念仏によって成仏できるとしてしまう》のではなく 《成仏できると約束されていることを つねに 見させてもらっている》 つまり 《自分は莫迦ちんだという凡夫の自覚が つねに 信心決定のもとに 包まれている》状態は 実現していると思うのですが。 いま 二河白道ということを思い出しました。これは 乱暴に言ってしまうなら 彼岸に到達することが――目的ではありますが―― 重要視されるのでは必ずしもなく いま 二河のあいだにあって白道を歩むということが 信じられ 約束されているということだと思うのです。もっと言うならば たとえいづれかの河に落ちても 獣に食われようが何されようが それでも 阿弥陀仏に帰依した結果であるならかまわないという今現在の娑婆での《わたし》のことだと思うのです。

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     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

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