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《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.10

なんだか白熱してきて楽しいですねぇ。 >>それにしても すごいお名前ですね!gu-tokuのことでいいんですか。法然上人に憧れておられて このお名前を用いられるということは親鸞聖人と同僚でいらっしゃると密かに(いえ 顕教として)思っておられるのかも  おぉ!?ここに来てしばらくたちますが、この名前の秘密(ぜんぜん秘密じゃないけど・・)見破ったのはbrageloneさんが初めてです。私は浄土真宗教学の立場についていろいろ考えていたときに、浄土真宗の中では近代教学がもてはやされている昨今ですが、ひねくれものの私は親鸞聖人の立場は法然上人のお弟子という立場なのではないかと思うのです。そこで私が今漠然と考えているのが、親鸞浄土教からの法然浄土教の再検討ということなんですよね。私はおこがましくて親鸞聖人と同僚とは思えませんが、法然ラブなところは似ているかもしれませんね。また、そんな私を親鸞聖人が「御同行御同朋」とおっやってくださることも嬉しくて仕方ありません。  まぁ、私が「愚禿」を名乗るのはおこがましく思い、私に丁度いい表現「バカハゲ」を選んだわけです。 (1) ブラフマンを梵天として採り入れている事例がある。一つひとつ 定義し直し 広く用いて共通性がわかるようにするとよいかもと。  私もそういった意見には賛成できます。広義で捉えた時の共通点を探っていくことは、私もよくやっています。そのほうが説明しやすい場合が多いですからね。ただ、それは基本的なことを捉える場合において有効であるとは思いますが、専門的な知識を得るときはその誤差というものも知っておく必要はあると思います。しかし、違うことを突き詰めていく必要もあると思いますが、共通点を探り続けることもやめてはいけないと思います。そのバランスが大事ですよね。(どっかのお金を借りるところみたいですけどね笑) (2) 一人ひとりが 五蘊の形成のあり方( DNA ?)や 誕生から始まって人生を送って来ている過程としての縁起内容をめぐって 異なっているとすれば そこに(つまり 五蘊の互いの差異に) 自分自身のアートマンを持っていると言ってみるのも いいかと まだ少し未練があります。  上記の私の意見を踏まえますと、日本人はアートマンつまり霊魂への信仰を持っていますからbrageloneさんの説明は受け入れやすいように思います。  私の意見に入る前に宗教学研究の、分類について少しお話させていただきます。これは岸本英夫というかたの『宗教学』に詳しくのっています。 (A)客観的 宗教史的研究と宗教科学的研究(宗教現象学、宗教心理学など)  客観的立場、科学的研究、宗教現象がいかにあったか? (B)主体的 神学研究(天台学や真言学などの宗学も含む)と宗教哲学的研究  主体的立場、規範的研究、宗教信仰はいかにあるべきか? (神学的研究は護教性を有するが、宗教哲学的研究は語教性を有さないという違いがある) こういった分類において、私が主軸においているのは真宗学・浄土学という(B)の立場の「護教性」を有する「神学的研究」に属しています。護教性とは、仏教であればお釈迦様の教えを完成型とすることを前提におくということです。  そうなると、私としてはもちろん宗教哲学的研究や(A)の立場も学んでいますが、主軸にあるのが「神学的研究」なものですから、お釈迦様がアートマンを否定的に捉えている以上、私はそれを肯定的な表現として捉えるのには抵抗があります。  しかし、「神学的研究」以外の「護教性」を有さない研究方法であれば、そういったこともいえると思います。きっと、 >>まだ少し未練があります。 というのは立場がはっきり示すことが出来ないからではないでしょうか? (2-1)そうして 個性があって 掛け替えのない個体存在であるでしょうし その個体として互いに関係し合っていると見れば 単純でよいと思ってしまう自分がいます。無我・無自性は 感覚としてその《無》がぴんと来ないんです。《本体》はいけないかと思いました。  そうですね。それはやはり上記した通り、日本人が持っている民間信仰の中に霊魂のような者への信仰が根強いからではないでしょうかね?私自身仏教を勉強して思っていることの一つは、日本仏教自体が霊魂の信仰を受容し、日本人は仏教には霊魂の信仰があると当たり前に思っているのではないかという節があります。それが変化し続ける事ができるという、仏教のよさであるとも思います。  ただ単に私は幽霊が怖いってだけかもしれませんが、魂のような本体があるというのには反対意見です。ですから、「如来蔵」「仏性」説にも矛盾を感じることが多々あります。仏性に関しては先の回答にもお書きしましたが「自性清浄心」とされています。もともと清浄な自性があるとすれば、なぜ汚れなければなかったのか?といった疑問も出てきますが、その答えは仏性説にはありません。なぜなら、仏性説は「なぜ悟れるか?」という視点から説かれているものであるからです。「なぜ煩悩に汚れたか?なぜ人が迷うか?」という疑問は仏性説ではなく、唯識に求めたほうがよいと私は思います。  ちょっと脱線してきちゃいましたが、仏性説ではアートマンとの違いを強調しますが、私は仏性が「自性心」としてしまっている以上アートマンと表現されても仕方がない部分はあると思います。日本において仏性が広く受け入れられたのは、日本の霊魂への信仰があったおかげとも考えています。  余談ですが「山川草木悉皆成仏」という言葉も、中国においては、日本のように山川草木全てに仏性があり仏になることができるという意味意味ではなく、悟りを開いたものにとって・もしくは悟りを開いた人に近くにある「山川草木は仏性を顕現した姿に見える」というような意味で捉えられていたようです。これも、まさに日本人のすべてのものに魂は宿るという民間信仰あればこその解釈の違いでしょう。 (3)関係性は 《〈「阿弥陀さま・・・に往生させていただく」〉存在どうしであるという互いの関係性》のことでした。もっとも わたしと阿弥陀仏との関係は わたしとあなたや かれ・かのじょとの関係と 同じだというふうに捉える視点があるとは思います。(垂直の関係と水平の関係は けっきょく同じだという見方です。相手の中に ブッダを見るというようなことは 同じかどうか それでいいのかどうか わかりませんが)。  浄土教においては、阿弥陀佛と凡夫の関係を親子の関係にたとえることがあります。北陸のほうへ行くと阿弥陀佛を「親様」と呼んだりするのもそのためですね。特に「母親」のニュアンスが強いようです。  法然上人は阿弥陀仏の救いの対象が悪人であったとしても、あくを好んで犯してはならない理由としてこんなお話をしています。 たとえば母の愛というものは、よい子でも悪い子でも分け隔てなく愛し育てます。けれども、子供たちがよいことをすれば嬉しく思い、悪いことをすれば悲しむでしょう。阿弥陀仏は全ての衆生を分け隔てなく哀れみ、その慈悲においては悪人も善人も救ってくださいます。けれども、善人を見れば喜び、悪人を見れば悲しむことでしょう。『念仏往生義』 このような言葉を考慮すると、横の関係というよりは親子の関係というほうが分かりやすいようにも思います。 (4)還相は 大幅に無理を押して 凡夫のままで 阿弥陀仏の信徒でない人びととの関係性を 自らに課すというようなことでした。実質としては 《風になったり鳥になったりその時と場合相手で最高の姿が取れるのだと解釈しています。》とおっしゃるのと 同じようなのかも知れません。  浄土教において、浄土往生する前の凡夫は他者との関係は希薄な部分がありますね。『歎異抄』第五条には 「親鸞は父母の孝養ためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず」(わたしは父母の追善供養のために念仏したことは一度もない) というのです。その理由を「そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と説いています。私たちは自分の作り出した業によって苦しみの世界から逃れられず生まれ変わり死に変わりしているという、輪廻思想は古代インドの思想から受け継がれた仏教の生命観ですが、親鸞は『歎異抄』のなかでしか輪廻の思想については語っておられません。しかし輪廻があるとすれば、あらゆる生物はいつの世にか父母兄弟であった身であったはずです。親鸞は自分の力で仏事を行った善をもって父母を助けようなどという自力の心を捨てて、まずは極楽往生をし阿弥陀仏の指導を受け自分自身が悟りを開きてのちに、父母を救うべきであると説かれていることに由来するかもしれません。  言葉は悪いかもしれませんが「自分の成仏もままならないのに、他人の面倒までは見切れない」といったところかもしれません。しかしだからといって、人との関係性がないわけではありません。それが、「御同行御同朋」という言葉です、「親鸞弟子一人も持たず」というように、浄土教は誰かが上になったり下になったりする教えではないと思います。「信心(信仰心)」でさえ信心深い信心が浅いがあるということも否定します。そういった意味では、みんな横並びの関係でいられるのではないでしょうかね。  それを還相回向と呼ぶのは難しいですね。浄土教の門徒以外他者への布教も「自信教人信(じしんきょうにんしん)」、自らが阿弥陀仏を信じ、そして他の人々にその自分自身が信じる姿をもって阿弥陀仏の教えて信じていただこうという、善導大師のお言葉にある布教法であると思っています。浄土真宗の布教法は勧誘ではなく共感という優しい布教法のはずです。勧誘という布教法による他者へのかかわりも無いように思います。 >>二種の深心もそうですが この歌にしても 他者との関係性が どうも ないように感じてしまうわたしがいます。関係性はあるのですが その動態・はたらきかけがないようにです。  これは どういう感覚なのでしょうかねぇ。故意に 人との関係を作り出そう・引っ張り出そうとしているのでしょうか。《我がはからい》でしょうか? 戒むべきかも知れません。  浄土教自体が、自己反省というものを強く強調した宗派ですからね。他者とのかかわり以上に、自己の内観というものを大切にします。けれどもだからといって、他者とのかかわりをたつためのものではないと思いますよ。あの有名な良寛さんは禅宗のお坊様ですが念仏の教えを大切にされたお一人です。その良寛さんはこんな詩をよんでおられます。 愚かなる 身こそなかなかうれしけれ  弥陀の誓いにあうと思えば (愚かな身であることがなかなか嬉しい、そんな愚かな私だからこそ阿弥陀様の救いに出会うことが出来たのだから) 良寛さんは自分が愚かであることが嬉しいとおっしゃる。それはなぜかといえば、そんな愚かな自分だからこそ阿弥陀様の救いに出会うことが出来たからというのです。私たちはどうしても「自分は誰にも迷惑かけていない」と思いたいものです。しかし、「人に迷惑をかけていない」と思い込むことは独りよがりな生き方です。人間は人に迷惑をかけずに生きられる人など一人もいません。自分の愚かさに気がつくということは、その愚かさをを支えてくださっている周りの他者に気がつくことなのではないでしょうか。そういった意味では浄土教て言う自己内観は、阿弥陀仏を含めた他者に気づくことといえるかもしれません。 >>阿弥陀仏・親鸞には 親近感があるのですが 仏教に対しては自由な立ち場で 突拍子もないことを もう一つお訊きしてしまいますが 《阿弥陀様に仏に仕立てていただ》くことは 即身成仏という言葉ではいけないのですか? 二種の深心を抱いた(与えられた)瞬間 みづからの時間と場とが 浄土であるというわけにはいきませんか? 《永遠の現在》です。  たしかに、親鸞聖人は和讃のなかで、 超世の悲願聞きしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかわらねど こころは浄土に遊ぶなり(阿弥陀仏の大いなる慈悲から生まれた本願の教えを聞いて念仏に帰依してより、私たち生死を繰り返している凡夫は、煩悩を持った身であることはちっとも変わらないけれども、心は浄土で遊んでいるように楽しくいます。) と説かれています。そのためか、浄土教の学者方の中にも「念仏によってこのようで成仏できる」「娑婆即極楽浄土」とする人もいるようですが、私自身は自分のことを仏だとは思えませんし、この世が極楽浄土には見えませんからね。それにもしそうなら、極楽が西方にある意味がなくなってしまうと思うんですよ。  私は「即身成仏」という言葉に対して浄土教的な立場からは「能令瓦礫変成金(のうりょうがらくへんじょうこん・よく瓦礫をして変じて金と成さん)」という言葉を上げたいですね。「小さな石や瓦のかけらのような私たちですが、救い取って捨てないという阿弥陀仏の願いに抱かれて、黄金に変わっていくというのです。」という意味ですかね。この身このまま仏になっていうという意味では近いかもしれませんが、浄土教的な雰囲気を踏まえると「能令瓦礫変成金」がすきですね。私が金であるということではなく、金に変わることが阿弥陀様によって約束された瓦礫という立場ですかね。ですから、天台本覚思想にしても、真言の密教にしても、その身そのまま仏という意味が強い「即身成仏」とは同じとはいえないように思います。  なんだか調子に乗って書いているうちにえらく長くなってしまいました。申し訳ないです。読みにくいところも多々ありますがご容赦ください。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

(12)同朋高校では 校長をはじめとして教師を含め すべての生徒が 誰々さんと さんづけで呼び合っているそうです。 教育界にせよ どこにせよ 提言をする余地は 多いのではないでしょうか。神学研究のお立ち場は それとして おありでしょうけれど さらに広いご発言を――梵天勧請ではありませんが―― 要請されていると思うのですが いかがでしょうか。自己内観は 表現は――表に現わすことは――しないでしょうか。 ・厳密な学問性も要請される分野に対して まぼろしのようなことを言っているかと 振り返って 思いますし 信仰の構造が同じようであると感じて 甘えているかとも思うのですが 阿弥陀仏なら わがはからいを 少しづつ 削ってくれるものと思います。というようなご質問になりました。よろしくどうぞお願い致します。

noname#80116
質問者

補足

直球にも変化球にも 概念の腑分けをするように また 原典・事例・用語例を示して 一つひとつ お答えいただき たいへんありがとうございます。ありがたさにすでに恐縮模様になっているのですが 貪欲にもなってみたいと思います。この機会に質問攻めにさせていただきます。破格・脱線・破天荒の段は どうか ご宥恕をお願い致します。 (1)もし この身のまま浄土にあることが約束されているとすれば それは いつ 成るのですか。 (2)まだ瓦礫が金に変成していないとすれば それは 末法という時代規定が関係していますか。 (3)《西方浄土》が 文字通りの意味を持つのでしたら――つまり この世での成道を否定しないけれど 一般に成仏は死後であるとすれば―― それは 約束のもとに いまは 徐々に完成していくと意味でしょうか。 (3)わたしのこだわりは こうです。《金に変わることが阿弥陀様によって約束された瓦礫という立場》は すでにこの今 完成されていると思うのです。約束が成就している その意味で 還相回向が 視野に入っている。視野に入っているという目覚めは すでに できそこないのブッダ( a buddha )である。つまり そう見ないほうが 阿弥陀仏の願をおろそかにしているのではないかとまで こだわれてきます。 (4)法身ないし報身のブッダ( Buddha )がいて 応身のブッダ( Gautama buddha ら)が出て さらに わたしたちが 小型のブッダであるとすれば その自己表明は 《私自身は自分のことを仏だとは思えませんし》とおっしゃる厳格なお立ち場にも抵触しないと思うのですが。 (5)ここで 親鸞さんにも異を唱えます。つまり 《こころは浄土に遊ぶなり》というとき そこからは さらに――水平の関係性の世界として―― 《浄土にあそぶ我がこころは この世間に踊り出る》というところまで 進んで欲しいのですが。 (6)ただし 踊り出るのは 信心の勧誘ではありません。社会的なそれぞれの職務のことです。職業が 一定のかたちで もちろんありますが どの職業に就いていようと その人に即した職務があると思われます。基本は 抜苦与楽だと思いますが 幻想のごとく言ってしまえば 《浄土にあそぶ心のすがた わが身の状態》を見せることです。(たぶん そこでは しかも同時に わがはからいから自由になっていなければならないでしょうが)。 (7)そのとき そのような職務につとめる実践と そして その務めを言葉による説明としてきちんと明らかにする理論・教学とが あると思います。(言わずもがなでした)。 (8)このような務めの主体が とうぜん います。ただし ここで アートマンは措きます。〔あとに述べますように もともと 霊魂や怨霊信仰とは一線を画していましたが〕 これを ただ《わたし》とします。そのこころは 《そこに(つまり 五蘊の互いの差異に) 自分自身のアートマンを持っていると言ってみるのも いいかと・・・》と述べましたように 《務めの主体の互いの差異》に焦点を当てるところにあります。あるいは 差異関係の中の分節点としての《わたし》です。《エゴ》という語も もとは 自称(一人称)のことでしかないわけですから。〔つまり 英語の《 I 》は 《エゴ》(サンスクリットでは 何と言うんでしたか)と同じ語ではなかったですか〕。 (9)そのように 個性・個体としての存在も大事だと思います。《ひとえに親鸞一人がためなり》を 仏教教理としても 明確にしていただきたいと願うのですが。親と子とのいわば垂直の関係と 子どうしとしての兄弟姉妹の水平の関係 しかも そこで 一人ひとりが 互いに自己の務めを持った如来の子であるといったふうにです。(生まれた時から寝たっきりの人生を送る人も 寝たっきりであることをとおして 自分の務めを持ちこれを果たしつつ生きているのだという明示的な教理を確立していただきたいのですが)。 (10)《・・・阿弥陀仏は全ての衆生を分け隔てなく哀れみ、その慈悲においては悪人も善人も救ってくださいます》――これで (8)や(9)の個性や兄弟関係の問題は 解決しているようですが そうしますと 迂回の関係のようにも見えます。横の関係は 縦の親との関係を介して そのあと つながるというようにです。 (11)baka-hageさんにも盾ついて 《自分の成仏もままならないのに、他人の面倒までは見切れない》を 《自分の成仏もままならない弥陀の子どうしが たまには 話し合う》へと向き変えるわけにはいかないでしょうか。要するに 兄弟姉妹なのですから 互いに ふつうに コミュニケーションをはかるという最低限のことを やはり教理としても 明示できればと思うのですが。末法ですから ブッダもゆるしてくれるのではないですか。

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     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知(やがて既知となるであろうと推察しておくもの)      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    【α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心    -----------------------    【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト     【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。つまり梵我一如なる類型。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ この仮説でじゅうぶん世界のモヤモヤのあたまは晴れ上がると思うんですけれどねぇ。どうでしょう。

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

  • 梵我一如に仏教は密着したのでは?

     ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう? 

  • ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに確かに ブッダター(仏性・如来蔵・自性清浄心)の理論があります。のちに言う《非思考の庭》の問題です。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った定理など)    非経験(経験世界を超えた場を想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ------------------------   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(有神論)    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらが わが心なる《非思考の庭》における《信》のあり方である。みな同じなのである。ただし思考に非ずとして。  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは そこにふたたび逆転し名前を変えて ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。