• ベストアンサー

《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.8

 たびたび失礼いたします。 >>さて いじわる質問でございます。  わたしもいぢわるな人間なのでこういう質問好きですよ。ただ、言葉が難しいです(下)(下)読解能力が低いのでもう少し分かりやすい言葉にしていただけると助かります。どこまでお答えできるか分かりませんが、がんばってみますね。 (1)《弥陀の五劫思惟の願》は 《ちから》ならざるや? 《ちからとその働き》として捉えては間違いならんや?  浄土真宗の立場を、私も記憶がはっきりしないので申し訳ないのですが確か曽我量深先生なんかは「私たちを救う働きを阿弥陀仏と呼ぶ」と表現しています。ですから、阿弥陀仏はの五恒思惟の願は、私たちを救う力であり、働きであって、しかも阿弥陀仏そのものとなるかもしれません。  けれども、私はその立場には賛成ではありません。私は観念的なことは難しくてよく分からないので「阿弥陀仏が私を救ってくれる」と考えています。ですから、四十八願が力となって働き私たちを救ってくれるというよりは、法蔵菩薩が力を付けて四十八願を成就し阿弥陀仏となって私を救うために動き回ってくださっていると考えています。  四十八願が「力の働き」ってことは、私は法則によって救われるって事ですよね??私は法則に救われるより、阿弥陀さんに救われるって方がいいなぁ。だから、阿弥陀さんの「力」で、阿弥陀さんが「働」いてくださっていると思うんです。四十八願は私と阿弥陀様の「約束」なんじゃないですかね。 (2)しかもつまり これを 《ブラフマン》と仮りに言ってみては 重大なる違反なりや?――すなわち 同時に 原動力であり真如であることは むつかしからんや?  ブラフマンは全ての神々(意味としては、森羅万象てかんじですかね)を動かす原動力なわけですよね??つまり、地震も起こすし、火山も噴火させるし、洪水を起こしたりもするわけですよね?  私の意見とは違いますが、四十八願を力や働きと捉えたとしても、そんなことしますかね?簡単な言葉で言えば、仏様はバチを当てたりす力の働きを作ったりするんですかね??私の学んできたところによれば、阿弥陀仏は「抜苦与楽」の仏様です。救いの働きにおいては絶対的な力を持っているでしょうが、森羅万象全てを動かしているわけではないと思いますよ。  私は先日風邪で寝込んでいました。この風邪も阿弥陀様が引かせたというのであれば、ブラフマンと呼んでもかまわないと思います。けれども、私はそうは思っていません。私のような末法における史上最低の悪凡夫ですから、すぐにでも大きな病をして死んでしまってもおかしくない身を、阿弥陀様はどうにかこうにか動き回って風邪程度で済ませてくださったと思うのです。つまり、仏様は救いの力は神々を動かすことも可能でしょうが人々を救うためであって、四十八願をブラフマンと呼ぶことは出来ないと思いますよ。 >>同時に原動力であり真如であることはむつかしからんや? 何の原動力かということでしょうね。ブラフマンは神々を動かす原動力。四十八願は私たちを救う原動力。真如を悟った阿弥陀さんが、その真如を私に悟らせるために作ってくださったのが四十八願なんじゃないですかね。 (3)親鸞が今に生きていたとしたら かれは 自分には 《我執》としてのアートマンがあると言うか否か?  アートマンという表現を使うかどうかは分かりませんが「我執はある」とお答えになるんじゃないですかね。我執が無いんだったら、阿弥陀仏による救いは必要ないですからね。 (4)しかも ほかの誰でもない日野なにがしとしての・その意味での《本体》としてのアートマンをも携えていると言うとわれわれが思う気遣いは無用なるや否や?  んん?私には難しくて変な答えであったなら申し訳ないのですが、日野なにがしという要素は親鸞聖人にはあるでしょうが、それを本体と呼ぶのには違和感を感じます。 (5)〔=3・4のまとめ〕一人ひとりが ほかの者とは違う五蘊の形態や縁起の情況にもとづく存在であって その意味で 自己なる《本体》としても しかもさらに少なからず《我執》をも残し容れたアートマンとして それにもかかわらず〔一人ひとりが〕《我れはブッダなり。 I am a buddha. 》と宣言することは まちがいでしょうか?  我執が残っていたらブッタではないんじゃないですか??どうなんでしょう?? (6)唯識と関連しますが 《自性 svabhava 》――これは 永続性を持つものなのでしょうか? いかがお考えになりますか。 肯定され得れば 阿弥陀仏のもとにある存在として わたしたちは 非常に心強いところです。(うたかたとしての自性でありながらです)。  自性というと、特に龍樹菩薩は自性の否定である無自性であることを鮮明にして、それを「空」と結び付けていきます。私というものは変化しつづけていく者であって、私というものは孤立して存在している(自性)わけではないと説かれてわけです。ですから、往生した後の私と、今の私は違う者であると思います。けれどもそれは今の私がいたからこその変化もしくは進化・深化であって、今の私との隔絶があるわけではないと思いますよ。私は逆に阿弥陀仏の前に生まれたときの私が、今のままだったほうが困ります。変化し続けていくわけですから、「無自性」になるんじゃないですかね?  長々書き連ねましたが、愚か者のたわごとで的外れな回答しか出来ずに申し訳ないです。  最後に、私の理解する浄土教は「阿弥陀さまを信じてお念仏して極楽に往生させていただく」以外ないように思っています。入門編もなければ応用編も無い、ただただ「南無阿弥陀佛」をお称えするしかない私でございます。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

お立ち場としても 理論としても はっきりとお答えいただき ありがとうございます。感謝申し上げるとともに 恐縮です。 まづ 浄土教とおっしゃっているのに 勝手に親鸞と勘違いしてしまいました。ご勘弁をお願い致します。 それに 仏教の文法破りを平気で行なっています。これは 故意になのですが これをめぐって たとえば 阿弥陀仏という規定・その名号を  やはり大事になさるのですね。わたくしのいぢわるは 名前や用語は 何でも構わないかどうかを 一つには お尋ねしてみたかったのです。 絶対ないし絶対者を たとえば 《 X 》だとかと言っても構わないかどうか。ブッダを 《かみ》と言ってみてはどうか。つまり ブラフマンとも通底させてみることはできないだろうかです。(→そうすれば 宗派や宗旨の壁が乗り越えられるのではないかと 浅はかにも・・・) あるいは 《自性》ですが 無自性を通過した自性として 法身もしくは報身としての阿弥陀仏のことを 指し示すことができないか等々です。(→この自性が 個体としてのわたしの存在にも 内在するとすれば 次の事柄で その個性の重みが 捉えられるように妄想しました)。 《本体》としてのアートマンに関しては 個性の違い つまりは 法然でも親鸞でも 一人ひとり掛け替えのない存在であると言いたいためです。(→必要ないでしょうか)。 《我執》を残しつつ アートマンとさえ言って不完全なまま 自身のブッダ宣言をするということは 関係性の問題です。《「阿弥陀さまを信じてお念仏して極楽に往生させていただく」》存在どうしであるという互いの関係性の側面です。キリスト信仰では 《隣人となる》と表現すると思います。 それこそ釈迦に説法ですが 《南無阿弥陀佛》の中に この関係性の側面は とうぜん 含まれていると思うのです。ですが ことばによる明示的な表現としても行なうというものです。さらに 昔のうろ覚えで言ってしまいますが おのおのが 往相還相の還相だと むしろ自分勝手に 宣言し自覚するというわたくしの魂胆です。(→必要ないですかね。ちょっと おふざけが過ぎるでしょうか)。 わたくしのほうだけだったかも知れないのですが たのしい対話を持たせていただきました。ありがとうございます。

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     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに確かに ブッダター(仏性・如来蔵・自性清浄心)の理論があります。のちに言う《非思考の庭》の問題です。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った定理など)    非経験(経験世界を超えた場を想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ------------------------   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(有神論)    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらが わが心なる《非思考の庭》における《信》のあり方である。みな同じなのである。ただし思考に非ずとして。  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは そこにふたたび逆転し名前を変えて ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。