• ベストアンサー

《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.7

 私自身仏教を学んで非常に広大なものであることを感じています。私などはまだ学び始めたというのもおこがましいのですが、少し自分の意見をまとめてみたくなりご相談させていただきたく思います。分かりにくい点多々あるとは思いますがお付き合い願います。 >>はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。  まず、アートマンの問題ということになると思います。アートマンはすでにご存知とは思いますが、生気、霊魂、自我、などの意味で仏教では「本体」というような意味が強いように思います。  仏教で言う無我とは自分が無いということよりも「自分自身の本体などは無い」という意味でとらえるのがわかりやすいように思います。仏教で言う「空」思想は私の愚かな考えでは、自分自身はいろいろなものの関わり合い(ご縁)の集合体であって、新しい関わり合いによって変化し続けるものと考えます。そういった意味で、普遍的な自我や霊魂のような「自己の本体」があるわけではないと考えるようです。  ですから、お釈迦様も『サンユッタ・ニカーヤ』のなかで、 「有意義、役に立つことを欲する者が、施してはならないものは何ですか??それから、人が他人にあげてしまっていけないものは何でしょうか??」 という問いの答えとして 「自分を施してはならない」 とおっしゃったそうです。そうなると、自分が無いということには違和感を覚えます。そういったことも踏まえますと、自分が無いというよりは、「自分自身の普遍的な本体など無い」と考えるほうがよいように思います。  またアートマンを「我執」と訳すことも出来るかと思います。すべての者は諸行無常であり、自分自身も変わり続ける存在であることを認めたくないということ。私は私なんだここは変えられないと自分勝手に自分というものにに執着する姿といえばお分かりいただけるでしょうか。  そういった執着をはなれた姿を「如来我」表現するのではないでしょうかね??  仏性説(如来蔵思想)にかんしては。唯識思想が人がなぜ迷うのかという立場でその構造を明らかにしたものであるとすれば、仏性や如来蔵とはなぜ人は悟るのかという立場でその構造を明らかにしたものです。お釈迦様はだれもが仏陀になることができることを説き、全ての人に分け隔てなく仏法をお説きになられました。初期大乗仏教はこのような釈尊の姿勢を踏まえて、全てのものには仏陀になる因子が存在していると主張したのが「如来蔵」であり「仏性」です。衆生は煩悩を持っているからそのままでは仏に離れません。しかし、全てのものは菩薩道の実践によって誰もが仏になることが約束されいるとするのです。  なお、『不増不減経』には衆生の本質である如来蔵は「自性清浄心」ともいい、「客塵煩悩(外側に張り付いた煩悩)」に汚染されているとされています。衆生は生まれながらにして煩悩がある生き物とされていますが、その煩悩は拭い去ることができるものであり、衆生の本質はあくまで清浄心とされます。  しかし、その本質は『勝鬘経』のなかで、仏教以前に主流であった「アートマン」と混同してはならないと説かれていますが、かなり強く影響は受けてますよね。この「仏性」が輪廻の主体といっている論書も存在しているようですから、どこが違うのか私もはっきりしないところです。 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。  私自身は違うように思っています。バラモン教的(ヒンドゥイスム)な「アートマン」は自己の本体ということですから、仏教的には否定されると思います。ブラフマンに関しても、もとは祈祷の文句やそれに宿る神秘的な力を意味して、神を左右する原動力とされていました。神々を動かす宇宙の原動力という意味ですからね、仏教で言う宇宙の法則である「真如」とは違います。「真如」はサンスクリット語のtathataの訳語で原意は「ありのまま」という意味だそうですから、宇宙の原動力という意味合いの強い「ブラフマン」とイコールにしてしまうのは難しいのではないでしょうかね? (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。  「涅槃としての如来我」というのは、「悟りを開いた後の自分」ということでよろしいのでしょうかね?もしそうであるのなら、「聖意測りがたし」仏様のお心は私のような凡人でははかり知ることはできないものです。そんな凡人の愚かな意見として聞いてください。  「私が私である」というのは「アートマン」であり「我執」であると考えます。如来我というものがあるとすればそれは「いろんなご縁をいただいて構成されているのが私である」それを何と表現すべきか私にも分かりませんが漠然とそんな風に思います。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。  この質問に関しては、私は自力と他力という質問のように聞こえます。私自身は浄土教の信仰者なので「わたし以外の力と働きが必要不可欠」という意見です。私の心の中を覗けば愚かなことばかり考えていて、悟りにあこがれるものの自分の力で悟れるとは思えない自分自身の現実が目の前にあります。そうしたとき、感じるのが阿弥陀仏の他力であり、私自身は阿弥陀仏の救いなくしては悟るべき道はないと考えています。しかしこれは他の人がどうこうというものではありません。あくまで私個人の意見です。 >>もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。  そうですね。私のものはお答えにはなっていませんね。私は仏教の何を分かっているのでしょうか?そういったことを再認識させていただく質問でした。ありがとうございました。  なんだか書いているうちにわけの分からない方向に進んでしまいましたね。まとめきれぬ文章文意を読み取っていただけることを願うばかりです。何か不明瞭な点等々あれば、ご指摘いただきたく思います。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

補足

ご回答をありがとうございます。    弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば     ひとへに親鸞一人がためなりけり。 この境地で さらにお考えを展開していただけたらと まづ思いました。でも 質問の項目に即して きちんとそのお答えをいただいたと思います。そのまとめも 不可欠だと考えます。そうでなければ 一人ひとりの考えを述べるということも おぼつかなくなるでしょうから。 何を隠しましょう わたしは――十八歳の頃やっと(それまで 小説も自分の趣味関係のものも読書をしていないのでした)―― 親鸞から入りました。そして 今の質問の焦点は 信仰だとばっかり思っていた仏教が どうもそうではない場合(あるいは側面)もあるようだというところです。  すべてを端折って――教理をしっかりと述べてくださっていますので―― 〔やはりわたくしは 意地がわるいのでしょうか〕 こういう質問をしてみたくなります。 その前に おしえていただいた中で ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 仏性説(如来蔵思想)にかんしては。唯識思想が人がなぜ迷うのかという立場でその構造を明らかにしたものであるとすれば、仏性や如来蔵とはなぜ人は悟るのかという立場でその構造を明らかにしたものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とおっしゃったところが 私にとって新鮮でした。このところ 唯識も勉強しているのですが アーラヤ識の想定も然ることながら 円成実自性という概念は 興味(こんな言葉では冒涜になるでしょうが)を魅かれます。  さて いじわる質問でございます。 (1)《弥陀の五劫思惟の願》は 《ちから》ならざるや? 《ちからとその働き》として捉えては間違いならんや? (2)しかもつまり これを 《ブラフマン》と仮りに言ってみては 重大なる違反なりや?――すなわち 同時に 原動力であり真如であることは むつかしからんや? (3)親鸞が今に生きていたとしたら かれは 自分には 《我執》としてのアートマンがあると言うか否か?  (4)しかも ほかの誰でもない日野なにがしとしての・その意味での《本体》としてのアートマンをも携えていると言うとわれわれが思う気遣いは無用なるや否や?  (5)〔=3・4のまとめ〕一人ひとりが ほかの者とは違う五蘊の形態や縁起の情況にもとづく存在であって その意味で 自己なる《本体》としても しかもさらに少なからず《我執》をも残し容れたアートマンとして それにもかかわらず〔一人ひとりが〕《我れはブッダなり。 I am a buddha. 》と宣言することは まちがいでしょうか? (6)唯識と関連しますが 《自性 svabhava 》――これは 永続性を持つものなのでしょうか? いかがお考えになりますか。 肯定され得れば 阿弥陀仏のもとにある存在として わたしたちは 非常に心強いところです。(うたかたとしての自性でありながらです)。 (ちなみにですが わたし自身は 水による洗礼を受け〔てい〕ないキリスト者として 絶対他力のもとにあります)。 このように考え浮かびました。よろしかったら 是非よろしくどうぞお答えをお寄せください。 すでに掲げたものですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      親鸞の朝    かれ自身    求めていた    無門の門を    さまよえる湖が    漿液を浸して    楼蘭の祈りを    朝露に映す    陽が至点に向かう    回鶻(ウィグル)のかなた    はるかな灼熱のみちを    海市が逃げる    帚木が枯れる    おお シャカムニ    セソンが枯れる    かれは    みらあじゅの消えたとき    みらあじゅを見たのだ    砂の海を航く〈わたし〉を    翻したのだ〈明日〉へ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに確かに ブッダター(仏性・如来蔵・自性清浄心)の理論があります。のちに言う《非思考の庭》の問題です。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った定理など)    非経験(経験世界を超えた場を想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ------------------------   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(有神論)    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらが わが心なる《非思考の庭》における《信》のあり方である。みな同じなのである。ただし思考に非ずとして。  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは そこにふたたび逆転し名前を変えて ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。