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南無妙法蓮華経の「経」が意味するものを教えてください

南無妙法蓮華経 について「経」が意味するものはなんでしょうか この7文字は ・ひとつにはお経の名前であり、仏の名前であり・・・ ・この7文字はすべてのエッセンスを凝縮した結晶のようなものであり・・・ ・私たち一人の人間そのものをあらわしていて・・・    (頭が「妙法」で胸と腹が「蓮華」で足が「経」(手足?四肢?)     というような説明を聞いたことがあります、詳細は忘れましたが     もしこれについての詳しい情報があれば知りたいです・・・・) ・「南無」= 宇宙、仏の世界、ひとつであること、帰依すること ・「妙法」= 不思議な力、「妙」は死で「法」は生、        生死の理(ことわり)        また「妙」は師、信じる対象、「法」は生、信じる自分 ・「蓮華」= 原因と結果は必ずひとつであること        泥の世界で綺麗な花を咲かせられること        仏の原因(種)もすべての人・生き物にあること ・「経」= 足 行動すること、実際に実践すること       足でもあり、手でもあり、       大きな意味では「身口意」の三業をあらわす ・・・と、おおまかに理解しているのですが  「経」の部分についていまいち定かではなく、  「経」の意味するもの、事を詳しくご存知の方、     詳しい説明のあるページなどご存知でしたら教えていただきたく     よろしくお願いいたします。  また、上記の大まかな解釈についても、もし間違っていたら   ご指摘などいただければさいわいです・・・   日蓮さんの「ご書」に記載があれば、具体的に教えていただければ   さいわいです   日蓮さんの教えですが、宗教、宗派は問いません   

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  • coomin
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回答No.1

南無妙法蓮華経とは、もともと、「釈尊の説き給うた法華経に帰依します」という意味ですが、法華経を釈迦の説いた唯一の正法であるとし、絶対的信心を捧げる日蓮宗では、この題目そのものに特別な意味を持たせているようです。 私はインド仏教を哲学的に研究している者で、日蓮宗のことはよく存じておりませんが、経とはサンスクリット語でスートラのことで、具体的にはバラモン、あるいは釈迦の説いた教えをまとめたもののことですが、元々は織物の縦糸を意味し、比喩的に、地球の両極を縦に貫いた仮定の線を意味するようになったようです。地球を貫通する線ですから、象徴的に、仏の四肢を表すと日蓮宗では考えられているのかもわかりません。 ちなみにお題目が仏そのものを表すという考え方は哲学的観点からも筋が通ると思います。そしてそのように仏を呼ぶ行為は仏があなたを呼ぶ行為に等しいということができます。このように考えることができれば、南無が何で、妙法が何で・・・などというのはあくまでも比喩的表現しかないことがおわかりになると思います。

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