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なぜ日本は?

近代の西欧列強のアジア・アフリカ進出の動きの中で、 日本が独立を維持し、以後のアジア諸国の中で 先進的な位置を占めることができた理由について 何でもいいので、ご意見をお聞かせください。 よろしくお願いします。

noname#6938
noname#6938
  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

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  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.8

以前に類似の質問に回答していますが、こちらにも発言を コピーします。 他の方の意見も非常に参考になりますので、参考URLに は目を通しておいてください。 「日本はなぜ(半)植民地にならなかったの?」  http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=274013 |この問題、詳しく書くと一冊の本ができてしまいます。 |なるべく要点を絞りますが、それでもかなり長かったりして。 | |1.幕末直前のアヘン戦争 | |幕末の直前、清国(当時の中国)とイギリスがアヘン貿易 |の是非による対立から戦争をします。 |結果は清のボロ負けであり、清国は鎖国政策を放棄し、 |本格的に開国せざるをえなくなりました。 |この事件の顛末を当時の江戸幕府の首脳はよく知っており |まともに戦争をしても西欧諸国に勝つことは難しいことが |わかっていました。 | | |2.開国~馬関・薩英戦争まで | |西欧諸国と戦争をしても勝てそうにないことをわかっていた |江戸幕府は、ペリーが砲艦外交をもって開国を迫った時 |に、それを受け入れざるをえませんでした。 |しかし、弱腰の幕府に対し諸藩の下級武士を中心に攘夷論 |が沸騰し、何年か後に長州藩は攘夷を決行、薩摩藩は生麦 |事件でイギリス人を殺傷したことの報復により、外国との |戦争に突入します。(馬関戦争、薩英戦争) | |この戦争で旧式の武器しか持たなかった長州藩は四カ国連合 |相手に大敗北しますが、薩摩藩は開明的な藩主であった |島津斉彬の時代に近代産業を取り入れ、武装も最新鋭では |ないが新式の武器に切り替わっていました。 | |鹿児島の錦江湾に侵入したイギリス艦隊は、近代化された |武器を持ち、かつ勇猛な薩摩武士の抵抗にあい、撤退を余 |儀なくされます。 |しかし、薩摩藩も最新鋭のアームストロング砲による艦砲射撃 |を受け、鹿児島城下の大半が焼け野原となりました。 | |戦争の結果、長州・薩摩藩とも、実力での攘夷実行は不可 |と悟り、以後は西欧諸国、特にイギリスに接近します。 | |一方のイギリスでも、特に薩英戦争で自慢の艦隊が大打撃 |を受けたことから薩摩藩の実力を評価し、反幕府勢力として |の薩摩藩に接近するようになりました。 | | |3.明治維新への流れ | |外国との衝突が相次ぎますが、日本の代表政府である江戸 |幕府は、機構が老朽化し、無能さを国内外にさらけ出します。 |このままでは日本の独立が危ういと危惧した藩の幾つかが |討幕に向けて結束し始めます。 |それらの討幕勢力をイギリスが支援し、一方の幕府をフラ |ンスが支援する形となりますが、どちらの勢力も日本の |植民地化を危惧し、支援の内容を武器の購入や軍隊の近代化 |支援などの内容に留め、極力外国勢力を国内の争乱に関与 |させないようにしました。 | |最終的に江戸幕府は倒れ、討幕勢力が朝廷を中心とする政権 |を打ち立てることに成功しました。 |日本の独立は守られ、植民地化の危機は回避されました。

参考URL:
http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=274013
noname#6938
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます 以前も同じ質問があったとは見つけることができませんでした 当時の日本の軍備がある程度は近代化していたことは 初めて知りました この辺の歴史には幕府や朝廷と同様、各藩が どのような対応をとったかを詳細に見ていく必要がありそうですね

その他の回答 (8)

  • TAHCHAN99
  • ベストアンサー率33% (14/42)
回答No.9

言いたいことは、ほとんど下の方々がご指摘になっておられるようです。ほかに考慮してよい視点として、以下の2点を付言して置きますので、よろしければご参考となさってください。 (1)開国の時期がよかったこと 日本が開国に踏み切ったのと、アメリカにおける南北戦争、ヨーロッパで、露、英、仏を巻き込んだクリミア戦争の時期とほぼ一致します。このため、東アジア支配の主導権を握るこれらの国々が、戦乱とその後の疲弊で、進出のモチベーションを欠いていたことも一因であったと思われます。 (2)江戸時代における鎖国の意義 ご質問の問題を考察されるにあたって、川勝平太氏の理論が有益な示唆を与えてくれるかもしれません。これは、江戸時代の鎖国の意義を、見直すものです。つまり、この時期において、日本は、国内で豊富に産出される金、銀、銅により高度の貨幣経済を完成させました。また、産業、技術の発達により、諸外国(ことに中国)から経済的に自立し、自給自足が可能となったことから、外国との交易を制限した結果を鎖国政策と見るものです。この時期、豊富な経済力で何を買っていたかというと、長崎で、西洋事情に関する情報を輸入してきたと言うことです。これによって、西洋の市民革命、産業革命、その後の膨張政策等に関する情報がいち早く書物となって流布され、当時の識者たちの国際的視野を開いていったとのことです。また、これと並行して、西洋の科学、技術、芸術等に関する高密度な情報が急速に流入していたことで、文化的に、近代化に向けてのポテンシャル・エネルギーが蓄積されていったと説明されます。 確かにそう考えると、開国後迷うことなく脱亜入欧政策を選択し、急速な近代化を成し遂げたことも理解できるように思います。また、#8の方が指摘されていたように、戊辰戦争の際、両軍とも外国軍隊の介入を拒否しています。これも、当時において、相当程度、他地域における列強諸国の行状について、熟知していたと考えないと説明がつかないと思います。 また、うがちすぎかもしれませんが、(1)において指摘したように、これ以上ない絶妙のタイミングで開国に踏み切ったのも、国際情勢に通じていたことと無関係でないように思われます。さらに、維新後、明治政府が急進的改革を主張する自由民権派を抑え、漸進的改革に固執したのも、ヨーロッパの市民革命とその後の推移(多くの場合、急進的改革の後、反動派によるクーデターがおきている)について熟知していたためではないかと思われてくるのです。 以上、小生の貧弱な頭脳で、要領よくまとめられなくて恐縮ですが、興味をお持ちであれば、以下の書籍がご参考となるかと思います。 川勝平太著「日本文明と近代西洋」(NHKブックス) 川勝平太編著「鎖国を開く」(同文館出版)

noname#6938
質問者

お礼

クリミア戦争がありましたか なるほど欧州本土との動きも一緒に考える視野が必要かもしれませんね 鎖国というと、何かまったくのシャットアウトのイメージがありますが こうしてみると当時の日本は結構世界情勢にアンテナを張っていたのでしょうね 参考文献までありがとうございました。 >小生の貧弱な頭脳で、要領よくまとめられなくて恐縮ですが とんでもございません。こちらこそ詳しいご説明恐縮です。

noname#2781
noname#2781
回答No.7

幕末から始まる、危機管理意識のたまもの。

noname#6938
質問者

お礼

う~んなるほど 今日の私たちも見習いたいですね ご回答ありがとうございました

  • tak-m
  • ベストアンサー率19% (8/41)
回答No.6

はじめまして! 1853年のペリー来航により日本は(無理やり?)開国させられました。 でもそれは対等な関係のものでなく、日本を3等国とみなした、不平等な条約を押し付けたものでした。この時点での世界は、まさに弱肉強食の戦国時代で、もしそのままの3等国に甘んじていれば、確実に東南アジアのように 日本も、植民地になっていたでしょう。 そうならない為には「富国強兵」以外には道はなく、「明治維新」を 成し遂げ、強い軍隊を持って、欧米列強に一人前の「国家」として 認められるということが、絶対に必要でした。(その当時の世界情勢がまさに、侵略を認めていた時代だったからです。) 事実、日清戦争の後に「治外法権」は撤廃され、日露戦争の勝利後に 「関税自主権」を手にしました。 ついでに言うと、日本は隣国の朝鮮半島や、清にも近代化してもらい、ともに欧米列強に対抗することを願っていましたが、両国とも「冊封体制」「華夷秩序」といった旧秩序を改めようとせず、逆に日本の「明治維新」を批判していたくらいです。 もちろん、当時の朝鮮半島や、清では欧米列強の侵略に対抗できる筈もなく 日本が上記にあげた旧秩序を否定し、「文明開化」を目指して列強側に傾いたことを、「祖法に背く蛮行」と呼び、日本人のことを「仮洋夷」と言ってて罵りました。 そこで日本は・・・ いや、ここぐらいで止めときます(大批判をくいそうなので・・・) 長くなりましたが、ameno_oshioのご質問に対する私の回答としては、上記にあげた「明治維新」「富国強兵」といったキーワードに集約されるのではないでしょうか。

noname#6938
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど 関税自主権といわれれば、当時の列強の植民地からの集金システム など、経済という点からの日本と他のアジア諸国との 差異にも、何かありそうですね。

  • deadline
  • ベストアンサー率63% (1239/1943)
回答No.5

素人考えですが、 1.日本は西欧から最も遠い所にあったから。 2.お隣に中国(当時清帝国)という、日本よりも遥に植民地としての価値がありそうで、簡単に植民地化できそうな国があったから。(アメリカが日本に開国を求めたのも、捕鯨船や中国へ向かう船の補給のためです。) 3.日本が開国する前に、『アヘン戦争』で中国が散々な目にあい、幕府側も薩長側もそのことを知っていて、『倒幕』→『明治維新』にいたる戦いが内戦化し、欧米列強に介入されることを恐れたから。

noname#6938
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました 1と3についてはなるほどそうかと気づかされました ただ、2の意見については、東南アジアや太平洋の孤島まで漁って 争奪戦をしていた列強が日本だけを港だけでOKにしようとしたとは 思えないのですが・・・

noname#9925
noname#9925
回答No.4

 あくまで個人的な意見です。  当時、外国に支配されないよう政治を担ってた人々が内政、外交に対して慎重に事を進めていた感じがあります。大政奉還など、できるだけ血を流さないように平和的に政権移譲を進めようとしたり(内乱が起こってしまったら外国につけ込まれる)外国からの申し入れを丁重に断ったり(NHKの「そのとき歴史が動いた」をみているとそのような気がする)  他に外国の技術や政治体制などを積極的に取り込むことによって(富国強兵政策など)近代化を急速に推し進めて外国に対抗できるだけの力をつけたために独立を維持できたと思います。

noname#6938
質問者

お礼

確かに、内乱はあったけど、そこにつけこませなかったのは 皆さんの一致した意見のようですね ご回答ありがとうございました

  • Singollo
  • ベストアンサー率28% (834/2935)
回答No.3

いじめられっ子になる前にいじめっ子になったから

noname#6938
質問者

お礼

どうしていじめっ子になれたのでしょう? ご回答ありがとうございました。

  • ToshiJP
  • ベストアンサー率38% (482/1255)
回答No.2

無知な者のごくごく個人的な意見ですが・・・ まず第一に日本は島国。入るには海を渡る必要がある。それならばアフリカも同じだが、欧米からははるかに遠い位置にある。それに加えて戦闘技術的にもすぐれた文化をもって、軍事的にもしっかりした力を保有していた。 近代に入っての発展は、元来の技術力と努力をおしまない民族性ゆえにここまで発展したと私は考えます。(このあたりはプロジェクトXみてたらつくづくそう思う)

noname#6938
質問者

お礼

プロジェクトXはビデオでもレンタルされているようですので いつか見てみたいと思います。 ご回答ありがとうございました。

  • takai
  • ベストアンサー率51% (36/70)
回答No.1

19世紀前半の日本には植民地としての価値が無かったのではないでしょうか。欧米市場の求める農産物たとえば紅茶や綿糸が大量・安価に生産できないため。

noname#6938
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに、中国や、インド、インドシナなどに比べると 資源を漁る植民地としての価値が低かったかもしれないですね。 しかし、ロシア帝国などにとっては、港が欲しかったわけですし 地勢的にも結構重要だと思うのですが、日本は。

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