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本能寺の変、明智光秀の真相

yoshizneの回答

  • yoshizne
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回答No.61

 信長公が目指した日本  足りないものは他国から補う。海洋貿易立国の構想。信長公は、形骸的な地位や名誉よりも、質実を取って国益を優先する方です。早すぎた天才と申し上げても過言ではありません。室町将軍権力からの自立をはなから考えていながら、あえて1568年足利義昭を立てて京都に入り、そしてこともあろう事か、普通は考えられない、義昭公を将軍職に伸し上げたのです。義昭公あるいは朝廷は、信長公に対して副将軍でも何にでもしてあげるから、という一見成り上がりを目指す武将なら断らないだろう褒れを、あざあざと断ってしまっているのです。好きな国をあげようという彼らの賛辞も飲まずに、その代わりとして、和泉堺と近江大津・草津の三箇所への代官所設置を交通・流通・軍事の要所と捉えて要請したと見えます。上洛の後に信長公は日本各所の関所の撤廃を命令。これは今で言うところの、さながら高速道路の料金所の撤廃です。関所が意味するところの規模からは関税局撤廃とでも取ることができます。   最初から何てあっけらかんと凄まじい改革をやってのけるのでしょうか。とても豪気な人です。関所は当時、幕府・朝廷・貴族・大寺社などにより設置されていました。  つまりこれだけ多くの関所を通過すると、税金だけでもたいがいな値段になるので、これは物流を阻むものだとして断固として許しませんでした。もし現代でこんなことをやる官僚がいたなら、国民は総出で大喜びするでしょう。  天子様とばかりに奉られるかもわかりません。多くの人々が、信長公を歓迎しました。  しかし、もうこの時点で、特権商人や不動産屋とも取れる大寺院らは金銭的な大打撃を蒙ったのです。  それまでの時代は、橋や道路を壊して敵を防ごうとする保守的な方法であったのに、いきなり信長公は、軍事物資の輸送能力とともに軍の機動力を向上させるという大仕事に出たのです。従来のやりかたに反し、道路整備に重きをおきました。信長公は有事に備え、大きな道路を作りました。また、環境エコロジーにもいち早く目覚めた偉人であり、ストレートな道の両端には松と柳が植えられており、夏は木陰にもなり、台風をしのいだりもするわけです。また、空気の良い時代に更に良くなることは言うまでもありません。琵琶湖にも見事な橋をかけ、今で言う道の駅のような休憩所を設けました。  驚いたことに、今までの話を単に聞いた人であれば、著者であれば、機能重視で安く橋を作ったのだろうと勘違いするのですが、信長公を見くびってはなりますまい。  凄まじいことは史実、わざわざ遠い若狭湾から材木をとりよせてゴージャスな欄干をつけた本格的な瀬田橋を1575年に完成させたのです。  日本海に向け、あるいは京都に向け、主要と成る道路も建設しています。  ここでおさらいをします。  信長公は、(1)税関を撤廃した(2)環境対応道路を作った(3)ゴージャスな欄干つきの橋を建てた(4)街道を巡らせた。  著者はこれが全て中世既存であった権力という権力をぶっ潰すための準備であったと敏感に察しました。    (1) によって税関で収益を上げていた僧侶や商人が敵になります。  しかし、彼らは財源だと考えるとどうでしょうか。戦争は理由が無ければ成立しないものです。ただ彼らが信長公に矛先を向けるその理由に、利権の二文字があるために、戦争は必ず勃発し、憲政的に優位に立つ信長公は暴徒と化した彼ら僧侶や商人を合法的に成敗し彼らの生命と財産を奪い取るという、まるで昴と風日のシンボルをなびかせた国が、第二次大戦開戦のころ日の丸の国にやっと仕掛けたような荒業を、もうすでに500年前の戦国の大将がはじめていたのです。  だから恐ろしきかな、信長公は頭脳の達人なのです。  小学校の先生が歴史は学ばねばなりませんと口うるさく生徒さんに言われますが、本当に学ばないといけないことは、年号や年代よりも、史実の内容なのです。  (2) 環境対応道路を作った。  確かに環境という理由になることでしょう。 しかし、一つ考えてみて欲しいことは、例えばこの本をご覧になられ、かつ日本人である貴方がその場合、戦中戦後まもなくという時期を生きた経験の有る人であれば、松は燃料にもなり、油も取れることは解るはずです。つまり、それを何に使うのかということまで考えないと信長公のトリックは見破ることが出来ません。  (3) ゴージャスな欄干つきの橋。  民衆の憩いのために作ったのだと信じたいのですが、この橋自体が琵琶湖内の大量輸送に何らかの役割も果たすのでしょう。  (4) 街道を作った  なぜV字直角に比叡山をマークするような作りにしなければならなかったか。 逃げ道を完全に断つためなのでしょうか。中世の大権力であった寺院を解体することは、僧兵などを持つそれらの団体が、機能としては、朝廷の言わば外堀であるという事実を鑑みたほうが最もであるように察します。  信長公もまた、軍人としての存在である前に人間であり、人間であるという大前提の前に、魂において、大きな男性を秘めたお方であったのだと存じ上げます。  時は戦国。今現代以上に貧困は火急をなし、町は混乱し、信長公の御父君はいつも戦争へ出られておられたので会うことも出来なかったでありましょう。父君の愛情も充分に受けられなかった幼少を鑑みては、強烈な母性とも思える父権の存在に憧れ、「いつかこの地上の地獄をこの俺が救って見せるのだ」と心にお誓いになられてあられたのだろうとお察しいたします。  偉大なる信長公。信長公は急ぎすぎになられました。なぜ明智光秀氏が、亀岡の帰り磐で引き返し、信長公をお射ちになられたか。もし信長公が徹底して協議によって和睦せしめる心があられたならば、この国、いや、この世界の歴史は嘆く事無く変わっていたのかもしれないです。しかし、あまりにも既存の時代を憎み、未来を夢見て信長公は独りで日本の重荷を背負いすぎました。それほどまでに、怒り心頭されておられました。本物の男、信長公は日本人に覇業の大王のとして代々語り継がれることでありましょう。

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