• ベストアンサー

ほにゃらか形而左右学 数学

1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」と。(ガリレオ) 2)「自然は数学で出来ている」がや。(何処かで聞いたような) 1)から2)の帰結が肯定されそうですが、 1)では、自然に対する敬意と謙虚さを保持して、 その上で、自然を体系的に観察するには数学が有効である、 と、述べるに留まって、否定の必要はあまりなさそうですが、 2)では、自然を単なる対象として、数学で理解できる、といった 断定的な意図が見受けられます、つい、否定したい誘惑に駆られます。 1)から2)への論理的誤謬について、ご指摘下さい。(誤謬の有無を含む) さらに、 1)ついて、ではそれ(数学で理解するのが容易)は、なぜか? このことを問題にした哲学者や資料があれば教えてください。 結局、2)だから、1)だという事になりそうで、混乱しています。 テストもレポートの予定もありませんし、私見も混入していますが、 宜しくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#31063
noname#31063
回答No.1

そうでしょうかっ!? 失礼しました。 回答ではないですが、 自然は数学(数式)ではないと思います! アインシュタインも確立肯定派だったのかな? 生物学的には1+1=3以上で、2だったら子孫繁栄しません。 1+1=1+1 答え『2』という取り決めはは人間が作った数学概念(?)。 数学は嫌いというより全然(滝汗)。

fishbowl66
質問者

お礼

失礼です、と切り返せないのがつらいですが。 私も数学は(も)苦手で、自信が無いから切り返せません(笑。 先月、DVDのお店にやっとダビンチコードのパッケージに中身が 早々借りてきて見たのですが、何を見たのか覚えていない中で、 「フィボナッチ数列」が印象に残っています。 1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89・・・ この数列は、兎の増え方から、カタツムリの殻、植物の葉の配列まで説明でき 簡単に総和も計算できまるらしいのです(私は良く知らないですが)。 確率も数学じゃないの、と言いたい所ですが、数学音痴、どうなんだろう。 たっぷり汗をかいて、内臓脂肪の解消が出来ると一石二鳥。 そうそう、決して、 自然は数学で出来ている、と決め付けているわけではないですよ。 此処では、穏かに「なぜ」に注目、有難うございました。

その他の回答 (21)

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.2

難しいことは分かりませんが、 例えば 1.車は設計図で出来ている 2.設計図は紙である 3.ゆえに車は紙で出来ている ということになれば誤謬(この言葉も難しい)って事でしょうか? ちょっと違うかな・・・

fishbowl66
質問者

お礼

面白い例え話ですね。 この例の話では、間違いということでしょうが、 今回の質問の、1)と2)の関係は微妙ですね。 これは言葉の使い方の問題かもしれませんが、 ガリレオの言葉を単純に「なぜ」というのは以外に難しいですね。 数学で説明できるからと言って 数学でできているとは限らない、ではなぜ説明できるのか? あっ、ひょっとして、秩序の法則が数学でできている、 いかん、やっぱり数学でできていることになってしまう。 ご回答有難うございました、寝ながら考えてみます(笑。

関連するQ&A

  • ほにゃらか形而左右学

    仏の顔も三度まで、と申します、これでこのテーマは終了します。 自然の中に矛盾はあるだろうか、どうもなさそうな気がする。 そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。 今回はカントのアンチノミーを拝借して矛盾について考えてみます。 と思ったのですが、カントの定式は、文字数の関係でとても制限内に収められません。 一気に予定していた、最終兵器の投入です。 「クレタ人は常に嘘をつき、邪悪な獣で、食べ物に無関心」 この言葉が「クレタ人」から発せられたときだけ矛盾・逆説を生むのは何故でしょう。 自己言及があるからというご回答ではなく、 自己言及によって、どうして矛盾が起きてしまうのかを、 うまく説明できるのでしょうか。 お礼が遅れ気味になりますが、宜しくお願いします。

  • ほにゃらか形而左右学 数学、補論

    今月は、全く出遅れてしまって、 理由は、“体調不良と質問内容のカブリ”と言う事で、おそまつ。 そんなことで、出走辞退の予定でしたが、不思議なことが多すぎて、 一人で考えていても、らちがあかない。そこで。 前提A)とある、数学関連の本に、数学は発明ではなく、発見であると。 前提B)此処では、発見と発明の違いを、 前者では、‘発見するためには発見する以前に存在する’点が強調され、 後者では、‘発明とは発明以前に存在しない’と言った意味にて区別されています。 そうすると、 1)数は、発見ですか、それとも発明ですか。 整数はともかく、特殊な0とか‘√-1'も、発見ですか。 2)三角形や直線の概念は、発見ですか。 3)そこで、これらの全てが発見だとすると、 ‘発見するためには発見する以前に存在する’から、 数学の概念は、発見する以前から存在することになります。 4)以上の考察の結果、数は言語記号ではない。 ここでは、‘言語は物の名ではない’と言う点からの結論です。 此処、判り難いかも知れません。 言語記号により、切り取られることによって、始めて概念が決定される、 といった意味で、この点は、前提として、突っ込まないで下さい。 結論C)要するに、数字と言語は、区別される性質の物でしょうか。 実生活には何の役にも立たない長話ですが、 お暇な方、下手な考えの問題点のご指摘、宜しくお願いします。

  • センター試験&国公立二次試験を目標とした数学の勉強法

    僕は現在高校二年です。国公立経済学部を目標としています。しかし「経済学部」なのに数学(ほかの教科もイマイチやけど)の成績が良くありません。 全統模試では偏差値48です。この時点で「いつまで夢見てるんじゃワレ!」とお思いになる方がいらっしゃるかと思いますが、聞いてください。当然数学の基礎固めからしっかりしないといけないので、学校で配られたチャートの黄色をやっていこうと思いましたが、どうも少し応用問題になると解説の理解さえできません。だから以下の2パターンの学習法を思いつきました。 1.チャートの基本例題からじっくりと自分でやって、わからないところは学校の先生に聞きながら進む。 2.本屋さんで「スバラシク強くなると評判の元気が出る 超基礎数学」という自分でも理解できそうな問題集を見つけたので全部解けるようになるまでやってみる。 時間は1の方がかかりますが、かなりの力が付くと思います。2はそんなにかからないとは思いますが、果たして国公立大学へ行こうとする者としてふさわしい数学力が付くのかな?となりました。僕としては2に挑戦しようと思うのですが、みなさんはどう思いますか?肯定、否定、推奨。なんでもよいので意見下さい。1月26日の夜に締め切ります。

  • 「近代科学の父」ガリレオについて

    現在、大学の課題でガリレオ・ガリレイについてのレポートを作成しています。 今その課題を作成しているのですが、問題文の理解に困っています。 問題としては2問で、1つは「何故近代科学の父なのか」という問題。この問題の答えの要約としては「自然法則を数学的記号で表した」と考えています。 私は2つ目の問題の理解に悩んでいます。2つ目は「その姿勢は何処に由来するのか」という問題です。 私は「その姿勢」と「何処に由来」の意味を理解しかねています。 これはどのような答え方をすればいいのでしょうか。 できれば早急にお答え願います。申し訳ありません。

  • ほにゃらか形而左右学 敬語(3)

    お世話になります。 敬語について、あれこれ考えてみたのですが、 沢山の有意義なご回答を頂きながら、敬語を掴み切る事が出来ません。 敬語は、思った以上に、手強く興味深い対象のようです。 例えば、 1)敬語は敬意を表わす、言語表現である。 2)敬語は上下関係を明示する、言語規則である。 3)敬語は内外の関係を明示する、言語コードである。 4)敬語は恐れを隠す、コミュニケーションの道具である。 5)敬語は第三者間の上下関係を表わす、言語記号である。 ・・・等々 後を、表現・規則・コード・道具・記号としましたがどれも間違いではないような。 そこで、敬語も言語の一つですから、記号論によせて、考えてみてはと思いつき、又してもお願いいたします。 記号論の伝統的定義は、記号は「他の何かを代表する何か」と言う事でしょうか。 但し、記号論は西洋の思想で、名詞句に関しては比較的分かりやすいですが、日本の敬語のように語尾変化・追加等々で敬意・意味に違いをつける場合、なかなか判りにくいですね。 拝見、愚考と言った謙譲語はまだしも、召し上がる、ご覧下さる、と言ったある意味重複しているような場合、はたして記号なのか、つまり、シニフィアンとシニフィエの対の関係もはっきりしません。また、する、を、しなさる、しなされる、と言い換えて、なぜ敬語になるのか。 成立の問題ではなく、意味論的に、例えば「れ」は敬意を意味するのか、とか。 今回の出発地点を要約すると、 詞と辞の違いは日本独特のようで、詞だけでなく、辞の意味作用をシニファイン・シニフィエの表裏と言う比喩で、解決できるのでしょうか。 以前の続きも歓迎いたします。宜しくお願いします。

  • ほにゃらか形而左右学 敬語(2)

    お騒がせします。 皆様、敬語に関して 使っているのか、使わされているのか、 どちらか、ご存知でしたら、教えてください。 以下余白

  • ほにゃらか形而左右学 「ちから」2

    「ちから」に関して、哲学的考察が可能か、という質問です。 一般に、「ちから」といえば、物理学です。 重力・磁力といった、「ちから」の分析、慣性の法則の発見、などなど。 それと、生理的な「ちから」も、熱量として、生物学や栄養学、などなど。 ところで、人間は社会的動物と言う事で、必ず集団を作ります。 他の動物も、集団を形成しますが、人間の作る社会の制度は、特別です。 そこで、この社会を必然的に構成する「ちから」これが謎です。 この、社会を構成する「ちから」は、物理学上の力の様に、考察の対象になるでしょうか。 「精神のエネルギー」つまり「思考する力」 あるいは「ちからの総合」も視野に入れて、 今回の考察の、足掛かりについて、なんでも教えてください。 前回の質問 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3305165.html 前回の質問が長くなり、改めて、質問しなおしました。

  • ほにゃらか形而左右学 影

    毎度、お騒がせいたします、影だけ屋がお邪魔します。 かげ屋~かげだけ~♪ かげ屋~かげだけ~♪・・・ えへん、こんこん、調子が悪いですね。ほにゃらかに行きましょう。 「影を売った男」確か、悪魔に影を売るんでしたね、結局、良い事はなかった。 天使に売っておけば、良いこと有るのかな、とも思いますが、それはさておき。 影というと、表と裏の二元論的な一面ですが 木陰と物陰、守ってくれる陰と、排除する陰。 またまた、二元論に、陥ってしまいますが、さてさて、 われわれの習慣として、この様な分節に親しむ理由もさておき。 影とはなんじゃろうか。 最初は、存在論的に、影は、実在しますか、存在しますか。と問うて見ましょう。 実在 [哲]一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの、またその在り方。 特に、プラトンは感官によって知覚される存在を影にすぎず、その背後のイディアを真の実在と考えた。 アリストテレスを承けて種のような普遍を実在とするアベラールのような考えもある。(以下略、広辞苑) 存在 [哲]実体と属性とに分かれ、前者は基体・本体のようにそれ自体で独立にあるが、後者は前者に付帯して依存的にある。また実体には、自然的・物的なものと、意識的なもの更に超自然的で非感覚的なものとがある。(以下略、広辞苑) 影と陰の国語の講釈も、良ければお願いします。 お礼は遅れがちになりますが、宜しくお願いします。

  • ほにゃらか形而左右学 テレビ

     先日、北朝鮮の砲撃から逃げ惑う韓国の人々のニュース映像を見ながら、こうした映像がテレビを通して、私自身が見ることが出来ることに、違和感を感じました。  まずは、現場にいたら、映像のような客観的な視点はもてずに、映像の中の人々のように、安全な場所を求めて逃げ惑っていて、全く何も観察するような余裕もないし、恐怖や不安の中で、恐らく何がなにやらわからない、音と煙以外何も覚えていないような、経験ではないでしょうか。つまり、テレビを通してみる視点の不可能性のようなものが気になりました。  少し話は変わりますが、最近、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけが話題になって、それに対して明確に回答するのが、なかなか容易ではないし、色々な考え方が有ることから、同様の質問が、繰り返されているようですね。質問者はこの回答には関心ないのですが、なぜこのような質問がでて来るのかについて考えてみました。それがテレビに関係するのではと。それは、現在の日本においては、人の死が、ベールに囲まれた、葬儀として、或いはテレビを通してみる、死者の数、今年一年の自殺者は・・・人、交通事故で・・人の人が死亡、或いは自爆テロで・・人の人が死亡、といった具合です。それに対して、アメリカですら、学校での銃の乱射があり、中東・アフリカは説明する必要もないほど、人の死というものか現実の生活の中に不安を伴って存在しているのではないでしょうか。こうした事から、上記の質問を、死というものの不安を、表層化してしまう、テレビ等の影響が一部にあるのではないかと、推察することが可能ではないでしょうか。  さて、話をもとに戻して、現在、テレビが新しい時代に変わりつつあるとき、テレビの半世紀を振り返って、テレビの功罪について、皆様のご意見をお伺いしたいと思います。果して、テレビは人間を変えたでしょうか。  質問の中心は、テレビの内容(プロパガンダ的なもの)ではなく、ある種の超越的視線を得るという形式的な部分ですが、特に拘りません。年末年始の暇な時間に、ご回答をお寄せ下さい。忙しくてそれどころではない方におかれましては、長々質問しまして申し訳ありません、お仕事頑張ってください。

  • ほにゃらか形而左右学 矛盾

    お世話になります、或いは、お騒がせします。 最近、矛盾という言葉を、彼方此方でよく耳にするのですが、 矛盾について考えてみました。嘘がつけるかどうかと同様 矛盾がそもそも可能であるとはどのような状態なのでしょうか。 そこで、悪しきギリシヤ的二元法、「自然」と「人為」に分けて 自然の中に矛盾はあるだろうか、どうもなさそうな気がする。 そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。 さてさて、自然の中に矛盾を探しにいき、見つからなかったのですが 本当に見つからないのでしょうか。 宜しくお願いします。