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ほにゃらか形而左右学 数学

1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」と。(ガリレオ) 2)「自然は数学で出来ている」がや。(何処かで聞いたような) 1)から2)の帰結が肯定されそうですが、 1)では、自然に対する敬意と謙虚さを保持して、 その上で、自然を体系的に観察するには数学が有効である、 と、述べるに留まって、否定の必要はあまりなさそうですが、 2)では、自然を単なる対象として、数学で理解できる、といった 断定的な意図が見受けられます、つい、否定したい誘惑に駆られます。 1)から2)への論理的誤謬について、ご指摘下さい。(誤謬の有無を含む) さらに、 1)ついて、ではそれ(数学で理解するのが容易)は、なぜか? このことを問題にした哲学者や資料があれば教えてください。 結局、2)だから、1)だという事になりそうで、混乱しています。 テストもレポートの予定もありませんし、私見も混入していますが、 宜しくお願いします。

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noname#31063
noname#31063
回答No.1

そうでしょうかっ!? 失礼しました。 回答ではないですが、 自然は数学(数式)ではないと思います! アインシュタインも確立肯定派だったのかな? 生物学的には1+1=3以上で、2だったら子孫繁栄しません。 1+1=1+1 答え『2』という取り決めはは人間が作った数学概念(?)。 数学は嫌いというより全然(滝汗)。

fishbowl66
質問者

お礼

失礼です、と切り返せないのがつらいですが。 私も数学は(も)苦手で、自信が無いから切り返せません(笑。 先月、DVDのお店にやっとダビンチコードのパッケージに中身が 早々借りてきて見たのですが、何を見たのか覚えていない中で、 「フィボナッチ数列」が印象に残っています。 1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89・・・ この数列は、兎の増え方から、カタツムリの殻、植物の葉の配列まで説明でき 簡単に総和も計算できまるらしいのです(私は良く知らないですが)。 確率も数学じゃないの、と言いたい所ですが、数学音痴、どうなんだろう。 たっぷり汗をかいて、内臓脂肪の解消が出来ると一石二鳥。 そうそう、決して、 自然は数学で出来ている、と決め付けているわけではないですよ。 此処では、穏かに「なぜ」に注目、有難うございました。

その他の回答 (21)

noname#31811
noname#31811
回答No.12

お礼文ありがとうございます。 函数関係に解消して理解する方法がない。 ⇒函数関係に解消して理解するしか方法がない。 訂正させていただきます。 2は間違いだとは思いませんが、少なくとも1には自然は延長であるというデカルトの2元論が背景にありますよね。 精神の仕事は自然を算定量化することであるという。 しかもガリレオは実験、測定から物理的法則という科学的方法を確立した人ですから名古屋弁の何某とは時代背景がまるで違います。 2は科学的思考にどっぷりと慣れ親しんだ現代人の言葉です。 >>人間は直観で世界を把握できないようですから。 などと、皆さん、解決済みと澄ましていませんか、って 解決済みとはまったく思ってませんが、何故人間は言葉でものを定義しなければならないのでしょう。 禅の坊さんでさえものを言葉によって定義するではありませんか。

fishbowl66
質問者

お礼

毎度、御回答有難うございます。 何処かで、言葉の問題と、口を滑らしてしまったのですが、 本意は、 数学で説明できる=数学で出来ている この等記号が言語表現としては比喩だから「是非に及ばず」と。 尤も、言葉も抽象化ですから、漏らすものがありますね、 言葉と数字の比較も面白い検討が出来そうですが、 問題山積み、頭の痛いところです。

noname#30497
noname#30497
回答No.11

1)2)共に比喩的表現であることは当然のこととしましても「書かれた」と「出来ている」とでは、やはり大きな差があるように感じられます。確かに >1)では、自然に対する敬意と謙虚さを保持して いるような印象を受けますし 2)では >断定的な 言い回しであるような印象を受けます。 >数学で理解するのが容易 と言いましても数学が苦手な場合は、この限りではございませんでしょうが、実は、この方面に至って明るいかたに私の或る発言を数式に置き換え分析されたことがあります。 私というヒトの発言を対象に数式化したわけですが、意外と言うべきか、やはりと言うべきか私の心中秘かに限界を感じさせる結果となりました。 と申しますのは、その数式(けっこうな長大さでしたが) によって導かれた結論と私の発言時における正直な感情にハッキリと食い違うものを感じたからです。これを、どう考えたらいいのか…当方も数学はサッパリというクチですので云々するのは憚られるのですが、どうもその、数式によって得られるものと、ナマのニンゲンの発言という個別具体性を持ったものとでは次元が違うような気もするのです。 科学においては捨象というプロセスが殊に重要なことでありましょうし数式においても然りではないかと思っておりますが、このあたりで、どうも「取りこぼし」のようなもの(御質問者様のおことばを借りれば「何かしら、はみ出すもの」)が生じるように思えます。 余談になりますが私の言動に表れる個性の一つとして、相手に変わってもらうのを待つより先に自分側が変化したほうが何しろ手っ取り早いという気持ちが基本的にありまして、普段日常では、あまり自分個人の主張や欲求等を頑として譲らないタイプではないほうです。ですから相手の言動によって、比較的たやすく自分側の方針等を譲歩させることが割に多い。受身に徹しているほどとは到底言えませんし、もちろん限界はある、場合にもよるのですが。 逆に自分側の主張や欲求を変えることが非常に困難なタイプの人の場合、「数で勝負」的発想や行動をとりがちかもしれない。これは所謂いじめっ子的行動原理にも通じているかもしれません。つまり「数(量)を頼む」という発想であるという…。 御質問の的をはずしているかもしれませんので恐縮ですけれども、いずれにせよ捨象、抽象化というプロセスを経なければならないのであれば、それによって大きく得られるものがあると同時に何ものかを取りこぼしてしまう、ということが宿命的について回るのではないかと思います。 そのあたりのことを常に念頭に置いておくということが特に科学分野における学問的考察また人間観察を行ううえでの謙虚さでもあろうかと。 言ってしまえば「数学」にせよ「書物」にせよ、それらはヒトの手になるものであり、突き詰めれば自然が産み落としたものであるということになります。偉大なる自然をヒトの理解可能なものにしてくれるが飽くまで部分的、限定的という条件付きではないでしょうか。少なくとも現時点において、そうでしょう。 心理学方面でも大いに言えることではないかと思うのですが、数値によって測れることがあっても決して万能万全なものでない、ナマの人間観察に習熟していない人が数値に頼ることの危うさを感じることもあります。わざわざ数式化を行わずとも理解の鍵は案外、自分の足元に転がっているものかもしれません。 この程度しかお答えできませんが僅かでも御考察の足しにしていただければ幸いです。

fishbowl66
質問者

お礼

初めまして、ご回答有難うございます。 当初、不思議なご回答とあれこれ考えているうちに、 御礼が大変遅くなり、失礼致しました。 どうやら、自然を広義に解釈して、人々の行為などを自然の内として、 それらの行動を、数学で理解する統計的な部分を含まれた御回答かと、 ここでは、もれる部分は狭義の自然よりはるかに重要かもしれません。 ただ、此方には、主観と客観と言う秤がありますから、 狭義の自然のように、数量化の問題点は、比較的解り易いのでは。 「狂人より、一見、筋の通った様な説明の方が、よほど危険」 ただし、この危険度では、広義の自然が圧倒的に恐ろしい。 要するに自然を観察して上手く言った手法を、広義の自然にも当て嵌めたのでしょうが、この両者が漏らすものについての比較も検討の手がかりになりそうですね、足元に有ればよいのですが。 思わず足元を見る。

noname#31811
noname#31811
回答No.10

どうも難解なお礼文ありがとうございます。 明晰判明な表象が数学ということですよね。 結局、存在者とは何か、という問いは実体とは何かという問いなんですね。 しかし世界は表象であって実体は認識不可能だから函数関係に解消して理解する方法がない。 人間は直観で世界を把握できないようですから。

fishbowl66
質問者

お礼

>人間は直観で世界を把握できないようですから。 などと、皆さん、解決済みと澄ましていませんか、って。 例えば、2)は間違いらしい。 なのに、1)は、どうやら成立するらしい。 で、そこには抽象化があって、もれるものもある。 そうなんでしょうね。 すると、数字の[1]は、量なのか質なのか。 頭の中に、山手線がぐるぐる廻っています、 こんな日は、外に出かけよう。有難うございました。

回答No.9

こんばんは、fishbowl66さん。 ANo.4へのお礼を読みました。なんか、お気遣いいただいているような…気ぃーつかわんといて下さい、littlekissにおいては。返事があろうがなかろうが気い悪うにはしやしませんて。逆に返事返さな返さなと、気いもまれて急いて具合悪されても困ります。かえって気い遣わせたみたいな格好になってごめんやで。 ところで、横浜の観光案内を持って東京見物ですか? ガグッ=☆ ズッコケてどうする!!! あっ?!コレ、お約束? < 吉本新喜劇かぁー ほでは、ぼつぼつ石橋を叩いて…いや叩き割らない程度にこのお話つづけます。よろしく。しかし、ヤバいです。1)と2)をみてますと…ぽわぽわぽわとゲシュタルトあらわる。『自然』が後ろの書物という文字につられて『辞書』とみえてくるから艶めかしい。ひとつ「論理的」とことばを引くと、論理にかなった様とこうでてくる。続いて「論理」を引くと、論証の筋道と。「筋道」と引くと、道理、手続きと。「道理」と引くと、物事がそうあるべき筋道と。「手続き」と引くと、事務上必要な一連の手順。「論証」証拠を示し、正しい論理によって証明すること。山手線ゲームのようにぐるっと一巡、はじめにもどる。こうみると、辞書って言葉の整合性が保たれてるけど、なんか曖昧、化かされてるみたい、くるっとまわるんだもん。辞書は言葉の束の集積。ひとつひとつの言葉を数学という形式を用いることで仕訳し繋ぐ。そうして修められた言葉の束を辞書と呼ぶとすると、1)は辞書ー完成品 2)は辞書の成り立ち筋道手順ープロセスー構造とみることできるんじゃなあかなぁー。 大きく辞書と捉えれば、1)=2) ものとつくりと捉えれば、1)≠2) http://www5b.biglobe.ne.jp/~nitti/kaken/3/affodance.html

fishbowl66
質問者

お礼

littlekissさま、お早うございます。 気を使っているわけではなく、最初の数学が難解。 三角形をひっくり返して悩んでおります。 千代田区、国会議事堂前の早朝。 何とか坂の上から皇居方面、大手町を見下ろし 絶好の喫煙タイム、と、と、上手の方から警察官が接近 下手、正門前の警備車両の脇の警察官もこちらに注視、 やや、右手にライターとタバコを持って、不安がよぎる。 千代田区は路上禁煙という平和な日本の「吉本」でした。 山手線と辞書の言語ゲーム 「私たちには本質的に『象徴作用』が有るのさ」 『象徴作用』という言葉に責任転嫁して 私の思考が止まってしまった様な、 あぁ、また三角形がぐるぐる廻る。

noname#31811
noname#31811
回答No.8

存在形式が書物と数学では違うので、2は不合理です。 あきらかに自然は延長を持つから。

fishbowl66
質問者

お礼

お礼が遅れました。 難解なご回答、有難うございます。 内包とか延長とか外延とか、難しいですね。 難解なお礼。 存在しないものに関して、あれこれ考えたくない、 とすると、現象学でよいのかな、と。

  • moumougoo
  • ベストアンサー率38% (35/90)
回答No.7

自然を数学で語ることの有益性は認識の象徴形式であるとは思います。ただし、数学は内在的に人間の認識を超えた演繹性を有しており、数学的に「・・・でなければならない」という理由でいろいろ未知の自然現象がわかったりします。 たとえば、数学で物質の運動が記述できれば、その空間のなかにいながらにして、空間の曲がり具合を知ることができたり、100年前は電子と陽子しか知られていなかった(つまり、人間は自分の体重の半分がなにで出来ているのか知らなかったわけです)それが実験ではなく、理論的に予言され確かめられたりしたわけです。 私たちは自分の認識した経験のない事柄を、認識するための道具として、なんでも埋め込んでしまえる数学という装置を使います。数学はその埋め込まれた認識のかけらを純化して新たな関係を浮き彫りにし、私たちは、その事柄を(数学的に)認識できるようになります。それゆえ数学とは認識そのものであり、その一方で私たちの認識の範囲を広げてくれます。そしてどうやら、私たちがそういう営みで「わかった」と思った瞬間に、いつも私たちの知らない認識すべきものの影がちらつくようです。つまり、数学は自然のように豊かであり(つまり、数学に自然を埋め込もうとすると記述できる範囲で出来る)、自然は数学に映し出される構造をいつもはみ出しつづける、といったところでしょうか? 「物質の性質そのものへのアプローチ」は性質そのものを数学に埋め込めばよいわけです。究極的には物質を構成する粒子の運動を記述すれば、性質そのものを記述できますし、性質そのものに着目して、たとえば光の反射具合も、人体への影響も、それぞれのレベルで数学に埋め込んで、反射率や生理反応としてあらわせばよいのではないでしょうか?

fishbowl66
質問者

お礼

再度のご回答有難うございます。 物分りの悪い、質問者てご迷惑をお掛けします。 いつも思うことなのですが、 どんな学問もある意味限定して、考察しますから 何かしら、はみ出すものがあるんですよね。 雰囲気として、それで仕方が無い、という事でしょうか。 1)と2)の関係は国語の問題みたいですね。 問題は、最後の、質を量に還元出来てしまうのか、 それともここでも、はみ出すものが出てくるのか、 最近は、「差異のみが存在する」と言った哲学が もう一つ理解できずに、困っております。 御礼が遅くなりまして、申し訳ありません。

  • spitzer3
  • ベストアンサー率9% (3/32)
回答No.6

>>ANo.3 お礼 >数学は人間が作ったもの、発見したもの、どっちなんだろう。  数学って、世界の規則を人間が表した学問ですよね。そうすると、世界の規則は人間が発見したもので、数学は、人間が作りだしたものということになるんだと思いますよ。  また、世界の規則というのは、人間が便利になるように考察したり、ただ興味本位に世界の規則だと言って喜んでいるだけだと思いますんで、完璧に、それが存在しているかどうかは分からないと思います。 >度を過ごすと嫌われてしまう、今回セーフ?アウト? まあ、話していけるんで、セーフっぽいですね。本当に嫌いだったら、話しませんから。

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 我侭な道草にお付き合いを頂き有難うございます。 結局、私も今回は存在のことか良く解らないようで。 そこでガリレオの言葉が引っかかったのでしょうか。 現象学の判断中止とか、物自体とか、 存在そのものが、最近、おざなり状態のような気がします。 お礼が遅れて、失礼しました。

  • moumougoo
  • ベストアンサー率38% (35/90)
回答No.5

数学ぽく描いてみます。 世界Wがあって、世界Wを数学Mに対応させる写像Fがあって、世界Wの要素全てをMの要素にに対応させることができる。このとき、要素とは、それを構成するものだけでなく、構成するものの間の関係も対応させることができる。これが(1)「自然は数学で書かれた偉大な書物である」です。でも、本当は(1-a)といったところでしょうか?理由は以下の通り。 まずはともかく、Wの要素(や関係)wがMの要素(や関係)mに移されるとします。しかし、数学Mはべつに世界ではないので、Wの要素(や関係)xをMの要素(や関係)mに対応づけてもOKです(個別性を持たなくても良い)。言葉でも同じで「私はあなたを愛している」という言葉で「私」がAさんやBさん、あるいは、私でも良いわけです。つまり、WをFで移したものF(W)は確かにWに含まれるとしたとしても、実はF(W)をもとに戻すと1対1になっていなくて(例えば「私」をAさんやBさんや私に対応させる世界です~パラレルワールド!)、Mでは何かが抽象されてしまうわけです。 これを私たちは「なんか大事なこと忘れてませんか?」というわけです。 ことろが、じゃあ、抽象されないように全ての要素と関係を丸ごと写し取ってしまえばよいではないか!という考え方もあります。「私はあなたを愛している」というのは失格で、「AさんはXさんを愛している」「BさんはYさんを愛している」「私はZさんを愛している」という言葉が正しいわけです。つまり、数学Mに世界Wを写像Fで埋めこんだものと、世界Wが1対1の関係で結ばれるわけです。これが(1-b)になるでしょう。でも、そんなの人間わざとは思えないし、なんか危うさを感じます。 さて、(2)は「自然は数学で出来ている」がや、といっているので(1-b)との対応関係にあるかと思いますが、(1-a)とは別物です。この辺りが、つまり、できるんだかできないんだか危うい1対1対応のありなしが、誤謬の香りがする原因ではないでしょうか? 数学で理解するのが容易な理由は、数学がわれわれが「理解した!感動した!」という感覚をえることのできる関係性を記述する学であるためではないでしょうか? でも私は思うのです。私がもっとも理解したいと思い、感動したいと思うのは、「物語」なのではないかと。それゆえ、私にとって、世界は(言葉ではなく、もちろん数学でもなく)「物語」により語られるべきではないかと。

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 なかなか、読み応えのあるご回答です。 ご回答を簡潔に判り易く、曲解して単純化すると、 現象学的に、認識の象徴形式により数学的理解が有益、と。 この曲解には、誤解があるでしょうか。 だとすると、 水一リットルは、一キログラム、 水銀一リットルは、一キログラム×比重、 このような、物質の性質そのものへのアプローチは、 軽視もしくは無視して、現象的レベルで収まりきるでしょうか。 この辺り、少々疑問が沸きます。 勿論、ご回答者様にご指摘頂いたような、構造は確かに有ると納得できますが、 まだまだ、別の理由も有るのかもしれない、などと、考えあぐねています。 大変参考になります、有難うございました。

回答No.4

こんばんは、fishbowll66さん。 ●1)自然は数学で書かれた偉大な書物である ●2)自然は数学で出来ている うへぇーん、泣きはいりそうなお題だこと。情調的な 1)をみてから 2)をみると、ありゃまぁ、ちと無味乾燥?味気ないかなぁと思いもするか?味にたとえると 1)は濃い味 2)は薄い味と。先に濃い味を口にすると、あとから口に入れたのは味もしゃしゃりもないように物足りなさを感じちゃうだろうな。ほでも、まてまて、先に薄味をひと口口へ入れてみなはれ。口の中でそのものの味広がりませんか?飾りがない、ないということはある意味表現の自由が担保されてるとみることはできんやろか?幅がある。限定されてはいない。広がり可能性を含む。 そないこない、思いながらここを眺めてますと…ダッシュとアポストロフィーに思いが飛びます。 類似していることを表すダッシュ。所有をあらわすアポストロフィーs。 【わかる算数 5年生】 【2つの三角形の面積】 http://web2.incl.ne.jp/yaoki/2trisur.htm http://web2.incl.ne.jp/yaoki/a2trisur.htm 【第73号第95条 錯誤】 http://www.mainiti3-back.com/archives/2005/11/post_80.html 【互助法】 http://www.math.kobe-u.ac.jp/~taka/asir-book-html/main/node42.html 【岡本綺堂 中国怪奇小説集】 http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1301_11897.html 【九鬼周造「いき」の構造】 http://www.su-ki-da.com/aozora/search?query=cache%3Awww.aozora.gr.jp%2Fcards%2F000065%2Ffiles%2F393_1765.html+%BF%E8 【なぜ関数プログラミングは重要か】 http://www.sampou.org/haskell/article/whyfp.html 一文字、一文字、手入力、、、汗かいてます。

fishbowl66
質問者

お礼

つぎに、おなじ年(1504)の晩春に日根野荘で起きた、菖蒲村の検断一件である。同じ村人の米俵を盗もうとして見付かった、正円右馬という百姓は、ほかに盗みの余罪もあるということで、これは村の「寄合」で、あっさり首を切られてしまった。領主もさっそく検断権を発動して、まずは犯人の「検断物」の押収にかかる。・折から一帯は大飢饉にみまわれ、庄内には盗みが頻発していた。・ さらに「跡之田地等作職以下」について領主は、「譜代百姓也、於子孫者、不断失、公事屋等可置」と思案していた、とある。そこへ、「菖蒲村之惣地下」を代表して、番頭の源六宮内がやってきて、いう。 「遺跡事、公事屋条、不可被失哉、然者、彼作職以下、子ハ年少之条、伯父(大屋右近)以下、為惣地下預置、彼之子ヲ可取立之田、望申了、」 犯人の遺跡は村の公事屋なので、作職以下は伯父と「惣地下」で預かり、遺児が成人したら「取立」ててやりたい。・・・ こうして、村側の遺跡取立ての申請が認められ、領主に払う「一献料」は千疋ときまった。さっそく村からは、その一部をもって領主館へ礼にでる。遺跡を売り払えば、三、四千疋余にはなるのにとか、作職はぜひ隣の大木村になどと言う声にも、領主はいっさい耳を貸さないが、然るべき額の礼金は、しっかりと取るのである。さらに二十日ほどして、一献料を「皆済」すると、それを機に菖蒲村の村人は、領主に「書下」つまり領主の証明を申請し、菖蒲村あてに、つぎのような奉書(家来の発行する証書)を交付してもらった。 正円右馬遺跡田畠等事、一紙注進被、御覧畢、爰子就小年、可成人之間、伯父以下為惣地下預申、勤御公事、可致其役之田、申請条、被聞食之田、仰出者也、仍状如件、・ 父が盗人の咎で処刑されたあと、遺された上の女児は十二歳、下の男児は六歳であった。だから、伯父や惣地下による田畠の耕作と公事の肩替りは、おそらくその男児の成人まで、十年ほどにもわたることになる。・ なお、この「遺跡」はその後、惣衆も大屋右近(伯父)もともに知らぬうちに、村の番頭の源六宮内が独り占めしていたことが露顕し、大きな騒ぎになる。村の遺跡取立てといっても、それが現実の姿で、実現には多くの困難が伴っていた。(「村と領主の戦国世界」藤木久志) その上、今月のお絵描きは、三点。自転車散歩一日。 連休後半を活用したとは言え、何しろ、忙しかったのです。

fishbowl66
質問者

補足

浮世の義理ごとと読書を楽しんでいましたが、最近 そこへお絵描きが加わり、なかなかどうして、忙しい振りが身に付きました。 読書やお酒は、眠たくなるのですが、 お絵描きは、いつの間にやら二時間と、きりがありません。 月曜の朝は寝坊をし、思ったより眼が疲れている。 そんな訳で、ご紹介頂いたページがなかなか、 なんとか読み終えてから、御礼をします、御礼飛ばしと誤解されないように 補足しておきます。 PS折角の前島密、横浜の観光案内を持って東京見物、お馬鹿さんでした。

  • spitzer3
  • ベストアンサー率9% (3/32)
回答No.3

>>ANo.1 お礼 >確率も数学じゃないの、と言いたい所ですが、数学音痴、どうなんだろう。  いちよ確率も数学でしょ。だって、数学の授業でならったんですから。そんな定義でいいと思うんですが。    また、数学にしろ、確率にしろ、これが本当の真理かどうかっていうのは微妙だと思います。何せ人間の作ったものですから。  人間の発見した真理というのは、ただ人間にとって、便利な法則というような感じか、そう信じているだけだと思います。

fishbowl66
質問者

お礼

>確率も数学でしょ。だって、数学の授業でならったんですから。 もしもし、声が大きいです。 この辺りは、あまり固いことを言わずに、穏かに(笑。 ところで、変なこと突っ込むみたいで 前言と矛盾していますが(おぃ。 数学は人間が作ったもの、発見したもの、どっちなんだろう。 脱線も楽しめれる範囲内ならいいのですが、 度を過ごすと嫌われてしまう、今回セーフ?アウト? ご回答有難うございました。変なお礼しか思い浮かばずゴメンナサイ

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  • ほにゃらか形而左右学 影

    毎度、お騒がせいたします、影だけ屋がお邪魔します。 かげ屋~かげだけ~♪ かげ屋~かげだけ~♪・・・ えへん、こんこん、調子が悪いですね。ほにゃらかに行きましょう。 「影を売った男」確か、悪魔に影を売るんでしたね、結局、良い事はなかった。 天使に売っておけば、良いこと有るのかな、とも思いますが、それはさておき。 影というと、表と裏の二元論的な一面ですが 木陰と物陰、守ってくれる陰と、排除する陰。 またまた、二元論に、陥ってしまいますが、さてさて、 われわれの習慣として、この様な分節に親しむ理由もさておき。 影とはなんじゃろうか。 最初は、存在論的に、影は、実在しますか、存在しますか。と問うて見ましょう。 実在 [哲]一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの、またその在り方。 特に、プラトンは感官によって知覚される存在を影にすぎず、その背後のイディアを真の実在と考えた。 アリストテレスを承けて種のような普遍を実在とするアベラールのような考えもある。(以下略、広辞苑) 存在 [哲]実体と属性とに分かれ、前者は基体・本体のようにそれ自体で独立にあるが、後者は前者に付帯して依存的にある。また実体には、自然的・物的なものと、意識的なもの更に超自然的で非感覚的なものとがある。(以下略、広辞苑) 影と陰の国語の講釈も、良ければお願いします。 お礼は遅れがちになりますが、宜しくお願いします。

  • ほにゃらか形而左右学 テレビ

     先日、北朝鮮の砲撃から逃げ惑う韓国の人々のニュース映像を見ながら、こうした映像がテレビを通して、私自身が見ることが出来ることに、違和感を感じました。  まずは、現場にいたら、映像のような客観的な視点はもてずに、映像の中の人々のように、安全な場所を求めて逃げ惑っていて、全く何も観察するような余裕もないし、恐怖や不安の中で、恐らく何がなにやらわからない、音と煙以外何も覚えていないような、経験ではないでしょうか。つまり、テレビを通してみる視点の不可能性のようなものが気になりました。  少し話は変わりますが、最近、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけが話題になって、それに対して明確に回答するのが、なかなか容易ではないし、色々な考え方が有ることから、同様の質問が、繰り返されているようですね。質問者はこの回答には関心ないのですが、なぜこのような質問がでて来るのかについて考えてみました。それがテレビに関係するのではと。それは、現在の日本においては、人の死が、ベールに囲まれた、葬儀として、或いはテレビを通してみる、死者の数、今年一年の自殺者は・・・人、交通事故で・・人の人が死亡、或いは自爆テロで・・人の人が死亡、といった具合です。それに対して、アメリカですら、学校での銃の乱射があり、中東・アフリカは説明する必要もないほど、人の死というものか現実の生活の中に不安を伴って存在しているのではないでしょうか。こうした事から、上記の質問を、死というものの不安を、表層化してしまう、テレビ等の影響が一部にあるのではないかと、推察することが可能ではないでしょうか。  さて、話をもとに戻して、現在、テレビが新しい時代に変わりつつあるとき、テレビの半世紀を振り返って、テレビの功罪について、皆様のご意見をお伺いしたいと思います。果して、テレビは人間を変えたでしょうか。  質問の中心は、テレビの内容(プロパガンダ的なもの)ではなく、ある種の超越的視線を得るという形式的な部分ですが、特に拘りません。年末年始の暇な時間に、ご回答をお寄せ下さい。忙しくてそれどころではない方におかれましては、長々質問しまして申し訳ありません、お仕事頑張ってください。

  • ほにゃらか形而左右学 矛盾

    お世話になります、或いは、お騒がせします。 最近、矛盾という言葉を、彼方此方でよく耳にするのですが、 矛盾について考えてみました。嘘がつけるかどうかと同様 矛盾がそもそも可能であるとはどのような状態なのでしょうか。 そこで、悪しきギリシヤ的二元法、「自然」と「人為」に分けて 自然の中に矛盾はあるだろうか、どうもなさそうな気がする。 そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。 さてさて、自然の中に矛盾を探しにいき、見つからなかったのですが 本当に見つからないのでしょうか。 宜しくお願いします。