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あそびをマジメに哲学すると

chihokoの回答

  • chihoko
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回答No.13

●わたしのスレッドに 書き込みがなくって 退屈なので  こちらにすこし書かせてください。  わたしがfishbowl66さんを どんな方かと想像してみますと  たぶん ちゃんと自分がある方だと思います。  だれでも あるだろうと思うでしょうが こう言う意味なんです。  自分のある方とは ものごころついた時から すでに自分があるんです。  言い換えれば 世界を見切ってしまえてるんですね。知識は知識として  吸収するけれども 決して知識には影響されない芯をもっています。  実は わたしもこの手の人間のひとりです。たぶんfishbowl66さんも  そうだと感じます。この手の人間の優れているところは「あそび」を  ちゃんと心得ているところです。健全な子供のように 喧嘩しても  ケロっと仲直りできるし 今泣いたカラスが笑ったりもします。  健全な子供のように なにがやさしいことなのか なにがいけないことなのか  なにが悲しいことなのか なにがうれしいことなのか  理屈を超えて ちゃんと感覚できるのです。何に於いても 理屈を超えて  ちゃんとただしく感覚できる精神には「あそび」が中庸として在るのです。    そのような観点で 世界を見てみると あらゆることが概念でしばられて  いるという現実に唖然とします。感覚が生かされていないんですね。  これが わたしの恐怖の源であり 悪寒の源だと思います。  概念に洗脳されて こどものころの純真な感覚を失っている方々のあまたなるを  憂いつつ、人気のない夕暮れの小道で ひざを抱くようにしゃがみ  そばに立つ木の幹の太さに そっと性器に手をふれるわたしでした・・・。

noname#15238
質問者

お礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。 暇つぶしとはいえ、このように誉められると、木の上に登って降りられなくなりそうです。 それでも、基本的には仰るような存在で有りたいとは考えています。 しかし、ここまで書いて、この回答自体が「あそび」ではないだろうかという疑問が出てきました、何処までが「あそび」で何処から「真面目」か判らない、正に「あそび」とはなにかを考えさせられる回答でした。

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