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豊臣秀吉の「バテレン追放令第10条」と奴隷貿易をしていたキリシタン大名・天草四郎

kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.8

以前、今回と同じケースで、私の場合は売られた人が信者だったのか、信者ではなかったのか 知りたくて質問しました。 まず、今の倫理観と昔の倫理観は違ったようです。 現在は人権問題があり、人身売買は非道とされていますが、近年までは人ではなく物という考えで取引されていたようです。 戦に負ければ、負けた側は勝った側の奴隷となっていた。 奴隷産業は、大きな利益をもたらしていたようです。 http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html 質問者さんが驚いた理由は、異邦人に愛と救いをもたらすことを神に召命されたはずの神から選ばれたはずの人々が、人を奴隷として売買して金儲けをしていたということですよね。 アメリカが奴隷制を廃止したのが、1965年でそれまで宣教師も奴隷を持っていたそうです。 今の倫理観と違っていたので、愛と救いをもたらすといっている集団であろうが、関係なかったように思います。 確かに宣教師とバテレン商人が、日本の一部の勢力と商売をしていたようですが、彼らに日本人を引き渡していたのは、日本人ですよね。 宣教師が夜中に民家に押し入り、誘拐していたわけじゃなく、日本人の仲買人が民家から買って、バテレン商人に売っていたのだと思います。 仲買人は信者でもなかったと思います。 それを指揮していたのがキリシタン大名だとしても、彼らも日本人。 今の倫理観と違っていたので、宣教師もバテレン商人も日本人仲買人もキリシタン大名も、人を家畜として売ることになんの罪悪感も無かったのだと思います。 秀吉が激怒した理由は、 「検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。」だと思えます。 秀吉は哀れに思ったというより、九州勢力が大量兵器を使って攻めてきて動乱を起こされることを危惧したからだと思います。 秀吉の朝鮮討伐の際に、やはり日本の商人が、多くの朝鮮人をポルトガル商人に売っていたようです。 秀吉自身が指揮していたという痕跡はありませんが。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93 【天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布。十条で日本人奴隷の売買が禁止される。】 つまり日本人が奴隷として売られることは禁止となった。 【慶長元年(1596年)、宣教師側で奴隷の売買が禁止される。】 これに関しては、宣教師がどうして奴隷売買を禁止したのかはわかりません。 悪いことだという認識があったのなら、商人がやっていたことをそれまで黙認しなかったはずです。 >ヨーロッパ各地で50万もいるという。 これは実際数を数えたわけではなく、人からそう聞かされたということですよね。 その情報は奴隷商人からなのか、宣教師からなのかはわかりません。 宣教師が日本人を奴隷として売っていた仲間の商人から、今までどれだけ売ったのか聞いたからなのか わかりません。 50万人。 当時の人口からして数が多すぎます。 宣教師がマージンとして取っていたら、商人が50万人の日本人を売ったといったのなら、いくらキリスト教側にマージンが入ったのか記録に残っているはずですから、実際に数より多い数を言われたのであれば、着服されていたとなり、問題になったと思います。 従って、これは同行していた宣教師側から聞いたのではなく1582年、マカオで風を待っている間に、ポルトガル商人の日本人人身売買の実態をみることになり、そこで現地の業者から聞いたのではないかと思います。 現地の人からすると、中国人も日本人も朝鮮人も区別がつきませんから。 船で仕入れて、何十人 という単位であって、日本人何人、朝鮮人何人 と数えてはいなかったと思えます。 何故歴史の教科書に残さないのかは、日本もやっていたから。 人身売買についての歴史ではなく、異国との関係についての箇所だから。 知りたい人は、もっと詳しく調べれば、何故秀吉はバテレン追放・宣教師の国外追放をやったのだろうと調べていくうち、人身売買に関与していたことがわかると思います。 そしてそれは禁止されないと防げなかった。 不文律ではなく有文書で、日本人の海外への人身売買は禁止です と法律で定めない限り、輸出は続いたんですね。 それでも断続的に明治頃まで続いていたようです。 某宗教団体が人身売買に関与していたことは日本に限らないようです。 http://www.janjan.jp/culture/0510/0510023239/1.php http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2005_doreiboueki.htm 【当時の聖俗の支配権を持っていた教皇アレキサンドル6世らが、神学的に奴隷制度を正当化し、容認したからである。】 どうして今まで信者は疑問に思わなかったのか? どうして信者は奴隷を買っていたのか。 わかりません。 しいて言えば、彼らの信仰する神が心変わりをして、それで今では非道とされる今の価値観と一致することになったのでしょうか。 教皇は神の声を直に聞ける神の代弁者とされている。 声が聞えていなかったのか、神が心変わりをしたのか。 普遍。。。。 普遍というのはコロコロ変わるという意味だったのでしょうか。 人間って本当に悲しい生き物ですね。 なんら動物と勝るところはない。 売る側も金儲けする側もそれを黙認した側も奴隷を買っていた信者も獣。 彼らに救いは無かったからこうなったのでしょうね。 救われるべきは、奴隷として売られた人たちではなかった。 救うとされる人たちが、本当は救われなければならない側だった。 このようなことは 歴史の教科書ではなく倫理の時間にみんなで考えるものだと思います。

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