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「常識」について
「なぜ時間に遅れてはいけないの?」 「なぜ人を殺してはいけないの?」と言っても 「常識だから」としか返ってこないのは納得できません。 「常識」を辞書で調べてみると、 「一般社会人が当然もつとされる知識や判断力」とありました。 常識のラインというものはいまいち定まってない気がしますし、 常識をただ知っているだけということが立派とも思えません。 「常識」が注目されるようになったのも、日本が発展してからだと思います。みんな常識と言われている内容自体を考えもせずに、知ってて当たり前だとか、こうして当然と言うのか理解できません。 常識を押し付ける人は、自分は正しいことをしていて、出来てない奴が悪いというぐらいにしか思ってないような気がしてなりません。 「非常識」=「馬鹿」なんですか? 常識でふんぞり返っている人を見ると悔しくなります。 本当に理解してなくてもすることは、良いことなんですか? それを知るだけでなく理解している人は、ちゃんと常識の説明をする義務があるんじゃないでしょうか?
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「常識」には、「知識としての常識(コモン・ノーレッジ)」と「規範としての常識(コモン・センス)」の二種類があると思います。chaa-taさんのおっしゃっている常識は後者の方だと思うので、その前提で話をさせて頂きます(「なぜ時間に遅れてはいけないの?」「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いに関する「常識」という用法から判断した場合)。 「常識」という言葉を聴くと、ボクはいつも「日本の常識は、世界の非常識」という言葉が浮かびます。したがって、「常識」は国によって、もっと正確に言うと社会によって異なるのです。 常識というのは、罰則の伴う「法律」とは異なり、「こういった行動をとった方がいいですよ」という「行動準則」です。すこし難しい言い方をすると「規範」になるわけです(例「人を殺してはならない」)。その規範は、世の中がスムーズに回るように、人々が行動した上で形成されてきた共通の行動準則なのです。したがって社会が違えば常識も違ってくるわけです。空間的差異のみならず時間的差異もありますから、明治時代の常識と現在の常識は多少変化していることでしょう。したがって、新しい規範が形成されたり古い規範が廃れたりすることもありますので、必ずしも現在の「規範としての常識」が全てだと思う必要はありません。規範としての常識は変化しうるものですから「非常識」=「馬鹿」ではありません。 ボクは常識(規範としての常識)というものは理解する必要は無いと思います。「それは、そういうもの」という様に社会の多数が受け入れて、行動準則にしているわけですから、「社会が円滑に動くように決まっていることなんだ」と見ることも良いでしょう。 ところで、chaa-taさんの言っておられる「常識」は規範の方だと思いますが、後半で「常識でふんぞり返っている人」の「常識」とは「規範」のことなのでしょうか?その常識は、「こんなことも知らないのかよ」と高圧的に言われる「知識としての常識」(例「カラスは黒い」)であれば、「規範としての常識」と話がちがってくるので注意が必要でしょう。
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まず 郷に入っては郷に従え
同じ文化圏の中にあって 判断力のその判断基準はどこにあるか. 屁理屈で人の心は動かない.
- baihu
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#8です。時間が経ちましたがまだ閉じられていないようですので。 > 説明をしてほしいと思うのは、何故か知りたいからというよりは、その人が感じていることとして知りたいから、という感じです。 一般的な問いには一般的な答えが返ってきます。具体的な、思いの込められた問いにはそれなりの答えが返されます。 ご質問の内容は、とても一般的に読めるので、現在の回答のようになっているのだと思いますよ。失礼ながら、質問文から強い意思や感情が読み取れなかったものですから。 そもそも、ご質問者は、どんな意思の下に「なぜ時間に遅れてはいけないの?」「なぜ人を殺してはいけないの?」と問われたのですか。その問いに対する反応として、“常識”が返されてきたのでしょう? “常識”が一方的に飛んできたのではなく。 答えと言うものは、問いの内容で変わってくるものだということを、より念頭に置かれたほうがよいように感じます。 > 「非常識」=「馬鹿」なんですか? > 常識でふんぞり返っている人を見ると悔しくなります。 ご質問の形態を取っていますが、お礼のコメントを含め、chaa-taさんの書かれている内容は、この「悔しい」という点に集約されているようにしか読めません。未だにしっかりとした疑問点が浮き上がってきていないようです。 再度書きますが、常識と言うのは一般的なことです。相手が間違っていると思ったり、自分の考えに対する反論に出会ったなら、常識の入ってこないレベルまで個別具体的な話にしてください。ただし、それをするのは、戦いたいと思った人がやるのです。ご質問の内容ならば、chaa-taさんがそれをするのです。相手に求めるのは筋違いです。なぜなら相手は戦うつもりがないのでしょう? 常識とさえ言えば押さえつけられると思っているのでしょう? 次は、chaa-taさんが正しい質問を相手に突きつける番です。もし反応がない場合は、質問が悪いのです。違うやり方で、質問方法を変えて、何度でも戦ってください。
- tyr134
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前の方の回答で、常識を「知識としての常識」と「規範としての常識」に分け、質問者さまの質問の意図は後者に付いてであると解しました。 以下はその前提に立って、回答を試みたいと思います。 「人を殺してはいけない」「人の物を盗ってはいけない」「嘘をついてはいけない」 これらは倫理学にかかわる問題ですね。 倫理学とは人にとって「正義」とは何か、あるいは「善」とは何か、そしてそれはどのように「判断」されるのかについて考える学問です。 「人を殺したら裁判にかけられ、刑罰をかされる。盗みや詐欺も同じ」 上記は、法律の問題です。 法とは国家による命令・規範です。 国家はそこに住む人々の安全を守る義務があります。 国家は国民を守るために、法律を定め秩序を守ります。 我々は法律に服する代わりに、国家に安全を保証してもらう権利があります。 つまり、国民と国家は義務と権利の「契約」関係に基づいています。 しかし、「法」が命じるのを良いことに国家が国民を搾取する恐れがあります。 それをさせないためには、「法」には「善」であることが求められます。 そして、この「善」とは何かを判断するのが「政治哲学」と言えるでしょう。 「人を殺したら裁判にかけられ、刑罰をかされる。盗みや詐欺も同じ」と言う法律は、罪を犯した人罰すると言うのが建前ですが、本音は秩序を守る事にあります。 法律が何故復讐殺人を認めていないのでしょうか? それは、国家が変って罪を罰するから復讐殺人をやめさせて「復讐の連鎖」を断ち切るためです。 そして、それによって社会の秩序を守ろうとします。 倫理学は国家から離れ、人が人としての「善」とは何かを追求する学問です。 そして、「善」とされたものが「規範としての常識」と判断できます。 この「善」とは「絶対的に良いといえるもの」です。 絶対的なのですから、そこに疑問を差し挟むことはナンセンスとなります。 しかし、「善」と「善でないもの」の判断基準は思想的・社会的立場等でまだまだ定まっていない。 「人を殺してはいけない」は「善」である事に異論を差し挟む人は少ないでしょう。 しかし、「電車で携帯を使ってはいけない」というのは「善」であるかは賛否両論でしょう。 結論を言えば、「規範の常識」とは人が人として、社会生活を送る上で「善」とは何かを判断する基準と言うことになります。 しかし、思想的・社会的立場の違いから「判断基準」にズレが生じることがあります。 そのズレは、社会によって矯正されることになります。 そして、社会による矯正は集団ですから数が多いことが良いことだとなります。 故に、「一般社会人が当然もつとされる知識や判断力」となります。 >常識を押し付ける人は、自分は正しいことをしていて、出来てない奴が悪いというぐらいにしか思ってないような気がしてなりません。 「常識を押しつける」というのは、思想的・社会的立場によるズレから起こる事のような気がします。 このズレは、先にも示したとおり社会による矯正によって正されるでしょう。 >本当に理解してなくてもすることは、良いことなんですか? 以下は繰り返しになりますが、 「常識的行動をとる」ということは、人として「絶対的な良いこと」を行うことなので、理解している・していないに拘わらず、人として求められることです。 「絶対的」なのですから、そこに疑問を差し挟むことはナンセンスとなります。 しかし、思想的・社会的立場から「倫理的判断」にズレが生じる部分、言い換えればグレーゾーンが存在することになる。 そのズレが表面化したときに、「常識の押しつけ」とも思える場面が生まれる。 しかし、そのズレは社会という集団の中で徐々に矯正されていく。 社会が変ればその矯正結果も変ることになる。 長くなりましたが、参考になれば幸いです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6
- nanashisan_
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何を甘えているのですか? >常識の説明をする義務があるんじゃないでしょうか? そんなもんあるはずありません。 「なぜ人を殺してはいけないの?」に対して「常識だから」と返す人を見たことがありませんが、もしそのように返ってきたのなら、理由を説明するのが面倒だったのでしょう。普通はわかっていることですから。
- frau
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私は「常識」という言葉から「ステレオタイプ」「慣習」を連想します。 チュリエルという心理学者は「道徳と慣習の違い」を以下のように挙げています。 【一般化可能性】 「道徳」⇒どんな社会集団にも適用され、変わることはない 「慣習」⇒特定の集団にだけ適用され、集団によって変わることがある。 【規則随伴性】 「道徳」⇒道徳的違反は、たとえ規則がなくても悪いことである 「慣習」⇒慣習的違反は、規則がなければ悪いことではない 【文脈性】 「道徳」⇒文化に普遍的で絶対的 「慣習」⇒社会的な文脈に相対的 【規則可変性】 「道徳」⇒変えられない 「慣習」⇒集団の成員の合意により、変えることができる 【権威依存性】 「道徳」⇒権威者の強制力は弱く、小さい 「慣習」⇒規則の施行については、権威者の力が強く、大きい このように5つのタイプに分けられますが、慣習の体現者が自省するところに道徳が生じるのではないでしょうか? その「道徳」もかなり個人差があるわけです。そして己に問われる普遍の宿題でもあります。でもそれが哲学に収束され、さらに普遍へと透明度を増すのではないかと考えます。 ご質問者様のAno.1へのお礼の 「してはいけないから、しない。ただそれだけの理由で、自分は正しいことをしていると思っている人が、常識人だと褒められているのは何か違うと思ったんです。」 というところに感銘を受けました。 そのように常識について深く考える姿勢こそ、よい非常識(?)だと思いました。 >常識でふんぞり返っている人を見ると悔しくなります。 これはステレオタイプの方なのではないですか?いわゆる「印籠」のようなもので、自分の考えを「常識という他人」のせいやそこから拝借したり口実したりする・・・。 確かに「道徳的な常識」は必要だけれど、物事や人への真剣な思慮深さなしに常識を正論であると世間の代表者のように声高に叫ぶ人(たとえばテレビのコメンテーター)は私も大嫌いです。 例えば何らかの依存(アルコール)で周囲に迷惑をかけるから酒をやめろというのは確かに常識を説いているのかもしれないが、なぜ依存症になったのか、理解や共感を込めていなければ、依存者にしてみれば彼は心の病をわかってくれない非常識な人となる。世間の常識が圧倒的であれば、いくら真理がそこにあろうと、非常識(道徳的な常識への未知数)常識(切り捨てた方がよい慣習)に凌駕されてしまう。 また「頑張って」という一言は一般的な社交辞令的な言葉ですが、例えば今のご時世、鬱病はめずらしくなくなり、その一言を患者に言うのはタブー(非常識)となっています。となると社交辞令としての「常識」は時と場合によって「非常識」となります。なので「>常識をただ知っているだけということが立派とも思えません」と確かにそうなります。何でもそうですが、常識も非常識も紙一重なのです。 一昔前でいえば「姦通罪」は男女差別以外の何ものでもありませんでした。 >なぜ人を殺してはいけないの? 戦中は人を殺せば殺すほど名誉なことでした。これは上の「慣習」が転じて時代という時間の大河を経て、人の良心や悔恨、英知によって道徳に昇華した最大規模のものでしょう。もっともイラク介入中のアメリカでは未だにベトナム戦争からまったく何も学んでいませんけれどね。(やはり歴史は繰り返す?) よって「常識」は未知数の段階にあるのです。「普遍」は最大公約数を経てさらに抽出されたものにあるものかもしれません。 >「常識」が注目されるようになったのも、日本が発展してからだと思います。 そうでしょうか?今よりも昔の日本の方が不条理な常識で互いに緊縛させていたと思います。それは法律的や政治的などより広い社会的に、ですけれど、それに代わって今は「個人の常識」の方がまかり通っていますよね、例えば電車の中で平気で化粧をする女性、タバコのポイ捨て等々・・・。 >みんな常識と言われている内容自体を考えもせずに、知ってて当たり前だとか、こうして当然と言うのか>理解できません。 それよりも昔の方がそれを覆す抵抗力は強かったと思います。革命とか、戦争もそうですよね。今は社会も経済も安定しているせいなのか、政治への不平不満があっても多少のことでは暴動は起きません。(余談ですがフランス在住の岸惠子さんが、日本の政治の情けなさを見るにつけ、日本人は少しは暴動を起こしてもいいんじゃない、と言っていました) 自ら無意識に行っている「常識」すら考えない人が、「非常識」な日本を作ってしまう。 今の世の中、「常識」という漠然としたものを掲げて皆検事になったつもりでいる人たちが多いと思います。主観と客観、事実や証拠を公平に検証する裁判官のような稀有なのかなあと哀しくなります・・・(これは独り言です)。
- baihu
- ベストアンサー率31% (114/357)
「常識で判断する」という言葉が現れるシチュエーションの多くは、話が抽象的な(一般論として扱う)場合ではないでしょうか。「常識的な範囲で判断してよ」などと言われたら、話者は「この問題は、特殊性もなく、マニュアル通りで対応可能」という前提で話しているのです。しかし、個別具体的に詰めてみると、判断の妥当性に疑問が生じることも多々あります。そんな時に打開策となるのは、「このケースの○○という点については~」という具体性です。 ご質問の冒頭にある「なぜ~」は、一般的な話であれば常識であると答えるものかと私は思います。妥当性の上で、それによって生じる“お困り度”を上回る社会的利得が、通常は考えられないからです。より多くの人がより強く困るという意味です。 しかし個別具体的な話になればなるほど、常識は消えてきます。「なぜ私は○○さんを殺してはいけないのか」「なぜ私は明日のあなたとの約束に遅刻してはいけないのか」のように、対象に“顔”がある場合には、もっとはっきりした条件設定があり、より明確な回答が可能だからです。 したがって、「常識だ」とだけ言われ、納得していないのに封じ込められたと感じたなら、対象にもっとズームインしてみて、「こういったケースでも、その常識は通用しますか」という流れにしてみるのが効果的です。 常識の説明を要求されても、一般的な話なので、どの部分に疑問があるのかが分からなければ、とても漠然とした説明しかできません。その上、なによりも面倒です。常識の説明を要求するのなら、どういう点に納得していないかを例示するなり指摘するなりすれば、お互いに建設的な話ができると思います。
お礼
説明をしてほしいと思うのは、何故か知りたいからというよりは、その人が感じていることとして知りたいから、という感じです。 他の回答者さんへのお礼でも述べましたが、自分で感じたことがなくても正論であれば何を通しても良いのだろうかということです。 その人その人によって、いくら常識といえども「絶対」はないはずです。 一人一人が感じていることこそが筋が通っているものだと思ったので、常識としてではなくそれを伝えて欲しいと感じていました。 一般的な常識に関しては、baihuさんのおっしゃることも理解出来ました。 確かに、常識といえばそうなんです。 ただ私が大事だと思ったことというのが、「それが意思であるか」ということだったんです。 ここにきて、常識というものは曖昧で抽象的なものなんだなあと思えるようになってきました。 こう、順を追って説明していただくと非常にわかりやすいので助かりました。 ありがとうございました。
なるほど・・・ 哲学の質問としては、失礼ながらいい質問ですね。 >常識のラインというものはいまいち定まってない気がしますし、 仰るとおり明確なラインはありません。常識とは“多数の認識”に過ぎませんから。 >常識をただ知っているだけということが立派とも思えません。 常識をただ知っているだけということは立派ではありません。また、立派と思う必要もないはずです。 >「常識」が注目されるようになったのも、日本が発展してからだと思います。 注目されているのでしょうか。社会を成り立たせる一応の目安にはなっていますが。社会が広くなるほど常識は影響してきます。 >みんな常識と言われている内容自体を考えもせずに、知ってて当たり前だとか、こうして当然と言うのか理解できません。 おそらく理解できている人は一人もいません。理解すべきことというわけでもないでしょう。認識に過ぎないのだから。 >常識を押し付ける人は、自分は正しいことをしていて、出来てない奴が悪いというぐらいにしか思ってないような気がしてなりません。 >常識でふんぞり返っている人を見ると悔しくなります。 非常識な人ほど常識人を気取ります。しかし常識人は常識人を気取りません。常識人を気取る人は非常識な人です。 また、“常識は人の数ほどある”といいます。つまり常識といっても必ずしも一様ではなく、人それぞれ違ったりします。当然ながら常識が絶対ではありません。ひとつの基準にはなりますが。 常識でふんぞり返っている非常識な人、多いですね。 わかってない人ほど、わかってる気になってます。わかってない人ほど常識で片付けようとします。わかってる人はもっと気の利いた言い方をします。 >本当に理解してなくてもすることは、良いことなんですか? 勘違いしてはならないのは“いいことをする・わるいことをする”と“理解”とは別問題です。理解していようといまいと、イイことをするのはイイ、ワルイことをするのはワルイです。 >それを知るだけでなく理解している人は、ちゃんと常識の説明をする義務があるんじゃないでしょうか? 説明する義務の必要性が述べられていません。なぜ、説明する義務があるのでしょうか?あるとしても理解している人が事実存在するのでしょうか? 余談です。 >「なぜ時間に遅れてはいけないの?」 >「なぜ人を殺してはいけないの?」 答えは“わるいことだから”です。機会があったら、なぜ悪いのか述べましょう。 って、とこです! それではゴキゲンヨウ!!! (^^)v
お礼
No.6さんのお礼に、説明する義務の必要性を述べました。よろしければそちらをご覧頂けたらと思います。 最初の質問のところでちゃんとその意味を伝えそびれていました。 失礼しました。。 常識が「ひとつの基準」「多数の認識」という風に、boronboronさんのようにみんなが「認識」していたらなあ…と思いました。 常識もあれば非常識もあるということを受け入れたくない人が、私の周りにはたくさんいるので。。 でもここで相談して良かったと思います。 >常識をただ知っているだけということは立派ではありません。また、立派と思う必要もないはずです。 このお言葉に、私のモヤモヤを払拭して頂きました。どこかでそう思っていたのに、なぜか自信がもてない自分がいました。 「そういうことだったのか!」って感じです。 まだまだだなあと思いました。。 本当にありがとうございました。
- ravelien
- ベストアンサー率25% (6/24)
引用の順番が支離滅裂になって申し訳ないですが… >ちゃんと常識の説明をする義務があるんじゃないでしょうか? この義務はどこから来ているのでしょう?何に基づいて、義務だと思われたのでしょう?もし、あなたの目の前で、そんな義務はないと説明を拒絶する人がいたら、あなたはその人をきっと、無責任な人だとお考えになるのではないでしょうか? ひとはどこかで、それぞれ自分の基準らしきものを立てていて、それに基づいて行動している。あなたはそのような基準を持っていて、かつ、相手もなんらかの基準を持っているはずという前提にたっているからこそ、きっと説明をお求めになっているのだと思います。 ところで、誰にも会わず、どこへも行かず、いっさい何も行動しない人には行動の規範すらも必要ないでしょう。想像の中でなら、誰をでも殺してよいし、どれだけ遅刻してもよいのです。でも行動する=何らかの意味で社会に関わる場合には別でしょう。相手がいるのですから。 それぞれの規範の輪は少しずつ違うでしょうが、いわばその規範というベン図の重なり合うところ、それがいわゆる常識なのではないでしょうか?だとすると、別に、常識とはいばるべきものではなくて、単なる中庸さにすぎないでしょう。だから、もし、 >常識でふんぞり返っている人 がいるなら、それはむしろ恥ずかしいことだと思います。 最後に、 >「なぜ時間に遅れてはいけないの?」 >「なぜ人を殺してはいけないの?」 この質問を、人に対して問いかける必要はないでしょう。おそらく人それぞれに理由が違うからです。あるいは、その理由をいちばんよく分かっているのは、あなたご自身だろうからです。 本当に支離滅裂ですが、ご参考まで。
お礼
常識の説明をする義務、というのはですね。。 「もし本当に正しいと思っているなら、それが一般的に正しいという理由で押し付けるのでなく、あなた自身が本当に思ったこと・感じたことで説明してください」という意味です。 なぜ説明する義務、と言ったのかというと、やはり説明したり教えたりするのではなく、押し付けることでしか伝える方法を知らない人が多いからです。 押し付けて、さぁお前が悪いんだから理解しろ、というのはあまりにもひどいと私は感じたのです。それが今の常識のあり方だと感じたからです。 いくら相手が悪くとも、言い放って「わかれ・理解しろ」の体勢は努力もしないで自分勝手で、偉そうだと思います。 (勿論聞く側の努力も大事ですが) その人に伝えよう・自分の思っていることをわかってもらおうという気は最初からないんです。 だから常識的でない人の面倒はちゃんと見れずに、常識的な人だけを拾い集めて、ニートも増えたんじゃないかなと思ったこともありました。 ようするに、何かを伝える際に「常識」だけで済ませるのは心がないと感じたんです。 正しいことなんかない。 でも正しいと思うことはある。 だからそれを人に、自分の思った言葉で伝える、というのが「私の中での常識」です。私の基準です。 「常識」ということを抜きにしたら、どれだけそのことについて思いが出てくるか、感じるかは私にはわかりません。 その人それぞれの基準であれば、そこまでは私が捻じ曲げることは出来ません。 そんな風に考えながらみんな常識を大事と思っているのだろうか…というところからこの質問が生まれました。 説明が足りなくて申し訳ありません。。 ご回答ありがとうございました。
世の中には、現実、事実があります。現実、事実は道理、摂理によって生じるものです。これに関しては、何人も逆らうことはできません。 人間は、常識で生きる前に現実、事実で生きています。道理、摂理で生きています。 人間の考えたことは、すべての時と場合において通用するものではありません。それは、自分自身が想定しているなかの時と場合でしかないからです。もしくは、想定しているなかの人格でしかないからです。 世の中には想定しきなかった時と場合、相手、物事の流れ、状況が生じます。その前に「自分が思う」常識など塵くずに過ぎません。痛い意見ですが、これは、私の経験上、事実だと思います。 この事実を前に、自分が「そう思う」、「そうであるべきだと思う」、「そうでなければならない」と考えていると他と衝突が生じます。また、自分自身の言ったことに対しても矛盾が生じます。 chaa-taさんが、生まれ持った性分、育った中で、人間のあるべき姿というがあると思います。そうでない人間に関し、気に入らないという気持ちが生じるのは人間として当然だと思います。 社会一般的、私の中、chaa-taさんの中では、常識を説明することが義務です。しかし、その相手が義務だと思わなければしません。また、義務であっても「面倒」などの気持ちでしないことは、1つの生き方だと思います。それが良いか悪いかは、個人個人が決めることです。 人間は、自分が正しいと思うことは、皆にやらせたいと思うものでしょう。自分自身もそうです。しかし、この世は弱肉強食で力の強い者が弱い者を支配、従わせる、自由を制限することができます。力というのは腕力だけでありません。政治的権限だけでもありません。支配する力のことです。 この支配する力が及び限りにおいて、それを実行している間の中では、自分が正しいと思うことはやらせることができるでしょう。 しかし、この支配する力が及ばない相手や及ばないところでは、やらせることはできません。 >本当に理解してなくてもすることは、良いことなんですか? これによって自分自身が苦しむことになるなら、誰も良いとは思わないでしょう。現実として考えれば、理解していなくい行動を、自分がした場合、自分自身を苦しめることになることはあるでしょう。しかし、そこまで考えて生きるのもの、面倒というか、良い生き方には感じないな~という人は、理解しないで生きるでしょう。 良いか悪いかと言われても、その生き方で「自分は良いですから」となると思います。 >「非常識」=「馬鹿」なんですか? そう思う人もいるだろうし、そう思わない人もいるでしょう。私も思っていた時もありますし、今でも場合によっては思うことがあります。 でも、そんな、人それぞれの価値観に対して、正しいか、正しくないかなど問うのは、どうかなと思います。 何を基準にして正しいか、正しくないか決めているのか解りませんが、人間としてあるべき姿なら、人それぞれなので、決めることは難しいでしょう。それとも一般的に(常識的に)考えて決めますか? 私も、そういう風に考えていた時期がありました。常識を押し付けられると腹が立って腹が立って仕方がなかったです。しかし、それがこの世の現実というものです。その現実を受け入れるか、受け入れないかは人それぞれだと思います。それも人の生き方だと思います。しかし、現実を受け入れて、上手くいろいろと操作していかないと自分が思う以上の結果や状況にはなりません。 ただ、怒るのではなく、この世の現実を受け入れてから、自分が気に入る、気に入らないと考えてはどうでしょうか?そのように考えると、多くの人間は、自分の価値観を中心に生きているのだなと感じるようになります。 以上、参考になれば幸いです。
お礼
私は自分が真剣に思っていることは、人から言われるなり自分で思うなりして自分で間違いだと気づくまでは、間違っているとは思っていません。 でも、間違いだと感じる人はいます。そこまでは良いんですが、そういう人たちの中で「常識」を持ち出して、「だからいけないことなんだ」と言う人がいると、それはちょっと違うぞと思うんですね。 そういった人たちは、地球に正解があって、自分は正解を知っていて、自分は間違いないという確信を持ってとにかく人のことを否定することしかしないでしょう。教えてくれるならまた別なのに。。 私は自分の考えが間違いだと思われることは怖くないんです。 指摘されることも、理由があるなら何でも耳を傾けます(「常識」であろうとも)。 一番怖いのは、その人本人にとっての意味もなく、その考えがあることすら否定されること。 別に人がどんな思想を持っていてもそれこそ自由だと思うから、自分も他人も何を思っていてもそれ自体は間違いではないはずです。 shoujin24tさんも似たような経験をされたのでしょうか。 最後のお言葉は、最初の質問からさらに発展したご回答と感じたので嬉しく思いました。 こんな私が、じゃあどうするかということまでを考えていただいてありがとうございました。
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お礼
返事が遅くなってしまって申し訳ありません。 今回の疑問ではまさしく「規範としての常識」の方になります。 的確な回答を下さってありがとうございました。 「日本の常識は、世界の非常識」…この言葉を見て、なんだか肩の力が抜けた感じがしました。とても良い言葉だと思います。 まだ日本しかちゃんと知らないもので、日本がすべてだと思っていました。日本にいる間はそうする方がよくても、そう思っていたのは恥ずかしいことだと思いました。 ありがとうございました。