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自殺
人はなぜ自殺をするのでしょうか。 いじめによる自殺、経営者、指導者による自殺、失恋による自殺、経済苦による自殺、高齢者の孤独に依る自殺、病気を苦にした自殺等、その原因は様々です。 自殺の無い社会を築く事は出来ないのでしょうか? なぜ誰にも相談することなく自殺していくのでしょうか? 人間は本来孤独なのでしょうか? 社会とか、家族とか、仲間とかの絆はそんなに役に立たないものなのでしょうか? 自殺のメカニズムが分かりません。
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自殺を考えたことは数え切れないほどあります。 何故そう思うのか。世界の全てに価値が感じられないからです。生きていて何になるのか。どんなに懸命に勉強し、仕事をし、税を納め続けたところで死んでしまえばそれまで。そして、そうした考えしか浮かばない自分には何の価値も意味もない。ただ無駄に酸素を吸い、二酸化炭素を増やしているだけ。私の場合はいじめが主な原因でしたね。どこにもない居場所。明日がくることが本当に嫌で苦痛で、嫌だ嫌だと思えば思うほど体調にも悪影響がおよびました。私はただでさえ体が弱かったので、マイナス思考のせいで余計に体調が悪化しあまり学校には通えず、健康な子たちよりも人と接する時間が少なかったのです。そのせいでしょうか、人と話すことが怖かったですね。それにひどく冷めた人間だったので、どうせ誰かに話したところで何にもなりはしないだろうとあきらめていました。実際、担任の教師がいる前で私がいじめられていても教師は見てみぬふりでしたし、クラス内の誰かが声をかけてくれるということもありませんでした。 今は死にたいなんて思いませんよ。むしろ、今死んでしまっては困ります。まだまだやりたいことはたくさんありますし。 私が変われたのは、はじめてできた友人のおかげだと思います。その子も私と同じようにいじめられていました。その子と同じクラスになって、お互い余り者どうしだったので、自然にくっついたという感じで、いつしか私とその子はよく一緒にいるようになりました。それでもいじめは続きました。そしてある日、私はこう思ったんです。 「自分はいじめられてもいい。せめてこの子だけは泣かないでいてほしい」 それからですね。私はまるで別人のようになりました。いじめっ子たちがどれだけ大勢で来ようと、私はその子を守るために出来うる限り反抗しました。元来泣き虫なのですが、それを押し殺して。本当に、あの頃から私の人格は激変しました。今でもつい泣いてしまうことはありますがそれでもその回数はめっきり減りましたし、言いたいことはしっかり言えるようになりましたし、何より友達がたくさんできました。ずっと孤独だった昔が嘘のように。いつのまにか私の自殺願望は薄まり消えていきました。それはやはり、はじめての友人と出会えたことによりもたらされたものだと思います。 かつての私は、おそらく死に依存していたのだと思います。死は生からの、苦痛からの解放であると。死ねば楽になれる、周りの人間も私がいないほうが幸せ。そう思っていた頃でも、死ぬことが怖くなかった訳ではありませんでした。恐れているのは生と死の狭間にある、今まさに死に逝こうという状態、つまり死にかけている時なのだと思います。現在の私は、この狭間を恐ろしいと感じることができます。しかしかつてはそうではありませんでした。狭間を感じることなく、一足飛びにその後ろにある死にあこがれていたのです。 自殺が復讐であるか否か。それは個々人によって異なると思います。私の場合は復讐であるというよりも、消えてしまいたいという願いだったのだと思います。復讐しようという気力すらも失ってしまっていましたから。 自殺のない社会を築くというのは、可能性としてありえないことではありませんが、とても難しいことでしょう。特に現在、自殺ブームのようなものが巻き起こってしまっていますし…。絆は尊いものであり、人間を救う力を充分に有していると思います。しかし実際に自殺を考えるまでに追い込まれたとき、そんなものは信じられなくなってしまうのです。目に見えるものでさえ信じられなくなっているというのに、ましてや目に見えない絆を信じることなどできないでしょう。 目に見えないものは、自分自身で気づかない限り感じることはできません。ですから自殺を望む人たちの死を少しでも先延ばしにして、彼らが目に見えないものを感じられるようになるようになるための猶予時間を与えてあげることが必要なのではないかと思います。積極的解決法では決してありませんが…。
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- nanana8623
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こんにちは 自殺のない社会は無理だと思います。ただ減少させる 方向へは持っていけそうな気はします。 ヤミ金業者の脅しに困っている、いじめで子供が明らかに ボコボコにされてるのに警察がすぐ動かないようじゃ そりゃ絶望的になって死にたくもなります。 自殺者の中に他人に相談しないのは、すごく自分の 中だけに抱えてしまう性格の人(身内や他人に迷惑をかけたくない) だと思います。他の自殺者の中には生活保護を相談に 行ったのに冷たくあしらわれた等、相談機関の配慮の 無さに問題があるのではないでしょうか? 家族、仲間の絆も精神的に救われる面はあるかもしれません。 しかし実際問題で経営に失敗して多額の借金を作った場合 仲間は無条件で1千万も2千万円も出してくれますか? ヤミ金業者と戦ってくれますか? 家族だって現実的に助けられる限界はあります。 よくTVのコメントで「何故周りがもっと動かなかったのか?」 といいますが、私は「貴方がその立場で助けられたんですか?」 って聞きたいです。現実というのは見る、聞く事よりも 残酷で、それを克服できる強さのある人、無理だと挫折 する人、いろいろです。 思うに自殺者をタダの弱い奴なんて軽く吐く人ほどそういう 立場になると死んじゃうのかも。実際その立場にならないと 理解は出来ません。でもその立場の人をわかろうとする 気持ちは大切だと思います。そういう人が増えれば自殺 しなくても思いとどまろうとしてくれる人も増えると 思うのですが、安易でしょうか。私も100%はわかりません。
お礼
>「ヤミ金業者」について 今は、昔と違って社会の関心も高まり、弁護士及び警察等の介入でかなり早期に解決する傾向にあると思います。弁護士費用についても相談に乗ってくれます。 >「相談機関の配慮のなさ・・・」 特に役所関係は、まだこの傾向が強いよいです。主義主張は別にして思い切って地域の政党事務所に相談に行くと結構頑張ってくれます。 >「家族が助けられる限界」について 会社倒産のような場合、その負担を家族が負うのは到底無理ですから、破産手続きのような法的手段に訴えて、家族を犠牲にしない方策を考えていくしかないのではないでしょうか。 窮地に立たされた人は、自殺を選ぶまで、いろいろな試行錯誤を繰り返し、相当強靭な心を持っている人でも、耐えかねるということはしばしばあります。ですから、自殺する人が弱い人とは到底思えません。周りの人が気がついたら、自分にできる事と他人に頼めばできる事の区別を判断して、早く手を差し伸べる等の行動に移す事が大事かと思います。 数々の貴重なご意見ありがとう御座いました。
- arbol
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人はなぜ自殺をするのか私も考えますし、どうしたらなくせるのかと思います。 自殺にはいくつか種類があると思います。 前の方が言ってたような作家の自殺のようなケースは、ある意味主体的な自殺だと思います。人生を主体的に生きている人が人生を悲観してか希望を失って、そのうえで主体的に自殺を決断しているのだと思います。 いじめでの自殺のようなケースはこの逆で身近な人間に攻撃され追い詰められて自殺しています。この場合はある意味、殺された、という状況に近いのだと思います。本人は本当は周りと仲良く楽しく生きたいと思っているみたいですし、遺書の中にはたいてい家族には謝罪の言葉が書かれていることがあります。 主体的に自殺するのか受身的にするのか、これは分けて考えるべきだと思います。主体的に自殺するのはある意味どうしようもないです。本人が望んで納得した上での決断なのですから。それをやめさせるにはある意味その人の人生を否定しなければなりません。たとえば三島由紀夫を説得することは容易ではありません。 いじめや社会的なプレッシャーに耐えられずに自殺する人は我々が何とか助けなければならないと思います。子供の場合は育った環境によることが大きいと思いますが、思考を親や学校や社会の風潮に乗っ取られて、自分の人生を自分で生きさせてもらえなかったのではと思います。主体性を奪われ、自分を受け入れてもらいたいがために、まわりが求める自分に必死でなろうとして、自分というものが消滅してしまって思考停止状態にいるのでしょう。集団の思考に個人の思考を合わせる必要はないということをもっと自覚、認識できるといいと思います。自分の人生のありとあらゆる決断をする主体は自分なのだという当たり前の認識を子供にさせるべきです。それができれば命を大切にしましょうなどという必要はないです。本来子供ほど生命力にあふれた存在はないはずです。子供の場合主体的に自殺するケースなんてほとんどないのではないでしょうか。
補足
>自分の人生のありとあらゆる決断をする主体は自分なのだという当たり前の認識 子供の場合、人格形成の途上にあり、主体性の確立はまだ未達の状態にあるので、このような認識のレベルに到達する事は個人差はあるでしょうが、この辺が今後の課題でしょう。いずれにしても、主体性のある子供を育てるという指摘は鋭い指摘だと思います。 >主体的な自殺 三島由紀夫の例を挙げてましたが、三島の場合は「自殺」というより、「自決」に近いのではないでしょうか。極めて政治的、社会的アピールを伴った「自殺」だったと個人的には思います。最近では江藤淳の「自殺」が主体的な自殺の好例かと思います。 なお、三島由紀夫の自殺については、別のカテゴリーで詳しく問題提起をするつもりでいます。
- tyr134
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ANo.6です。 補足しますね。 >死が希望? >よく理解が出来ません。 それは、貴方がまだ「生」に対して「絶望」していないからです。 自殺する人の多くは、「生」に対して「絶望」するのです。 その時に、にわかに現実を帯びて見えてくるのが「死」です。 そして、「生」に「絶望」している人は、「死」が「希望」に見えることがあるのです。 自殺者にとっての希望は、「今(生きること)の苦しみから逃れること」なので、「死後の世界」については余り注意を払ってないのでしょうね。 >私は自分で自分の命を絶つなんて、怖くて出来ません。 >こんなに怖いなら、生きていた方が楽です。 これが通常の人の状態でしょうね。 しかし、「生」に「絶望」した人は「死」が「希望」に見えてくるのです。 「自殺者」の心理を、質問者さまのお言葉をお借りしていうなら、 「私は生きていくなんて怖くて出来ません。 こんなに怖いなら、死んだ方が楽です。」 となりましょうか。 前の方の回答で、「自殺は悩みが浅い人・行動力がある人がする」と書いておられましたが、この論理は私の考えと近いですね。 「死」が目の前に現れたとき、「考える人」は「死後の世界」にも思いを馳せます。 つまり、「天国は本当にあるか」や「地獄にいったらどうしよう」と言ったことです。 そして、一つの結論に行き着きます。 「死後の世界へは一方通行で、分からない世界だ」 これを、「怖い・恐ろしい」と感じ「分からない世界に飛び込むよりも、苦しみに満ちたこの世界にいた方が楽なのではないか」という結論に達すれば、「自殺すること」は避けられるでしょう。 しかし、「生も苦しみに満ち、逃げたい、でも死ぬのも怖い」となります。 「生きたくない」と「死にたくない」の間で行ったり来たりします。 この状態は「生きることもできず、されど死ぬことも出来ない」状態となり「真の絶望」に至ります。 つまり、「生」にも「絶望」し「死」にも「絶望」した状態です。 これ以上は「絶望論」となり少し質問内容とはズレますので、書きませんが、「真の絶望」を説明しなければ「死が希望になる」という論理は理解出来ないと思い補足させてもらいました。 つまり、「生きる苦しみから逃れたい」という「希望」を叶えるのが「死」な訳です。 >「外向きの人」とは、具体的にどのような人を言うのですか? #14さんの考えと違うかもしれませんが、私なりの解釈をしてみます。 「絶望」に至る人は「考える人」が多いという説もあります。 「考える人=頭のいい人」ではなく、「考える人=内向きの人」と言い換える方がいいでしょうか。 周りのことには目がいかず、何事も(どんなに悩んで苦しもうとも)自分の内で解決しようとする人です。 また、「自己愛」が強い人でもあるでしょう。 逆に「外向きの人」は何かに突き当たったときに自分の内で解決しようとはしません。 誰かに相談する人もいるでしょうが、多くの人は「他の事に注意を向けて、悩みから逃げる」のです。 「悩みから逃げられる」のですから、「死」が「希望」に見えてくる事はありません。だから、「自殺」もしません。 夜回り先生として有名な水谷先生が、「死にたい」と行ってきた相談者に必ず言う言葉があるそうです。 それは、「誰かに優しさを配ろう、家のお手伝いでもいいからやってごらん」です。 これは、相談者の意識を「外向き」にすることで「死に至る事を防いでいる」と考えられます。そして、とても有効なんだそうです。 最初は暗かった相談者が、徐々に明るくなりアルバイトまで出来るようになる。その瞬間が嬉しいと語っておられました。
お礼
貴方が仰るように、私にとって「絶望」は遠い存在です。 毎日、「生きる」事を楽しく感じます。 >「絶望」に至る人=考える=内向きの人=自分の内で解決=未解決=「絶望」=自殺 以上のようなメカニズムでしょうか。 私なりの考えでは、外向きの人も考えますが、未解決の場合、解決の為にあらゆる手段を使います。それでも解決しない場合は、絶望するのではなく、二次的解決、三次的解決等、解決の満足度は低下しますが、ある一定の区切りをつけます。そういう意味で、「死に至る事を防いでいる」かもしれません。 大変為なるアドバイス、ありがとうございました。
- ri-zyu
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人はなぜ自殺をするのでしょうか。→悲しいから人間はそう言うふうに今の所、進化していたのではないでしょうか(退化かも判りませんが) 人間は理想と現実の開きで苦悶しますが(行き詰まる)人間は本来そう出来ていると、禅の本で読んだ事が有りますが、気持ちが外向きの人はのん気ですから行き詰まりかけても外に常に気持ちが行き、生活しますから何時のまにやらスット抜ける、人間とは行き詰まる様に出来ていますから内向きの人は行き詰まると分別で・頭の中で解決しょうとします解決できないものを解決しようとしますから、うつ状態に成るそしてうつ状態が酷くなると死に対する恐怖心が消える、でないと、まともな精神状態では怖くて自殺など出来ません。 ですから人間は苦悶するものだ(行き詰まるもの)悟、行き詰っても生活さえしていれば苦悶からは抜け出せると思います、自殺はしない。 私は禅の専門化でなんでもないですが、禅問答はよく分からないと言いますが、最近、人工的に苦悶するように考案を出すのではと思い始めました(解けない問題を分別・考えますと苦悶します。 本来人間は内向きに分別・考えを使うのでなく外向きに分別・考えを使うようにすれば自殺はなくなると思います。 人間の分別を内に使えば苦悶すると悩むものと悟、分別は外に使うと悟れば自殺はなくなるのではないでしょうか。 たとえば行き詰ったどうしよう、答えが無いうん~だとうつ状態が酷くなります、取り合えづ生活をしていれば心は禅でいう捕らえどころの無いもの、雲のように自分の意思と関係なく変わっていきますから、真宗で言う他力本願(これは心が他力ですが・人間は自分の心を自分でコントロールできると思っていますが、そうでないことに気づきます) 結局、自殺はの人間の心と本質を見極めれば無くなるのではないでしょうか。
補足
>気持ちが外向きの人はのん気 「外向きの人」とは、具体的にどのような人を言うのですか?
- fuckin-lovegun
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こんにちは。 自殺のメカニズムがなんであるかは私にも分からない。 太宰治は『人間失格』を残し心中自殺をした。 この作品は彼の私小説であったので, 私はもしかするとこの作中から自殺というものへの心理や, 彼を自殺に追いやった気持ちや考えを読み解けるのではないかと思い, 読んでみた。 しかし,彼を自殺へ追いやった気持ちの対象がなんなのかすら分からない。 私は唯々作品の,文脈の素晴らしさに感嘆するだけであった。 私は,どのケースに於いての自殺にしろそれは良いものであるとは思えない。 当然であるといわれるだろうか。 しかし悪いものとも言えない。 自殺とは人間の行動において一番安易な手段である。 人間はみんないつもそのスイッチを握り締めていて, 目の前に困難や戸惑いが打ち寄せた時, そのスイッチを使おうかと考える。 そしてその困難が大きかれ小さかれ, 押す人によっては押してしまう。 そんな万人が行いうる手法をとってなんになりますか? こういうときっと「お前は私に比べ幸せな過去と幸せな現在, 幸せな未来があるものな」と言うであろう。 でも本当にそうでしょうか? 幸せは君をベースにあるんじゃない。 一人一人の中にあって人と比べちゃいけない。 くらべるのなら私はみんなより幸せなんだって思えないのか。 そんな考え方はできないんだろうなぁ。 きっとこの問題は親にあるんだ。 殺人やその他の事件にしてもそうだ。 人生を良い方向に爆発させる考え方を子に教えてきていない。 いや,教えるのではなくそう育てるというか。 これは大人になって自殺をしたものにも言えるのである。 大人だから自己責任だなんていうけれど, それはどうか? 親がオオカミなら子は大人になったらオオカミになってんだから, これはやっぱり親の責任でしょう。 でも, それは第三者が見た意見です。 その人本人が,「親が悪いんだ,何も教えられなかった」なんていっちゃいけない。 人より何かを失ったら,そのとき同時に何かを得ている。 親がいない子はそれがマイナスであるように見えるけども, 十二分に何かプラスをもたらされているだろう。 他人事だから言ってるんじゃなくて, 自分も人とは違ったそういったマイナスを背負ってる。 これはみんなに言えることなんです。 むしろプラス多く背負って育った人は可哀相なやつなんだ。 裕福な家庭や生まれもっての美貌。 逆にこういう奴はその裏側に大きなマイナスがあるってことにさえ気づかない。 自殺なんてそれを知っていればなんてつまらない手段だと思うだろう。 私たちができるとすれば子供に, そういった考え方を自発的に促すように育てることだけであると思う。 メカニズムが問題というより, 一個人の考え方というものが大切なのではないでしょうか。 なんだか回答になっていないかもしれないですが,少しでも参考になれば幸いです^^
補足
>自殺とは人間の行動において一番安易な手段である。 私は自分で自分の命を絶つなんて、怖くて出来ません。 こんなに怖いなら、生きていた方が楽です。 ですから、自殺をする人は、とても覚悟して(恐怖心を超えて)、真剣に人生を生きている人なのではないかと思います。「安易」と言う意味が分かりません。
自殺とは「行動」です。 自殺は、悩みの浅い人、行動力のある人ができます。 心理学的にも、思慮深い人、本当に深い苦しみを知っている人は自殺はできないものです。 例えば鬱病でもがき苦しむ人が、自殺するケースは稀です。 なぜなら、そこまで悩むということは、根底に「よりよく生きたい」という「人生への執着」があるからです。 ですからどんなに死にたくても自殺という実行ができないのです。 逆に、行動力のある典型的な例として、作家というのは自殺する人は多いです。 作家というのは時分の考えや感情を文章に起こすという「行動」ができる人なのです。 ですから割とたやすく「絶望」に至り、そして実行してしまうのです。 最近の学校長や経営者や高齢者の自殺などのニュースを聞くにつけ、そんなに簡単に自分を殺せるものなのかなと思いますが、彼らが思慮浅くすぐに絶望に至ったとしたら、それも納得できることなのです。
お礼
自殺が悩みの浅い人に起こりやすい、と言う指摘には驚きました。 私は、自殺は普通「悩みに悩み貫いた」結果起こるのか、と思いましたが、以前「衝動自殺」と言う言葉も耳にしたこともありますので、このような指摘のケースもあるのかもしれませんね。 アドバイスありがとう御座いました。
- MoulinR539
- ベストアンサー率39% (379/960)
前段についてです。今、耐え切れないほどつらくて、この事態が改善する見込みはないと信じ、そして、他の非常手段で逃げられないとき、ひとは自殺するのだと思います。他の非常手段というのは、麻薬やアルコール依存、凶悪犯罪、発狂など。
お礼
ご指摘の通りかと思います。 鬱病を持った私の知り合いは、一時アルコールに依存していました。 アドバイスありがとう御座います。
人は、「もはや、生きていても仕方ない」と深く思った時に自殺します。 人は、「もう、生きていることが出来ぬ」と深く思った時に自殺します。 前者は、社会的な存在としての先行きの展望を失った状態で<絶望>と形容できます。 後者は、社会的な存在としての自分を維持することに敗れた<挫折>と形容できます。 <絶望>だけで自殺に至ることもあるでしょう。 <挫折>だけで自殺に至ることもあるでしょう。 <絶望>と<挫折>の2重の重圧によって死を選ぶケースもあるかと思います。 両者に共通していることは、個と社会の対立を現状固定的に考えている点です。 絶望をもたらした諸条件が日々刻々と変化していることを見えない状況に陥っています。 挫折をもたらした諸条件が日々刻々と変化していることを見えない状況に陥っています。 絶望や挫折の原因である諸条件を事細かく分析するという視点が欠如しています。 様々な困難もあらゆる角度から分析すれば、弱いところ、強いところが見えてきます。 様々な困難もあらゆる角度から分析すれば、変化を促進する術、固定を解く術が見えてきます。 さすれば、能動的に働きかけ状況を流動化させ変化させることが可能です。 現状固定的な見かたをしないものは<どうにかなるさ>という楽天主義を堅持できます。 現状固定的な見かたしかできなければ、能動的な働きかけに至ることはありません。 残るは、現状を受け入れて耐えるか、または、現状からの逃避しかありません。 耐えられない者は、自殺という選択肢を選ぶことになります。 まあ、分相応の学歴で分相応の人生を生きることを教える必要があるかと思います。 遺伝的資質、後天的資質、家庭的社会的環境の総和にマッチした人生であれば十分です。 そういう人生を誰もが送れるように教育システム、社会構造全体を変革すべきかと思います。 そうすれば、社会的な自殺は激減し個人的な自殺のフォローが課題として浮上するでしょう。 なお、<分相応の人生>という表現は、誤解を招きやすい形容ですので補足しておきます。 「努力すれば夢は必ず実現する」=遺伝的資質、後天的資質、家庭的社会的環境の総和。 という考えです。
お礼
適切なアドバイス、大変参考になりました。 今後、私もよく勉強してみます。 >絶望や挫折の原因である諸条件を事細かく分析する 大賛成です。
- Ipe
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いじめが原因の自殺だとしたら一つに、 自殺は復讐だと思います。 自殺する事で加害者に人を自殺に追い込んだ罪の意識、周囲からの目、批判、親からの説教などを背負わせる事が復讐と考え自殺をするのではないでしょうか。 先日報道された遺書にも「○○君、××君、お荷物がいなくなってよかったね」と書いてあったことからも、命をかけた嫌味、そして今までされてきたことや、言えなかったことを洗いざらい書き伝えることによって自分の代わりに加害者を責めてもらいたいとも考えているのだと思います。 何故周りに言えないのか。 今の教師という職業に就いている人は事務的であったり、教師の権力を振りかざすなど、その人間が教育するのではなく、職業としての教師が多いのではないかと感じています。なので伝えられる雰囲気が無い、そもそも信用できていない。という事から教師に言えないのでは無いでしょうか。 学校には多くの教師がいるので一人ぐらいは人間的な教師がいると思いますが、たまたま気にかけてくれたか、いじめが始まった以前から話しているぐらいでないとこの状況からは接点は生まれないと思います。 クラスメイトには?とも思いますがおそらくいじめにより孤立してしまっているので話せないでしょう。いじめグループではなくとも、いついじめグループに加わるかもしれないという恐怖。クラスメイトに相談をしようとしても自分までいじめにあってしまうのではないかという恐怖により相談を聞いてくれないと思います。 親に話せない理由は色々存在すると思いますが。一つに親が子供に勉強しろだろの期待を押しつけ過ぎる事によって、言える雰囲気がない、期待を裏切ってしまうと思うことにより言えないというのがあるのではないでしょうか。 人間は利益不利益を考え行動するので自殺の無い社会はできないと思います。 不利益を考えなければ皆人助けをするでしょう。しかし自分に火の粉が降りかかるかもと考えれば動かない ハズです。いじめでも周りの人間は助けるチャンスはいくらでもあるハズなのですが、不利益を考えると動けないというのがあるからではないでしょうか。 私は人間本来が孤独だと思いますが、その孤独を埋めるために人間関係を築こうとするのだと思います。 築こうとしたが邪魔をされた、誰かがいじめグループという人間関係を作ってしまい、その標的にされてしまったので作れなかったというのもあるハズです。自分の意志で人間関係を作らないのではなく、他人のいして作らせてもらえないのは想像を絶する孤独があるのではないでしょうか。 自殺の一つのメカニズムとして、いじめからくる自殺は、これらが運悪く重なってしまった人が自殺をしてしまうのだと思います。
お礼
いじめからくる自殺のメカニズムだけでも、いろいろな要素が複雑に絡み合っていることが分かりました。ありがとう御座います。 いじめによる自殺は「復讐」だけでしょうか? 「復讐」も出来ないような自殺、例えば、いじめによる「圧死」、いわゆる「潰される」様な状態はないのでしょうか。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>なぜ誰にも相談することなく自殺していくのでしょうか? >社会とか、家族とか、仲間とかの絆はそんなに役に立たないものなのでしょうか? >自殺のメカニズムが分かりません。 鬱病についてはまだ、これだ という原因がわかっていません。 人間の脳は物質と物質を受容する穴とがあり、伝達物質がそれを取り込む穴に入って、指示を伝達していくようです。 で、自殺した人を解剖したところ、異常なほどにセロトニンを取り込む受容の穴が開いていたそうです。 ということは、セロトニンが多く分泌されるからじゃなく、取り込む穴が異常なほど「もっともっともっと」と開いているからじゃないかと。 ということは、この穴を塞いでやればいいわけです。 それで薬により、この穴が「セロトニン」だと思ってこの薬を取り込み穴を塞いでくれれば、本物のセロトニンがやってきても、穴にくっつかないので、鬱にならない、と。 ネットで「鬱がひどくて辛い」というのを延々と書く人がいます。 鬱になるとやる気、判断力、思考すらできない状態になるので、長々と自分の思いを書いて投降したりすることはおろか、パソコンの電源を入れる気力すら喪失するので、実はネットで長々とかけている人は、その時は鬱じゃあないってことですね。 つまり、誰かに相談しているので、活発に活動をしている期間。 では、その人は偽っていて、疾病利得を得ようとしているのか? 確かに人前ではだらーっとしているが、面白いテレビ番組が始まると、こっそり部屋に篭って楽しんでいる という人は真性の鬱じゃあない。 鬱病と偽ることで、労働 その他課せられた責務を放棄する権利を得ようとしているだけ。 鬱病の人は「だって鬱病だから仕方ないでしょ!」と相手を攻撃するようなことはしない。 その気力すら鬱によりできない状態なのだから。 「うるせえな 俺は鬱病だ。もっといたわれ」っていえる人は、偽物です。 じゃあ ぐたっとしていた人が、ある日 面白い番組を見て笑っていた場合、偽物か? いえ そうは断じれません。 本当に鬱病の人が抑鬱剤を飲めば、だいたい3日目から、そして2週間で血中濃度が効果が現れる数値になるので、配合があっていれば、2週間で鬱から脱却するそうです。 <鬱病は2週間で治る>といわれる理由は、このことからきます。 ただ、脳の過疎化が起っていた場合、治ったと思って服用をやめてしまえば、鬱病が長ければ、鬱病の時の脳を記憶しているので、元に戻ろうとして、また鬱病の時の脳に戻ってしまいます。 そして、もっとも自殺の危険が大きいのがこの時です。 鬱病が完全に治っていないのに、活発になるからです。 鬱病の時は自分で服薬管理もできないほど弱っている。 鬱病の薬を飲んでも治らない原因の一つが、鬱病により行動・判断力が著しく低下しているので、実は服薬を定期的に実行していないため、薬がきかないのではなく、飲んでいないから治らないわけです。 で、鬱病から回復したが、完全に治っていないと、また脳が戻ろうとし、でも活発に活動・思考ができる状態。 その時、鬱病に下っていきつつ行動力がある状態でどうなるか。 自殺できてしまう。 鬱病がひどいときに自殺する確立は低い。 回復時、なりかけが一番自殺する危険が高い。 何故なら動けるから。 思考できるから。 鬱病の人に「がんばれ」と言ってはいけない理由。 鬱病になりやすい性格の人は 真面目。 がんばらなきゃって自分に鞭打って それでも頑張れないで、自分を責めているところに「もっとがんばれ」って言われたらどうでしょう。 頑張りが足らないからもっとがんばらなきゃって思うわけです。 「がんばらなくてもいい」も私はよくないと思います。 だって頑張りやさんの性格の人に そうするなってその人の特性を否定することになるのだから。 話しかける、これもよくない。 何を話されているのか、考える能力が低迷している中で話しかけられ、それを頑張り屋さんだから理解して、返事をしようとするわけです。 「相談してみてよ 話してよ 黙っていてはわからないでしょ なんでもいいから言ってみてよ 友達じゃない 心をひらいて 私を信じて」 ↑ まさに拷問です。 むごすぎる・・・・・ 私なら黙って背中の回って 背中を温摩擦します。 何も話しかけず、時には暢気な歌でも歌って、もみもみもみ です。 病院に行きたくないのなら、その人の自己治癒力を挙げられないか、もみもみもみと摩擦で暖めて、事故治癒力を引き出そうとします。
お礼
私も約1年半鬱病の方と一緒に時間を過ごしていましたので、貴方のご指摘が良く分かります。ご回答ありがとう御座いました。
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お礼
>「世界の全てに価値を感じられないから・・・」 前途絶望の境地ですかね。私はこんな感情を持った事はありません。自分と言う人間はこの世に二人としていないのだから、こんな価値ある存在は他にないという自負はありますが、他人がそれを認めてくれるかどうかは、また別の問題です。自分の価値を認めない他人は、節穴と思うことにしています。だた、一人ぐらいは認めて欲しい、というところが本音です。 >「私が変れたのは、はじめてできた友人のおかげ・・・」 人間は自分の為にだけに生きる事は、大変しんどいものです。友人という他人格が自分の心の中に入ってきた時、その友人の為に生きるという、新たな価値が生まれ、その価値が自分の生きる価値を生かしてくれる、といういい循環がはじまりました。 生きる価値を見出されて、本当に嬉しいです。 >「狭間を感じることなく、一足飛びに・・・」 狭間の概念、よく分かりました。死にあこがれることもあるのですね。勉強になりました。 >「積極的解決法では決して・・・」 目に見えないものを感じられるようにするには、どうしたらよいのか? 今、自問自答している最中です。 貴方の赤裸々な心情の吐露、ありがとう御座いました。 死を選ぶ人々の心の一端を知る事ができました。