質問そのものに少し疑義を持ちます。
これはもはや哲学のみにおいて解決できる問題ではなくなっています。法学・歴史学等、いろいろな視角からとらえれば、結論は出ます。先取りすれば、どちらでもないです。
歴史的に言えば、かつては人間は著しく宗教的共同体を形成していたといえます。つまり、そこには広義の宗教を含む呪術などが広く普及していたということです。彼らの価値判断はどうであったのでしょう?それは簡単には聖・俗という観念です。つまり、彼らは彼らなりのバイブル(広い意味で)をとって、それを価値判断としたのです。聖書によれば、殺しは悪です。そうなれば、簡潔にいえば、クリスチャン的には殺しとは悪であり、いかなる殺しも、嫉妬や妬みから生まれたサタン的な行為であったわけです。
現代に進むと、どうなっているでしょうか?聖・俗という価値判断は著しく消滅しています。人々は宗教から著しく離反し、少なくとも社会の骨格である政治や経済などが宗教と分離してしまって、そこから人間の価値判断が急激に変容するわけです。もちろん宗教的な思想が消失したとはいいません。しかし、それは明らかに大幅に失われています。
例えば、アフガニスタン攻撃をしたアメリカはいかがでしょう?多くの人がアメリカの報復に当初は疑問を持たなかったのではないでしょうか?5000人もの?人間がテロにより、殺されてしまった。ある論者はある問題が発生した場合、何らかの場所にそれを帰属させなければならないといいます。アメリカはその悲鳴をアフガニスタンに不当にもぶつけたわけです。少なくともそれにより、殺しは当初、一部ではあれ正当化されました。
そこには殺しが悪いとか善いとか、善悪の問題ではなくなっています。ただ正当性だけが求められ、正当な理由があれば良いということになるのです。これが現代の殺人の評価です。
身近なニュースでは、子に虐待された父親が、かっとなって人を殺したということがありました。彼の刑期はあるものの、結局、彼は同情的な判定で、著しく刑期を軽くされました。
つまり、殺しはその理由に正当性があるか否かで、良い悪いが判断されてくるのです。南京大虐殺、アウシュヴィッツ等、数々の歴史的問題とされるものは正当性が否定されているからです。日本は原爆の問題があります。しかし、それは日本のアジア支配と、アメリカの強力な政治的ヘゲモニーにより、押し殺され、歴史的には世界的に何ら清算を求められていません。
そういうかたちで、ともかく殺しとは過去に比較して、その価値基準は多様化しているのです。つまり、それは殺しが悪。いかなる理由も赦さない、ではもはや対応できなくなっているのです。