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「ゆとり」教育論

Dejimaの回答

  • Dejima
  • ベストアンサー率32% (22/68)
回答No.2

 どれほど本を読むかは、学のあるなしのひとつの目安になると思っています。北杜夫がその著書の中で、50年前の高校生は「ダフニスとクロエ」を読んでいるのが当然だったと書いています。私は約20年前高校生でしたが、読んでいませんでした。決して読書家とは言えなかったけれども、そんなタイトルさえ聞いたことはありませんでした。私の頃の常識本を挙げれば、「老人と海」「異邦人」「雪国」「沈黙」といったところで、「坊ちゃん」は常識以前の問題であり、「三四郎」「それから」「門」あたりを読んでいるかどうかが読書家へのハードルでした。  今はどうなんでしょうか。もっと読まなくなっていませんか。  大人の学力というくだりがありますが、大人にペーパーテストを受けさせるつもりではないでしょうね。学校で習うことはまずは広く浅くの基礎部分です。やがて社会に出て仕事をするようになると、程度の差はあれ、ほとんどの人がその中の何かひとつの分野に特化していくのです。自動車修理工が徒然草の冒頭の文句を忘れているからといって責められることはないでしょう。多くの人は学校で学んだ知識のうち一部を役立てることになるのです。  ですから学校で勉強した中で使わなくなる知識が多いのは当然です。だからといってきわめて早い時期に分野を限定して専門教育を行うのは危険です。  ひとつの理由としては、専門バカを養成することになりかねないということ。社会に出ても与えられた仕事をするだけの人ならそれでもよいでしょう。しかし、自分で何かを作り出さなくてはいけない立場になる人は、一見何の関係もないような知識が柔軟な発想をもたらすということを知っておくべきで、その意味からよろしくありません。  また、ひとつの分野に特化しない人もいます。ゼネラリストという言葉を使うようですが、要は経営者とか政治家など社会の中枢に関わる人に求められる資質です。こういう人は広い範囲の知識を持つことが絶対に必要です。広範囲にわたる決断を下さなくてはいけないからです。はじめは広く浅く、そしてだんだんと広く深く知ることが大切になります。不足している部分を補うためにはブレインとなる人も必要になってくるかもしれません。しかし、最終的には自分が判断することになります。  こういう人にとっては、学校の勉強では不足です。しかも無駄な分野は存在しません。特に大学では自分で学ぶことを覚えて、それを実行してこないと社会で通用しません。極端に言えば、ダシの取り方から原爆の製造法まで知識として知っているか、もしくは調べる方法を知っていること。  現にそういう資質を満たしていなくても、政治家にも官僚にもなっているではないかと問われるかもしれません。しかし、問題を起こしてみたり、問題を解決できなかったりしているのを見てみれば、やはりそういう人は政治家として、官僚として不適格であると考えることも出来ます。日本はそういう人が社会の中枢にいることも出来るわけですから、非常に将来に不安がある国だと思います。  現在、多くの文系大学生は社会で求めるレベルに達しないまま大学を出てきています(理系は少なくとも専攻分野では社会に追いついているようです)。資格がどうのといった問題ではありません。簿記の2級を持っていても、まず経理で即戦力にはなりえません。それよりも、手紙をきちんと書ける人のほうが使いでがあります。  何よりも問題発見能力の低さは嘆息すべきです。また、問題解決能力にも問題があります。どういうことになるかと言うと、仕事を与えてやらないと、自分では見つけられない。仕事のやり方を1から10まで教えてやらないと、自分でやり方を見つけられないといった具合です。大卒がこれでは、高卒を雇ったほうが悪癖を覚えていない分だけましではないか、と思わざるを得ません。一方、今の大人はそこまで無能ではありません。少なくとも自分で考える能力はこの木っ端大学生よりは確実にあります(暴言になってきた)。  これは典型的な、教育による効果の表れと思います。自分で考えるには想像力が必要で、こういったものを身につける訓練が欠けているからこそ、揃いもそろって仕事を与えてくれるのを待っている、まるで犬みたいな新人が社会に出てくるのに違いありません(また暴言だ)。  競争については、やはり教えておくべきことです。社会は日々競争の連続で絶えることはありません。商売の多くは決まった総数のパイを奪い合っており、実績の上下はゼロサムゲームです。しかし、どうもこういう説明では夢がありませんね。  では別の言葉で。ヘミングウェイはこう言っています。  「スポーツというやつは、正々堂々と戦って勝つよろこびを教えてくれるし、また、負けた者に対する思いやりも教えてくれる。つまり、スポーツは人生ってやつを教えてくれるんだ。」(うろおぼえで主旨のみご理解ください) そういったことを知るのに小学生では早すぎるとは思いません。勝つこと負けることを経験する。いろんな個性・長所を持つ子供たちにそれを生かす機会を与える。必要なことだと思います。  なお、文部科学省がどう考えているのかいま少し調べたところ、昨年の国会の文部科学委員会の中で、行き過ぎた結果平等主義はよろしくない旨の副大臣の発言があります。そして、順位をつけない徒競走といったものは、すでに過去のものになりつつあるとの報告があります。URLはその会議録です。

参考URL:
http://www.shugiin.go.jp/itdb_main.nsf/html/kaigiroku/009615120010227003.htm
noname#1753
質問者

お礼

こんばんは。 質問の最後に、教育論を「ゆったり」聞かせて下さい、の一文を入れたのは、文部科学省の形式的な見解には興味なく、貴方の教育への思いを気楽に語って下さいという意です。 (スポーツは人生ってやつを教えてくれるんだ) ホンマ僕にとってはその通りでした。 子供の頃スポーツマンシップを学んでいなければ、社会や教育について特に考える事もなかったでしょう。 スポーツは小学生全員に是非やって欲しいと思ってます。 ところが監督やコーチは大会で勝って結果を残したいと思うでしょう。 しかし生徒にとっては、その大会での結果はそれほど重要なものなのでしょうか。 僕は20歳過ぎてから結果に拘る選手であって欲しいし、そういう制度であって欲しい。 学問は更に遅く、25歳、30歳過ぎてから結果を残そうとする人間であって欲しいし、そういう社会制度であって欲しい。 それが正々堂々と競い合える条件のように、僕のスポーツマンシップが感じてしまうのです。

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